ゴウ、異世界で目覚める
《天海聖暦769年》
「あんた、あんた! 大丈夫かい? 目を覚ましな!」
竹岡一進は、重い瞼を開いた。知らない赤毛の人物が、俺の顔の前で話しかけてきている。とても肉感的な女性だ。
上半身を起こして周りを眺めた。映画で観た中世ヨーロッパの街並みのような風景だ。俺は港に停めてある小さな漁船に架けられた緩いスロープ状のタラップの上に寝転がっていたようだ。両手には大事にしていた古い木製のアタッシュケースを抱いていた。
頭が混乱している。
…ここは異国? 異世界? 死後の世界とは違うような…
「これはあたいの旦那の舟だよ、旦那に何か用かい?」
「……」
「あんたは誰? どこから来たの?」
「……」
ポカンとしている俺をみて、女性がさらに聞いてきた。
「身体中アザだらけだね。頭でも打った? 記憶がないのかい?」
何も分からない状態なので嘘をついた。
「ここは何処ですか? 何も覚えていないです。何も分からないです」
グゥー 竹岡の腹が鳴った。
「記憶がないか、そりゃ困ったね」
女性はしばらく考え、立て続けに喋りだした。
「ウーン まずは腹ごしらえだね」
「あんた立てるかい? あたいについて来な」
「あたいの名前はケイだ。うまい魚を食わせてやるよ」
竹岡は立ち上がり、ボロボロの靴で歩いた。ケイは港のすぐ近くの店の看板を指した。
焦げ茶の板に『魚屋 ベン&ケイ』と金文字で書いてある。
…何故か異国の文字が読める、異国の言葉を聞き取れる、話せる…
その理由を深く考える余裕はない。
「ここがあたいの魚屋さ、旦那が獲ってきた魚を売っている。旨い魚がたくさんあるよ」
案内されるまま店内に入った。ケースに入れられた魚は、どれも見たことがない不思議な形の魚だ。オバケのような海老やイカに驚き、巨大な貝類などに圧倒された。漁師の息子でそれなりの魚の知識があったが、ここは別世界なのだと思い知らされた。
しばらくボーっと眺めているとケイから声がかかった。
「こっちにおいで、そこに座わりな」
呼ばれた方を向くと木製のテーブルとイスがあり、その奥には小さな厨房が見えた。座った椅子の壁横に鏡があった。覗くと若い男の顔が映っている。思わず声を上げた。
「お前は誰だ!!」
突然、後ろから誰かが話しかけてきた。振り向くと筋肉質の大柄な男が立っていた。
「おいおい、自分の顔も忘れたのか? そいつは大変だなぁ~ ケイから聞いたぞ、記憶が無いと… まぁーそのうち思い出すだろう」
「その人は、あたいの旦那だよ」
「俺はベンだ、漁師をやっている。この魚は全部俺一人で獲った、凄いだろう」
「は、はい」
…とても人が良さそうな夫婦だなぁ、おかげで少し緊張が解けた…
…とりあえず混乱している頭の整理は後回しにしよう…
「この魚がいいかな」
ケイが選んだのは一番グロテスクな魚だ。その魚を大胆な包丁使いであっという間にさばいてみせた。
「まずは生で食べてみな」
刺身に塩が振りかけてあるシンプルな一皿だ。食べるのに一抹の不安を感じたが覚悟を決めて思い切って口に入れた。その瞬間、竹岡は思わず立ち上がっていた。
「うっ 美味い! 旨い! 美味い! こんなに旨いとは凄い!」
正直、こんなに旨味のある魚の刺身を食べたことがなく驚いた。そして、もっと驚いたのは竹岡自身の反応である。こんなに身体全体で表現したことがない。少し震えている。
「そう、旨いだろう、この魚。でも売っているのはうちの店だけさ。なんせ見てくれが悪いからね」
次は焼き魚だ。これも驚くほど美味しくて感動した。皮は香ばしく上品な味だ。骨もサックサクで旨い、これは残すところが無い凄い魚だ。
立ち上がり叫んでいた。
「凄い 凄い! うますぎる!」
お腹が満たされたら少し気持ちに余裕が出来た。色々と聞いてみることにした。
「お店の外に数本ある奇妙な高い塔はなんですか? 戦争用ですか?」
「戦争用とは違う。あれは異世界から来る者を見つける為の監視塔だ」
救世主お迎え塔という名の監視塔で、各貴族で競うように建てて見張っていたが、転生者は何十年も発見されていない。現在はすべての貴族が塔から監視員を撤退させていた。そろそろ取り壊しになるという噂がある。
