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魔女の翼  作者: コスミ
3/12

幼い揚力


 ……じりじりと、凶器の届く範囲がアルエの鼻先に迫っていく。その動きの他は、全てが止まっていた。

 そして、息を合わせ、男二人が同時に地面を強く蹴る。

 蹴って、しかし跳べなかった。

 その四つの靴の裏は、どういうわけか地面とくっついたかのように離れなかった。男二人の身体は伸びきったまま、前へ進むはずの勢いを使って弧を描き、強制的に衝突へと向かわされた。辛うじて顔を庇った肘や掌が、血を凍らせるような恐ろしい速度で地面を打つ。がしかし、その骨と肉の音は、

「教えないけど……見せてあげる」

 そのアルエのささやきとともに、バゥの絶叫に隠されてしまった。

 あまりの大音響に、まるで空気が沸き立つようだった。その場にいる全員を飲み込み、突き刺さる音の突風。その始まりと同時に、バゥは焼きごてを押しあてられたかのように跳びあがり、そして、その身体を拘束していたあらゆる綱や装具は、弾けるように断ち切られていた。

 鳴き止めも荷車も、そして主人を乗せた鞍も、人間にまつわる全てをその場へ置き去りにして、バゥが突発的に駆け出す。

 後ろへ一歩だけ飛び退いていたアルエは、正面から突貫してくる巨鳥を半身でかわしつつ目を開く。その視界の中には、俯せに地面に伏した男二人と、鞍に座り鐙に足を掛けたまま落ちていくロディの姿があった。

 彼は咄嗟に手綱を引いた姿勢で、その手綱の先——宙でふらつく真っ二つとなった鳴き止めを驚愕の表情で凝視している。短い落下の間では、それ以外にできることは何も無かった。地面には足から着いたが、到底立っていられない。ほとんど墜落と呼べそうなその着地とほぼ同時、バゥの支えを失った荷車が前のめりにガタンと傾いて、大人しく乗っていた三人と荷物を慌てさせた。中でも一番前方に居たミグは危うく落ちてしまいそうになったが、目の前で尻餅をついたロディの背中に頭を押し当てる格好でなんとか止まり落下は免れる。

 ミグは兄へ礼と謝罪の短い言葉をかけ、体勢を直した。顔を上げると、ロディが片肘をついた姿勢で固まっている様子が目に入る。

 ロディは、ややあって首から上を鳥類のように素早く動かし始めた。最初は自身を見下ろし各部をくまなく確かめ、その次は、前方で俯せに倒れている二人の男を交互に、逼迫した眼差しで射抜く――二頭の猛獣と出くわしたが、それでもまだ生き延びることを諦めきれない人間のように。

 彼ら二人の体勢は、倒れた瞬間から一切変っていなかった。がそれは、全く動かなくなったわけではなく、どうやら両手と頭部だけが自由で、その三部分がそれ以外の全身をどうにか地面から引き剥がそうと痙攣に似た努力を続けているのだった。満身の力を振り絞っているであろう苦しげなうめき声と、筋力の限界に合わせて吹き出すような疲労の吐息が重なって聞こえてくる。

 最後にロディは、彼らの辿り着けなかった先に、まるで何事もなくただ横様に立つ魔女の、いっそう細い姿を見上げていった。彼には、その向こうでなおも走り去って行くバゥの遠ざかる後ろ姿を見送る余裕は無かった。

