ここにいていい気がした
バルザさんとの修行が始まって、数日が経った。
最初に思ったのは、うるさい、だった。
「遅ぇ!」 「踏み込みが甘ぇ!」 「今のは悪くねえ! でも次で台無しだ!」 「剣に振られてんじゃねえ、振れ!」
訓練場じゅうに響く声は、通りの向こうまで聞こえていそうだった。
ラエルさんとは真逆だ。
あの人は間違っているところだけを短く切る。必要なことだけ言って、あとは勝手にやれ、という顔をしている。
バルザさんは違った。褒めるし、煽るし、笑うし、駄目な時は派手に呆れる。手本まで見せる。良くなったところも悪くなったところも、いちいち言葉にする。
「そうだ、その足運びだ。今のは剣を振ったんじゃねえ、ちゃんと前に出た」 「……はい!」 「声が小せぇ! 良くなったと思ったらすぐ戻るぞ」 「はい!」
返事まで大きくしろと言われたのは、正直よく分からなかった。
でも、嫌じゃなかった。
土の上に足を置く位置。踏み込んだ後、どこまで体重を乗せるか。打ち込んだ後にどう戻るか。ラエルさんに言われた「足が死んでる」「止めることを覚えろ」が、バルザさんの説明で少しずつ形になっていく。
どっちの言葉も必要だった。
片方だけじゃ、今の俺には足りない。
ある日、いつものように木剣で打ち込みを繰り返していると、バルザさんが急に言った。
「炎、乗せてみろ」
思わず手が止まる。
「ここで、ですか」
「ここ以外でいつやる」
もっともだった。
俺は木剣を握り直し、熱の感覚を探る。まだうまくできる自信はない。素手で炎を出すのとは違う。剣に、しかも振る動きと合わせて乗せるとなると、頭の中で掴むものが一気に増える。
「全体を燃やそうとするなよ」
バルザさんが腕を組んで言う。
「刃全部を包む必要はねえ。まずは打つ瞬間だけでいい。お前の炎は残るんだろ。なら、派手さより触れた後だ」
分かっているつもりだった。でも、やってみると全然違う。
踏み込む。振る。熱を乗せる。
その三つを同時にやろうとした瞬間、炎は剣先ではなく手元に偏って、柄の近くからぼわっと膨らんだ。
「うわっ」
「馬鹿、そこじゃねえ!」
バルザさんが笑いながら、木剣の腹で俺の腕を軽く叩く。痛いというより、情けない。
「今のは剣を燃やしただけだな」 「分かってます……」 「分かってるなら二回目で直せ」
そう言われると、悔しくて黙るしかなかった。
もう一度構える。
今度は、刃の先じゃない。打ち込む瞬間、当たる場所だけ。頭ではそう思うのに、やっぱり簡単にはいかない。炎は出る。出るけれど、剣の動きと噛み合わない。
それでも何度か繰り返すうちに、一度だけ、打ち込みの瞬間に薄く赤い線が走った。
ほんの一瞬。刃の軌道をなぞるみたいに、炎が乗ったのだ。
「今のだ!」
バルザさんが笑う。
「ほら見ろ、できるじゃねえか!」
その声に、胸の奥が少し熱くなる。
ラエルさんに褒められたことなんて、ほとんどない。鍛冶屋の親父だって、褒める時は「最初よりはマシ」くらいだった。
こうやって、できたことを大きい声で拾われると、変な感じがした。
「でも、まだ一瞬です」 「最初はそれでいい。残る火なら、触れた瞬間に乗れば十分意味がある」
バルザさんは自分の剣を肩に担ぎながら言う。
「お前の火は便利な炎じゃねえ。扱いにくい分、ちゃんと形にした時は面倒臭ぇ武器になる」
便利じゃない。
その言い方が、少しだけ嬉しかった。
修行が終わると、そのままバルザさんの店へ戻る日が増えた。
最初はただついて行くだけだったけれど、ある日、店先の箱を運ぶのを手伝った時に、バルザさんが何でもない顔で言ったのだ。
「どうせ昼から宿でぼけっとしてんだろ。店番くらいしろ」 「……働いていいんですか」 「嫌ならしなくていい」 「嫌じゃないです」 「じゃあ決まりだ。荷運びと店番。金は出す」