これを聞いた竹岡は、監視される恐怖を感じた。日本という異世界から来たことは隠し通し記憶は戻らないままにしておこうと決めた。何も知らないのは本当の事なので記憶喪失という状態にしておくのは好都合だ。
記憶喪失を利用して、ベンから基本的な情報を聞くことが出来た。
この国の名前は、『グルンジ王国』で、ベルナード・ファン・グルム国王一族と貴族が統治している小国だ。建国時に創設した年号は天海聖、現在は天海聖暦769年。東は海、西と南北には火山があり、その火山がある地形が自然の要塞になっている。唯一南側は、かつて敵対していた『ビルト王国』がある為に火山と火山の谷間に要塞と擁壁が造られている。
今居るここが、東の湾岸都市である王都で人口が密集している。都市の郊外には豊かな農地が広がり、その奥には美しい沢山の湖や沼があり、さらにその奥には大森林が火山近くまで続いている。自然に恵まれた素晴らしい環境らしい。
日本人が考える文明機器と云われるものは無いようだが、魔石を利用した様々な魔道具が発明されてから生活レベルが一気に向上したようだ。
姿が見えなかったケイが戻ってきた。
「あんた、これからどうするのさ? 記憶が戻るまで、ここの2階の物置部屋に泊めてあげるよ」
「ほら、服と靴だよ。旦那のお下がりで大きいけど、後で着替えな」
…なんて優しい人だ、ありがたい…
「ありがとうございます! 記憶が戻るまで、漁師の仕事も魚屋の仕事もなんでも手伝います」
「とりあえず1ヶ月は何もしなくてもいいよ。1ヶ月しても記憶が戻らなかったら仕事を手伝ってもらうさ。それまで、色々な事を見て聞いて覚えておきなよ」
「そうだ、自分の名前を思い出すまで仮の名前が必要だわね。何か考えてみな」
小学生時代の竹岡は、同級生に一進の「進」の漢字と当時流行っていたアニメのタイトルからゴウと呼ばれていた。
「ゴウと呼んで下さい」
「ゴウね。呼びやすいわ。よろしく」
「ゴウか。よろしくな」
「お世話になります。よろしくお願いします」
「暗くなったね、そろそろ2階で休むといいわ」
「色々あって疲れただろう」
ケイに案内されて2階の物置部屋に向かった。右手に木製スーツケース、左手に着替え用の衣類と靴を持って階段を上ったが、何故か身体は軽かった。部屋は整頓されていて想像していたより綺麗だった。木箱を並べた上に平板を置き、寝具を敷いてベッドになっていた。本当にありがたい。
「魔道器具の説明をしておくよ。ライトは魔石の触り方で光の量が変わる。温調器は中に入れる魔石の組み合わせで温度も湿度も調整できる。今日は、あたいが調整しておいたけど慣れれば簡単さ、ゴウも後でやってみな」
「はい」
「あっそうだ、階段下にシャワー室があるからね。いつでも使っていいからね。魔石に触れると水もお湯も出る。慣れるまで色々やってみな。じゃーね おやすみ」
「色々ありがとうございます。おやすみなさい」
一人になったゴウは、窓の外の街灯に薄っすらと照らされた街並みをしばらく眺めていた。あぁ、ここはやはり異世界なのだと納得するしかなかった。
次に、自分のいる物置小屋を眺めなおした。沢山ある大小の木箱は綺麗に重ねて整頓されている。その木箱は店舗で魚を入れてあった箱と同じ物だ。おそらく予備用だろう。棚には、魚を入れた木箱の中に入っていた魔石と同じ物が綺麗に並んでいた。
部屋の物は勝手に使って良いというので、箱を重ねて机と椅子の代用の家具にした。その机の上に日本からの唯一の財産の木製アタッシュケースを載せた。これは、大破した父の漁船の残骸だ。板を乾燥させゴウが自分で手作りしたものだ。
開けてみた。
「うわー!」
生の中華麺が散乱していた。
そうだ、あの日、4人の先生に会議が終わった後に新作ラーメンを食べていただく予定だった。その為に富多師匠に試作を依頼した5種類の麺だ。麺はビニール袋に入れたはずだが袋は消えていた。
