第三話 普通の会社員 其ノ弐
「マガビト?」
忠二が聞き返すと、絢音は線路の向こうに立つ異形から目を離さずに答えた。
「ダンジョンの深いところにいる、人型の魔物。……こんなところに出てくるなんて、聞いたことない」
先ほどまでの軽い口調は消えていた。熊型の魔獣を前にしたときとは明らかに違う緊張が、絢音の声に滲んでいる。
禍人は線路の上で足を止め、黒い瞳をホームへ巡らせた。長い両腕をだらりと垂らし、身動き一つしないまま人々を見渡している。視線が向けられた先から悲鳴が上がり、やがて誰かが「逃げろ!」と叫んだ。
「早く階段へ!」
乗客たちが一斉に動き出す。だが、階段へ向かった先頭の男は、何もない場所で突然身体を弾き返され、尻もちをついた。
「いってぇ! なんだよ、これ!」
男が恐る恐る手を伸ばすと、その指先は空中でぴたりと止まった。別の乗客が駆け寄り、同じ場所を叩く。目には何も映らないのに、鈍い音だけが返ってきた。
「……壁?」
「出られない!」「どうなってんだよ!」
逃げ道を求めて押し寄せる人の波が行き場を失い、ホームはたちまち混乱に包まれた。
「課長……!」
遥が忠二の腕をつかんだ。指先が震えているのを感じ、忠二はなるべく普段どおりの声で答える。
「大丈夫だ、高瀬。落ち着いて」
そう言いながらも、何が起きているのかは忠二にも分からなかった。昨日まで、こんなものは存在しなかったはずなのに。
「……オジさん」
絢音が一歩前へ出た。
「その人を連れて、できるだけ離れてて」
「九條さんは?」
「決まってるでしょ」
絢音は刀を抜いた。白銀の刃が駅の照明を受けて鈍く光り、細い身体の脇で静かに止まる。
「――あたしが止める」
次の瞬間、絢音はホームを蹴って線路へ飛び降りた。
着地と同時に刀を構え、数メートル先に立つ禍人を見据える。長い両腕は膝よりも下まで伸びており、こちらを警戒する素振りさえない。黒い瞳からは何の感情も読み取れなかった。
(……嫌な感じ)
絢音は呼吸を整え、わずかに腰を落とした。
「……随分と余裕じゃない」
――ダンッ!
踏み込んだ靴底が砂利を弾き、絢音の身体が一気に加速した。狙いは首。間合いへ入ると同時に放った横薙ぎの一閃が灰白色の肌へ迫るが、禍人は上体をわずかに傾けただけで、その刃をかわした。
(かわした!?)
絢音は踏み込んだ足を軸に身体を回し、返す刀で胴を狙う。しかし、禍人が半歩退くと切っ先は空を切り、代わりに横合いから長い腕が迫ってきた。
「っ!」
とっさに身を沈めた絢音の頭上を、禍人の腕が通り過ぎる。
――ドガァンッ!!
背後のコンクリート壁が大きく陥没し、砕けた破片が線路へ降り注いだ。ホームから悲鳴が上がるなか、絢音は砂利を蹴って距離を取り、禍人の腕と壁に残された傷を見比べた。
(……速い。それに、なんて腕力)
だが、対応できないほどではない。相手の腕は長く、その分だけ攻撃の軌道も大きい。動き出しを見極めれば、懐へ飛び込む隙はあるはずだ。
「……いいじゃん。ちょっと本気でいくよ!」
今度は真正面からではなく、禍人の右側へ回り込むように駆ける。伸びてきた腕を身体をひねってかわし、着地を待たずに次の斬撃へつなげた。
――ガンッ!