と、背後から男達がわめく声が次々と届き、思わず振り返りかける。声によると、彼らは四人全員、自分の立つ位置から足を動かすことが出来ないでいるらしかった。

「な――何をした?」

 アルエは他人事のような動作で足を踏み替え、ロディと正対した。

「先に、教えないと言ったでしょう」

「ふざけるなよ……! なんだこれは、お前は……物体を操るのか?」

 彼は硬化した衣服の中で全身に力を込めた。が、ほんの僅か動かすだけで息が切れる。到底、立ち上がることさえ出来ない。

 アルエは今や完全に無防備となった彼へと向かって、ごく静かに歩き始めた。途中、足下の鉈を拾い上げる。その刃に、陽光が閃いた。

「おい、そこの物騒な四人。武器を落とせ」

 荷車の方へ気怠げな声を飛ばしながら進み、返事が無い事に眉をひそめ、揺れるように足を止める。

「聞こえなかったのか、それともやり方がわからないのか? 武器を落とすだけだぞ。しかたないな、手本を見せてやろうか?」

 アルエは眺めるように、鉈を目の高さまで持ち上げた。その直下の位置に、男の頭部がある。

「おい魔女。お前に……そんな取り返しのつかない大罪を犯す度胸があるのか?」

 ロディが鋭く睨んで言った。ひとつふたつと、武器が地面を叩く音が聞こえていた。

「もちろん私だって、望むところではない。ただ、必要とあらば……」

 鉈がゆっくりとアルエの頭上まで昇った時、男達の手から全ての武器が離れた。それを見て、アルエはにっこりとした。

「良かった。じゃあ、私も」

 その瞬間、鉈の刃がギロチンのように落下を始めた。

 そして、真っ直ぐ男の頭部へと落ちて行く途中、鉈は落下を止めて短く舞った。

 ――とんとん、と、アルエの両膝が交互に素早く持ち上がり鉈の柄を正確に打つ。鉈は反転を繰り返し、最後は柄を掴まれて静止した。

「必要とあらば……あるいは、途中で止められるなら、落とす」

 そのアルエの笑顔を見て、呼吸が止まっていたロディは、思い出したように、じわじわと怒りに顔を染め始めた。噴煙として可視化しそうな、震える吐息と声を漏らす。

「この……この悪魔が……地獄に帰れ! 失せろ!」

「私は悪い冗談だと自覚した上で、しかも安全を確信した上でやっている。お前のその口の悪さは、そうした配慮と良心に裏打ちされているのか? 魔女だって傷つくんだ」

 などとアルエは気軽な調子ですらすらと言葉を並べつつ、荷車へと歩く。ロディは首を回しながらその姿を追っていき、悪態と抗議を声の限りに重ねていったが、効果は何も無かった。ついに首の限界で追いきれなくなり、彼の視界の端から魔女が消えた。

「ミグ! 俺に捕まれ! 俺の手に、早く!」

 ロディは必死に叫ぶが、彼の言う通りにはならない。アルエが荷車の横に着き、冷めた声で男達に命令を下していく。

「おい髭、お前だ。うずくまれ、両膝と両肘を地面につけろ」

 一瞬の静寂の後、まるで腹に蹴りを入れられた男が上げるような、発作的で短いうめき声が聞こえた。そして地面からの、砂と衣服の擦れる音がそれに続く。

「お前も、同じようにしろ。あとそっち側の二人も、適当に伏せろ。そんな目で見られたくない、と言うより、見るな。魔力を使いづらい」

 しばしの間があった。

「……やり方がわからないなら、手伝ってやろうか?」

 アルエがそう言い終えた時には、もう男達の中で立っている者はいなかった。

 荷車の上にある全てもまた、固まっていた。そこにアルエの片足が新たに乗った時、家族達は互いの身体の無事を確かめ合うために声を交わしていた。そしてそれ以上は何も出来なかった。

「ミグを借りて行く」

 アルエは謝るような声でそう言い、それ以上のことは言えないとばかりに、夫婦から目を逸らした。家族の三人は軽く抱き合うようにまとまっていた。

「あと、食べ物も少し貰う」

 と袋を開けようとして、アルエはその両手がナイフと鉈で塞がっているのに気づいた。

「あ、これ、返すよ」

 ナイフを板目に軽く突き立て、鉈は、少し迷った後そのまま置いた。ごとん、と重い音がした。袋からは、瓶をひとつだけ取り出す。それをマントの中へしまうと、何か思い当たったようにまばたきして、足の先でその袋に触れた。すぐに「よし」とささやき、次はミグの横腹にそっと膝を当てて、硬化を解いた。

「腕を組んで、一応ね」

 ミグは、アルエに言われるままにした。すると白い膝がそこに触れて、組んだ腕が動かなくなる。両手の自由も、誰の助けもないミグが苦労しながら荷車から降り始める。その間、アルエは街の果てへと視線を向けて、その視界に再びロディの頭が入った。ひたすらわめき続けていた彼は、ささくれ立った声を荒い息の合間に零していた。

