なだらかな移動
二章 荒野
アルエの接近によって起きた、一瞬の風が去っていく。
「今から、君をさらうとしても?」
世界から切り離されているような冷たい声が落ちた後、その沈黙に、遠い炎の微かな熱気が揺れながら戻った。アルエの肩から水平に伸びる細編みの袖と、ミグの首を掴む革手袋はどちらも白味がかった飴色で、向き合った両者を繋いでいるその格好は、デッキの柵の構造に似て、動かない。
ミグの視線はその細い腕を伝い、アルエの顔へ辿り着く。まだ一度も感情が表れていない奥行きのある暗く澄んだ瞳は、まっすぐ固定されていた。その近くて強い瞳へ、ミグは、雪原に落とした石を見るとしても無感動すぎる眼差しを向ける。そして薄く口を開けてから、そろそろと声を送り出した。
「それは、本気ですか」
「うん、それは本気だよ」
影の中から、アルエの暗い瞳が見つめ返している。ミグは好物を訊ねられた人のように、少しだけ考える顔つきをつくった。
「そうする理由を、聞いてもいいでしょうか」
「いいよ。理由は、私のため」
フードの中で黒い前髪の一筋が、はらりと落ちて睫毛を撫でた。アルエはまばたきとともに短く息をつき、両肩を少し下げた。
「……これは、私に与えられた試練なの。一人前の魔女として師に認めてもらう、そのために君を連れて行く必要がある」
「連れて行く……それは、生きたまま、ですか」
アルエは軽く頷いて、その白い顔に影を広げた。なめらかに身を引いてミグの首を解放すると、マントで風を撫でるように横を向く。
「そうだね、生きたまま。――それで君は、何か知っているの? あの火について」
「いいえ何も。今はわかりません。僕の兄が、役場へ訊きに行っていて、もうそろそろ帰って来るはずなので、そうすれば何かわかると思います」
「今はわからない、か……じゃあどうして、私を見た時、すぐに殺される心配をしたの?」
ミグは、横目に向けられた視線を迎え入れるように待ち、口を開いた。
「先ほど――早朝の事ですが、兄は火事に気づくとすぐに僕たちを集めて、こう言いました。『二階で荷物をまとめていろ。一階にいたらもし誰かに押し入られた時に危ないから。その場合には、皆で屋根裏に逃げ込んで梯子を上げてしまうように。そうすれば少なくとも時間は稼げる』」
「ふうん……それはまあ良い判断だろうね。少なくとも、魔女に対する場合以外においては」
「……ええ。それで、兄からそういうふうに指示されたこともあって、僕は窓から火事を見たときに、聖者は皆、この街に殺されるのだろうと思いました。聖者が自ら火を放つことはないでしょうし、火は街の内側に接する区画から先に上がっているようですから」
「そうだね、この警鐘からしても、外から攻め入られているようではないね」
「警鐘……今は、鳴っているんですか? 少なくともこの街区は――近くの鐘は鳴らさないみたいですが」
マントが翻り、両者の視線がまた正面から向き合う。
「その段階でわかるでしょう、攻められたなら街全体の鐘を鳴らすし、火事なら燃え移る可能性のある範囲だけ」
とアルエは朗読するような口調で言い、得意げに閉じた唇を少しだけ突き出した。
「魔女さんは、この街の人――いや、この街の魔女なんですか? とても詳しいですね、非常時に鐘がどう鳴るかなんて、街の人間でもそうは知らないです」
「私、鐘突きなんだよ」
「……えっと、それが普段の職業ですか?」
「いや、違う。嘘だよ。でもさっきまでは、あの鐘塔の上にいたから」
アルエは抑揚のない声で言い、聖者街とは反対の北にある塔を視線で指した。
「そしてそこから、ここまで飛んで来たんだよ」
ミグは瞬きをしながら、足下に落ちている木炭の破片を見もせずにゆっくり拾い上げた。
「それは……見ておきたかったです」
「ああ、これは嘘じゃないんだよ。本当に飛んで来た」
「ええ。すごいですね」
どこか重みの無い声を受けてアルエはしばらく黙り、何か素早く思考を巡らせているようだったが、突然、瞳に不穏な光を灯した。
「よし今からやってあげるよ元々そのつもりだったし。ここから飛ぶから、君は……おぶるよ」