禍人の拳がレールを打ち、鋼鉄が軋む。絢音はその腕を飛び越えて空中から刀を振り下ろしたが、禍人は首を傾けるだけで刃をかわした。着地した瞬間、長い指先が絢音の頬をかすめ、わずかに遅れて細い傷から血が滲む。
「……っ!」
それでも絢音は止まらない。相手が腕を戻すより早く間合いを詰め、刀を斬り上げた。白銀の刃が駅の照明を反射し、線路上に幾筋もの光を描いていく。
ホームの乗客たちは息を呑んでいた。人々の目には、二つの影が交差し、時折閃く刃と舞い上がる砂利ばかりが映っている。
「す、すげえ……!」
「九條絢音だぞ! 史上最年少のトランセンダーなんだから!」
「そうだよ! あの《雷切》がいるんだ!」
逃げ道を失った恐怖は消えていない。それでも、線路上で戦う少女の存在が、人々にわずかな安心を与えていた。
その光景を、忠二も遥と並んで見つめていた。
(……すげえ)
日本刀を振るう美少女剣士と、異形の怪物。しかも舞台は新宿駅の線路上で、ホームには大勢の観客がいる。
(不謹慎だ。不謹慎なのは分かってる……!)
ついさっきまで自分たちも命の危険にさらされていたし、今だって全員が逃げ道を塞がれている。ふざけていい状況ではないことくらい、忠二にも分かっている。
分かっているのだが、二十年間もこんな世界に憧れ続けてきた身には、あまりにも刺激が強すぎた。
(駅のホームに観客! その目の前、線路の上で美少女剣士と怪物が激突……! くぅぅっ、分かってるじゃないか!!)
思わず口元が緩みかけ、慌てて引き締める。
「……課長?」
「あ、いや。何でもない」
遥に怪訝な顔を向けられ、忠二は小さく咳払いした。
線路の上では、絢音が横へ跳びながら禍人の腕をかわし、着地と同時に反撃へ移っている。周囲からは「速すぎて見えない」という声が上がっていたが、忠二には彼女の踏み込みも、禍人が腕を振るう軌道も、不思議なほどはっきりと見えていた。
(……あれ?)
確かに速い。昨日までの常識では考えられない動きだ。それなのに、どちらが次にどう動くのかまで、なぜか分かってしまう。
(……まあ、いいか)
忠二が首を傾げている間に、線路上の攻防が変わり始めていた。
――ガァンッ!!
「くっ……!」
絢音が刀で受けた拳の衝撃に押され、数メートル後方へ弾かれる。靴底で砂利を削りながら着地したものの、右手には痺れが残っていた。
(……重い!)
禍人の動きが、先ほどまでとは違う。こちらが踏み込もうとした先に拳が置かれ、間合いを外そうとすれば長い腕が逃げ道を塞ぐ。攻撃を読まれているのか、それとも相手がようやく動きを見せ始めたのか、判断する余裕すらなかった。
禍人が地面を蹴った。
絢音は振り下ろされた腕を刀で受け流したが、衝撃を逃がしきれず、足が砂利に沈む。身体が横へ流れたところへ、もう一方の腕が迫った。
「しまっ――!」
とっさに上体を反らす。黒い指先が鼻先をかすめ、背後のホームの縁を打ち砕いた。
「こっちに来るぞ!」
乗客たちの悲鳴を背に、絢音は伸びきった腕の付け根を狙って懐へ飛び込んだ。下段から跳ね上げた刀が届く寸前、禍人の肩が不自然な角度へ落ち、上体がぐにゃりとねじれる。
(……え?)
人間ならあり得ない動きで斬撃をかわした禍人が、至近距離から拳を突き出した。絢音は刀を横に寝かせ、柄と峰で受ける。しかし、殺しきれなかった衝撃が両腕から肩へ抜け、身体を後方へ吹き飛ばした。
――ザザザッ!
砂利を巻き上げながら片膝をつく。腕も足もまだ動く。けれど、先ほどまで確かにあったはずの隙が、どこにも見つからなくなっていた。
(……こいつ、最初から本気じゃなかった?)
