本編 ~『遠ざかっていく馬車』~
自室へ戻ると、侍女のマリナが机のそばに控えていた。
観劇へ行くはずのヴィオラが一人で戻ってきたためだろう。マリナは手にしていた布を畳みかけたまま、扉の方へ目を向ける。
「セドリック様は?」
「ノエルのそばにいらっしゃいます」
「お嬢様……」
「心配はいりません。いつものことですから」
ヴィオラの声は乱れていなかった。だからこそ、マリナは軽々しく励ますことができず、深く頭を下げる。
「すぐにお茶をお持ちします」
マリナは足音を抑えて部屋を出ていった。
扉が閉まると、部屋には窓の外から届く馬の嘶きだけが残る。ロックウェル公爵家の馬車は、まだ玄関前に停まっているらしい。
セドリックがノエルを慰めているのか、それとも二人で出かける支度をしているのかは定かではないが、どちらにしても、確かめる気にはならなかった。
意識から遠ざけるようにヴィオラは視線を机に移す。そこで、書類の端に重なるように置かれた一通の手紙が目に入った。
数日前、書棚を整理した際に取り分けておいたものだ。すぐに片づける気になれず、机の端へ置いたままになっていた。
「グランヴィル辺境伯のアレクシス様……」
国境に近い領地を治め、荒れた街道を整え、魔獣の被害が出れば自ら兵を率いる。令嬢たちに甘い言葉を囁く男ではなかったが、領地経営と実務に優れた人物として名は知られていた。
その彼から、ヴィオラに縁談が届いたことがある。
まだ、セドリックとの婚約が続くと信じていた頃の話だ。当時のヴィオラには、セドリックという婚約者がいたため受けることはできないと、返事を書いたのを覚えている。
前世の結婚相談所での仕事も、断り方は大切だった。
縁がなかった相手だからといって、雑に扱っていいわけではない。断られる側にも尊厳がある。相手の気持ちを傷つけず、それでも曖昧な期待を残さない。結婚を扱う仕事では、そこまで含めて礼儀だった。
この世界に生まれ変わっても、その考えは変わっていない。
(丁寧にお断りしたからでしょうか。後日、感謝のお手紙をいただいたのですよね)
グランヴィル辺境伯家から届いた返書には、配慮への礼が添えられていた。
断られた側でありながら、こちらの立場を汲み、礼を尽くして引く。その文面から、アレクシスという人の器が少しだけ見えた気がした。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「入ってください」
マリナが茶器を載せた盆を手に、部屋へ入ってくる。その時、机の上の手紙に気づき、わずかに目を見開いた。
「グランヴィル辺境伯家からのお手紙ですね」
「ええ。片づけようと思っていたのですが、机に出したままにしていました」
今さら、この手紙に何かを期待しているわけではない。アレクシスとの縁談は、すでに丁重に断っている。相手も礼を尽くして引いてくれた。それで終わった話のはずだ。
それでも、今日のような日に目に入ると、否応なく比べてしまう。
「マリナ、半年前の夜会を覚えていますか? アレクシス様が王都へいらしていた時のことです」
「国境警備の功績を称える夜会でございますね」
「その時、セドリック様がアレクシス様へ祝いの品を贈りました」
マリナは茶器を並べる手を止めた。
「あの銀の短剣でございますか……」
「覚えていたのですね」
「お嬢様が、職人まで指定しておられましたから」
半年前の夜会で、セドリックはロックウェル公爵家の名代として、アレクシスに銀の短剣を贈った。
だが、その品を選んだのはセドリックではない。
最初に彼が用意しようとしていたのは、黄金の虎をかたどった置物だった。王都の流行には合っている。華やかな場で目を引き、贈り主の財力も示せる品だ。
けれど、国境を守る辺境伯に贈るには、あまりに飾りが派手過ぎた。
だからヴィオラは、品を改めるよう勧めた。
グランヴィル辺境伯領で産出される鉱石を組み合わせた、銀の短剣。儀礼用でありながら、武人の手にあっても浮かない。飾るためだけの品ではなく、相手の領地と立場に敬意を示せる贈り物だった。
アレクシスは短剣を受け取ると、まず刃の意匠を確かめるように目を落とした。そして、柄に刻まれた模様を見た瞬間、口元に笑みが広がった。
すぐに表情を整えようとしたのだろう。けれど、目元に残った喜びまでは隠せていなかった。武人らしい硬い顔つきが、その時だけほどけていた。
ヴィオラはそれを見て、この品を選んでよかったのだと知った。
だが次の瞬間、アレクシスの視線はセドリックではなく、ヴィオラへ向いた。
礼を述べる相手は、贈り主であるセドリックのはずだった。それでも彼の目は、品物の奥にいる誰かを確かめるように、まっすぐヴィオラを捉えていた。
セドリックは、その視線に気づかない。周囲から「さすがは公爵家のご嫡男だ」と称賛され、満足げに胸を張っていたからだ。
(あの称賛を、セドリック様はご自分だけのものだと思っていたのでしょうね……)
セドリックの評価は、彼一人で築いたものではない。
夜会へ出る前、ヴィオラが招待客の顔ぶれを確認し、どの家と親しくすべきか。最近どの令嬢が婚約したか、誰の父が昇進し、誰の兄が遠征から戻ったか。話題を事前にセドリックに提供していたのだ。
贈答品も同じだ。
相手の領地で何が好まれるか。家紋に使われる意匠は何か。派手な宝石を喜ぶ家もあれば、実用に耐える品を重んじる家もある。
前世の結婚相談所でも、贈り物は金額より相手への理解が問われた。高価な品であっても、相手の暮らしや好みに合わなければ、自己満足で終わる。
この世界でも、それは変わらない。
けれど、セドリックはそうした細かな配慮を苦手としていた。誰に何を贈ればよいのか。どの場で、どの話題を選べばよいのか。そこまで目を向ける前に、彼は根拠のない自信に従うだけだった。
だからヴィオラが支えてきたのだ。
話題を選び、贈り物を改め、ノエルが喜ぶ花や菓子まで助言した。そうしてセドリックは、気配りのできる優良な公爵家嫡男として評判を得た。
そして、その評判はノエルのような令嬢たちを彼のもとへ集めてしまった。
ヴィオラは机の上の手紙から視線を外し、窓の方へ目を向ける。
ロックウェル公爵家の馬車が、ようやく玄関前を離れていく。車輪の音は遠ざかっていくのに、胸の奥に残ったものまでは消えなかった。
セドリックとの婚約を、この場で終わらせることはできない。家同士の約束であり、感情ひとつで破棄できるものではないからだ。
けれど、これまでと同じように支え続けることも、もうできない。形だけの婚約になるかもしれないと覚悟を抱きながら、ヴィオラは茶器に手を伸ばすのだった。