「ここから、飛ぶんですか? それは困ります」
「どうして。理由は?」
「ええと、そうですね……家族を置いていけないですし、あの、僕をどこへ連れて行くつもりなのですか?」
「街の外だよ。北西の、蛮族の森かな」
「蛮族の森……それは、実在しているのですか?」
「さあね。行けばわかるよ、だから早く行こう。たぶんもう、聖者がこの街にいるのは危ないみたいだし。それでも、蛮族の森に行く方がましかはわからないけど。でも私、君を無傷で師に会わせないといけないから、うん、君の安全はむしろ私自身の安全よりも優先するよ。だから行こう」
「だめです。家族が――兄が心配です。先ほども言いましたが、兄は、半ば強引に役場へ行ってしまって……まず無事に帰って来るのを見届けて、それで、今後も聖者がこの街にいられるかどうかを聞いて、もし皆が安全で居られるなら、その時はどうぞ僕を連れて行ってくれて構いません。ですが今、突然に僕がここからいなくなったら、兄に余計な苦労をさせてしまいます」
「君に主導権を与えた覚えはないんだけどね……いいけど。それじゃあもし、もう聖者がこの街にいられなかったら? 私は、まず間違いなくそうだと思うんだけど」
「そうですね……もし、街から出るだけで済むのなら、皆それを知ると同時にそうするでしょう。でももし、あくまで命を奪う目的だったのなら、この街にいる聖者の大多数は、きっとこれから、されるがままに命を落としますね」
「……それが聖者か。それで、いま、全員ではなく大多数と言ったのは、こういう意味かな? 聖者の家族に普通の人間がいて、その人間によって助けられる場合が例外的にあると」
「ええ、はい。でもそういう家族はまれです。血縁でも、別居している場合がほとんどですから。聖者と共に暮らしている人間は、成人同士からは許可が必要ということもあって、まずいません」
「何となく、いまならわかる気がするよ……」
「あの、それよりも、今僕に主導権があるのなら、行使していいでしょうか」
アルエは嫌疑の眼差しを向けて、しかし明るい口調で言った。
「ずいぶん聖者らしくないことを言うね。もちろんだめだよ」
「拒否はできないはずです」
ミグは柵に片手を乗せ、短く息をついてから続けた。
「その理由ですが、まず、僕自身が無傷でいなければ、あなたが困るという点を指摘します。正しいでしょうか」
息を吐くように一瞬だけ笑い、アルエは小さく顔を振った。
「ああ……もうそれだけで言いたいことは大体わかったよ。私が思ってたより、聖者はずっと過激なんだね。後は簡単に、何を要求するかだけ教えてくれ」
素足で荒野を行くアルエは、初めて師以外の人物と交わした会話の中での失敗を洗い出していた。その肩に担がれているミグへ、慎重な眼差しを送る。
「まさか、これほど命の危機にさらされるなんて……。こんなことなら、あの屋根ですぐ君を気絶させるんだった」
ミグは、何も答えなかった。いま喋ると、走行の振動によって声が震えてしまうからかもしれない。
アルエは、僅かに乱れた呼吸の合間に声を発する。
「もし、気を失った状態を無傷と呼べるのなら、迷わずそうしていたよ……はあ。もしくは、あんなに危ない目にあうと前もって知っていたら……でもまあ、試練としてなら、上等だったかもね」
荒野は緩やかに起伏を繰り返している――最初の登りが終わって、そのことが明らかとなった。無量の大気を支える面のうねりが、霞みゆくまで視界の奥へ奥へと連なっている。
アルエは速度を落とし、その壮大な景色に見入った。
死んだように動かない荒野を、風とその温度が微かに揺らし、生きているかのように惑わせている。途方もなく巨大な獣の背中の上にいるような、恐怖に似た圧迫と果てしない無が生み出す解放感とが混在する――平常とはかけ離れた異様な心地にさせる光景だった。
その中にぽつんと、遠くに、虫のような大きさに見えるバゥがいた。首を持ち上げる動作が見え、かなり遅れて微かな鳴き声が届いた。
「やっぱり、コフトだけか……」
極めて緩やかな丘を降りて行く。振り返っても街が視界に入らないところまで来ると、アルエは歩みを止めて肩からミグを下ろした。また歩き出すと、追いすがるようにミグから質問を浴びた。
