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第二話 普通の会社員 其ノ壱

 朝の新宿駅は、いつもどおりの混雑ぶりだった。


 ホームに滑り込んできた電車から、次々と人が吐き出されていく。足早に改札へ向かう会社員、スマートフォンを眺めながら歩く学生。構内放送が響き、発車を知らせる電子音が人々の足音に混じっていた。


「昨日の新宿の氾濫、結構すごかったらしいな」


「でも、夜のうちに鎮圧されたんだろ?」


 すれ違う通勤客の会話に、忠二は思わず顔を向けた。


(……氾濫?)


 今朝のテレビでも、そんなことを言っていた気がする。


 御堂忠二は、その流れに身を任せながら小さく息を吐いた。


 昨夜、空に浮かんでいた二つの月。


 あれは一体、何だったのか。


 酒に酔っていたせいで妙なものを見たのだろうか。そう考えたいところだが、あの光景は今も妙にはっきりと思い出せる。


「……疲れてんのかな、俺」


 独りごとを口にしていた、そのときだった。


「御堂課長?」


 聞き慣れた声に振り向く。


 人混みの向こうから、小走りで近づいてきたのは高瀬遥だった。


「おはようございます! こんなところで会うなんて珍しいですね」


「ああ、高瀬か。おはよう」


「課長、今日はなんだか考え事ですか?」


「ああ、ちょっとな。大したことじゃないよ」


「また仕事のこと考えてたんじゃないですか? 神代部長のことなんて気にしなくていいですよ」


「いや、そういうわけじゃ……」


 言いかけたところで、遥が不意に視線を上げた。


「……課長?」


 その声が、わずかに震えていた。


 忠二もつられて振り返る。


 ホームの先に伸びる、薄暗いトンネル。


 その奥から、何かが近づいてくる。


「……おい、何だあれ」


 誰かが声を上げた。


 人の流れが、不自然に途切れていた。


 誰かが立ち止まり、また別の誰かが後ずさる。ざわめきが波のように広がり、やがて一人の悲鳴が響いた。


「きゃあああっ!!」


 暗いトンネルの奥から姿を現したのは、巨大な獣だった。


 熊に似た四肢。黒々とした体毛。だが、その肩は異様に盛り上がり、口元からは人間の腕ほどもある牙が突き出している。


 獣が一歩踏み出すたび、硬い爪が線路の枕木を引っかいた。


「……熊? ここ新宿だぞ」


 忠二は呟いた。


 だが、そんな生易しいものではない。


 獣が線路を蹴り、巨体を跳ね上げた。


 ドンッ!!


 ホームへ着地した衝撃に、足元が震える。


 獣が低く唸り、首を巡らせる。


 その姿を目にした乗客たちが、一斉に逃げ始める。


「うわああっ! 逃げろ!」


 押し寄せる人波に、遥の身体が大きく揺れた。


「きゃっ!」


「とろくさい女だな! 邪魔だ、どけよ!」


 背後から飛んできた怒声とともに、誰かが遥の肩を突き飛ばした。


 バランスを崩した遥が、ホームの床へ倒れ込む。

 

「高瀬!」


 忠二が遥へ視線を向けた、その瞬間。


 獣が動いた。


 巨体からは想像もつかない速さで床を蹴り、一直線に遥へ迫る。


 振り上げられた前脚。その先に並ぶ鋭い爪が、構内の照明を受けて鈍く光った。


「――危ない!」


 考えるより先に身体が動いていた。


 忠二は遥の肩を掴み、力いっぱい横へ押し出す。


 そして、彼女と獣の間に割って入った。


 視界いっぱいに迫る巨大な爪。


 避ける暇など、あるはずもない。


(ああ、死んだ。確実に死んだ)


 ビリビリビリッ!!


 耳元で激しい音が弾けた。


 身体を引き裂かれる――はずだった。


「…………え?」


 忠二は呆然と立ち尽くした。


 胸元から腹にかけて、スーツとシャツが無惨に裂けている。布切れがひらひらと床へ落ちた。


「……あれ?」


 恐る恐る自分の胸に手を当てる。


 血は出ていない。傷らしい傷も見当たらなかった。


「か、課長……?」


 床に尻もちをついた遥が、震える声を漏らした。


 周囲の人々も、逃げることさえ忘れたように忠二を見つめている。


 そして――。


「……ガウ?」


 獣までもが、首を傾げていた。


「いやいや、俺に聞かれても……」


 忠二が思わず答えた、そのとき。


 獣の表情が険しくなった。


「グルルルル……!」


「えっ、ちょちょ、ちょっと待っ――」


 再び前脚が振り上げられる。


 今度は真正面からだった。


 巨大な爪が、忠二の肩口から斜めに振り下ろされる。


(ぎゃあ!今度こそ、やられた!!)