禍人は追撃してこなかった。長い指をゆっくりと曲げ、続きを促すように手招きしている。その口元には、いつの間にか薄い笑みが浮かんでいた。
「……何がおかしいのよ!」
絢音が叫んでも、返事はない。禍人は彼女の剣先を見つめ、試すように首を傾けただけだった。
ホームから聞こえていた歓声が、少しずつ消えていく。
「さっきから、攻撃が当たってなくないか……?」
「そ、そんなことないだろ。あの九條絢音だぞ?」
「でも……ずっと押されてるじゃないか」
誰もその言葉を強く否定できなかった。先ほどまで少女の強さに見入っていた人々が、今は刀の一振りごとに息を詰めている。
「課長……あの子、大丈夫なんでしょうか」
遥が腕をつかむ力を強めた。忠二は返事をしかけたが、言葉が出てこない。
絢音は必死に戦っている。それなのに、禍人には余裕がある。刃が届く寸前で身体をかわし、反撃を加えられる間合いまで彼女を誘い込んでいるように見えた。
そして何より、相手が苦しむ様子を楽しんでいるかのような、あの笑い方。
(……なんか、あいつイラつくなぁ)
忠二の口元から、先ほどまでの笑みが消えた。
そのとき、ホームを満たしていたざわめきが、ほんの一瞬だけ遠のいたように感じられた。風が吹いたわけでも、何かが壊れたわけでもない。誰もその理由を確かめることなく、視線は再び線路上へ集まっていく。
「……ふざけんじゃ、ないわよ」
絢音は荒くなった呼吸を整え、刀を引き寄せた。禍人は薄笑いを浮かべたまま、彼女の動きを待っている。
低く踏み込み、相手の足元を狙って斬り払う。禍人が退いたところへ追いすがり、間合いを詰めて斬り上げた。しかし、禍人は上体を反らすだけで刃をかわすと、着地した絢音の肩を横から殴りつけた。
「かはっ!」
身体が傾く。続けざまの拳を刀で受けたものの踏ん張りきれず、絢音は線路脇のコンクリート壁へ叩きつけられた。
――ドガァァンッ!!
砕けた壁の破片が舞い、白い粉塵が立ち込める。
「九條さん!!」
遥の叫びに応えるように、粉塵の向こうで絢音が動いた。壁に手をつきながら身体を起こし、刀を支えに立ち上がる。肩から脇腹まで痛みが走り、呼吸をするだけで胸の奥が軋んだ。
「……ふざ、けないでよ。まだ……終わってないんだから!」
禍人は近づいてこない。絢音が再び立ったのを見届けても、その笑みが消えることはなかった。
(……完全に舐められてる。だったら……!)
絢音は刀を右腰の位置まで引き、切っ先を後方へ向けた。左足を前へ、右足を引いて腰を深く落とす。痛む肩を押さえつけるように柄を握り、正面の禍人を睨んだ。
「お、おい……あれ!」
「まさか……!」
その構えに気づいた乗客たちが、身を乗り出す。絶望しかけていた人々の間に、もう一度だけ期待が生まれた。
――パチッ。
絢音の足元で小さな火花が弾けた。青白い光が靴底から這い上がり、刀を握る指先へと伝わっていく。やがて幾筋もの稲妻が刃全体を包み、放電に弾かれた砂利が周囲へ跳ねた。
――バチバチバチッ!
空気が震え、絢音の髪がふわりと浮き上がる。
「……一発で決める」
ゆっくりと息を吐いた絢音は、禍人が動かないことを確かめた。いまだ余裕の笑みを浮かべる相手を見据え、その目から迷いを消す。
「――《雷切》ッ!!」
轟音とともに青白い閃光が線路を貫いた。絢音の身体が一気に加速し、禍人の懐へ飛び込む。踏み込みに合わせて放たれた一閃が、灰白色の胴体を斜めに斬り上げた。
――ガシッ。
「……え?」
刃が、止まった。
禍人の長い指が、絢音の手首をつかんでいた。雷光が弾け、青白い火花が散る。刃はあとわずかで届くはずなのに、全身の力を込めても、それ以上動かない。
(……嘘)
禍人の口角が、ゆっくりと吊り上がった。
片側だけが不自然に引きつり、歪んだ笑みがその顔に広がっていく。
禍人がゆっくりと顔を近づける。その黒い瞳を見た瞬間、絢音の背筋を寒気が走った。
「くっ……離しなさいよ!」
身体をひねって振りほどこうとしたとき、禍人のもう一方の拳が腹部へめり込んだ。
――ドゴォォォンッ!!