「えっと、一度に色々なことが起こり過ぎて何から話せばいいのか……あのバゥは、魔女さんのバゥですか?」
ミグは声こそ平静だったが、まだまだ言い足りない様子だった。アルエの横顔を見つめて返答を待つ間も、次の質問がその薄く開いた唇からこぼれ出そうだった。
「うん、コフトという名前だよ。私が卵から育てた」
「今、運河を飛び越えましたよね、僕たち」
「そうだね、思ったより飛べた。もうちょっとぎりぎりだろうと踏んでいたけど、高低差と風向きが良かった。もちろん、君を担いでいなければもっと長い距離を飛べるよ」
「すごい。すごかったですね」
「……飛べるって言ったでしょう。信じていなかったの?」
「えっと……あ、それより矢に毒が塗ってあると言ってましたけど大丈夫ですか?」
疑いの眼差しをミグに向けたまま、アルエは手袋を軽く持ち上げて見せる。
掌と手首にあったはずの矢によって開けられた穴は、塞がっていた。
それは修復されたと言うよりも、治癒に似ていた。破れた革が繋がり、古傷のようにわずかな膨らみを残すだけとなっている。しかし見れば、それは手袋全体のつくりにも当てはまるようだった。縫製によって作られているのではない、つまり一カ所として糸で縫い合わせた部分は無く、全てそうした癒着によって継ぎ合わさっているのだった。甲などは、整列した血管のようにそれが走っている。
「大丈夫だよ。毒は身体に入っていないし、仮に入ったとしても無力化できる」
「ああ、そうですか、良かった。手のほうはともかく、脚にも当たっていたようですから、心配しました」
「えっ、脚にも?」
アルエは半目をつくっていた瞼をいっぱいに開き、自身を見下ろした。歩みを止め、弱く蹴り出すように左脚を伸ばす。そんなおぼつかない舞踏に、アルエが身に着けている風変わりな作りのマントが慌てて揺れた。
先ほどは翼となって逞しく広がっていたはずのマント――その前面は、胴に沿って二列のボタンが胸元から膝の上までずらりと並び、そこで真横に真っ直ぐ布地が裁ち切られている。両膝を露にするため、というその作意が今では明らかだった。彼女が魔力を行使するのには、その方が何かと都合が良いらしい。しかし布地が短く裁たれているのはその部分だけで、ちょうどボタンの列の外側にあたる布地は、すべて足首のあたりまですとんと落ちている。静かに直立すると、正面以外からは脚が見えないかたちだ。
艶は無いが目の詰まった上等そうな布地といい、全体に、尋常を嫌うかのような一種異様な洒落気がある。そして細部に注目すれば、その傾向はより顕著だった。
口元も覆えるフードは、その右頬のあたりのボタンを外すと、やけに大きい左右比対称な襟となって垂れる。その下のあたり、両の脇下から、それぞれの太腿の外側までにかけて長いスリットが入っているのは、そこから前腕を出すための工夫だった。
未知、あるいは遠い異国のものなのか、少なくとも近隣の諸国のいずれにも馴染まないだろうが、それでいて妙に堂々とした、説得力にも似た風格を醸し出している。
アルエは、そのマントから前へ出した自分の脚を一瞥すると、
「土埃でもけっこう汚れるものなんだね――あ、やっぱり矢ならちゃんと避けられてたよ」
視線を上げ、アルエ自身で一番疑わしかった部分なのか――左脚の外側を、ミグに見せるように傾けた。
「いえ、そっちじゃなく、内側のあたりです。血が……少し」
ミグが手で指し示すのに従って、アルエは不思議そうにまた脚を見下ろした。そして、すぐに「ああ」と思い出したような口調で言う。
「これは、たぶんあの時だよ、鉈を膝で蹴り上げた時。ちょっと擦った気がしてたんだけど……あーあ、本当に失敗してたのか」
右の膝の上あたりから、微量の出血があったようだ。乾いて土ぼこりにくすんだ細い線状の血痕が、脚の内側を伝い降り、くるぶしを避けて土踏まずの下へ消えていた。
「……毒の心配がないなら良かったです。それで、このバゥ――コフトでしたっけ、どうしてこんなところにいるのでしょうか」
