第一話 ツワモノノユメアト
夜が、鳴いていた。
雲ひとつ存在しない夜空に、蒼白い月が二つ浮かんでいる。
その下を、ひとりの男が歩いていた。
一歩踏みしめるたび、濡れた草むらが小さく擦れ合う。腰に差しているのは一振りの刀。しかし柄に手を添える素振りすらなく、ただ静かに足を進めていた。
やがて、草の音に異様な音が混じり始める。
ずり、ずるり。
それは闇そのものが地を這う音だった。
立ち並ぶ木々の隙間から、白い腕がぬりと伸びる。
一本。
二本。
三本――。
数えることすら無意味に思えるほどの腕が地を掻き、その巨体を月明かりの下へと引きずり出した。
顔にあたる場所には目も鼻もなく、ただ縦に裂けた大きな口だけが蠢いている。
それがゆっくりと開かれた。
闇の奥に幾重にも並ぶ牙が、月光を鋭く照り返す。
「――ァァァァ……」
地響きのような低い呻きに、周囲の空間が震えた。
男の足が止まる。
物の怪がその巨躯を起こした。
樹木を易々と押し退け、夜空の月影すら覆い隠していく。
それでも、男は見上げない。
夜風に揺れる前髪の隙間から、ただ前方の闇だけを見据えていた。
そして――。
「儚き夜空に奉り候――夢如くと美しくなかれ――」
淀みなく紡がれた声に応じるように。
男の背後で、最初の陣が静かに開いた。
「孤高にいざない塵と舞おう――我に求め、我を求めしものなり――」
二つ、三つ。
紡がれる声を追うように、新たな陣が開く。
足元に。背後に。頭上に。
大小幾重もの光輪が夜の闇を埋め尽くし、各々が異なる軌道を描いて回転を始めた。
物の怪が吼える。
無数の腕が大地を抉り、一斉に男へと躍りかかった。
それでも淀みなく声は紡がれる。
最後の一音が夜へ溶け落ち――。
世界から、音が消えた。
風が止まる。
草木が止まる。
旋回していた陣さえも、眩い光を放ったまま静止した。
男の目の前。
振り下ろされた異形の爪が、あと僅かのところで止まっている。
完全なる静寂。
男の右手が、ゆっくりと柄を握り込んだ。
――まだ、抜かない。
ただ二つの蒼白い月だけが、その一触即発の刹那を見下ろしていた。
「――《兵の夢跡》」
次の瞬間。
男はすでに、物の怪の背後に佇んでいた。
いつの間にか引き抜かれていた刀身が、音もなく静かに鞘へと沈んでいく。
あと一寸。
あと半寸。
そして――。
カチン。
夜が、割れた。
爆ぜるような轟音とともに風が奔る。
固結していた草木が一斉に倒れ伏し、空を覆っていた幾重もの陣が粉々に砕け散った。
一瞬遅れて、物の怪の巨躯へ一斉に走る無数の白線。
巨大な肉塊が静かに崩壊し、微細な塵となって月夜の空へ舞い上がっていく。
男は振り返らない。
刀を納め終えると、ただ淡々と、再び夜の闇の中へ足を踏み出した。
「課長、少しよろしいですか?」
書類に目を通していた御堂忠二は、手元のペンを置いた。
顔を上げると、入社二年目の野崎健太が立っている。
「どうした?」
「実は、目が腫れてしまいまして……」
野崎の左目を覆う、黒い眼帯。
(……まさか、このような場所で魔眼の継承者と遭遇しようとはな)
忠二は眼帯に目を留めたまま、しばし沈黙した。
「ものもらいです。パソコンの画面を見るのが少し辛くて」
「……そうか。無理はするな。今日は書類整理に回ってくれ」
「ありがとうございます!」
恐縮しながら立ち去る野崎の背中を見送り、忠二はペンを手に取った。
御堂忠二、三十四歳。大手電力会社で課長を務める、ごく普通の会社員だ。
少なくとも、周囲からはそう見えている。
(その左眼、まだ御しきれぬか)
十四歳の頃から二十年間、忠二は胸の内で「理想の格好よさ」を追い求め続けてきた。
だが、現実と妄想を混同するほど分別を失ってはいない。
「課長、こちら見積書です」
「ああ、そこに置いておいてくれ。あとで目を通す」
(フッ……若き継承者よ。力を解放するのは今ではない)
保温ボトルのお茶を一口含み、忠二は小さく息を吐いた。
*
「御堂、ちょっといいか」
午後三時。神代部長に呼び出され、会議室へ向かった。
神代帝、三十四歳。
忠二とは同期入社でありながら、会社史上最年少で部長に昇進した男だ。
「例の件だが、先方が納期を一週間早めてほしいと言ってきた」
「一週間か。現場の工程を考えると、かなり厳しいな」
「そこを調整するのがお前の仕事だろう」
神代は書類を机に置き、薄く笑った。
「相変わらずだな、御堂。昔から部下に甘い」
「無理な工程を組んでも、後で問題になるだけだ」
「そういうところだよ。お前がいつまでも課長なのは」
(愚かな。封印されし獄炎の門に手をかける気か)
忠二は表情を変えず、資料に目を落とした。
「負担が集中しないよう、条件を再整理して先方と折衝する。それでいいな?」
「ああ。頼んだぞ」
資料を手に、会議室を後にする。
(命拾いしたな。今宵、灰燼と化さずに済んだのは我が慈悲ゆえと知れ)
廊下を歩きながら、忠二はふと考えた。
(仕事なら負ける気はしない。だが……)
(神代帝。その名前だけは完敗だ……そして羨ましい!)