 反射的に目を閉じた。


 ビリリリッ!!


 またしても、布が裂ける音。


「いっ……!」


 あんなものをまともに食らったのだから、痛くないわけが――。


「…………痛くない?」


 ゆっくりと目を開ける。


 残っていた上着の片袖が、足元へ落ちた。


 忠二は自分の腕を見下ろし、何度か握ったり開いたりしてみる。


 普通に動く。


 傷もない。


「……どうなってんだ、これ」


「か、課長ぉ……!」


 遥の声が裏返った。


 獣はというと、今度こそ理解できないとでも言いたげに、自分の前脚と忠二の身体を交互に見比べていた。


「……グゥ?」


 忠二も獣を見返す。


「……いや、だから俺にも分かんねえって」


 奇妙な沈黙が、ホームを包んだ。


「――はーい! そこまでーっ!」


 場違いなほど明るい声が、ホームに響き渡った。


 忠二が声のした方へ顔を向けると、人垣の向こうから一人の少女が姿を現した。


 まだ高校生くらいだろうか。顔立ちは幼くも見えるが、妙に整っている。


 軽やかな足取りで歩いてくるその少女の手には、一本の刀が握られていた。


「……刀?」


 忠二は目を疑った。


 ここは新宿駅だ。時代劇の撮影現場でもなければ、コスプレイベントの会場でもない。


 だというのに、目の前の彼女はまるでそれが当たり前であるかのように、刀を携えている。


「オジさーん! ちょっと動かないでね!」


「お、おじさん?」


 忠二が眉をひそめた、その瞬間。


 少女の姿が消えた。


「――え?」


 風が頬を撫でた。


 次いで、硬質な金属音が一つ。


 キンッ。


 気づいたときには、少女は獣の背後に立っていた。


 その刀身が、ゆっくりと鞘へ収まっていく。


 カチン。


 獣の巨体が、ぐらりと傾いた。


「……グ?」


 短い呻き声を残し、その身体が崩れ落ちる。


 ドズンッ!!


 ホームが小さく揺れた。


 忠二は倒れた獣と少女を交互に見つめた。


「……何が起きた?」


 少女は振り返り、にっこりと笑った。


「はいっ! 討伐完了!」


 その一言を合図にしたかのように、周囲から歓声が上がった。


「おい、あの子……!」


「嘘だろ!? 《雷切》じゃねえか!」


「九條絢音!? マジかよ? 本物!?」


「史上最年少でトランセンダー(超越者)になった、あの!?」


 誰かがスマートフォンを掲げる。


 また一人、また一人と人々が少女へ視線を向け、騒ぎは瞬く間に広がっていった。


 忠二だけが、その場に取り残されていた。


(……らいきり? とらんせんだー?)


 聞き慣れない言葉ばかりだ。


 それに、今の動き。


 少女が何をしたのか、まったく見えなかった。


「いやいや……ちょっと待てよ」


 目の前には、倒れた巨大な獣。


 その傍らには、日本刀を持った少女。


 周囲の人々は、まるで有名人に遭遇したかのように騒いでいる。


(……何なんだよ、いったい何がどうなってる)


