◇7
早速プリン作りを手伝ってみたものの、卵を一個ムダにして、月子ちゃんに本気で怒られた。ここでも情けないぐらい役に立たなかったぼくは、後半はただレシピを読み上げる役に徹した。
ぼくは実は卵アレルギーで、プリンは食べれない。それはプリンが出来上がるまで黙っておいた。言った後で月子ちゃんには怒られたけど、笑って誤魔化した。
ぼくは温かいココアだけもらって、みんなでおやつにした。ぼくが一生懸命にレシピを読み上げて作ってもらった3種類のプリンを、みんなで食べる。お母さんと瑠名ちゃんはまだ起きてこなくて、ふたりの分は月子ちゃんが大事にとっておいてた。
その後すぐに月子ちゃんと弦くんはお夕飯の準備に入り、ぼくも玉ねぎの皮だけ剥くのを手伝ってみたけど、涙が止まらず早々にリタイアすることとなってしまった。
呆れた顔の月子ちゃんが、手持ち無沙汰になったぼくを見て庭に居た満くんと望くんに声をかけた。
「そうだ、満、望。このひとに自転車の乗り方教えてあげてくれない?」
「え…えぇ!! つ、月子ちゃん…?!」
月子ちゃんに無茶ぶりにぼくは思わず声を上げる。だけど華麗にスルーされた。
「うそ、兄ちゃん自転車乗れないの!?」
「えー…ぼくこの後勉強が…」
「そうだよこれ以上余計な手間や迷惑をかけるわけにはいかないし自転車くらい乗れなくても死にはしないし…!」
各々の声を上げるぼく達に、月子ちゃんは問答無用で言い放つ。
「そろそろ乗れるようになってもらわないと困るのよ、あたしが」
「で、でも、ぼく運動神経ないし、自転車なんて、ぜったいムリ…っ」
相変わらず真っ先に飛び出した言葉が情けないのは百も承知だ。ああ、また「やる前に言うな」って、絶対に言われる。そう思った時。
「「やる前にムリって言っちゃダメなんだよ」」
満くんと望くんに、おんなじ顔でおんなじ声音で言われた。それがあまりにも月子ちゃんに似ていてそっくりで、そっか姉弟なんだなって思った。
「は、はい…」
そう思ったらぼくは、もう逆らえなかった。
月子ちゃんの自転車を借りて、家の前の道路でぼくは自転車に跨る。一応外なので、パーカーのフードは被った。念の為というか、外はやっぱりまだどうしてもこわくて。
自転車のサドルが月子ちゃん仕様で低かったけど、直すこともできない。直し方も分からない。とりあえず跨ってみたものの、この後どうすれば良いのかわからなくて体が固まった。そんなぼくを少し離れた場所で、満くんと望くんが見ていた。
「乗り方教えるっていっても、後ろ押さえるとか流石にムリくね?」
「体格が違うしね。いっそ補助輪とか付けた方が良いんじゃないですか?」
「う、えっと…」
残念なカンジのため息をつかれるけれど、どうしようもできず。ヘンな汗が額からだらだらと流れた、その時。
「ほらほら、助っ人だよ」
弦くんが明るく笑って連れてきたのは――
「朔夜」
「朔夜くん」
思いっきり不機嫌な様子を顕にした、朔夜くんだった。
「…マジかよ…」
朔夜くんが、隠す素振りもなくぼくの顔を見てぼやく。彼は確実に、ぼくのことが嫌いだと思う。
「まぁ月子にも頼まれたし、しゃーねーか…」
そしてすごく月子ちゃんのことが好きだと思う。ほぼ初対面のぼくにも、月子ちゃんのことを大事に思っているのがすごく伝わってくるくらい。だからこそぼくのことが嫌いだというその気持ちには、全く持って同感だった。
「よ、よろしくお願いします…」
もう年下とか関係なしに、彼には頭が上がらなかった。いろんな意味で。
朔夜くんは面倒くさそうにため息を吐きながら、まっすぐぼくを見据えた。朔夜くんは、いつだって相手をまっすぐ見据える。射抜くみたいに、鋭い眼光で。ぼくなんかとは大違いの、強い眼差しで。
真剣に向き合う彼の姿は、男のぼくから見てもかっこいいと思った。
「…とりあえず、あんた一回自転車から降りて。満、一回スタンド下げて、望はサドルの位置直してやんな」