「御堂課長!」
廊下で呼び止められた。
振り返ると、部下の高瀬遥が心配そうにこちらを見ていた。
「さっきの話、私たちも残業した方がいいですか?」
「いや、確定ではない。まずは私が調整してくる」
「ですが……」
「心配いらない。君たちは予定どおり進めてほしい」
「わかりました。ありがとうございます!」
安堵して微笑む遥を見送り、忠二も穏やかに頷いた。
(守るべき民がいる。ならば、この身が焼かれようとも退くわけにはいかぬ)
なお、実際にやるべき作業は工程表の再計算と調整連絡である。
*
夕方。
「っ……!」
資料を抱えて棚の横を通り抜けようとしたとき、右腕に鋭い痛みが走った。
見ると、棚から突き出していた金具に引っかけたらしい。前腕に赤い筋が走り、じわりと血が滲んでいる。
「……やっちまったな」
「御堂課長?」
背後から声がした。
振り返ると、部下の小宮山茜が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「どうかしました?」
「いや、ちょっと腕を引っかけただけだ。大したことないよ」
「えっ、血が出てるじゃないですか!」
茜は目を丸くすると、抱えていた書類を近くの机に置いた。
「ちょっと待っててください。救急箱、持ってきます!」
「ああ、いや。本当に大丈夫だから――」
言い終えるより早く、茜は小走りに去っていった。
数分後。
「はい、腕を出してください」
「いや、自分でできるって」
「課長はいつもそう言うんですから。ほら、早く」
有無を言わせない笑顔に押され、忠二はおとなしく右腕を差し出した。
「少ししみますよ?」
「ああ」
消毒液を含ませたガーゼが傷口に触れる。
「っ……!」
「あっ、ごめんなさい! 痛かったですか?」
「いや、大丈夫。ちょっと驚いただけだ」
「ふふっ。課長でも痛がるんですね」
「そりゃあ、俺だって人間だからな」
「知ってますよ、そんなこと」
茜は小さく笑いながら、新しいガーゼを傷口に当てた。
その指先が、時折、忠二の肌に触れる。
いつもは仕事の話ばかりしている相手だ。こうして向かい合うと、妙に距離が近い。
「……課長って」
「ん?」
「自分のこと、結構後回しにしますよね」
包帯を巻きながら、茜がぽつりと言った。
「そうか?」
「そうですよ。私たちには無理するなって言うくせに」
「はは……耳が痛いな」
「だから、たまには私たちにも頼ってくださいね」
茜は顔を上げ、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……ああ。ありがとう、小宮山」
忠二が答えると、茜は満足そうに頷いた。
「はい、できました!」
茜が最後の端を丁寧に留め、そっと忠二の腕から手を離した。
手首から前腕にかけて、白い包帯が綺麗に巻かれている。
「……綺麗だな」
「ええっ?」
思わず漏れた一言に、茜が顔を上げた。
「いや、すごく綺麗だなって」
「そ、そうですか……?」
茜の頬が、ほんのり赤く染まる。
「課長って、たまにそういうことサラッと言いますよね……」
「ん? 何が?」
「……もう、いいです!」
茜は少し慌てた様子で救急箱の蓋を閉めた。
「と、とにかく! 今日はもう重いもの持っちゃダメですからね!」
「ああ、わかった。気をつけるよ」
「本当ですか?」
「本当だって」
「……じゃあ、信じます」
茜は救急箱を抱え、仕事へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、忠二は小さく首を傾げた。
(……何か変なこと言ったか?)
