◇8
――食事が、苦手だった。
母さんがぼくを「日向」って呼ぶから。
父さんはぼくをもう見ないから。
晃良兄さんは何も言わないけれどきっと呆れてるに決まってる。たったひとつの約束さえ守れなかったら、きっともっと。
日曜の昼食だけじゃない。平日の、いつも学校に行くフリして母さんと食べる朝食も、1日部屋にひきこもっていたのに、学校での出来事をウソで固める夕食も。
苦手だった。イヤだった。イヤだったんだ、本当は。
月子ちゃんと入れ替わってしまうのは、そんな食事の際だった。
行かなくちゃと思う度に足が竦んで、またいつものぼくの逃げる心だけが逸る。
あの日以来手首の包帯はまだ綺麗なままだったけれど。
もう言い逃れできない。こんな風になってしまったのは…月子ちゃんを巻き込んでいるのは、ぼくだ。ぼくのこの、逃げ出す心が。
ぼくの弱さと狡さがすべての元凶なんだ。
◆ ◇ ◆
「まぁ、そんな気はしてたけど」
暗い夜道を、近くのコンビニまでと月子ちゃんが送ってくれている途中。外灯の下で打ち明けたぼくに月子ちゃんは相変わらずの冷静さで言った。
ぼく的には結構な覚悟で打ち明けたので、月子ちゃんのその反応に逆に拍子抜けしてしまった。
「き、気づいてたの…?」
「…最初、手首の傷を見た時、なんとなくね。その後のはどうしてかわからなかったけど、ちょうど食事時で。実際に食事した時、気分がものすごく悪かったから」
「そ、そっか…」
さすがというかなんというか。ある意味ぼくがわかりやすくヘタレなだけなのか。
月子ちゃんはなんとなく気づいていて、それでも何も言わず黙っていてくれたんだ。ちゃんとぼくが言うのを、待っていてくれたんだ。
「で、でもぼく、さっきのカレーは、美味しかったよ、ホントだよ」
「…そう」
「家に帰ったら吐いちゃうかもだけど…でも久しぶりに自分の意志で、食べたいって思えたんだ。そしたら美味しくて、びっくりしたんだ」
「何気に失礼ね。以前あたしが渡したおにぎりは?」
「あ、あれもちゃんと食べたよ…! …その後のごはんと一緒に吐いちゃったけど…」
あ、ダメだ。やっぱり結局、情けない。
言いながら思わず俯いたぼくに、月子ちゃんがゆっくりと口を開く。
「いいんじゃない。あのカレーはあなたへの対価だもの」
「対価…?」
その視線は空に浮かんだ月を見ていた。無意識にぼくもそれを追った。
「あなたが居たおかげであたしは買い物で楽ができたし、食材も効率よくたくさん確保できた。あなたが調べてくれたレシピで作ったプリンは美味しかったし、きっとあたしにはムリだったわ。夕飯前にいつもうるさい満と望の相手してくれたおかげで、夕食の準備はとても楽だった。弦もあなたのこと気に入ったみたいよ、嬉しそうだった。…久しぶりに朔夜とも、たくさん話せた気がする。朔夜が笑ってるところを見たのも、久しぶりだった」
「そう、かな…でもそれはぼくの力でもなんでもないし、ぼくが貰ったものの方が、きっともっと大きいよ」
「そういうものなのよ。相手が受け取らないと、差し出したものの大きさはわからない。相手にしか、わからないのよ」
こんなぼくに差し出せるもの。カレーライス1杯分の対価。ぼくという存在が生み出す価値。
…本当に?
