◆7
開け放されたドアのところにはにこにこしたお母さんと、心なしか険しい顔のお兄さん。あたしは慌てて傾いていた姿勢を正し、その場に正座する。
急な状況の変化に上手くついていけない。ばくばくと心臓が騒ぐ。
あれあたし今寝てなかった?
制服のスカートから覗く膝小僧が視界に映る。両の膝小僧が赤黒くなっていた。ついでに右手も少し痛かったけどそれどころじゃない。
控えめに視線を彷徨わせると、すぐ後ろのベッドには、彼が寝ていた。
いまあたしは、紛れもなくあたしだ。元に戻ったんだ。こんなタイミングで。よりにもよって、こんなアウェーにひとりで。
なんで、こんな時ばかり。ちょっと割に合わない気がする。あたしだって寝たかった。
でもやはり重症の風邪の体より、自分の体の方が楽だ。当たり前だけれど。
「あら、…寝ちゃった?」
「あ、はい、そうみたいで…」
今度は体ごと振り返りながら視線を彼に向ける。改めて顔色や様子を見ると、さっきまでよりは良くなっていることが見てとれた。少し、安心した。
それを見ていたお兄さんが口を開く。
「…どうする? 注射は」
「そうね、せっかく寝てるなら、寝かしておいてあげましょうか」
今すぐぶっ射しても良いんじゃないかしらとは思ったけど、流石に口にはしない。
とりあえずあたしの役目は終わった。ただ風邪にうなされただけだけど。なんにせよ早々に退散したい。今すぐに。そして帰って寝たかった。
切り出すタイミングを計っていると、お母さんが今度はあたしに顔を向ける。思わずぎくりと体が強張る。なぜだろう、うしろめたいのは。
「そうだ、じゃあ、えーと…お名前なんだったかしら…?」
「…や、山田、です…」
愛想笑いすらできないあたしは、答えるだけで精一杯だった。我ながらかわいくないなと思う。人様の家の家族となんか、会話したことない。どう接していいか分からない。帰りたい。
「山田さん、デザート食べていって、ぜひ」
……よそのお家になんか、上がったことないから。こういう時のスムーズな断り方なんて、知るはずもなくて。
帰りますと3回くらい言ったけど、結局断りきれなかった。流石にそれ以上は断りづらくて、促されるままにあたしはデザートを頂くことになってしまった。
なぜかあたしは今再び鈴木家の食卓にいる。今度は彼の代わりではなく、あたしのままで。
大きなテーブルの端の席に促され、もはや半ば諦めた気持ちで座った。お兄さんも一緒に席についたけれど、こっちを見ようともしない。
当たり前だ、こんな得体の知れない怪しい相手。あたしだったらとっくに追い出してる。お兄さんの反応はある意味正解だ。
ふと席についた時の景色が違うと思ったら、この前の席とは違うからだ。この前はお兄さんの隣りの席だったけど、今は斜め前の席に居る。
…この前と言っても、彼に代わってこの食卓についたのは、つい昨日のことなのだ。いろいろあり過ぎて時間の経過に体がついていかないけれど。
「久しぶりに作ったから、美味しくできてるかわからないんだけど…」
そう言いながら彼のお母さんが、冷蔵庫から取り出したものをあたしの目の前に置く。ソーサーにはデザートスプーンも添えて。
目の前に置かれたものに、あたしは思わず目を丸くした。
「………、」
「あの子がね、熱でうなされながら、食べたいって言ってて…あの子のワガママなんて久しぶりだから、ついはりきって作り過ぎちゃったの」
目の前には、綺麗な容器に入れられたプリンがあった。
あたしは今彼がここに居ないことに心底感謝した。あたしが寝ぼけて言ったことを、彼にだけは知られたくないと思った。
彼にだけは晒したくなかった。ぜったいに。
それから少しだけ、哀しかった。彼がプリンを食べられないことを、あたしは知っていたから。
差し出されたプリンを食べる間、本当に他愛のない話をした。
その間お兄さんは一切を口を開かず、あたしもお母さんに訊かれることに戸惑いながら短く答えるだけで。
お母さんの手作りプリンは純粋に美味しかった。
プリンを食べ終えたのを見計らって、お母さんがにこりと笑った。
「ごめんなさいね、付き合わせちゃって。うちは男の子ばかりだから、女の子のお客様なんて、嬉しくて。これからもどうぞ、仲良くしてあげてね」
その場限りでも笑って返事するのが正解だったのかもしれないけれど、なんとなく嘘をつくのもイヤで。中途半端に曖昧に、頷くことしかできない。お母さんの顔を見ていられなくなって、思わず目線が下がる。
だってあたし達は別に、仲が良いわけでもなんでもないのだから。
「……君は本当に、陽太の友達なのか…?」
漸く口を開いたお兄さんの鋭い口調と視線に、顔をあげた。今更だけどお兄さんは、ちゃんと彼を呼ぶ。当たり前なんだけれど。
真剣な眼差しとぶつかる。誤魔化すことも逸らすことも許さない目。
あたしは僅かに沈黙し、それから答えた。
「……お兄さんが思っているようなものとは、少し、違うかもしれません…だけど」