それよりも、今は目の前の光景だ。
白い包帯。
幾重にも巻かれた白い布。
(……ついに、この時が来たか)
そっと右腕を持ち上げる。
(……長かった)
脳裏に浮かぶのは、かつて憧れた数々の英雄たち。
そして、右腕に宿る禁忌の力を封じるため、包帯を巻いた孤高の戦士。
(我が右腕に眠りし禁忌の力……今宵、再び封印せん)
忠二は静かに拳を握りしめた。
ズキン。
「……っ」
傷口が痛んだ。
(……普通に痛いな)
それでも、口元が緩むのを抑えられない。
二十年越しの憧れが、思いがけない形で叶ってしまったのだ。
改めて包帯を眺める。
(小宮山……まさか、これほどの封印術を心得ていたとは)
無論、ただの包帯である。
それでも、どこか誇らしい気分になった。
(今度、何かお礼でも買っておくか)
そんなことを考えながら、忠二は再び仕事に戻った。
右腕を、いつもより少しだけ大切に扱いながら。
*
その夜。
取引先との会食を終え、忠二は一人、帰路についていた。
懸案だった業務の調整も無事にまとまり、酒も程よく回っている。明日の仕事を思えば、今日は悪くない一日だった。
ただ、会食の席で交わした何気ない会話が、ふと頭をよぎる。
「いやあ、御堂さん。うちの息子が最近、妙なものにハマってましてね」
料理も一段落し、互いのグラスが二杯目に差しかかった頃だった。
「ほう、何ですか?」
「それが、剣だの魔法だの、異世界だのって。もう高校生にもなるのに、そんなものばかりですよ」
「はは、そうですか」
「この前なんか、部屋から変な声が聞こえてきましてね。何事かと思って覗いたら、一人で必殺技の名前を叫んでるんですよ」
担当者は困ったように笑い、グラスを傾けた。
「まったく、何が楽しいんだか。そろそろ卒業してほしいもんですな」
「……なるほど」
忠二も穏やかに笑い、相槌を打った。
「御堂さんはどう思います?」
「そうですね。まあ、好きなことに夢中になれるのは、悪いことじゃないと思いますよ」
「ははは! 御堂さんは優しいですなあ」
話題はそれきり、仕事のことや最近の景気の話へと移っていった。
忠二もそれ以上、何かを言うことはなかった。
ただ、内心では少しばかり感心していた。
(……息子さん、なかなか見どころがあるな)
高校生といえば、かつての自分もそうだった。
人目を忍んで必殺技の名前を考え、誰にも見せない設定を書き溜めていた頃。
もっとも、自分の場合は少々事情が違う。
(……俺はまだ卒業していないんだがな)
思わず口元が緩む。
十四歳から始まった、誰にも知られない趣味。
社会人になり、部下を持ち、課長という肩書まで手に入れた。
それでも、あの頃に思い描いた世界は、今も頭の片隅に息づいている。
(まあ、現実は現実。空想は空想だ)
そこを取り違えるつもりはない。
ただ、誰にも迷惑をかけず、自分一人で楽しむくらいは許されてもいいだろう。
夜風が頬を撫でた。
忠二は街灯の明かりの下で立ち止まり、右腕に触れた。
昼間、小宮山が巻いてくれた白い包帯。
手首から前腕にかけて、まだ綺麗な形を保っている。
そっと右腕を持ち上げる。
街灯に照らされた白い布が、夜の闇に浮かび上がった。
(我が右腕に眠りし禁忌の力……か)
昼間の高揚が、再び胸の奥から湧き上がってくる。
取引先の息子さんは、今夜も自分の部屋で必殺技を叫んでいるのだろうか。
そんなことを考えると、なんだか少し愉快だった。
(剣と魔法が存在する世界、冒険者ギルドに勇者に魔王か……子供の頃は、いや今でも本気で憧れている)
(俺にも、あんな力があったらな……)
(……まあ、現実にそんなものがあるわけないが)
忠二は周囲を見渡した。
人影はない。
車の走り去る音が遠くに聞こえるだけで、通りには静けさが戻っていた。
右腕を軽く引き、腰のあたりに左手を添える。
そこには、もちろん何もない。
それでも忠二の脳裏には、一振りの刀が確かに存在していた。
長年、頭の中だけで繰り返してきた数々の情景。人前で口にすることのなかった言葉。
(夜の十時を越えたくらいか、なら構わないだろう)
胸中で呟き、右腕をゆっくりと掲げる。
「――儚き夜空に奉り候」
静かな路地に低い声が落ちる。
「夢如くと美しくなかれ。孤高にいざない塵と舞おう。我に求め、我を求めしものなり」
長年練り上げてきた音節を、丁寧に紡ぐ。
最後の一音を吐き出すと同時に、右手を架空の柄へ掛けた。
――一瞬の静寂。
「――《兵の夢跡》」
右手が、架空の刀を鞘へ納める。
カチン。
「…………ん?」
忠二は、その姿勢のまま固まった。
今、音がした。