 そんな忠二の困惑など知る由もなく、少女は軽い足取りで近づいてきた。


「オジさーん!」


「……俺?」


「そうそう! オジさん!」


 少女は忠二の破れたスーツを見て、目を丸くした。


「うわっ! 服、ボロボロじゃん!」


「……あの化け物にやられたんだよ」


「あははっ! でもさ!」


 彼女は笑顔のまま、親指を立てた。


「女の人を庇ったの、カッコよかったよ!」


「……そりゃ、どうも」


 忠二は気の抜けた返事をした。


 すると少女は、興味深そうに彼の身体を眺め始めた。


「ねえ、オジさん」


「今度は何だよ」


「さっきの魔獣の攻撃、まともに食らってたよね?」


「魔獣?ああ、熊みたいな奴か……まあ、そうだな」


「なのに、怪我してないんだ?」


「……俺が聞きたいくらいだよ」


 少女は少しだけ首を傾げた。


 その瞳に、好奇心が宿る。


「ふーん……」


 そして、何かを確かめるように問いかけた。


「で? オジさんもシーカー(探索者)でしょ? 今どのランク?」


 屈託のない笑顔で尋ねてきた。


「……ランク?」


「そうそう! シーカーかな? それとも、もしかしてトランセンダー?」


「いや、ランクって……そもそもシーカーって何?」


「…………へ?」


 少女の笑顔が固まった。


「だから、そのシーカーって何なんだよ」


「えっ!? 探索者のことだよ!? オジさん、冗談きついって!」


「いや、俺は普通の会社員なんだけど……」


「…………会社員?」


 忠二の顔を見つめ、それから破れたスーツへ視線を落とした。


「え、ちょっと待って。探索者じゃないの?」


「だから、そう言ってるだろ」


「ギルドには?」


「ギルド?」


「……うっそぉ」


 大げさに両手を広げた。


「オジさん、何も知らないじゃん!」


「悪かったな!」


「いやいや! だってさ、探索者って魔獣と戦ったり、ダンジョンに潜ったりする人たちだよ? 知らない人なんている?」


「……ダンジョン?」


「そこから!?」


 少女が声を上げた。


 忠二は眉間を押さえた。


 魔獣。探索者。ダンジョン。


 どれもゲームや漫画では聞き慣れた言葉だ。


 だが、目の前の少女は、それらが現実に存在することを何の疑問もなく話している。


「……なあ、一つ聞いていいか」


「ん? なになに?」


「お前、さっきトランセンダーって呼ばれてたよな。それも探索者なのか?」


「そだよ! シーカーの上がトランセンダー。そのさらに上がアウェイクナー!」


「……覚醒者?」


「おっ、そこは分かるんだ!」


「いや、言葉の意味くらいはな……」


「ちなみに私は九條絢音! 史上最年少のトランセンダーでーす!」


 絢音は得意げに胸を張った。


「……そうか。すごいんだな」


「反応うっす!」


「いや、すごさの基準が分からないんだよ」


「もー! オジさん、ほんっと変わってる!」


 絢音が頬を膨らませた、そのときだった。


「……課長」


 背後から聞こえた声に、忠二は振り返った。


 遥が立っていた。


 顔は涙でぐしゃぐしゃになり、唇が小さく震えている。


「お、高瀬。大丈夫か? どこか痛むか?」


「……どうして」


「え?」


「どうして、あんな無茶したんですか……!」


 遥は忠二の胸元へ手を伸ばした。


 引き裂かれたシャツの隙間から、傷一つない肌が覗いている。


 それでも彼女は、何度も確かめるように視線を動かした。


「私……課長が、死んじゃうかと思って……!」


「……高瀬」


「だって、あんな大きな魔獣に……二回も……!」


 言葉が途切れ、遥の目から新たな涙がこぼれ落ちた。


 忠二は困ったように頭をかいた。


「いや、その……俺も無我夢中だったからさ」


「だからって……!」


「……ごめんな。怖い思いさせたな」


 遥は首を横に振った。


「……違います」


「ん?」


「私のことなんかより、課長の身体を心配してください……!」


 絞り出すような声だった。


 忠二は返す言葉を失った。


 遥は袖で涙を拭うと、ぐっと顔を上げた。


「……まずは病院、行きましょう」


「ええ?」


「今すぐです! 見た目に怪我がなくても、何が起きてるか分からないじゃないですか!」


「いや、でも俺、本当にどこも痛く――」


「駄目です!」


 普段の穏やかな遥からは想像もつかない強い口調だった。


「今日はもう会社なんて行かなくてもいいんです! 私も付き添いますから!」


「……分かった。分かったから、落ち着けって」


 忠二が両手を上げると、遥はようやく少しだけ息を吐いた。


 その様子を、絢音がじっと眺めていた。


「……ふぅん」


 そして、何かを思いついたように、にやりと笑った。


「ねえねえ、オジさん?」


「……今度は何だよ?」


 忠二が振り向くと、絢音は先ほどと変わらない笑顔を浮かべていた。


「ちょっとだけ、確かめたいことがあるんだけどさ」


「確かめたいこと?」


「うん。ほんのちょっとだけ!」


 そう言って、絢音が一歩踏み込んだ。


 足元の床が鈍い音を立て、靴底を中心に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。


「――え?」


 次の瞬間。


 ドゴォォォォンッ!!