あたし達の関係はなんだろう。ただのクラスメイトではなくなった。
だけどこの関係が友達なのかと訊かれたら、違う気はする。友達なんて居ないからその定義もわからないのだけれど。
仲が良いわけではきっとない。違う点ばかり多すぎて、時折うんざりする。彼もそれはきっと。
互いの体を、交わる時を、共有する不可思議な関係。
当てはまる適切な名前は見当たらない。だけどただ漠然と、感じるままに思うなら。
「これから先も、隣りに居るとは思います。お互いが必要としている限りは、ずっと」
嘘ではなかった。
あたしは本日2回目の、今彼がここに居ないことに心底感謝した。彼には絶対に聞かれたくなかったからだ。
単純に、恥ずかしかっただけなのだけれど。
靴が彼の部屋にあるからと、あたしはダイニングでお母さんに挨拶し、彼の部屋まではお兄さんが送ってくれた。お兄さんとふたりは気まずかったけれど仕方ない。赤の他人を家内でひとりうろつかせる方が危ないに決まってる。むしろ玄関から出入りしろとあたしなら怒ってる。
ふとお兄さんが、彼の部屋のドアの前で立ち止まった。あたしもつられて足を止める。
「…少し、待っていろ」
「は、い…」
そう言われたら従わないわけにはいかない。
なんだろうと思いながら視線で背中を追うと、お兄さんは廊下の先にあった部屋に入り、それからすぐに戻ってきた。手には救急箱を持って。
見覚えがある。以前、彼の手首の包帯を巻いてもらった時に見たんだ、確か。
「…手、見せてみろ」
「え、あ、あの、痛くないので、平気です」
流石に気がひけて、右手を後ろに引く。そういえば元に戻った時には既に、右手をケガしていた。膝小僧も青くなっている。
彼に聞かずとも、学校での出来事が容易に想像できた。人のこと言えないけれど、彼もタイミングが悪いなと思う。いろいろと。
それと同時にやっぱり少しだけ申し訳なくも思う。痛いのが嫌いな彼にばかり、痛い思いをさせて。
でもあたしは、こんな傷はしょっちゅうだった。慣れなのだ。ほとんど痛みは感じない。さっきも問題なくスプーンを持てたし。わざわざ手当てしてもらうほどじゃない。
「ありがとうございます、お気持ちだけ…」
「子供が遠慮するんじゃない。いいから右手を出しなさい」
ぴしゃりと。お兄さんはあたしをまっすぐ見て言った。そんな風に誰かに言われたのは、初めてで。
そういえばあたしは長女だから、昔は“お兄ちゃん”という存在に憧れてたこともあったっけなんて。
「……は、い…」
そんなことをぼんやりと、思い出していた。
今度は素直に差し出したあたしの右手を、お兄さんの大きな右手が受け取る。前はそれどころじゃなくて気付かなかったけれど、お兄さんも左利きだった。そんなどうでもいいことばかりが目についた。
お兄さんは傷口に優しく触れ、救急箱の中をがさがさと漁り、取り出した薬をあたしの右手に丁寧に塗る。それからガーゼを乗せ白い包帯をくるくると巻いてくれた。
その器用さと手つきに感心してしまう。あたしにはムリだ。
図らずとも右手の包帯がおそろいになった。彼の右手と。
「…職業病だ」
「え…」
「ケガや傷口や痛そうだなと思うものを見ると、ほっとけない」
「…それは…大変、ですね」
ケガや傷口なんて、きっとそこら中に溢れてる。他人のそんなものにまでいちいち構っていたらキリがない。
優しいひとなんだなと思う。口調も顔もこわいけど、彼のことを一番心配してる。それだけは、わかった。
「…それに、痛くないという人間が、一番信用できない」
「……」
それは誰のことだろう。もしかして、自分のことだろうか。どことなくうしろめたさから、黙ってしまう。
「…陽太も、そうだった。大丈夫だと言い続けて結局…大丈夫じゃ、なくなった。…君は、陽太がどうしてその部屋に居るか、知っているか?」
「……いいえ」
そういえば、ここで。この人が彼に向かって投げかけた言葉を思い出す。中身があたしの、彼に。
『お前はいつまで、そこに居るつもりなんだ』
あの時は単純に“さっさと出て行け”と言っているように聞こえた。だけど今思うと、このお兄さんがそんなことを言うとは思えなかった。
彼があの部屋に居る理由。そんなの知らないし、興味もない。あたしには、関係のないことだから。
お兄さんが僅かに視線を上げ、すぐそこ、あたしの後ろにある部屋のドアを見つめる。
「…そこは、死んだ日向が使っていた部屋だ。陽太はその部屋で日向に成ろうとしてなれず、それからその部屋は、陽太の死を待つ部屋になった。陽太はきっと、17の誕生日を迎える前に、死ぬ気なんだろう。…手首の傷を見て、確信した。自分が16で奪ったと思っている、日向と同じ年で」
あたしには関係ない。そんな話をされても困る。だってあたしには、何もできないのだから。
「君が本当に陽太の傍に居てくれるというのなら。陽太をその部屋から、連れ出してやってくれ」




