血の舞踏
三章 蛮族の森
中天では、明るくなめらかな一面の青空に刷毛で描いたような雲の白が映えている。それらを幾度かくぐった陽は、もう傾いて、新たな色を低い空に与えようとしていた。
長かった話の後に、沈黙が残っている。
アルエは通り過ぎた回想に伴う感情をひとつひとつまた辿るように、コフトが草を踏む音に耳を澄ませていた。
ミグもまた黙っていた。二人は同じ間隔で、コフトの背に揺られている。
アルエは再現される感覚の強さに、思わず脚に力が入っているようだった。
とその時、緩い丘を登りきったところで、ミグが声を上げる。
「あ、森が見えました」
アルエはしっかりと上体をねじり、その森の姿を視界に入れた。
その森は、山の斜面に従って登っていくことはなく、ただその麓に、まるで山を陸地に見立てる海のように、低い場所だけに広がっていた。
「これは……人の手が入っている。しかも、意図的な形だよ」
「街から見えないように、でしょうか」
先に言われてしまったアルエは少し、睫毛を伏せた。
「……たぶんね。それか単に引っ込み思案なのかな」
そしてまた後ろ向きに戻り、そこで、アルエは眼を見張った。ぴんと身体を硬直させ、遠い一点に意識を集中する。
「本当に、蛮族の住んでいる森だとしたら……すごい発見です」
「いや、嫌な発見だ――武器を持ってる。追っ手だ」
振り返るミグを鞍上に残し、アルエは言うが早いか鞍上から飛び降りていた。
「急いで森へ行って、そこにソシェウがいれば何とかなるはずだから」
「そんな、だめです――」
「単騎か。バゥも……乗っている人間もどちらも大きくない――それにしても、この気配は……こんな、人間は……」
背を向けるアルエに、ミグは遠慮がちに声をかける。
「魔女さん、一緒に逃げましょう」
「逃げ切れないよ、コフトが疲れてる」
アルエは素早く振り返り、コフトの身体を押した。
「先に行ってて、ソシェウのところへ」
それがおまじないであるかのように、アルエは師の名前だけは穏やかに発声した。ミグはその場に留まろうと手綱を引いていたが、コフトはアルエに従った。走りたそうに無理に前へと数歩進み、そこでミグも諦めて視線を森の方へ切った。
「では、森で待っていますから」
走り去って行く姿を見送りながら、アルエは、
「その速さなら……充分」
とあまり余裕のない表情でつぶやき、森と反対方向へ、丘を駆け降り始めた。
「コフトより、私の方が疲れてるかな――」
と、立ち止まる。
「――まさか、こっちに気づいた?」
アルエは震えた息を長く吐き、いっぱいに開いていた目を無理矢理に閉じた。辺りの砂粒がさざめく。
「信じられない……。そんな、魔力を……?」
諦めるような吐息とともに、アルエは遠い地平を見上げた。皿のように緩やかな曲面の地形を挟み、両者が、互いの姿をその視界に認め合った。
バゥが歩行へと変えて、ゆっくりとアルエへ向かっていく。
その背に乗る人物は、先端が地面に届きそうなほど長く、わずかに湾曲した槍を片手で持っている。黒く塗られた、剣と見紛うほどに大振りの尖刃が、その先端で光を反射させた。
バゥの皮と羽根で荒く作られた衣服とも呼べないようなものをまとった、異様な格好の騎乗者。露出した四肢にはどこにも細やかな模様がある。髪は長く、後ろで束ねられており、羽飾りが頭部から四方に伸びていた。
くちばしで作られた仮面の奥で、かすかに唇が動く。
「まじょ……ころします」
距離に関わらずその声が届くことを知っているかのような、確かな意思が込められた、小さくも強い宣言だった。
アルエは、相手が踏んでいく近辺に意識を集め、その声を、至近で起きたかように聴いた。
肩から力を抜き、張りつめた声を零す。
「若い、女の子か。おかしな事だ。魔女には、あんなに野性味溢れる流派があったのか」
バゥが走り出した。その装具もまた、文明圏には未知のつくり――軽量かつ簡素で、鐙の位置が高く、騎乗者は鞍の上にしゃがむような姿勢になる。が、今その襲撃者は、腰を上げ前傾した体勢で、器用に短い手綱を操っている。
そしてもはや声を発することはなく、仮面の向こうには真っ直ぐな瞳と、深く長い息づかいがあるだけだった。
「彼女、話すのは苦手そうだな……色々と訊きたいけど、闘うしかないのか」
アルエは、透明な瓶を取り出し、地面に落として、その横腹を軽く踏んだ。
すると鋭い高音を残してあっけなく破裂し、中の水と共にガラスの細かい破片が散った。
