◇3
「……え…」
視界が一瞬暗転した、次の瞬間。ぼくは状況の理解に苦しんだ。
ぼくはまた、月子ちゃんになっていて。ここはおそらく学校で、だけど教室というわけでもなくて。
これは、一体、どういう状況なんだろう。
なぜか制服のスカーフは解かれ胸元ははだけていて、目の前には昨日のあの人…八坂、昴流さんが居て、その彼の手がスカートの中に伸びている。
太もものあたりに、ごつごつした手の感触。ひやりと冷たいのは、彼の指や手首に付いてる銀の装飾品のせい。
ぞわりとした。ぞくりとした。
一体いま何が起こっているのか、理解できない。月子ちゃんの身に、何が起こっていたのか。
混乱する頭の中から記憶をなんとか引っ張り出す。
そうぼくは、今日は朝からもう、絶不調だった。喉は痛いしくしゃみは止まらないし体はだるいし頭も痛いしで最悪だった。昨日さんざん吐いて胃は空っぽのはずなのに、吐き気もひどかった。
こんな本格的に風邪をひいたのは久しぶりで、今日は一切の活動を放棄することにした。いつもの朝食も、晃良兄さんに言って断って、学校も休みということにした(実際には行ってないので口だけだけど)。
今日1日、食事は一切要らず風邪薬だけ飲んで寝てるのでそっとしておいてくれと伝言し、文字通り今日は1日中、ずっと寝てようと思ってた。
だからおそらく、月子ちゃんに迷惑かけることはないだろうと。今日入れ替わることはないだろうと、思ってた。
実際風邪薬をムリヤリ体に流し込んで、眠っていたはず。それから寝苦しさに目を覚まして、もはや無意識で携帯に手を伸ばして…
そう、そうだ…メールが、来ていたんだ。
1通は月子ちゃんからで、「お大事に」と一言だけ。それから、もう1通が―――
桜塚からの、メールだった。
それを見た途端に、どくりと体全体が大きく脈打ったのを覚えてる。手が震えて唇も震えて。呼吸すらも、上手くできなくて。イヤな記憶が頭いっぱいに溢れた。衝動が、湧き上がった。
どうして、また。一体、いつまで。また殴られるんだろうか。行かなかったらどうなるんだろう。そうだ、この前は結局行かなかったも同然だから、その分ひどいことをされるかもしれない。
急激に込みあがる吐き気と眩暈。手が、震えた。ぐ、と左手を握る。携帯を持つ右手にも。
ダメだ。押さえなくちゃ。このままじゃ、また。
月子ちゃんに痛い思いをさせてしまう。入れ替わった後で、月子ちゃんに。
そんなことしたら今度こそ、自分で自分を、許せなくなる――
そこでいったん、ぼくの意識は切れた。
そして、今─
この現状が現実だとしたら、ぼくはまたけっきょく、逃げたんだ。誰か、何かと。たぶん手首は切ってない。そこまでは体は動かなかった。──でも…
「…どうしたの?」
耳元でかけられた声に、体がびくりと大きく撥ねた。
この、カンジは。今、ぜったい、耳をかじられている。ぬるりとした生温かい息が、直接耳にかかった。
慌てて飛んでいた意識を戻すと、今の状況にまたもやぎょっとした。いつの間にか体勢が変わっている。体がびっくりするくらい密着していた。後ろから抱きかかえられる形で、ぴったりと。
体温が、息が、近い。眩暈が、する。
ここまでの、自分の状況は思い出せた。理解できた。じゃあ、“これ”は? 月子ちゃんの、この状況は─…?
体温と呼吸が知らず上がっていく。状況についていけない。体のあちこちがじわじわと痺れていく錯覚がした。
そんなぼくを置いて、もぞりと背中に違和感。背中に回された八坂さんの手が、制服の下を這っていた。
「……ッ、な、に…ッ」
思わず大きく身じろぎした。だけど思ったよりも、体は動かない。力が入らない。とにかく腕の中から抜け出そうと試みてみたけれど、中途半端に力を込めた腕は途中でかくんと折れて、逆に八坂さんの胸の中に倒れこむ形になってしまった。
「おっと、なに、今日はヤケに、積極的?」
「……ッ」
ぐ、となんとか力を込めて彼の胸から離れる。だけど八坂さんの片腕一本で、すぐにまた引き戻された。今度は、離れられない。すぐ頭上で彼が笑う吐息を落とした。
「抵抗、してみる?」
──当たり前だ。
このまま、されるがままなんて、あっていいわけない。いいわけ、ないじゃないか。だってこれは、この体は…
「あ、あぁの、八坂さん…! ちょっと、待」
「……呼び方、違うでしょ」
「え、あ、八坂先輩…?!」
「…ふざけてんの?」
え、どうして! 先輩って単語、ちょっと憧れていたのに! って今は、それどころじゃなくて、呼び方、呼び方、苗字じゃないってことは…!