「そうか……。荷車の、音が消えた、あの時、油でも注したのかと思ったが……あれも、魔力だったのか――」

「ああ、そうか。その時に悟られてしまう可能性があったのか……危なかった」

 アルエは悔しそうに言いつつ荷車へ向き直り、芋の入っていた袋をひっくり返して中身を全て他に移した。いくつか入りきらずに転がり落ちる。そして空になったその袋の口の部分を持って、空気で膨らむように素早く動かしすっぽりとロディの頭に被せた。

「――なっ、何を……! ぶっ、ごほっごほ、くそっ! 処刑でもするつもりか?」

「悪い思考の流れだな、最悪なことばかり予測するのは良くないぞ。ただの目隠しだよ」

 適当な口調で応じながらアルエはまた後ろへ向き、そこに立ち尽くしていたミグと目が合うと、なにやら思案顔でつぶやき始めた。

「おんぶ……いや、肩に抱えて行こう。うん、そのほうが何かといい」

「僕は、今のところ自分で歩けますし、抵抗も逃げもしませんよ」

 ミグのその発言に対してロディは逃げろと猛烈に異を唱え始めたが、アルエがそれを遮る。

「ただの目隠しじゃなく、鳴き止めの機能も付加したほうがいいか? ――今さら確認することでもないだろうが、私は、大体のことにおいて私の思うままに出来る。お前の想像すら及ばないようなことでも、なんでも……」

 アルエはそこで腰を落とし、ミグの腹部に肩を当て、両脚を抱えるように掴むと、そのまま担ぎ上げた。ほとんどふらつくことはなく、しかし地面を踏む裸足は肩幅ほどまで広がっている。慎重に振り返って、ロディの横を通り過ぎながら最後に付け加えた。

「……だけど、これ以上、あまり気の毒なことはしたくない――」

 ロディはまた、袋の中で咽せるだけになった。

 ミグは、アルエの肩に揺られながら、両親の顔を見ていた。そうして聖者の三人は、言葉以上の力を知っているかのように、黙ってお互いの視線を繋ぎ合っている。

「――たぶんまた、会うから」

 アルエはそう言い残し、走り出した。




 跳ね橋小屋へ真っ直ぐに向かう。その目前まで迫ったところで、畑の間を通る開けた道にさしかかった。

 そこで、アルエは何かに気づいたように声をあげる。

「あ、あの積みわら。でもどうして……」

 道に接する位置にあった、人の背丈ほどある藁の山――その上部が突然、噴火したように割れた。そこから現れたのは、煙でも溶岩でもなかった。肩を出した軽装の男が、間もなくアルエを射程に捕らえる武器を素早く構えた。

 横に寝かせて構えられた、翼を開いた鳥のような短弓――その弦が引き絞られて鳴る音を、アルエは咄嗟に膨らませた髪を介して聞いていた。その眼には、矢が、線ではなく点として映っている。

 藁山の向こうに木がある以外、近くにはこの細い道の両側どちらにも遮蔽物はなく、背の低い作物と畝が並ぶばかりだった。

 アルエは、走る速度を緩めるどころか増していった。

「さすがに、そんなところに隠れられたら――」

 その時、放たれた第一射を、アルエは脚さばきで躱した。風切り音と、すぐ背後の地面からの鋭い音がほぼ同時に聞こえた。跳ねて激しく振動する矢を、ミグが小さく息を飲んで見送る。

「――っと。速いな……こっちも向かってるからか」

 とアルエが言い終える頃には、次の矢がつがえられていた。

 射手との距離はもうほとんどない。すれ違う直前、容赦なく矢が標的の腰へ向かって射出された。

 ミグを明確に避けつつ、アルエには躱しようのない、見事な、精密な一射――そしてその軌跡は、あまりにも短かった。矢の羽が弓に当たって起こる音と、その矢をアルエが掴んで止める時に生じた音は、完全に混ざっていた。

「くっ、う……」

 アルエは棒を持ったような握り拳を一度開いて振ったが、矢はそこから離れない。

 鈍い光を放つ鏃が、革手袋を貫き、手首から斜めに突き出ていた。

「失敗か……!」

 アルエが歯の隙間から悔いるような声を絞り出し、そこに、標的を仕留め損ねた射手の舌打ちが重なった。自分が失敗したことで驚いたのは、断然男のほうだった。次の矢を取るのに一瞬遅れ、身体をねじって走り去る標的を追いながら弓を引く。