このとき、平均的な中型のバゥが二人のもとに到着した。身体の側面を見せるように足踏みして回頭する。アルエが親しげに歩み寄り、その鞍にぶら下がっていた束を取って解くと、それは革製の鳴き止めと手綱だった。
「師が送ってくれたんだよ。おかげで私、バゥ泥棒にならずに済んだ――よしよし、久しぶりね、コフト」
背を向けたアルエが不慣れな手つきで鳴き止めを着けているのを、ミグはじっと見守っていたが、長くは保たず、ついに疑問を口にした。
「もしかして、僕も乗ってもいいのでしょうか……。あと、僕の腕を、そろそろ解放して貰えませんか」
「あ、そうだね――」
その瞬間、アルエは脚を後方に蹴り上げるようにして上げ、つま先でミグの組んだ腕に触れた。ミグは驚いて後退し、自由を取り戻した両手をひとしきり眺め終えた頃、作業を終えたアルエが振り向いた。
「――ちょっと忘れてた。で、君はバゥに乗れる?」
「あ……ええ、はい」
「じゃあ手綱は任せたよ。私、できないから」
とアルエはどこか軽薄な笑顔とともに手綱を差し出す。ミグは逡巡の間すら持たず素直に従った。騎乗し、鐙に足をしっかり固定させながらアルエを見下ろす。
「わあ、ずいぶん賢いですね――あ、魔女さんは、また走るのですか?」
「いや……難しそうだけど、試してみるよ」
と、今度は怪しげに真剣な眼差しを鞍の後部に向けて言った。
風の音だけが支配する荒野に、やや積載超過なバゥの走る姿があった。
コフトはごく一般的な中型種のバゥで、その背中は二人が乗るには少々狭い。
「ミグ、もう少し前へいけないかな? このままだと、いずれ尾に座っちゃうよ」
揺れに気を取られながらそう言ったアルエは、鞍の後ろぎりぎりの縁に腰掛けている。ミグは背筋を伸ばすように身を引き締めたが、それ以上の動きはできないようだった。
「難しいです。僕も今魔女さんに言おうと思ってたところでした、もっと後ろにいけませんかって」
「いや、私はいいんだけどね……」
「……え? 尻尾に座ることですか?」
ミグの驚いた声に、アルエは複雑な笑みをつくった。
「違うよ、私が言ったのは、こう……くっついている現状に関してだよ」
「そういうことですか」
ミグは、それきり黙ってしまった。意味ありげな沈黙に耐えかねてアルエが口を開く。
「……何か、その、問題ある?」
「ええと……ないですね」
「……あー、えっと、交代する?」
「やってみたいんですか?」
「え。いや……そうだね、やってみたい、けど今は任せておくよ。もっと見て覚えてからでいい」
「そうですか。代わりたくなったらいつでも言ってください」
「そうする――あ、もう少し北に……右に進路をとって」
「はい。……川沿いに行くんですね?」
「うんそう、喉が渇いてきたから」
「え、コフトがですか?」
ミグは首を傾げるようにして、一心に走るバゥの横顔を注視した。アルエは一拍遅れて小さく笑い声を上げる。
「くふふふ……いや、違うよ。コフトの喉が乾いているかなんて誰にもわからないよ。コフトじゃなくて、私。私が水を飲みたいってこと」
「ああ……でも、人間がそのまま飲んだらお腹を壊しますよ。しばらく沸かせば平気ですが、いま火を熾す道具なんて……あっ、もしかして、魔法で――」
「いや、沸かさなくても平気だと思うよ……たぶん」
「え? どういうことか、ちょっとわからないです。これから魔女さんが魔法で火を出すところを見られると思ったのですが」
「もしそんな魔力のある人間がいたら、私、その人に弟子入りしたい」
読み上げるようにそう言ったアルエからは、もう続きの言葉が来ないと知り、ミグは背後へ向けて控えめに問いかけた。
「……ええと、火を出すのって、そんなに難しいんですか?」
「何もないところから出すのは、ほとんど不可能だよ。たとえば私は、着火も道具任せ」
「そういうものですか……。でも、それにしたって、弟子入りしたいだなんて、あなたの師が聞いたら怒りそうですね。魔女の師事関係は厳しくないのですか?」
「それは、命にかかわるほど厳しいけど……今のは平気だよ。その師が言ってた、そのままの言葉なんだから」