それだけで話は終わった。
俺にとっては、それで十分だった。
鍛冶屋の町を出てからも、自分で稼ぐ線が切れないのが、妙に嬉しかった。
バルザさんの武具店は、外から見るとそう大きくない。
でも中へ入ると、壁という壁に武器が掛かっている。剣、短剣、槍、斧、盾。奥の棚には手入れ道具や革紐、油壺、予備の鞘まで並んでいた。
「ただ置いてるだけじゃねえぞ」
初日に俺がぽかんとしていると、バルザさんが言った。
「武器は飾りじゃない。誰が何に使うかで、置くもんも見せ方も変わる」
それから本当に、少しずつ違いが見えるようになった。
護衛崩れみたいな男は重い片手剣を手に取るし、足の速そうな女は短めの槍を選ぶ。天使族の若者が軽い剣を見ていけば、獣人の傭兵は刃の厚い斧を見たがる。
バルザさんは、客が武器を握った時の手つきや立ち方を一目見るだけで、だいたい何が合うか分かるらしかった。
「そっちは重すぎる」 「え、まだ振ってもないだろ」 「見りゃ分かる」 「分かるかよ」 「俺は分かるんだよ」
そう言って、別の剣を押しつける。
客が半信半疑で振ると、大抵そっちの方がしっくり来る。
悔しいけど、すごかった。
俺は荷運びをしながら、店番をしながら、そういうのを横で見て覚えた。武器の重さだけじゃない。柄の太さ、刃の重心、鞘から抜く時の引っかかり。鍛冶屋では「作る」側の火を見ていたけれど、ここでは「選ぶ」側の目を学んでいる感じがした。
客層も色々だった。
腕っぷしの強そうな護衛、怪我だらけの傭兵、依頼帰りらしい二人組。中には、明らかに最近武器を買い替える人間が増えているような日もあった。
「今日はやけに客が多いですね」
荷物を棚に戻しながら言うと、バルザさんは刃を拭く手を止めずに答えた。
「そういう日もある」
それだけだった。
でも、最近は武器を見に来る人間が前より増えている気がした。
朝起きると、ラエルさんがもう部屋にいないのも、完全に日常になっていた。
最初は、目が覚めた時に隣の気配がないだけで少し落ち着かなかった。今は、ああ今日も先に出たんだな、と思うだけだ。
机の上に置きっぱなしになっているものが、前より増えた。
細い銀の針みたいな道具。見たことのない材質の板。黒い縁取りのされた紙。魔法陣の一部みたいな図が描かれたメモ。
どれもラエルさんの物なんだろうけど、どこか宿の備品じゃない感じがする。明らかに、この街に来てから増えたものだ。
ある朝、机の上に並んだ透明な小瓶を見て、思わず言った。
「エルヴァルさんのところですか」
出かける支度をしていたラエルさんが、一瞬だけこっちを見る。
「……多いな」
肯定とも否定ともつかない返事だった。
でも、それで十分だった。
このよく分からない器具も、この街でのラエルさんの「用事」も、多分あの研究者に繋がっている。
ラエルさんが何をしているのか全部は分からないままでも、少しだけ輪郭が見えてきた。
変わったのは距離じゃない。
多分、俺の方だ。
カエルムの道にも、少しずつ慣れてきた。
最初は門をくぐっただけで圧倒されていたのに、今はバルザさんの店まで迷わず行ける。途中にある果物屋の親父が朝は機嫌が悪いことも、昼過ぎになると焼き菓子の店から甘い匂いが流れてくることも覚えた。
天使族とすれ違っても、立ち止まらなくなった。
もちろん、目に入らないわけじゃない。背中の翼は今でも目立つし、陽の当たり方で羽の色が違って見えるのも不思議だ。でも、もうそのたびに「天使族だ」と身構えることはない。
獣人もいる。耳の長い種族もいる。人間もいる。
誰も彼もが混ざって歩いているうちに、ここではそれが普通なんだと、ようやく体の方も覚えてきた。
訓練の帰りに、一人で串焼きを買うこともある。
武具店の向かいの店主に「今日は親父いねえのか」と聞かれることもある。