もちろん、刀など持っていない。鞘もなければ、手にしているのは夜の冷たい空気だけだ。
「……いや、まさかな」
ゆっくりと右手を開き、握り直す。
何もない。
(ふっ……我が剣技も、ついに音の領域へ到達したか)
思わず口元が緩んだ。
「……なんてな」
誰もいない路地で、一人小さく笑う。
二十年間、飽きもせず繰り返してきた遊びだ。今さら何かが起こるはずもない。
忠二は軽く肩を回し、駅へ向かって歩き出した。
その途中、ふと夜空を見上げる。
「……ん?」
雲の切れ間に、白い月が浮かんでいた。
その少し離れたところに、もう一つ。
「…………」
忠二は足を止めた。
目をこする。
もう一度、見上げる。
「……月が二つあるな」
しばらく眺めていたが、やがて納得したように頷いた。
「……飲みすぎたな、俺」
明日も仕事だ。
これ以上、夜風に当たっている場合ではない。
忠二はコートの襟を直すと、何事もなかったように歩き出した。
夜空には、二つの月が静かに輝いていた。
*
翌朝。
「……んん」
枕元で鳴り続けるアラームに手を伸ばし、ゆっくりと目を開けた。
午前六時三十分。
昨夜は少々飲みすぎたはずなのに、頭は妙にすっきりしていた。
「……お?」
上体を起こし、首を回す。
肩も腰も軽い。いつもなら多少は残っている疲労感が、今朝はまるでなかった。
「珍しいこともあるもんだな」
洗面所で顔を洗い、鏡を覗く。心なしか肌の調子までいい。
「……まだまだ若いな、俺も」
満足げに頷き、リビングへ向かった。
テレビをつけ、コーヒーの準備を始める。
『続いて、昨日、新宿駅付近のダンジョンで発生した魔物の氾濫についてです』
「…………」
忠二は一瞬だけテレビに目を向けた。
画面には見慣れた新宿の街並みと、剣や杖を携えた人々の姿が映っている。
「……へえ、最近のアニメは実写みたいだな」
感心しながら湯を注ぐ。
『探索者ギルド東京支部によりますと、今回の氾濫は昨夜十一時四十分に鎮圧されました。ただし、周辺地域では引き続き警戒が呼びかけられています』
「ギルドねぇ……。新しいゲームの宣伝か?」
コーヒーを一口飲み、食卓についた。
『なお、探索者ギルド連盟は、昨夜発生した別の異常現象についても緊急声明を発表しています』
画面が切り替わり、各国の地図が並んだ。
『昨夜午後十時過ぎ、世界各地のダンジョンで、観測史上初となる魔力異常が同時に確認されました』
「……ほう」
ベーコントーストをかじりながら、耳を傾ける。
『異常は既知の魔力属性のいずれにも該当せず、一部地域では長年維持されてきた封印結界にも変化が生じています』
(未知の魔力……封印結界……)
忠二の口元がわずかに緩んだ。
(なかなか分かっているじゃないか)
『現在、各国の探索者ギルドおよび関係機関が合同で調査を進めていますが、発生原因は特定されていません』
「最近の作品は設定が凝ってるなぁ。ちょっと見てみたいかもな」
忠二はスマートフォンを手に取り、今日の予定を確認した。
午前九時から取引先との打ち合わせ。午後には部内会議もある。
いつもと変わらない一日が始まろうとしていた。
『なお、探索者ギルド連盟は今回の現象を受け、各国のダンジョン監視体制を最高警戒レベルへ引き上げると発表しました』
「……おっと、もうこんな時間か」
『繰り返しお伝えします。新宿第七ダンジョン周辺では、引き続き警戒が呼びかけられています。付近を通行される方は、十分ご注意ください』
残りのコーヒーを飲み干し、テレビを消した。
昨夜、誰もいない路地で鳴り響いた、あの小さな音。
カチン。
それが何を意味していたのか。
忠二は、その音と世界の異変が関係しているのかどうかさえ、知る由もなかった。
「さて、今日も頑張りますか」
鞄を手に取り、いつものように玄関を出る。
*
その頃、世界各地の探索者ギルドでは、緊急招集を受けた最高位の実力者たちが続々と集結していた。
観測史上初の異常。
原因不明の魔力反応。
そして、各国で同時に確認された封印結界の変化。
誰も、その発生源を突き止められずにいた。
一方、御堂忠二は今、電車に間に合うかどうかを心配していた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作を少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
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引き続き第2話は本日19時頃に投稿予定です。
End_is_Zéro_Project