「「りょーかい」」
言われるがままにぼくは一旦自転車から降り、ふたりに託す。それから朔夜くんが、真正面からぼくを見据えて言い放つ。
「いいか、大抵のことは気持ち次第なんだ。できないって思ってる奴はできない。やるからには死ぬ気でやれよ」
「は、はい…っ」
朔夜くんのすごみに気圧されながらぼくはごくりと唾を呑みこむ。なんだかとんでもないことがこれから始まる気がしてきた。
「兄ちゃん、“乗れる”って3回呟くといいんだぜ」
「ぼくも満もそれで乗れたもんね」
貴重なアドバイスを受けぼくはふたりにこくりと頷き、それからぎゅっと目を瞑って唱えた。
「ぼくは乗れるぼくは乗れるぼくはぜったいに自転車に乗れる…」
呟いてみたけど正直言って、まったく乗れる気がしない。でもそれはぼく自身のせいなんだ。そう思えないぼくに問題があるんだ。
それでも、こうしてぼくなんかに教えてくれている人の為に、やれるだけやらなくては。
ぼくはゆっくり目を開けて、目の前の自転車に再度跨る。サドルの位置はちょうど良かった。両手に滲んだ汗を拭ってハンドルを握る。朔夜くんが自転車の荷台を押さえながら、後ろから声をかけた。
「スタンド上げるぞ。腕の力は抜いて、ひとまず踏み込んで、最初は地面に足着きながらでいいから片足ずつ漕いでみて」
「は、はい…っ」
ゆっくりと、自転車が前進する。片足をペダルに置くも、バランスが取れずすぐに足を着いてしまう。
「自転車が傾いたら、傾いた側にハンドルを回すよう心がける」
「う、うん…っ」
もう一度、地面から足を離す。ぐらぐらと手元が揺れる。自転車ごと体も大きく揺れた。
「ブレーキ忘れんなよ、転びそうじゃなくてもブレーキは意識的にかけて覚えろ」
「わ、わかった…っ!」
こんなに声を出したのは、いつ以来だろう。
足が浮く。汗が噴き出す。風を感じる。
ぐん、と力強く、押される感触。
ふと、昔の記憶がよみがえる。
そうだ、昔こうやって、自転車の乗り方を教えてもらったことが一度だけあった。日向兄さんと、晃良兄さんに。
どこかの公園で…家の近くの公園だったっけ。
ぼくはまだ小さくて、補助輪付きの自転車に乗っていて。その時は確か、日向兄さんが新しい自転車を買ってもらっていて、それまで使っていた自転車をおさがりにもらって、それに乗る為の特訓をしていたんだ。
特訓は一度きりで終わってしまい、結局ぼくがその自転車に乗れることはなかったのだけれど。そんなことがぼくにも、あったんだ――
冬の空はあっという間に日が暮れる。外灯が点き、つられるように明かりの灯る家々。夕餉の匂いがあたりの家から立ち込め出す。すぐ後ろの月子ちゃんの家にも明かりが灯り、ごはんの匂いがしていた。
「あとちょっとなんだけどなー」
「ビビってすぐ足着いちゃうんですよね」
満くんと望くんのふたりが家の前の壁に背を預けながら、残念そうにぼくを見る。残念なのはぼくも同じだった。
「あんた、どんだけ臆病なの」
朔夜くんがすぐ後ろで、呆れたように呟く。
まったくもって同感だ。ぼくもぼく自身にがっかりだった。
「ご、ごめん、ね…その、転ぶのがこわくて…」
情けなく言ったぼくに、朔夜くんが息を吐いた。
「痛いの怖がってたらなんにもできねーだろ。何かやろうとする時には大抵痛みが伴うんだよ」
朔夜くんの言葉の重みにぼくは益々俯くことしかできない。ぎゅう、とハンドルを握る手が痺れるように痛い。手にばっかり力を入れ過ぎるものだから、手の平にはまめができていた。
このぐらいの痛みなら、平気なのに。情けなくて涙が滲む。
「もうだいぶ暗くなってきたし、そろそろ切り上げるか…」
確かにもうこれ以上はやっても意味がない気がした。だってぼくは結局どうやったって、こわがりの臆病の弱虫なのだ。痛いのが一番、イヤなんだから。
……本当に…?
