◇5
なんとか立ち上がり、さっき教えてもらった席につく。右手に痛覚が戻ってきたようで、上手く扱えない。
痛みでくらくらした。痛みのせいだけじゃないことも解っていた。
教科書、出さなくちゃ。反射的に机の中に手を突っ込んだけれど、そこには何も入ってなかった。脇にかけてあるカバンが目について、手を伸ばす。ずしりと、重たい。
月子ちゃんのカバン、こんなに重たかったっけ…?
でもそういえば各自の持ち物は、入れ替わった後でも自分で持ってたんだ。
そんなことを考えながら、壁に貼られた時間割を確認しながら教科書を探す。ガラガラと扉を開けて教師が入ってきて、内心慌てた。
現国…教科書と、ノートと、辞書とか要るのかな…ひきこもりのぼくが、授業についていけるか心配だ。脳みそは月子ちゃんのだから、なんとかならないだろうか。
月子ちゃんのカバンからとりあえず教科書とノートを取り出して、どぎまぎと机の上に置く。
でもそんな心配が杞憂だったことを、授業が始まってから知った。
「じゃあ前回の続きから。95ページを、誰か…そうだな、今日は27日だから出席番号の27番は…」
授業なんて、何年ぶりだろう。ぎこちなく教科書をめくりながら、ノートの表紙に書かれた月子ちゃんの出席番号を見てぎくりとした。
27番。月子ちゃん…ぼく、だ。
いっきに脈が加速する。いきなりのピンチだ。ただ教科書を読むだけだとしても。
どうしよう。手の平に汗が滲む。どくどくと心臓が鳴る。
「…あー、と…明日は授業ないし、28番の吉田、95ページの文頭から読んで」
「はい」
名前を呼ばれるのを覚悟していたぼくは、思わず顔を上げて教壇に立つ先生を見た。
あっさりと、ぼくのピンチは回避された。良かった、のか? ううん違う。
なぜだろうぼくは、ほぼ無意識に手をあげていた。天井に向かってまっすぐと。
自分では理由も理屈もわからない。普段のぼくが見たら信じられない行動だ。それでも。
「──せん、せい…」
ぽつりと、声を漏らす。教壇に立つ先生は、何も答えない。まるで何も聞こえていないように。
「…先生…」
先生だけじゃない。このクラスでは、誰ひとり。ぼくを見ない。存在を認めてもらえない。
そしてぼんやりと、ぼくが知る“学校”を、思い出していた。
『…えぇ…? いじめ、ですか…?』
ぼくが通っていた小学校の担任教師は、初老の女性教師で、生活指導の担任でもあった。
その日ぼくは母さんと日向兄さんにつれられて、来客用の部屋の机に座っていた。
机の上にはボロボロになった教科書や体操服が並んでいた。
『弟の容姿は、生まれつきだと何度も説明しましたよね? それなのに、それをクラスメイト達に受け容れてもらえていないようなんです。先生方も、フォローしてくださるんじゃなかったんですか?』
『…そうですね。生徒達にはきちんと説明してあります』
『ならどうしてこんなことになってるんですか! 弟は毎日傷を増やして帰ってくるんですよ…?!』
『傷って、そんな…少し過保護が過ぎるんじゃありませんか? お兄さん。男の子なんですから、友達と遊べば擦り傷くらいできますよ』
友達なんか、居ない。でもそんなことここで言えるわけない。母さんと日向兄さんの前で、そんなこと。
『陽太さんの外見は確かに最初は物珍しげに見る生徒もいましたが、興味があるからこそで、みんな陽太さんと仲良くなりたがっていますよ』
仲良くって、なんだろう。確かにぼく以外のひとはみんな、笑っているけれど。それが仲が良いって、ことなんだろうか。
『この年頃の子供というのは、少し力加減がわからないものです。友達と接する内に、それを覚えていくものですから。ね、陽太さん、あなたが少し、大人になってみてあげてはどうかしら…?』
ぼくは、子供じゃないの? 守っては、もらえないの…?
『みんな友達思いの活気ある良いクラスですよ、いじめなんてありえません』
教師は笑っていた。教科書もノートも体操服も、その場で棄てられた。噛み合わない会話のいびつな結論だけが、机の上に残っていた。
日向兄さんはまだ言葉を発していたようだけれど、あまり覚えていない。母さんが、心配そうにぼくを見た。
『…そう、なの…? 陽太…本当にいじめじゃ、ないのね…?』
母さんにとってはどっちが良いんだろう。息子がいじめられてるなんて、やっぱり恥だろうか。
本当はきっと今日だって、来たくなかったってこと、知っている。日向兄さんが母さんを連れてきてくれたんだってこと。
ぼくが頷けば、たとえ一時でもそのウソが、真実になるのなら。
“いじめ”は、なくならなかった。そして日向兄さんの死後それはエスカレートしていき、ぼくは“学校”を、諦めた。
ここはあれから約10年も経った別の学校の“教室”だ。だけど、不思議に思う。
変わらないんだ、この場所は。人も、痛みも、変わらずそこに在る。学校という箱庭の中に、オプションみたいに付いてくる。昔も、今も、そしてこれからも。
この教室でぼくを置いて授業は滞りなく進んだ。
右手を使えないぼくは、シャープペンすら持てなくて。だけど持てたとしても、ムダだった。広げたノートは真っ黒で、文字を書くスペースなんて残されていなかったのだから。
きっと他の教科のノートもおんなじ。確かめなくたってわかる。だってぼくも、そうだったから。
“ぼく”が触れるものすべて壊されて、ボロボロにされて、なくなった。
…そうか。だから月子ちゃんはこんなに視力が悪くても、メガネをかけないのかな。もしくは最初は、していたのかもしれない。だけどきっと全部奪われたんだ。壊されてしまったんだ。
“いじめ”にもテキストがあるみたいだ。
巡り廻ってこの儀式は、いつかの誰かに引き継がれる。
きっとそこには命が在った。痛みや苦しみや哀しみが。
誰にも気づかれずに失くなっていった、命がきっと。