「がはっ……!」
身体がくの字に折れ、肺の空気が一気に押し出される。禍人はつかんでいた手首を離すと、間髪入れずに絢音の腕を下から跳ね上げた。
「あっ――!」
痺れた指から力が抜け、刀が宙を舞う。くるくると回転した刃はホームへ飛び、甲高い音を立てて床に落ちた。
――カランッ!
忠二の足元だった。
線路の上では、絢音が片膝をつき、腹部を押さえて激しく咳き込んでいた。起き上がろうとしても足に力が入らず、握るべき刀はもう手元にない。
禍人が近づいてくる。
――コツン、コツン。
静まり返ったホームに、その足音ばかりが不気味なほど鮮明に響いた。
「……そんな」
「《雷切》が……負けた?」
誰も答えられなかった。絢音は震える腕で身体を支え、必死に顔を上げる。その視界の端に、ホームで刀を見下ろす忠二の姿が映った。
「……オジ、さん……!」
残った力を振り絞り、声を張り上げる。
「逃げてッ!! そいつは……ダメッ! 早く、逃げてぇッ!!」
忠二は顔を上げた。線路では、禍人が膝をついた絢音を見下ろしている。つい先ほどまで自分たちを守ってくれた少女が、今にも殺されそうになっていた。
(……助けないと)
もう一度、足元の刀に目を落とす。黒い鞘は少し離れた場所に転がり、拾い上げられるのを待つように、刀身が駅の照明を映していた。
忠二は腰をかがめ、柄を握った。
――その瞬間。
ドンッ!!
駅構内を、凄まじい重圧が襲った。
先ほどまでざわめいていた乗客たちが一斉に息を詰める。誰かが膝をつき、別の誰かは胸を押さえた。空気そのものが押し固められたように重く、喉の奥まで何かに塞がれているようだった。
「な……なんだ、これ……」
見えないものに押し潰されそうな恐怖が、ホームの端から端まで広がっていた。先ほど怪物を前にしたときとも違う、理由さえ分からない感覚に、人々は声を失っていく。
「か、課長……?」
遥もまた、胸を押さえながら隣の忠二を見上げた。彼は拾い上げた刀を片手に、線路の方を見つめている。
「ん? どうした、高瀬」
「な、何か……変じゃ、ありません……?」
「……そうか?」
忠二が周囲を見渡すと、青ざめた顔で壁に寄りかかる者。床に手をつき、肩で息をする者。誰もが線路から目を離せずにいた。
(……そりゃ、怖いよな)
頼みの綱だった絢音まで倒されてしまったのだ。無理もない、と忠二は思った。
線路上では、絢音が異様な圧迫感に顔を上げていた。立ち上がろうとした膝が震え、身体の奥から湧き上がる恐怖が、呼吸を乱す。
(……何、この圧……!?)
数えきれないほどの魔物や異形の者たちと戦ってきた。だが、こんな感覚は一度もなかった。自分を圧倒した禍人を前にしたときでさえ、ここまで身体が言うことを聞かなくなることはなかったのに。
絢音は歯を食いしばり、顔を上げた。
禍人が、動きを止めていた。
絢音へ伸ばしかけた腕は宙で止まり、あれほど楽しげだった口元から笑みが消えている。大きく見開かれた黒い瞳は彼女を見ておらず、その視線はホームの上へ釘づけになっていた。
刀を手にした、一人の男。
禍人の長い指が痙攣するように震え、身体が後ずさろうとしている。それでも足を踏み出せず、ただ怯えたように立ち尽くしていた。




