13
13.
マルクの空は重々しく曇っている。雪が降るのにはまだ一、二か月早いのに空気はすでに研ぎ澄まされてまるで紙で指先を切ったかのようだが手先がかじかんでいないのを見ると思うほど寒くはないらしい。マドヤは秋の風に身震いしながらコートの襟もとを首に寄せた。
「冷えるね」レポツが隣に並ぶ。後列から「横入りすんな!」と、怒声のような茶々を入れているだけのような、曖昧な声が飛ぶのは今マドヤは教会で行われる炊き出し、食料配給の列に並び待っているからだ。
マドヤは路上生活者となってもう一年になる。その間の、身の振り方、とでも言うべき処世術は先輩路上生活者であるところのレポツに学んだ。保温性の高い寝起きする場所の作り方、何とかその日を暮らすための賃金の得方、炊き出し等食料を無料で食べられる場所、その他諸々の、路上生活の勘所のようなものを教わった。思うに一年はあっという間だった。人間の生活が、どれほど自動的であるかを学んだ気もする。寝て、起きて、食べて、排泄して、また寝て、という行為を人間は実に無自覚に繰り返しているのだなと思う。それが生存本能というものなのかもしれない。
「今日は特に冷えるね」とマドヤは返す。
「あれだ、あれ。ほら、あれだ」宙を見て目を細めるレポツが何を言いたいのかは分からない。この齢七十の老人はたくましいようで頼りなく、頼りないようで意外にしたたかであったりするのだが、寄る年波には勝てないのか名詞が出てこないことも多い。
「北風かい?」と言うと
「ああー」とレポツは曖昧に、目を瞑りそうなぐらい細めて頷く。「北風、北風」
「レーウ?」と添えるように言うと
「レーウだ! レーウ、レーウ」と得心がいったように繰り返してレポツは、「もうそんなもんが吹く季節になっちまったんだな」頭が地面から糸で引かれているように、二度、深く頷いて、「もうすぐ冬だな」と呟く。
炊き出しの列が、一歩また一歩と前進する。その一列にレポツが横から一つこぶのように突出しているのだが、レポツは並び直す様子でないし周りも一列縦隊を守らせる気はそれほどないらしい、なんだかんだでレポツはマドヤの隣に立ち、一緒に進む。なので、特別後ろめたさも感じずに話しかける。新しく増えた路上生活者の話、くたばった路上生活者の話、マドヤたちを路上に追いやった、憎きボンダミ人たちに対する呪詛。
「ったく」舌打ちしてレポツはその乱杭歯から臭い息を吐く。「ボンダミ人なんか、大人しく国で放牧でもしてりゃいいんだよ。羊や牛のうんこにまみれてさ、へへ、オレたちなんかよりうんと臭くなって、糞まみれで労働してろよ、なあ?」
「……うん」
「あいつらの食う飯なんて、あいつら、牛の糞食ってんじゃねえか? オレから職を奪ったボンダミ人なんて、臭え臭え、息が臭くってしょうがなかったんだぜ、職場の奴らみんなそう言ってたよ」
ちょうど今あなたの息がそうであるように。とは言わない。「ほんと?」と、冗談めかして応える。
「すごかったんだぜ、お前にもかがせてやりたかったよ、糞だよありゃ、糞だ」
乱杭歯、乱れた歯並びとはどうしてこうも美しくないのだろう、恩師であるレポツであるがその前歯の一本失われた笑顔をこちらに向けられると胸の底からむかつきが競り上がってくる。話す内容も内容だ、たしかに安い賃金でマドヤから職を奪う形になったボンダミ人は許し難い、奴さえ来なければオレは温かい家で安住していられた、裕福ではないが所謂人並みの生活は送れていたに違いない、……この不愉快な口元の人とこんな風に親しげに喋ることもなかっただろう、それを思うとボンダミ人は実に不快であるがしかし節度とでも言おうか、人間の最低限の礼節としてレポツの言い分はおかしいと思う。死ねばいいのに、と思ったことはあるが、糞を食ってるなんて下品なことを考えたことは一度たりともない。と考え、死ねばいいのに、という考えのほうが過激であるような気がして、それは許されるのに糞を食ってるというのがだめだなんて、おかしな話だなと思う。やはり貞節、節度の問題なんだろうか。
レポツの罵詈雑言を、少しの軽蔑と共に聞くうちにマドヤの番が来た。「こんにちは」と言って、アカバが笑顔で汁物を差し出す。それを受け取る。すぐ横ではこの教会の神父たるハズタが手ずからレポツに汁物の入ったお椀を渡していた。渡すんだ、と思った。
アカバと最近の体調についてやり取りし、「じゃ、また会いましょう」と言われ自分のお喋り時間の終わりを暗に示され、一抹の寂しさと共に列の左へとはける。それと同調するようにレポツも左にはけ、この老人はまだ喋り足りないのだろうな、と知りこちらから世間話を、もっと楽しい話を振る。あそこの路上で物乞いすると、時折気紛れ紳士が現れ、高価な硬貨を供出してくれる。北のはずれのマルクより王都オウラに移動したほうが棄民は棄民なれどより裕福な暮らしができる。気候も少しは穏やかだろう。もし本気で目指すのであれば街道を南に向かうべし。