「…ま、まって…もう1回だけ…これで、最後だから…!」
ぼくはずっと、一生、このままなんだろうか。こうやって何もできないまま、生きていくのだろうか。
だって、それって結局、ぼく次第なのに。
ぼくの言葉に朔夜くんが、何も言わずに自転車の荷台に回ってくれて、ぼくも慌ててハンドルを握りなおす。
「…行くぞ」
「う、うん…!」
ペダルを踏み込むのと同時に、ぐん、と朔夜くんが自転車を押す。ふらふらと進む車体に体も傾いた。
地面に引っ張られる。大きく揺れる視界に恐怖を煽られる。ぐ、とブレーキを構える手に力が篭った。
『――がんばれ』
声が、した。遠い昔に聞いた声。
『ほら、いけるって。がんばれ、陽太』
背中を押す声。兄さんの、声。
ふわりと、重力を失った体が宙に浮く感覚。実際そんなわけはないんだけれど、そんな錯覚がした。
こわかった。
だけど声が、聞こえた。
懐かしい声が、聞こえたんだ。
右、左、足はペダルから離さない。傾いた方にハンドルを回す。目はまっすぐ前だけを見る。
しっかり前を向いていれば、自分の進む道が見えていれば、転んだってこわくない。痛くったって傷つかない。兄さんが記憶の中で笑う。
兄さん…日向兄さん。
どうして、死んじゃったの。
ぼくにこんなこと言う権利なんてないてわかってる。
だけどぼくは、生きていてほしかった。どんな形でも良い。
生きていてほしかった。
諦めるなって言ってくれたのは、いつだって日向兄さんだったから。
諦めてほしくなかったよ、日向兄さんにも。
数メートル進んだ先で、そろりと両足を地面に着地する。
やけに息が上がっていた。体も少し震えていた。だけどこわいからじゃなかった。それとはまったく別の、感情だった。
「の、乗れた…」
ぽつりと呟いて、それからゆっくり後ろを振り返る。
視線の先で満くんと望くんが笑って手を振ってくれていた。朔夜くんも、少し仕方なさそうにだったけれど、笑ってくれていたように見えた。
そこにはいつの間にか外に出てきていた月子ちゃんと弦くんも居て。月子ちゃんの腕の中には女の子が居た。きっと、瑠名ちゃんだ。
遠くで月子ちゃんが少しだけ笑ってくれていたから、ぼくはまるで褒められたような気がして、嬉しかった。
胸が震えるくらい、嬉しかったんだ。
ぼくは自転車を降りて来た道を引き返す。温かな明かりの灯る家へ。
腕の中に瑠名ちゃんを抱きながら、月子ちゃんが迎えてくれる。瑠名ちゃんはまだ眠いのか月子ちゃ んの腕の中でうとうとしていた。ふわふわの髪が少し月子ちゃんと似ていた。かわいらしい女の子だった。
「ごはん出来たから、食べましょう。あなたのおかげで今日のカレーは豚肉多めなの。…食べれたらでいいから、一緒に」
「うん…うん、食べる…カレー、食べたい」
手の平のまめはもう痛くない。潰れて血が滲んでいたけど、痛くない。
転んだってもうきっと、そんなに痛くない。
あの小さな部屋の隅でひとり、無力だった1日に自己嫌悪して、沈む夕暮れに泣くこともない。
離せない携帯電話を握りしめ、呼び出しのメールに怯えて、震えながら1日の終わりを迎える、今までの日々と今日とは違う。
今日は、違う。
空には綺麗な月が昇っていた。