「まあ少なくとも、ここで止めないと……」
水を吸った砂地が色濃く染まり、それが楕円に広がる。アルエは無事だったコルク栓をそこに倒し、改めてその上から、もろともに強く踏む。すると、そこから軋むような音が起こり始めた。それは、砂とガラス片とが凝集、圧縮されていくことで生まれている音だった。
アルエは目を閉じ、なおもその密度を高めていく。足下に踏むその有色無色の砂礫の塊で、鉄の刃に耐え得るために。
その代償にアルエの呼吸は、短く、早くなっていく。
「命懸け、か……」
バゥの進行する目先の地面が、薄い表層の下に空洞を蓄えた。それは完全な精度で隠されている落とし穴だった。しかし、わずかにバゥの一足の満たす広さ、歩調を乱す程度しか効果の望めない浅さ――短い時間では、そして今の状態では、これが限度だった。
「賭けてみよう」
吐息に混じるささやきが、長い一瞬の始まりを告げた。バゥの右足がそこを踏みしめ、身体は前へ進み、自重を預けていく、そして左足を前へ蹴り出す時、ついに陥没が起きた。
バゥの姿ががくりと沈む。予期せぬ地面の上昇に、左足が刺さるように打ち降ろされ、つんのめる。前へ傾く――接近する隙は充分。
アルエは足を後ろに蹴り上げて、出来たばかりのコルク付きの石を、背中に隠した宙に放ち、それを手袋で掴む。その複雑な動きに繋げるように、敵へ向かって駆け出そうとしたが、そこで敵そのものへの注意が足りなかったことを知る。
騎乗者は、アルエからまだ一度も目を逸らしていなかった。
前傾し沈んだバゥの身体に引きこまれることはなく、鞍に片手を突き、彼女はそこから跳躍するつもりのようだった。即時的とは思えない、素早くそして合理的な判断だった。
「くっ、気づいて……!」
アルエは身体を折って前進しかけた勢いを止め、正面からの敵の飛来に備えた。
落とし穴が裏目に出た形である――バゥから降りる機会を与えず懐に潜り込み、あわよくば、手綱を切った上で鞍と衣服を癒着させ自由を奪うつもりだったが、敵にはそれを降りるきっかけへと転じる運動能力があった。
バゥから離れられてしまえば、もうその槍の先端を躱すのは難しいと、アルエは師の振るう斧槍で身をもって知り抜いていた。
実力差があるのならともかく、その槍の長い柄は、泥を塗ったように黒く染まっている――血の痕だ。練度が高く、腕力もあるなら、前後左右、どの方向に逃れようと、その移動よりも速い速度で穂先が追いつき、接触してしまう。
敵の跳躍を見る。両腕の異様な逞しさと、しゃがみこむようにして力を蓄えるその脚に表れた隆起は、アルエにさらなる確信を促した。
魔力――生体操作を使役している。
脚力の解放により、それまで前向きに走っていたバゥが後転した。
強襲者は矢のごとき速さで飛び、アルエは、横へ跳んでいた。
避けきれない、それでも、真正面から長槍の刺突を受ける選択肢はなかった。石の強度がそれを許すとは限らず、それ以前に、もし受け損ねれば致命傷は免れない。衣服の硬化はあくまで衣服としての硬化であり、鎧などに及ぶべくもない。
敵は長槍の構えを貫くためのものから、振りかぶり、風を裂く音をまとった斬撃へ変えた。最後に片足を突き立て、さらなる速度と威力を加える。
刃はアルエの腹部を両断するべく一閃し、火花を散らした。石で受け流すことに成功したアルエは、しかし大きく体勢を崩された。両足が地面から離れ、マントが敵へ向けて花を咲かせたように開く。その中央に高速で旋転するアルエの上半身があった。
着地すると同時に追撃を受ける。がその攻撃は幸い、刺さった地面から引き抜き様に放たれた、精彩を欠いたものだった。
アルエは肩口で刃を止め、その瞬間に後ろへ飛び退いた。
距離を取り、悩ましい表情をつくる。アルエが策を探している間にも、敵は容赦なく攻撃を加えていった。
素早く、そして重い刺突を幾度となく受けるうちに、一撃ごとに石は削り取られ、アルエは足下がおぼつかなくなってく。呼吸も明らかに乱れ、疲労がありありと表われていた。
これ以上長期戦になれば――。アルエは、焦りに思考を支配されていった。
「はあっ……はあ……はあ…………頭が……熱い…………重い……」
石の一角が大きく削がれた。そのことをアルエは、破片が遠くに落ちたのを聞いてようやく気づく。
死の足音――衝突音の均一な繰り返し。
微小なガラス片が飛び、アルエの右瞼に刺さった。
やがて、そこから流れた血液がアルエの視界を赤くした。
