◆6
体が、だるい。重たくて指一本動かせない。全身が針で刺されたように痛い。自分の体温すら感じられなくて、本当は死んでしまっているんじゃないかと思った。
ふとんの中で、ぎゅう、と丸くなる。でも何ひとつ感覚が感じられず、自分がここに居ることさえ、嘘のように思えた。
このまま小さくなって、塵になって、消えてしまえれば、きっと――でもそれは、逃げでしかない。あたしの罪だけを、遺していくわけにはいかない。あたしはあの家の、長女なんだから。
『―…ぶ…?』
声が、聞こえた。誰のだろう。いつのだろう。
『月子、大丈夫…? どうしてこんなになるまで、言わなかったの…!』
お母さんの声、だ。でも、本物なわけない。お母さんがここに居るわけないから。きっと昔の記憶が、甦っているだけ。あたしがお母さんに看病してもらったのは、もうずっと昔が最後だ。
まだ、瑠名が生まれる前。でもそう、お母さんのお腹の中には瑠名がいた。
あの時お母さんは、まだ今ほど家を空けることはなくて。でも家に居たら居たで、満も望もまだ小さかったし、いつも動き回ってた気がする。あたしや朔夜も手伝ってたけど、やっぱり限りはあって。
目まぐるしい毎日の中で、お母さんはいつも笑ってた。それは今も、変わらない。
でも、昨日久しぶりに顔を見たけれど、とても疲れた顔をしていた。それでも職業柄か憔悴しきった彼を看てくれて。
ごはんを軽く食べた後は、また朝がはやいので早々に寝てしまった。まともに会話も、できずに。朔夜のことも、相談できなかった。だけど仕方ないことだ。
だってお母さんは、あたし達の為に働いてくれているんだもん。
耳の奥で反芻する、お母さんの声。曖昧だけど懐かしい。頭をそっと撫でてくれる温もり。不思議と本当に撫でられているような錯覚がした。その温もりが、冷えた体にじんわりと広がる。
『…月子ひとりが、そんなにガンバらなくていいのよ…?』
いつだったっけ。そう言われたのは。そう言いながらお母さんは、ずっとあたしの頭を撫でてくれていた。熱に浮かされた記憶でも、覚えてる。あの優しい温もりを、声を。
でも、ちがう。あたしだけじゃない。あたしひとりじゃない。あたしにそんなこと言ってもらう資格なんか、無い。
あたしは、ぜんぜん良いお姉ちゃんなんかじゃないんだよ。そう言ったらお母さんはどうする?
こんなので泣くなんて…ずるいね。
でもせめて夢の中でだけなら…あたしだけの、お母さんだから。誰にも迷惑かけないから、ちょっとだけ。少しくらい、あの頃みたいに。…甘えさせて。
『大丈夫? 何か、食べたいものある…?』
あの時あたしは、なんて答えたんだっけ…? 食欲なんか、ぜんぜんなくて。
『お薬飲むから、何かお腹に入れなくちゃ。何も食べてないでしょう…? 何がいい? 好きなものなんでも、買ってきてあげる』
あたしが、好きなもの…
『月子ちゃんの、好物だね! 月子ちゃん風邪ひいて食欲なくても、プリンなら食べれるもんね』
そうだね。我が家の病人食は、お母さんの手作りプリン。あたしだけじゃない、朔夜も弦もみんな。
看護師のお母さんは調理師の免許も持っていて、料理がとても上手。乳児食も離乳食も、全部お母さんが作ってた。お母さんの手は魔法の手みたいだと、幼いときは本気でそう思った。
いつだって笑顔で強くて逞しくてお父さんをひっぱっていって。
だからお母さんの涙なんて、見たことなかった。…あの日まで。
◇ ◆ ◇
「…月子、ちゃん…?」
呼ばれる声に、重たい瞼を持ち上げた。くるまったふとんから頭だけ出して、相手を確認する。
ベッドのすぐ脇、そこには情けない顔をしたあたしの顔があった。
驚かなかった自分の順応力を褒めたい。驚く気力すらなかったのだけれど。
「た、ただいま…」
この体とこの部屋の本当の主が、帰ってきたのだ。
「……んで…」
「だ、大丈夫…?! つ、つらいでしょう、ごめんね、今ポカリと薬…」
「なんでこんなになるまで、ほっとくのよ…っ」
ダメだ。いつもの威勢も出てこない。声を絞り出すだけでやっとだった。
悪寒、というのだろうか。肩から腕のあたりまで、寒気がおさまらない。ざくざくと刺されてるみたいに。熱いようで寒いようで、もはや感覚が麻痺しそうだ。こんなにきつくふとんにくるまってるのに、ぜんぜん暖かくない。
「いま、何時…?」
「あ、えっと、4時過ぎ…」
「…あなた、いつ帰ってきたの…?」
「え、あ、今さっきだよ、月子ちゃんはずっと寝てたの?」
お昼に入れ替わってこの時間ということは、午後の授業も受けてくれたのだろうか。また校舎の隅に逃げ隠れていたような気もするけど。
なんにせよ意外な進歩を見た気がした。学校嫌いの彼が。
「…そう、みたいね…」