 凄まじい衝撃音が、駅のホームに轟いた。


 足元が大きく震え、天井から細かな埃が舞い落ちる。近くにいた乗客たちが悲鳴を上げ、思わずその場にしゃがみ込んだ。


「きゃあっ!」


 遥が両手で耳を塞ぐ。


 その目の前で、絢音の拳が忠二の腹に深々と突き込まれていた。


 いや――。


 正確には、突き込まれたように見えただけだった。


 忠二の身体は、微動だにしていない。


「…………は?」


 自分の腹に押し当てられた小さな拳を見下ろし、忠二は顔を上げた。


「……何してんの、お前?」


 絢音は拳を押し当てた姿勢のまま、ぴたりと動きを止めていた。


「…………っ!」


 その顔が、みるみる歪んでいく。


「いっ……!」


「……い?」


「いったぁぁぁぁ!!」


 絢音が勢いよく拳を引っ込めた。


「ちょっ、何これ!? オジさん、硬すぎっ!!」


 涙目になりながら、自分の拳をぶんぶんと振る。


「いや、こっちの台詞だろ! いきなり何すんだよ!」


「だって! さっきの魔獣の攻撃、二回もまともに受けてたんでしょ!」


「だからって殴る奴があるか!」


「ちょっと確かめただけだってば!」


「ちょっとってな、ホームが揺れたぞ!?」


「あたしだってびっくりしてるよ!」


「びっくりしたのはこっちだ!!」


 二人が言い合っていると、横から遥の震える声が割って入った。


「……何、してるんですか」


 涙に濡れた顔を上げ、絢音を睨みつけている。


「え?」


「何してるんですかって、聞いてるんです!」


 絢音が目をぱちくりさせた。


「いや、だから、ちょっと確かめたくて――」


「確かめる!? いきなり人を殴ってですか!?」


「え、でも、このオジさん――」


「この人は!」


 遥の声が、ホームに響いた。


「この人は探索者でも何でもないんです! 普通の会社員なんですよ! そんな人に、何てことするんですか!」


 絢音は何も答えなかった。


 ただ、遥の顔をじっと見つめている。


 そして、忠二へ視線を移した。


「……普通?」


 一瞬、口を閉ざした。


 絢音は自分の拳を見下ろした。


 魔獣の爪を二度受けても、傷一つ負わなかった男。


 自分の拳をまともに受けても、身じろぎすらしなかった男。


 その男が、破れたスーツのまま、困った顔で立っている。


「へぇ……」


 絢音の口元が、わずかに持ち上がった。


「……普通、ねぇ」


 その呟きは、駅の喧騒に紛れて消えた。


 忠二は、ただ深いため息をついた。


(……頼むから、誰か説明してくれ)


 昨日まで、こんな世界じゃなかったはずなのに。


 そして何より――。


(……俺の身体、どうなっちまったんだよ)


 ――そのときだった。


 ゴォォォォ……。


 ホームの奥から、地を這うような低い音が響いた。


「……ん?」


 忠二が顔を上げる。


 電車の走行音にしては、妙だった。


 線路の向こう、暗いトンネルの奥で何かが動いた。闇に紛れた輪郭が、少しずつ大きくなっていく。


 先ほどまで騒がしかったホームに、再びざわめきが広がり始めた。


「おい……また何か来るぞ」


「嘘だろ? さっきの魔獣は倒したじゃないか!」


 人々の視線が、一斉にトンネルへ向けられる。


 忠二も目を凝らした。


 暗闇の中に、ぼんやりと白いものが浮かんでいる。


 それは人のようにも見えた。


 だが、明らかに何かがおかしい。


「……何だ、あれ」


 隣にいた絢音が、答えなかった。


 先ほどまでの無邪気な笑顔は、すっかり消えていた。


 その右手が、静かに刀の柄へ伸びる。


「……オジさん」


「ん?」


「早く! 連れの女の人と一緒に下がってて!」


 声の調子が今までとは明らかに違った。


「おい、どうしたんだよ。あれも魔獣ってやつか?」


 絢音は答えない。


 ただ、トンネルの奥を見据えている。


 やがて、その白い影が照明の下へ姿を現した。


 異様に細長い手足。


 灰白色の肌。


 不自然なほど大きな頭部に、黒く沈んだ二つの目。


 それは、ゆっくりと顔を上げた。


 そして――。


 絢音が、小さく息を呑んだ。


「なんで……嘘でしょ」


 忠二は彼女を見た。


 あの巨大な熊のような魔獣を一瞬で斬り伏せた少女が、初めて見せる表情だった。


「……絢音?」


 少女は刀を握り直し、低く呟いた。


「……禍人(マガビト)」


 その声が、妙にはっきりと忠二の耳に届いた。 

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