プロローグ ~『婚約破棄と妹優先』~
「また妹を優先するのですね……」
アステリアス伯爵家の玄関ホールに、ヴィオラの声が響く。
ひと月前から婚約者セドリックと観劇を約束していた。だが目の前の男は、すでにヴィオラではなく、傍で涙ぐむノエルへと意識を向けている。
「ヴィオラ、そんな言い方をしないでくれ」
ロックウェル公爵家の嫡男セドリックは、形ばかりの困り顔を浮かべている。
彼の隣で、ヴィオラの双子の妹ノエルが白いハンカチを握りしめている。ヴィオラと同じ黄金の髪と青い瞳を持つが、潤んだ目元や震える唇は、ノエルだけが上手に使いこなしていた。
「ごめんなさい、お姉様。私、邪魔をするつもりなんてありませんの。ただ少し体調が優れなくて……」
「ノエルは悪くない」
セドリックはすぐにノエルをかばう。
その反応の早さに、ヴィオラは扇を持つ指に力を込める。これが初めてなら、胸も痛んだかもしれない。だが、同じ場面を何度も繰り返せば、人の心は傷つく前に状況を冷静に俯瞰するようになる。
予約していたレストランの食事も、庭園での散策も、ノエルの涙ひとつで何度も後回しにされてきた。
そのたびにセドリックは同じ言葉を繰り返した。
「君はノエルの姉なのだから、我慢できるだろう?」
そして今日も、彼は当然のようにその言葉を口にした。
(前世の日本のように自由恋愛が許されているなら、セドリック様を選んだりはしなかったのですが……)
ヴィオラには、前世の記憶がある。
日本という国で生まれ、結婚相談所のカウンセラーとして働いていた記憶だ。
入会者の希望条件を聞き、異性との相性を見極め、交際中の悩みを聞きながら、成婚まで伴走する。
年収、家柄、学歴、容姿。条件だけを並べれば立派に見える相手でも、実際に向き合ってみれば結婚に向かない人間はいくらでもいた。
約束を軽く扱う人。
身近な相手にだけ我慢を求める人。
自分の優しさに酔い、隣にいる婚約者の気持ちを見ようとしない人。
セドリックは、そのすべてに当てはまっていた。
「ヴィオラ、聞いているのか?」
セドリックの声に、ヴィオラは視線を戻す。
彼は眉を寄せている。困っているように見せているが、その目には謝罪よりも不満が強い。どうしていつものように頷かないのか。そんな疑問が、整った顔に滲んでいた。
「聞いております」
「なら分かるだろう。ノエルは体が弱い。君とは違うんだ」
ノエルが胸元でハンカチを握り直す。
「お姉様、私、本当に大丈夫ですわ。セドリック様と観劇へ行ってくださいませ。少し目眩がするだけですもの」
「そんな状態の君を置いていけるわけがない!」
セドリックは即座に言い、ノエルの肩へ手を添えた。
ヴィオラはその手から溢れた感情を読み取る。
本来なら婚約者であるヴィオラに与えられるべき優しさが、今、妹へ向けられていた。そこに理不尽さを感じずにはいられなかった。
「セドリック様……今日の観劇は、ひと月前からのお約束でした」
「だから悪いと思っている。埋め合わせはするつもりだ」
「先月のレストランの時も、そうおっしゃいました」
セドリックの顔がわずかに固まる。
「庭園での散策の時も。馬車での遠出の時も。ノエルが不安がるたび、あなたは私との約束を後回しになさいました」
「それは……状況が違うだろう。ノエルがつらそうにしているのに、放っておけというのか?」
「そうは申し上げておりません」
ヴィオラは扇を閉じた。ぱちりと鳴る音に、ノエルの肩が揺れる。
「ただ、婚約者との約束を破ることを、当然のように扱わないでいただきたいのです」
「当然になどしていない」
「では、なぜ毎回、私が我慢する前提でお話しなさるのですか?」
セドリックは言葉に詰まった。
玄関ホールには、外で待つ馬の嘶きが届いている。使用人たちは壁際に控えたまま、視線を上げようとしない。誰も口を挟めない空気の中で、セドリックは微笑む。
「ヴィオラ。君はもっと物分かりがいいはずだ。ノエルの姉として、いつも彼女を気遣っていただろう」
「ええ。だから今まで譲ってまいりました」
「なら今回も大人しく従えばいい」
その言葉に、ヴィオラの指先から力が抜ける。
怒りが消えたわけではない。むしろ、これ以上言葉を重ねる意味がないと分かっただけだった。
前世の日本で、結婚相談所のカウンセラーをしていた頃にも、こういう人はいた。最初は優しげに話す。分かってほしい、君なら受け止めてくれるはずだと、相手の良心にすがる。
話し合いをしているようで、最初から結論は決まっている。これは求めているのが理解ではなく、服従だからだ。
(対話を重ねて何とかなる相手ではありませんね)
ヴィオラは扇を胸元で重ね、セドリックを正面から見た。
「分かりました」
その一言に、セドリックの眉間がほどける。
「ようやく分かってくれたか」
「はい。セドリック様が、私との約束よりノエルを選ばれることは、よく分かりました」
「ヴィオラ、そういう言い方は――」
「ノエルと好きなだけお過ごしください」
ヴィオラが重ねた言葉で、ノエルの瞳が揺れる。セドリックは何か言い返そうと口を開いたが、ヴィオラはもうその反応を待たなかった。
「私はもう、あなたに期待することをやめます」
「……何だって?」
「そのままの意味です。本日の観劇は中止にいたします。私は部屋に戻りますので、どうぞ気の済むまでノエルをお慰めください」
「待て、ヴィオラ。話は終わっていない!」
「いいえ。少なくとも、私から申し上げることは終わりました」
ヴィオラは軽く一礼し、玄関ホールの中央から身を引いた。
これまでなら、セドリックの機嫌を損ねない言葉を探していた。ノエルが傷つかないように振る舞い、姉としての顔を整えていた。
けれど、もういい。
約束を破られるたびに、自分の気持ちを抑える必要はない。
「ヴィオラ!」
背後からセドリックの声が飛ぶが、ヴィオラは振り返らなかった。
階段へ向かう足音だけが、広い玄関ホールに響くのだった。