などと話している時だった。急に漂ってきた悪臭が汁物のかぐわしい香りを塗り潰し、マドヤたちの前に立ちはだかる。頭髪も髭も短く切り揃えた風貌は清潔そうだがここ一年は変わりない衣服では悪臭もむべなるかな、コモソが目の前に立っていた。
「よう。何の話してたんだ?」
やはり手元に汁椀を持ち、汁物を少しばかり食べた様子のコモソが尋ねる。レポツが一度マドヤの顔を窺ったような気配がしたが定かではない、別にオレに気を遣う必要も、というより気を遣う何か、例えばコモソが嫌いだとか、そんなことはないのにな、と感じながらマドヤは「こんにちは」と気さくに話しかける。「ちょっとね、王都オウラの生活についてね」
「何? オウラ行くのかい?」コモソが目を見開く。
「違うよあんた」とレポツが、乱杭歯をあらわに笑う。「そんな所、行けるわけがないだろ。途中で野垂れ死ぬに決まってらあ」
「やってみなくちゃ分からん」コモソは大真面目な顔つきで言う。
「食料を確保できる場と、これからの季節、暖を取れる紙類を持って行く必要があるね。寝る場所の話さ」
言うとレポツは「安心して寝れる場所じゃないとな!」と、また大いに笑う。面白くもなんともない話だが、路上生活者は時に肝試しの青少年に夜、寝ているところを襲われたりする。そのことを考えると叙述不能の侮辱を与えられたような気がするから、人間は敢えて笑い飛ばすことで自分は傷ついていない、屈辱を感じていない、そんな出来事屁でもない、と胸を張らざるを得ないのだろう。でないと、自らをとてつもなく惨めに感じるのだ。
「何にせよ、王都で棄民をやってたほうが、生活水準は高いに違いない」コモソは自分の言葉に自分で得心がいったように腕組みして深々頷く。「案外悪くない考えだな」
「でも、分かんないぜ」レポツが汁物を一口啜り、少しほっとした顔で語る。「オウラは治安悪いって言うし。夜中に一人で出歩くと危ない場所もあるらしい。油断したら強盗に遭って殺されちまうんだってよ」
「それは、お金持ちの話であって、オレたちにゃ関係ないよ、たぶん」マドヤが言うとコモソも「だな」と頷き、「ま、マルクに留まれば留まったで、今度は寒さに殺されるかもしれないからな」と細めた目元には細かい皺が走っている。
はあ、と一同ため息をつく。ため息をついて、各々、暗示を受けたかのように自然と汁物に口を付ける。体が温まり、ふぅっと吹いた冷たい風にも震えない。
「ガリバス兵に志願すれば、毎日温かい汁物に安心の寝床にありつけるのかねえ」
特に何の意識もなく、そう口にしていた。
ぎょっと、とまではいかないがレポツもコモソも渋面で、マドヤの考えに賛同するつもりのないことは一目瞭然で、しかし、「それも一つの生き方かもな」と言ってみる。レポツもコモソもやはり硬い表情だ。
アカバとハズタの励ましが遠くに聞こえ、対して気味の悪い沈黙を維持していた二人の、レポツのほうが口を開いた。「こんな暮らしでも、戦争行って、誰かお偉いさんの代わりに死ななきゃならねえって思ったら、まだましなのかななんて思うね、オレは」
「この社会の底辺で辛酸舐めさせられて、その上死んで来いなんて言われたら、オレは逃げるね」コモソが肩を竦めてみせ、視線も下がる。断言に近い。
「でも……人並みには、なれるかもしれない」
言っても、二人には手で押さえた音叉のごとくまるで響かない。余計に表情が険しくなるだけだ。
と、唐突に明るい調子になり、「ま、七十の爺が兵隊なんて、無理だからな!」とレポツが、少し前までと同じ調子で笑う。
「スヴェミ挟んでミール。ロンダリがいかに危険な国だろうと戦場になるのはガリバスだけ、あるいは戦線が拡大してもスヴェミ国境付近までだろうって書いてあった」コモソが言う。
「何に?」とレポツ。
「新聞だよ。拾った新聞」とコモソは肩を竦め、今度は柔らかい表情だ。「ミールの平和は安泰だって、書いてあった」
「そりゃ兵隊行かない理由にゃならないよ!」レポツが楽しげにコモソを小突く。「あんた、たしか五十歳かそこらだろ? まだまだ戦える」
「もう五十八だよ。オレは祖国でない国のために銃を手に突撃して、で射殺だか爆死するなんて、そんな頭おかしい真似できるのはボンダミ人ぐらいだよ」
あはははは、と二人は哄笑し、その感覚は理解できるのでマドヤも一緒に笑う。ひとしきり笑って、また次の話題が立ち現れ、レポツとコモソで盛り上がる間にマドヤは汁物を口に運ぶ。存外、冷めていた。