細い線で繋がっている意識が、敵のいっそう深い踏み込みをを捉え、そして、予期する。その切っ先の狙い――今は腰部を向いているが――眼が語っているのは、心臓。
フェイントにあえて乗り、敵の思わく通りであることを装う。命懸けの詐術だった。
そして刃が心臓を刺し貫かんと、素早く――柄を回転させることで瞬時に移動し、その先でコルクに捕まった。
その一瞬間の捕縛の隙に、アルエは敵へと向かって進む。
コルクから刃が外れ、アルエの左肩を貫いた直後に、ついにその槍を蹴り上げた。
足が触れた一拍の後に、柄が盛大に砕け、木の粉と繊維が舞った。
敵は手に残った柄の残骸を即座に投げ捨て、腰の後部から両刃のナイフを抜いた。
アルエは後方へ飛び退って、肩に刺さったままの刃を引き抜いていた。石と刃物を、それぞれ両腕が重そうにぶら下げている。
「うぅぅぅぁぁぁぁぁああああ!」
不意の甲高い振動が、アルエの耳朶を打つ。敵が繰り出す刃を、一度、二度と弾いていく。
アルエはマントの前部を膨らませ、刃を簡単には胴へ到達させないようにした。
敵が一歩引き、足の指で掴んだ砂をアルエの顔めがけて蹴り飛ばした。アルエは、赤かったその視界から色彩が失せたのは、そのせいだと錯覚する。
魂が抜け落ちたかのように、そこからアルエの表情に一切の張力が働かなくなっていた。
自らの弾む息の音が拡大され、それを意識から切り離す。
視界では必要のない部分からは光さえも消えていき、敵の刃の軌道だけが膨張し、浮かび上がる。
攻撃を受ける回数は、そう多く積み重ならない。
アルエは石と刃とを無造作に胸の前で素早く交差させ、そこに挟まれた短刀は、音高く鳴き、折れた。
回転しつつ宙を通過した刃の薄片は、砂地に突き立ち、すぐに倒れる。それに構うことなく、敵は素手と素足による殴打でアルエに挑み掛かっていった。
それは自殺行為でしかなく、あまりに不可解な判断だった。しかし、アルエもまた正常な判断力を失っているらしく、その攻撃を当然のように受け続ける。
一見して、アルエの方がずっとその衰弱ぶりは深刻だった。だがそれも、わずかな時間を経た後、完全に逆転した。
敵は、過度の力を出し続けたことにより筋肉が壊れきって、引きずるような散漫な動作しか出来なくなっていた。
細かな血飛沫が模様の上にまぶされ、折れた脛を庇うように片膝を地面に突いている。 それは、痛覚のある人間には不可能な事だった。
両の拳を振り回し、アルエはそれを石あるいは刃で受ける。
鈍い音が、何度も繰り返される。
拳は不自然に歪み、原型を留めていない。その、もう柔らかい衝撃に押されるようにして、アルエは一歩後退した。
そこで敵の攻撃が届かなくなったことを、そして、敵がうつぶせに倒れ、なおも這って距離を詰めようとしているのを、ようやく覚醒した眼で見つめた。
アルエは、今度は自発的に足を後ろへやった。その呼吸には振動が加わっていき、それが彼女の全身に恐怖を行き渡らせる役を担った。
「いっ……!」
その時、足に鋭い痛みが走り、アルエは尻餅をついた。刃を踏んでしまい、足の裏を切ってしまっていた。
敵は好機とばかりに動きを早めたようだが、進行速度はほとんど変わらない。その異様にひたむきな努力が、アルエの恐怖心を煽る。
地面を蹴って逃れ、手袋から武器を放った。それでも身体はまだ重く、絡み付くような殺気がアルエをなかなか立たせなかった。
敵の手はもう、アルエが踏んだ刃を拾い上げることも出来なくなっていた。
それでも掴もうとする度に、粘性の高いものを混ぜるようなかすかな音と、少量の赤い泡が、深い傷口から漏れ出していた。
アルエは残る力を振り絞り、身体を引き剥がすとその場から駆け出した。
森を改めて見つけ、そこに安らぎと救いがあるかのように安堵のため息をつき、真っ直ぐに向かった。
途中、何度となく息が切れ、速度を緩めることがあっても、決して後ろは振り返らなかった。それは見ずとも後ろの様子がわかるからではない。今アルエは一切の魔力を発揮できずにいた。
半ば、思考を空白にするために走っていた。限界を過ぎた身体の悲鳴が、今はありがたかった。アルエは森の一点を見つめ、そこへ向かう一念のみで意識を保っていた。
「はっ――はあ――は――――はっ――」
一足ごとに砂が散り、マントの裾を流れる。もう焦点の合わない目が、アルエに森との距離を濁して伝えたのは僥倖だった。その遠さがアルエの意志を挫くことはなく、無心で、ただひたすらに森へ向かって歩を重ねていった。