木箱に魔石と麺を入れてみよう。先ほど聞いた話では、木箱に魔石と魚を入れておくと、魚は傷まず、腐らず、乾燥もせず、瑞々しいままで何年も保存できるらしい。
…麺も保存できるといいな…
「あった、俺の宝物!」
散乱した麺の下には、ゴウが一番大事にしていた『富多康明語録帳』があった。ゴウが師匠と仰いだ富多康明氏の講演会で聞いた内容や直接いただいたアドバイスなどを書き記した何冊ものノートを綴じ込んだものだ。紙はボロボロだが読めたので安心した。
そして、もう一つ入っていたのは、婚約指輪だ。あの日の会議に参加した先生の中の1人、山本渚とは5年付き合っていた。会議の日の夜に、港が見渡せるホテルのスイートルームとバーの特等席を予約していた。そこでサプライズ、結婚を申し込む予定だった。もっとも渚がその気配を薄々感じていたのは分かっていた。幸福な一夜が訪れるはずだった。
これらケースの中身の物は、異世界から来た転生者だと発覚してしまうのでベッドの土台替わりにしてある木箱の中に隠した。
転生前の日本での自分の人生を振り返ると、子供時代に両親と死別したことなど数々の不運に見舞われたが、ラーメン屋という仕事に出会ってからの10年間は充実した幸福な人生だったと思う。
唯一の未練は、渚と結婚できなかったことだ。
気がかりなのは、あの日に高台の研究室にお呼びした渚を含む4人の先生の安否である。俺があの場所にお呼びして、あの建物に引き留めた為に…本当に申し訳ないと思って落ち込んだ。
けれど、スーツケースの中身を見たら元気が出てきた。この異世界でラーメン屋を開くという夢が湧いてきた。だって鏡を覗くと、とても若い自分がいる。なんでも出来そうだ。
決めた! この異世界で、ゼロからの挑戦を思いっきり楽しんでやる!
まずはシャワーを浴びてスッキリしよう…
階下のシャワー室に入ると、自然に魔石が光り部屋が明るくなった。そこには仕切りの無いシャワーブースが2つ並んでいた。左側のブースに入り赤と青の魔石に触れるとお湯と水が出てきた。簡単に温度調節が出来たが、身体中の傷がヒリヒリするのには参った。
そこに突然、ケイが裸で入ってきた。ケイの肉感的な裸体を見てしまった。
「ひぇー」
慌ててケイの裸体を見ないように背を向けた。
「すみません、遅い時間にシャワーを使って。直ぐに出ます」
「違うさ、ゴウがシャワーを浴びている音がしたので来たのさ。大事な事を教えるのを忘れたから。左にある緑の魔石にしっかり触れてみな、癒し薬がシャワーに混ざって出てくるよ。ゴウの身体の傷が治ると思ってさ」
言われた通り緑の魔石に触れると、シャワーの水が薄緑色に変わった。しばらく浴びていると身体が癒されているのが分かった。傷でガサガサだった肌がツルツルしてきた。
凄い効果だと驚いていると、ベンがムキムキの裸体で入ってきた。
「どうだゴウ、緑のシャワー気持ちいいか」
「ケイの裸を見たな! 良い身体だろう ははは!」
「み、見てないです!」
「あんた、ゴウのお尻を見て、ツルツル、ピッカピカ! 触りたいね」
「ケイがゴウのお尻に夢中だぞ」
「2人ともからかうのを止めてください」
「ははは」「あはは!」
「悪い、悪い、からかい過ぎた」
シャワーを終えて、急いで2階の部屋に戻ったゴウは考えた。初めて会った人間に、食事も寝床も提供して、さらにはシャワー室に夫婦揃って裸で入ってくるとは無防備過ぎないか…と。世話してあげた相手が悪い奴だったら危ないと要らぬ心配をしてしまった。
後で聞いた話で、この国でこの夫婦に悪さをする奴はいないと納得した。5年前まではベンもケイも王家の近衛兵で、団長と副団長という地位だったらしい。2人の剣の腕前はグルンジ王国で10本の指に入ると云われていたようだ。特にケイは男性でも勝てない強さの為に言い寄る猛者はいなかった。だが、ベンだけは違ったようだ。ベンの5回目のプロポーズを受けて2人は結婚した。王国中で話題になった話だ。それに伴い近衛兵団を退団し漁師と魚屋になった経緯の惚気話をベンから何度も聞かされた。とにかく人の良い豪快な夫婦だ。
さすがに疲れが出て、ベッドに寝転がったと同時に睡魔に襲われた。