 放たれた矢は、アルエがその瞬間を察知したかのような一足の加速によって完全に外れ、マントの裾にすら当たらなかった。そしてその黒い姿は、すぐに幹の裏に入り、次に構えた時にはもう枝葉によって完全に隠されていた。藁の山から降りた頃には、もう射程から遠く離れているだろう。

 それでも男は標的を追うつもりらしく、すぐに降り始めた。



「毒が塗ってある」 

 アルエは、運河へ向かって真っ直ぐに走り続けながら無感動に言った。ミグはようやく放り捨てられたその毒矢を目で追って、そこで、今自分を乗せた移動体は跳ね橋小屋へと続く道からすっかり外れて進んでいることに気づいた。足下では、人の手を借りていない草花が次々とアルエの素足に蹴散らされて悲鳴を上げている。

「あっ、小屋はあっちです」

「橋は必要ない。もし舌を噛みたくなければ今だけ黙って」

 アルエの足は加速していき、しかし肩から伝わる振動は減った。それは何か獲物を見つけ襲いかかるためのような、終わりとの接近を感じさせる不穏でなめらかな加速だった。ミグは、横を流れる景色を見た。街の外堀を兼ねる運河が、長い道のように遠くまで伸びている。

 街のどの通りより広く長いが、そこに寄り添う跳ね橋小屋は何代も前から無人で、それを見下ろし監視するための二つの塔の上には弓を持った人形がいるだけだった。それは平和の累積と、運河の大構造に頼りきった判断だった。

 そうした慢心がつくった間隙を突き、アルエは、もう間もなくその道を横断するつもりらしい。

 石材の縁に最後の一足を音高く打ち降ろし、ためらいもなく踏み切った。

 走行による揺れが止む。しかし下方、無謀な距離が暗い水面にあった――それは幅でもあり、低さでもあり、浅さでもある。つまり、もし落ちても緩衝効果は望めない水の浅さと、今のアルエの位置からでは容易に人体を破壊し得る衝撃を生むであろうその水面の低さと、そして十人を縦に並べられるほどであろう対岸までの距離だ。

 無謀であり、そして絶望的だった。

 影の下で不気味に待ち構える水面を見て、ミグは衝撃に備えた。腹部にあらん限りの力を込め、組んだ腕をアルエの背中に押し当てるように密着させた。同じように顔も伏せる。

 衝撃は、まだ来なかった。そして何故か、重力の向きが変わっていた。アルエの体勢がずいぶん前傾しているらしい。

 ミグは組んだ腕の中から、そっと目を上げた。

 すると、眼下の景色が何も見えないほどアルエの背中が広くなっていることと、落下速度が思ったほど少なく、その代わり進行方向への速度がずいぶん保たれていることが明らかとなる。正確には、アルエの着けているマントが両翼として広がっていて、今それが風を捉え滑空しているのだった。そしてその翼は、風の揺れに反応して細かく動いている。それは、布の膜が風になびくのとはまるで違う、生き物の持つ翼がするような、意思と効力のある動き方だった。

 翼は、両腕を開いたよりもずっと長く、大きかった。

「今なら一言だけ喋っていいよ」

 陽光が注ぎ、黒い翼面から暖かい色をわずかに滲ませている。その向こうに、白い尾羽のように伸びた脚が気ままに揺れている。

「あ……あの――」

「はいもう時間切れ。歯を嚙んで」

 と、その両脚が相次いで消え、アルエの前傾も元に戻った。

 直後に、久しく途絶えていた衝撃がより鮮烈な印象を備えて再び起こり始める。着地はもう終わっていた。

 翼が、景色にミグの視界を譲ってしぼんだ。今はもう、走る空気を受けて歪にうねるだけだった。

 運河が急速に遠ざかっていく。街を掲げる石造りの崖が、長い壁として左右に際限なく連なって、それが荒い砂地と、まばゆい空とを上下に分断している。

 境界を越え、街から隔てられた二人は、なおもそこを嫌うようにひたすら離れて行った。




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