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第四話 白凪

 禍人は、動かなかった。


 長い指先を震わせたまま、ホームに立つ男を凝視している。先ほどまで絢音を追い詰めていた怪物が、今は一歩も踏み出そうとしない。


 絢音もまた、その異様な光景から目を離せずにいた。


(……何が、起きてるの?)


 息苦しいほどの重圧が、駅構内を覆っている。


 誰もが声を失うなか、ふいに男の声が響いた


「高瀬」


「……は、はい?」


「ちょっと、行ってきます」


「……え?」


 いつもと変わらない声だった。まるで少し席を外すとでも言うように告げ、忠二はホームの縁へ歩き出した。


「課長! 待ってください、危ないです!」


 遥が腕をつかもうとしたときには、忠二はすでに線路へ降りていた。


 ――ザッ。


 靴底が砂利を踏む。それだけで、禍人の肩が大きく跳ねた。


 忠二は刀を持ち直し、線路脇で膝をつく絢音へ目を向ける。


「九條さん、大丈夫?」


「え……あ……」


 絢音は返事をしようとして、言葉を失った。彼はさっきまで、自分を普通の会社員だと言っていた男だ。それなのに、禍人は彼が現れただけで動けなくなっている。


「……オジさん、逃げてって……言ったじゃん……」


「うん、聞こえてたよ。でも、九條さんを置いていくわけにもいかないでしょ」


 困ったように笑う忠二に、絢音は何も言い返せなかった。


 忠二が禍人へ向き直る。刀の重さを改めて確かめながら、頭の片隅では自分でも妙だと思っていた。剣道の経験はないし、真剣など持ったこともない。それなのに、目の前の相手を怖いとは思わなかった。


(……あいつには、なんか負ける気がしないんだよな)


 ふと、中学生の頃のことを思い出した。


 授業中、ノートの隅に描き続けた、自分だけの世界。家へ帰る道でも、眠る前の布団の中でも、何度となく思い浮かべた光景があった。誰にも見せなかったし、今になって口にするには少し恥ずかしい。


(……いやいや、まさかな)


 忠二は自分の考えに苦笑しながらも、刀を両手で握った。右足をわずかに引き、左足を前へ置く。そして、静かに刃を頭上へ掲げた。


 ――上段。


 その構えを見た絢音が息を呑んだ。


(……あの距離で?)


 禍人まではまだ十数メートルある。いくら刀を長く振り下ろしても、届くはずのない間合いだった。


 だが禍人は、逃げも襲いかかりもしなかった。灰白色の顔が引きつり、黒い瞳が大きく見開かれる。何かを伝えようと口を開閉し、ようやく喉の奥からかすれた音を絞り出した。


「……マ……マオウ……サマ……?」


 絢音の目が見開かれる。


(……喋った?)


 その言葉が何を意味するのか考えるより先に、忠二が静かに息を吸い込んだ。


 駅構内には、異様な静寂が広がっていた。ホームの乗客たちも、絢音も、上段に構えた男と、その正面で震える怪物から目を離せなかった。


 忠二の右足が、わずかに動く。


 ――ギィィィンッ!!


 突如、鋼鉄が悲鳴を上げた。


 絢音の視界から、忠二の姿が消えた。


「――《白凪》」


 その声が響いたときには、禍人の背後に忠二が立っていた。頭上に掲げられていた刀はすでに振り下ろされ、刃先がその右脇で静かに止まっている。


 絢音は息を呑んだ。踏み込みも、刀が通り過ぎた瞬間も、何一つ目に映らなかった。


 禍人は両腕を垂らしたまま動かない。やがて灰白色の身体の中心に細い線が浮かび上がり、頭頂から胴体へ、まるで定規で引いたように真っすぐ伸びていく。


 ――ずるり。


 身体が左右へ分かれ、二つに断たれた禍人が線路上へ崩れ落ちた。


 ――ドサッ。


 あれほど絢音を圧倒していた怪物が、最後まで抵抗することさえできなかった。


 忠二は刀を下げたまま、しばらくその場に立っていた。確かに自分は振り下ろしたはずだ。だが、刃に何かが触れた感触さえほとんど残っていない。


 振り返ると、真っ二つになった禍人が倒れている。


「……え、斬れた?」


 思わず漏れた声は、誰に聞かせるでもなく、静まり返った線路上に落ちた。


 絢音は、その光景を呆然と見つめていた。自分の《雷切》すら止めた禍人が、たった一太刀で倒された。それ以上に信じられないのは、あの速さだった。


(……あたしの《雷切》より……)