「えっ、それは、弟子入りしたいっていう、さっきのがですか?」
「そう、さっきのが。だから、それほど火を出すのは難しいってこと」
アルエは急ごしらえの鐙として、鞍から垂らした革紐を足の指に絡めていた。ミグはそれを器用だと評し、「それを言うなら君の兄のほうが器用だ」とアルエが声を落として真面目な表情になる。
「あんな人物にまもられている限り、君の家族はどの家族よりも安全だろう。名前は、ロディだったかな――いったい何者なんだ?」
「はい、ええと、学堂に学徒として通いながら、いくつかの分野では教任に就いていて――史上最も若いそうです。市長とも面識があるそうですし、順調にいけば間もなく市政官になれると言っていました。今は市政官補佐です」
その説明を聞いている間、アルエは途中で思いつくままにマントから卵色の内容物が詰まった瓶を取り出そうと上体を危うい角度まで後ろに逸らしていたが、なんとか目的を達して戻った。しかし、すぐ正面はミグで塞がっているため、瓶は身体の左右あるいは頭上に掲げるように持つしかなく、アルエはまさに後者の状態で考えていた。
そして、走るコフトの頭が前後に動く手前のあたり、ミグの正面にある空間に眼をつけた。次の瞬間、瓶を持った片方の手袋がミグの肩を越えて、彼の胸元の前で、腰から回って来たもう片方の手袋がその瓶を受け取る。
上からの手袋が紙の封印ごとコルクの蓋を外し、一旦それをマントへ持ち帰った。
「ちょっと君の前、借りるよ。操縦の邪魔や目障りにならないよう気をつけるから……あ、食べる?」
とアルエは気軽に聞いた。ミグは両手が忙しいという理由で断り、そのしばらく後の、
「じゃあ食べさせてあげようか」
という申し出も遠慮した。それまでにすでに何回か、革手袋の指が、瓶の中と背後とを行ったり来たりしているのを目の当たりにしていたことが、彼の判断に影響を与えていたかどうかはわからない。最初瓶の中にあったジャムの平面は、今ではもう、荒れたまま凍りついた海上のようになっていた。
アルエは、ミグの肩越しに瓶の中身を見ながら、指でその軟膏のようなタマゴジャムをすくい取っては口へ運んでいく。その作業の合間に、また低い声に戻して言った。
「それにしても、ずいぶん人間離れした出世の早さだね。市政に関わっていたのなら、たぶんきっと、聖者の待遇をもっと良くしようと動いていたんだろうけど……」
「ええ、まさしくそうでした。兄は聖者の利権縮小に反対して、でも、最近の風潮――聖者によって一般の生活水準が向上しないという決めつけと、今朝伝わった、あの皇都で起きたとされる事件とで、恐らくもう、希望はほとんど無いでしょう」
「彼は……彼らはこれからどうすると思う?」
アルエは急き込んで問い、それから少し後悔したように視線を迷わせた。
「聖者を護ろうとするでしょう。それもきっと、最後まで。……兄は常々、自分は聖者のために生きていると口にしていました。その言葉以上に行動は多く持続もして、とても熱心です。聖者にまつわる古典や伝承をよく調べ、その方面から、街の聖者に対する理解を広めていこうとしているそうです。同時に、聖者の生産状況などを勘定したところ、一般の人々の仕事に何ら悪影響はないということがわかったそうで、先の歴史方面と合わせて、この二つを軸に世間へ訴えていくと……えっと、まあ、ちょっと難しくて僕も理解しているわけではないのですが、ともかく兄は何年も前からそういう風なことを語っていました」
「ふうん……そう言えば、普通の者は特別な許しがない限り、成人したら聖者と同じ家で暮らしてはいけないんだったっけ。でもまあ、それだけ聖者に執心して精進したのなら、許可くらい下りてしかるべきだろうね」
「はい、その許可を得るのもそうですが、兄は僕たち家族の見えないところで色々と難しい苦労をしているはずです」
ミグはずっと均一な声質で話しているが、その意見を言い切った後の短い沈黙には、ほんのわずか、讃えるような気配があった。