「昴流さん、待って…!」
ありったけの声で叫び、力いっぱい体を押す。やっぱり腕が震えて、力が上手く出せない。感覚すらも拙い。それでも、ありったけの力を、込める。振り絞る。
一瞬緩んだ昴流さんの腕の隙間から、なんとか抜け出た。足にも上手く力が入らなくてつまずきそうになりながらも、昴流さんからわずかに距離を空けて向き直る。ぎゅ、と胸元の赤いスカーフを強く握る。
今度は昴流さんは、追いかけてはこなかった。
ベンチに腰掛けたまま、体だけこちらに向けて。じっと、見据えている。ぼくを、月子ちゃんを。
「ぼ…っ、わ、あ、あたし…! ものすごく! 気分が悪くて…!!」
「…へぇ…?」
「今ちょっと一瞬意識も飛んでまして…! 今日は、こ、このへんで…!!」
「…ふぅん…?」
ぼくを見据えたまま、ゆっくりと昴流さんが立ち上がった。びくりと体が反応し、反射的に一歩退く。じゃり、と後ずさりする砂の音がやけに響いた。
「…っていうかさぁ…」
あ、と思った時にはもう。
「なにそれ、バカにしてんの?」
さっきまでの顔とは、違った。
ぞくりとした。さっきとは違う意味で。背筋が凍るような感覚。彼が敵意という牙を剥いたのを体で感じた。
「なんなのそれ、なんのアソビ? …あぁ、この前もソレだったんだ?」
「え、っと、そ、の…」
どうしよう、よく分からないけど、怒らせてしまった。やっぱりぼくに月子ちゃんのフリなんて、無理があったんだ。
ぼくが退いた二歩を、昴流さんの一歩が0にする。ぼくが必死に空けた距離は、一瞬でなくなった。
こうして改めて間の前に立たれると、おそろしいほどの身長差。ぼくを見下ろすその顔が、日の光に陰る。なのにその目は曇らない。翳らない。
「やっぱさぁ、人間関係変わると、変わっちゃうものなのかなぁ…」
「……」
何を言っているのか、どういう意味なのかはわからない。わかたっとしても、もう何も言えない。ただ見上げることしかできない。
その大きな手が、するりと首に伸びてきた。力はあまり入っていない。触れるだけ。だけどほんの一瞬で、きっとこの手はぼくを握り潰せる。
…ちがう、これは、月子ちゃんの。月子ちゃんの体なのに。
体が、震える。あまりの恐怖に。
「俺さぁ、自分のオモチャ他人に触られんの、だいっきらいなんだよね」
そこでようやく、なんのことだか理解した。理解、できた。
昴流さんが何を言ってるのか。何に怒っているのか。彼の言うことは抽象的で、すぐにはわからなかったけれど。
“ぼく”だ。昨日、月子ちゃんと一緒に居た。“鈴木陽太”に、怒っているんだ。
「──スバル」
突如、声が沸いた。その瞬間、ぼくは弾かれたように短く息を吐き出した。呼吸さえ忘れていた。できなかった。本当に死ぬかと思った。
ぼくは指一本動かせなかったけれど、目の前の昴流さんが顔だけ声の方に向ける。なんとかぼくもちらりと目だけで相手を確認する。昴流さんにひけをとらない位派手な見た目に、長髪の男の人がそこに居た。
「…なに、ジョー。今日来ないって言ってなかった?」
「頼まれてたヤツ、持ってきてやったんだろ。お前が大至急って言ったんだろーが」
「…そうだっけ?」
「お邪魔なら帰るけど?」
「あー…」
昴流さんは小さく言って、ちらりとぼくの方を見る。冷たい目。それはどこか、獰猛な獣を思わせた。
それからふと、首もとの手が離れる。
「いーや。行く」
昴流さんが、くるりと体の向きを変えて、歩き出す。ぼくはその背中を目だけで追った。
歩きながらポケットから棒付きのキャンディーを取り出し、あっという間に包装を解き口に放っる。意外にもそのゴミは無造作にポケットに詰め込んで。なぜかそれが印象的だった。場違いだとはわかっていたけれど。
昴流さんが、頭だけこちらを振り返る。そこに先ほどまでの空気はなく、まるで別人のように見えた。
「またね、月子チャン」
ぼくは何も言えなかった。彼の姿が見えなくなるまで、動けなかった。
ぎゅう、と手の中の赤いスカーフを握ったら、涙が、出た。
この涙の理由が、わからない。どこから出たものかさえも。どこから出てくるのかさえも。だけど涙は止まらなかった。
「─……ぅ、…っく」
へなへなと全身の力が抜け立っていられず、思わずその番にへたりこむ。震える手で、握った赤いスカーフをなんとか結ぼうとしたけれど、上手く結べなるわけもなくて。するりと掴んだ小さな拳の隙間から、スカーフの赤が零れた。
抵抗、したのは。ほんの一握りの、使命感からだった。この体を、守らなくちゃって。月子ちゃんの体を、守らなくちゃって。
だけど結局ぼくには、何もできなかった。得意の逃げることすら、かなわなかった。
無力だという結果だけが残る。情けなくてやるせない。そして、何より。
──くやしかった。