 速い、という言葉では到底説明できない。絢音は震える唇を開いたが、声にはならなかった。


「……た、倒した?」


 ホームのどこかから声が上がった。


「今……何したんだ?」「あの化け物、もう動かないのか?」


 誰も答えられない。それでも線路に倒れた禍人が二度と起き上がらないことだけは、次第に人々にも伝わっていった。


「……おい! 助かった……俺たち、助かったんだよな!?」


 震える声で叫んだ男に、隣の誰かが頷いた。


 その瞬間、張り詰めていた空気が弾けた。


「うおおおおおおおっ!!」


 凄まじい歓声が、駅構内を揺るがした。拳を突き上げる者。その場に座り込み、泣き出す者。隣にいた見知らぬ人と抱き合い、無事を喜ぶ者。互いの名前さえ知らない人々が、涙を流しながら肩をたたき合っていた。


 つい先ほどまで絶望に沈んでいたホームが、一転して歓喜に包まれる。駅全体を覆っていた重圧も、いつの間にか消えていた。


 忠二はその光景を、ぽかんと見上げた。


(……いや、確かに刀は振ったんだけどさ)


 まさか本当に斬れるとは思わなかったし、どうやってあんな動きができたのか、自分でも説明がつかない。


(……これ、どう説明すればいいんだ?)


 思わず頭をかこうとして、右手に刀を持っていることに気づいた。


「……危な」


 慌てて刃を身体から離す。その様子を見た絢音は、呆れるべきなのか驚くべきなのか分からなくなっていた。


「……オジさん」


「ん? 九條さん! 大丈夫? 怪我は?」


「……それ、こっちの台詞なんだけど」


 絢音は苦笑しようとして、腹部の痛みに顔をしかめた。


「いたた……」


「あ、無理しないで!」


 忠二が慌てて駆け寄ろうとした、そのとき。


「課長ぉぉぉっ!!」


 ホームから悲鳴にも似た声が響いた。


「何やってるんですかぁっ!!」


「た、高瀬!?」


「何が『ちょっと行ってきます』ですか! 全然ちょっとじゃないじゃないですか!!」


 涙を浮かべた遥がホームの縁まで駆け寄り、線路上の忠二を睨みつけている。


「怪我は!? どこか痛くないですか!? ちゃんと動けますか!?」


「いや、あの……大丈夫だから!」


「大丈夫じゃありません!!」


 ぴしゃりと言い切られ、忠二は口をつぐんだ。数分前まで恐ろしい怪物を相手にしていたはずなのに、今は部下に叱られて言い返せない。


「……すまん」


 素直に謝る忠二を見て、遥は大きく息を吐いた。


「……本当に、もう」


 怒っているのか安心しているのか、その両方が入り交じった表情に、忠二も困ったように笑うしかなかった。


 絢音はその様子を見て、思わず小さく吹き出した。


「……ぷっ」


 あれほど恐ろしい禍人を一瞬で倒した男が、今は部下の女性に叱られている。その落差がどうにもおかしくて、笑った拍子にまた腹が痛んだ。


「……いったぁ」


「ほら、九條さんも無理しないで」


「……はいはい」


 絢音が小さく返事をしたとき、ふと視線の先に奇妙なものが映った。


「……え?」


 忠二が刀を構えていた場所。その足元の砂利が深く沈み込み、枕木に亀裂が走っている。さらに、二本のレールのうち一本が、途中から大きく歪んでいた。


 絢音は痛む身体を引きずるようにして近づき、しゃがみ込む。


 硬い鋼鉄が、まるで柔らかな針金をねじったように曲がっていた。何かがぶつかった傷ではない。足元から押し込まれたような歪みが、レールに深く残っている。


(……何、これ)


 先ほどの光景が、頭の中によみがえった。


 上段に構えた刀。わずかに動いた右足。そして、突然響いた鋼鉄の軋む音。


(……まさか)


 絢音の背筋に、冷たいものが走った。


 瞬間移動ではない。あの男は消えたのではなく、自分の足で地面を蹴り、禍人との距離を一瞬で駆け抜けたのだ。


(……あの距離を、一歩で?)


 その結果が、これだった。


 絢音はもう一度、歪んだレールを見下ろす。踏み込みだけで鋼鉄を変形させるほどの力など、聞いたこともない。しかも、それを自分は目で追うことさえできなかった。


 ゆっくりと顔を上げると、忠二はまだ遥に叱られていた。


「だから、本当に何ともないんだって!」


「そういう問題じゃありません!」


「……はい」


 絢音は二人のやり取りを眺め、先ほど禍人が見せた反応を思い出す。あれほど余裕に満ちていた怪物が、忠二を前にした途端に震え出したこと。そして、最後に口にした、聞き慣れない呼びかけ。


「……普通の会社員、ねぇ」


 小さく呟いてみても、答えは出なかった。ただ一つ分かるのは、目の前で部下に頭を下げているあの男が、自分の知るどんな探索者とも違うということだった。


 新宿駅には、今なお歓声が響いていた。


 その中心で、御堂忠二だけが、自分の身に何が起きたのかを理解していなかった。


 ――二十年前、中学生だった少年が夢見た剣技。


 その一振りが、現実の世界に刻みつけた傷跡は、鋼鉄のレールに深く残されていた。

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