ぼくは月子ちゃんが笑ってくれたことの方がずっと。ずっとずっと、嬉しかった。ずっとずっと、大きかった。
見上げた先のまるい月から、静かにしんしんと雪のように降る明かり。
彼女の小さな横顔を照らしている。
いつの間にかその横顔を見つめる自分が居た。
「…死んだ父親が…」
「…う、うん…」
ぼくは慌てて視線を空に戻す。月子ちゃんはぼくの視線の先なんてきっとどうでも良いのだろうけれど、なんとなく、気付かれたくなくて。
「学校の、教師だったの。国語の教師で、文学少年だったんですって…」
「へぇ、そうなんだ…ぼくも、本ばっかり読んでるよ。それぐらいしかやることなくて。 あの部屋にあるの純文学ばっかりで…」
「でもあたしは、父が嫌いだった。…嫌いなまま、死んじゃったわ」
ひかれるようにぼくは、再びその横顔に視線を向ける。そこには何の表情も見つけられなかった。
月子ちゃんがその言葉をどんな気持ちで言っているのか、ぼくにはわからなくて。気の利いた言葉のひとつも出てこなくて。
ドキドキと、ただ黙って隣りを歩くことしかできなかった。
「じゃあ、ここで」
コンビニの目の前で、月子ちゃんが足を止める。反射的にぼくも止まり、その勢いのままに月子ちゃんに向き直る。
コンビニの賑やかな明かりが長く濃い影をぼくらの足元に浮かべた。
月は出ているのに星が見えない。暗い、夜だった。
改めて見つめる先の月子ちゃんは、いつもの月子ちゃんだった。表情の少ない、冷静でクールな月子ちゃん。まるで何もなかったみたいに、ただ静かにそこに居る。さっきの会話なんて、まるでなかったみたいに。
「気をつけて」
「う、うん…」
ぼくにこれ以上のことを聞く権利なんて、あるのだろうか。知りたいと願うことさえ厚かましいのではないのだろうか。
それとも、月子ちゃんは――
「…あれぇ、山田さんじゃん」
突如、投げかけられた声に、ふたり揃って体を傾ける。
コンビニの自動ドアの開く音と共に出てくる、店内の明かりを背負った暗い人影。ぼくよりだいぶ背が高い。声からして男の人の声だ。
「うそ、逢引? デート? 妬けちゃうなぁ、俺にはあんなに冷たいのにさ」
コンビニから出てきた男の人は、月子ちゃんを知っているようだった。
チャリ、と一歩に混じって鳴る金属音。コンビニの明かりに溶けそうなくらい明るい髪色。銀色に光る装飾品が体のあちこちでコンビニから漏れる光を反射していて眩しい。
思わず目を細めるほどだ。
長めの前髪で顔の全体はよく見えない。だけど綺麗な顔立ちだと思う。こわいと、思うくらいに。一瞬口に咥えているものがタバコかと思ったけれど、棒付きキャンディーだった。それをペロリと舐めた際に覗いた舌は赤く、そこにも光るピアスが見えた。
誰だろう。思わずぼくは身構える。
だってやっぱりどう見たって、月子ちゃんの友達ではないことは確かだったから。
本能的にわかる。ぼくとは、ぼく達とは反対側に居る人間だって。
そう、桜塚達と同じ側。ぼくらを虐げる側の人間だって。
「…つ、月子ちゃんの、知り合い…?」
「……そうね。あまり認めたくはないけれど」
こそりと訊いたぼくに、やっぱり冷静に月子ちゃんは答えた。男の人はゆっくりと、距離を縮めてくる。その様子に、反射的にぼくはパーカーのフードをきつく頭に押し付け、一歩後退した。もはや体に染み付いた自衛の行動だった。
「…そっちの彼は、お友達ぃ?」
鋭い眼が、ぼくを射る。ガリ、とキャンディーを噛み砕く音がやけに響いた気がした。
びくりと体を震わせるぼくを庇うように、月子ちゃんが自分の体で彼の視界からぼくを隠した。
「あなたは、面識は無いのよね…?」
「え、う、うん…」
「そう、じゃあ…」
ぐい、と突然月子ちゃんに体を押される。コンビニの明かりの届かない、反対側の暗闇に。突然のことによろけながらもなんとか足をつき、月子ちゃんを見る。
月子ちゃんはまっすぐ相手だけを見据えていたから、どんな顔をしているのかは、わからなかった。 月子ちゃんの影に隠れたぼくにはもう。
「…行って。走って、逃げて」
小さく、呟いた言葉と同時に、ドン!と背中を強く叩かれる。心臓を直接叩かれたような衝撃を受け、ぼくは条件反射のように、走り出した。
月子ちゃんを、置いて。
「えー、待ってよ、せっかくなんだからさ、紹介してよ」
「あなたには関係のない人よ。ついでにあたしの友達でもないし、赤の他人」
「はは、そうだよね。友達、居るわけないもんねぇ…でも…」
月子ちゃんの影とその人の影が、ゆっくりと重なっていくのが視界の端で見えた。