「そう、それで、聖者は今後どうなるかということですけど……、まず生き残った聖者達が、街の外、それも未開の地に一度集まることになるとすれば、どれくらい生き残るかにもよりますが、なかなか適当な土地は思い当たらないですね」
「南側には確かに無いか、皇都までずっと河沿いに農地が続くからね。東の山間部まで行って、そのまま隣国へ入るのは……どうかな」
「東の隣国はちょっと心配ですから、たぶん、兄がいたらそうはさせないと思います」
「まさか、そこまでついて行くのか? いや、やりかねないか……彼、自分の家の権利書まで持ち出してたからね」
「望みは薄いですが、やはり皇都まで南下して、そこから船で友好国に渡って移住できれば最高でしょう。ですが、やはりそれは現実的ではないですから、皇都に着く前に南西へ逸れて、緩衝林内の国境を目指すことになりそうですね」
「南方諸国か、受け入れるにしても何かと条件をつけたりで時間を掛けそうだな。いずれにせよ緩衝林に長く居着くのは許されないだろうし……あれ、となると皇都は聖者を国土からどうやって追い出すつもりなんだ? まさか、やっぱり港湾区に入れてやって人数分の船を手配してやるのか」
「いや、もしかして、各地に分散させるつもりかもしれません。そもそも一カ所に集まる方が難しいのですから。それで、散った小集団にそれぞれ各方の国境へ向かわせる……でも、それによって皇都が得るところはなんでしょう? 隣国との情勢を確かめるつもりか、いや、これではむしろ火種となり得そうでですが……」
「信心深い国なんかは聖戦を仕掛けてくるかもな。しかしそんな、やたらと喧嘩を売るような愚かしい国でもないだろう、ここは」
「ええ、そのはずですね。兄が言うには、他国、特に交易国からは〝狡猾ですらある〟と思われているとか」
「それは最高の評判だよね。つまり、国交に関しては全幅の信頼が置けるわけだったのが、今日のこの事態がどういう転機になるか……まったく。たまには戦争でもしたくなったのかな。まずそもそも都の執政区の奴らは、人民の暮らしがこの一件でより豊かになっていくなんて、そんな思い違いをするはずもない、私でもわかるくらいだ。聖者は街で家に籠って写本をつくるだけが能じゃない、各地の郊外で農工の下地を支えている大事な働き手だ。彼らがごっそりいなくなって一般人に置き換わってみろ、その晩にはもう、全員がその土地から逃げ出すか、領主の屋敷に石を投げるか、その両方をやる」
アルエはあらかた空になった瓶をしまい、両の手袋もまたマントの中へ入れてしまった。一見すると危なっかしいが、脚と上体だけでうまく揺れに対応している。
ミグは思考と平行し、やや間を多く取りながら言葉を並べ始めた。依然として、伝えようという意思がなく、すり抜けていくような声色のままで。
「そうか……今まで地方で起きていた聖者に対する不満による暴動が、そうした領主に対する賃上げ抗争に置き換わる、その契機が今日になりそうですね。これからの幾日かは、聖者を追い立てることで皆の憂さも晴れるでしょうが、その後……どう転んでもこの国は荒れていく一方になりませんか? やはり、このお触れの意図がまったくわからない。かと言って、本当に聖者が司祭を殺すはずもありませんし……」
少しずつ、水音が近づいていた。ミグはアルエが指し示す方へコフトを進ませて、背の高い草に分け入る。距離を稼ぐ走行から、慎重な歩行へと変わった。
「何らかの事故を誇大解釈したんじゃないか? 嘘をつかない聖者でも、場合によっては真実が敵に回る可能性もある――そう、ロディに言っておくべきだったな……」
「何をですか? ――と、ここらで止めましょうか?」
草が一斉に場所を譲り、視界が開けた。川面の眩しい光にアルエは目を細め、着地できそうな足場を探しながら和やかな声に切り替えて言った。
「あ、うんありがとう。喋ると喉が渇くけど黙っているともっと渇く気がして、ついずっと喋り続けちゃった――」
と、その瞬間、アルエは岩の隙間に積もった狭い砂利の地面に飛び降り、やや足が沈んで短い驚きの声を上げた。それを無かったことにするかのようにすぐに今度は川の流れへと跳んで、水しぶきを散らす。
そこで、あっさりと転んでいた。