途中、何度か夢をみていた気がする。なんだっけ。なんの夢だっけ。残念ながら思い出せない。
あぁ、でも、お腹が空いた気がする。食欲は無いのだけれど。
喉のあたりがすっぱくて苦い。胃液が込み上げているのだ。もう吐き出すものなんか、何もないだろうに。
はぁ、と短く息を吐いて、目だけを彼に向ける。
「あなた…もっと、自分を大事に、しなさいよ…」
意識が朦朧とする中、なぜかそう呟いていた。浮かんだままに口から出たのだ。理由も意味もなく。
「…っ、それはっ つ、月子ちゃんだって…!」
意外にも大きな声で反論が返ってきたのとほぼ同時に、なんの前触れもノックもなく、部屋のドアが開いた。
「……日向?」
そしてその向こうには。彼の、鈴木陽太のお母さんが居た。
反射的に視線を向けたあたし達ふたりは、その光景に思わず体が固まる。
完璧に、油断していた。まさかこんなタイミングで家族の人が来るなんて思わなくて。
そしてそれは彼も同じだったのだろう、動揺で顔が青くなっている。その体の主人であるあたしも驚くくらいの青さで。
「………」
「………」
「………」
沈黙が重くのしかかる。
本当は彼になっているあたしが気をきかせるべきなのだろうけれど、生憎そんな余裕がないのが現実だ。ここは彼になんとかしてもらうしかない。
さっき少し話しただけで、残っていた体力をすべて失った。もう声も出せない。
「あ、あの、おお、お邪魔して、ま…!」
ようやくなんとか、彼があたしの体で声を搾り出した。
彼のお母さんがふわりと、まるで花のように柔らかく、笑った。
「はじめまして。日向の母です」
「は、はじめ、まして…っ、あの、お、お見舞いに…!」
しどろもどろになりながらも、ぺこりと頭を下げちらりとあたしの方を見る。見たってムダだ。あたしは何も言えない。
「まぁ、わざわざありがとう。あぁ、そうだわ、せっかくのお客様なんだもの、いいものがあるの」
言ってお母さんは、持っていたお盆を近くのテーブルに置いて、はやくも部屋を出ていってしまった。
残ったあたし達は一瞬あっけにとられ、また沈黙。
なんだかマイペースなひとなんだな。食事の時とは少し印象がちがう気がする。
ちらりとテーブルのお盆を覗き込むと、小さなひとり用の土鍋が見えた。それから小皿に梅干と、薬も。
「助かった…頂いて、いいかしら…」
「え、あ、ていうか、食べれるかな…あの、ぼく、ウィダーインゼリーとか買ってきたけど…」
「今はあたしだから平気よ。あったかいものお腹に入れたい」
本能として必要性を感じたのか、なんとか体を動かす力を搾り出す。のろのろと上半身だけ起こし息を吐いたところで、気を利かせた彼が土鍋の中身を取皿にとってくれた。湯気のたちこめる、作りたてのお粥だった。
「う、梅干、入れたほうがいいのかな…?!」
「あんまり味はしないだろうけど、気持ちすっきりするのよ、こういう時。ぜひ入れてください」
「は、はい、わかりました…あ、熱くないかな…あっ、ふーふーしてあげようか…!」
取皿を差し出しながら、なぜか彼が顔を輝かせた。思わずげんなりとした視線を彼に向ける。
「…あなたこんな時に余裕ね」
「え、あ、うん…その…あまりに突然過ぎて、もう取り繕う暇もないかなって」
「ヘンなところで開き直らないでくれる…言っておくけどあたし、一切フォローできないわよ今の状態じゃ」
「う、うん…っ 母さんが看病してくれるなんて夢にも思わなかったから、油断してたけど…そうだよね、母さんが日向兄さんを、放っておくわけないんだ…月子ちゃんは何も言わず、ただ寝ててくれればいいよ」
そう笑った彼は、どことなく哀しそうで。
「…はやく、ふーふーしなさいよ」
なんとなくでそう言うと、また彼は嬉しそうに笑った。今度は少しだけ哀しそうだった。
ひとり用の土鍋の中は空っぽになったけど、彼のお母さんはまだ戻ってこない。薬を水で流し込むと、あっという間に眠気に襲われた。
「…寝る…」
「うん、そうだね、なんだかぼくもねむいや…」
ベッドにもたれながら、彼が呟く。
あなたまで寝たら収拾つかないでしょう。そう言いたかったけど、言葉に成ったかもわからない。瞼が重たくて、開けていられなくて。
「月子ちゃんのお母さんは、月子ちゃんに、そっくりだね…」
どういう意味よ。いいからちょっと、寝ないでよね。本気で。
あ、もう、ダメだ。意識が遮断される。ゆっくりと。
そして、次の瞬間。
「待たせてごめんなさいね、ついでに晃良も呼んだの、注射打ってもらおうと思って…」
やはり前触れもなくドアが開き、お母さんがやっと戻ってきた。その後ろには、お兄さん…晃良さんも連れて。そして、あたしは。
「………あ、の…」
あたしに、戻っていた。