そういう小さなことが増えるたびに、ここに自分の足場が少しずつできている気がした。
その日の修行も、日が傾く頃にはへとへとだった。
木剣を振る腕は重いし、踏み込みのたびに腿が笑う。最後の方なんて、自分でも分かるくらい足運びが雑になって、バルザさんに「おら、今のは昨日の自分に負けてるぞ」と笑われた。
「それ褒めてます?」 「奮起を促してんだよ」 「うるさいだけじゃないですか」 「口が回るならまだ動けるな。店に戻って閉めるぞ」 「働かせすぎじゃないですか」 「金を払ってんだから当然だろ」
店へ戻る頃には、空が赤くなっていた。
その日最後の客を見送って、俺が戸板を下ろすのを手伝っていると、バルザさんがふと思い出したみたいに言った。
「今日は飯にするか」
「飯?」
「ああ。エルヴァルとラエルも呼ぶ」
まるで、思いついたからそうする、くらいの軽さだった。
「呼ぶって、今からですか」 「今からだ」 「急すぎません?」 「急じゃない飯なんか面倒だろ」
よく分からない理屈だった。
でもバルザさんはもう、その場で店の奥から紙と炭を引っ張り出している。乱暴な字で何かを書きつけ、それを折ると、店先を掃除していた近所の小僧に銅貨を一枚渡した。
「これ、エルヴァルのとこ」 「またかよ」 「嫌なら返せ」 「行きますよ!」
小僧は文句を言いながらも、嬉しそうに走っていく。
「ラエルさんも?」 「エルヴァルのとこにいるなら勝手に来るだろ」
勝手、で済ませる関係がもうよく分からない。
食事の場所は、店の奥だった。
普段は木箱や油紙に包まれた品を置いている小部屋らしいが、簡単な卓と椅子を出せば十分四人座れた。バルザさんは店主なのに、料理もそれなりにできるらしい。でかい鍋で肉と豆を煮込みながら、片手間にパンを切っている。
「見てるだけか」 「手伝います!」 「じゃあ皿並べろ」
そういう言い方が、もうだいぶ慣れてきた。
少しして、表の戸が開く音がした。
最初に入ってきたのは、細身の男だった。淡い色の髪を無造作に後ろで束ねて、袖口にはインクの染みが残っている。
エルヴァルさんだ。
その後ろから、ラエルさんが入ってくる。
俺が「こんばんは」と頭を下げると、エルヴァルさんはこっちを一瞥して言った。
「君がルカか」
「はい」
「そう」
それで終わった。
やっぱり愛想はない。でも、この人はこういう人なんだなと思える。
ラエルさんはそんなやり取りにも特に口を挟まず、店の中を一度見回した。
「珍しいな。お前が人を呼ぶのは」
「気が向いた」
バルザさんが鍋をかき混ぜながら返す。
「たまにはガキに、師匠連中の顔合わせでも見せとくかと思ってな」
「私は師匠じゃない」
「はいはい」 「でも俺の中ではそうです」 「ほら見ろ」
バルザさんが笑う。
ラエルさんはほんの少しだけ眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
席に着く。
卓上には、思っていたよりちゃんとした食事が並んでいた。硬そうなパン、肉と豆の煮込み、焼いた根菜、葉物を刻んだだけの簡単な皿。でも、量は十分ある。
「いただきます」
俺が言うと、バルザさんが「律儀だな」と笑った。
「悪いことじゃない」
意外にも、そう返したのはエルヴァルさんだった。
それからしばらくは、ほとんどバルザさんが喋っていた。
「今日はこいつ、ようやく炎を剣に乗せたぞ。ほんの一瞬だがな」 「ほんの一瞬って言わなくてもいいじゃないですか」 「一瞬は一瞬だろ」 「でも昨日より良くなってる」 「だから褒めてるじゃねえか」
笑いながら肉をちぎる。食事の場でも声がでかい。
ラエルさんは黙って聞いているだけだった。たまに短く返すが、それも必要な時だけだ。
「足運びは?」
とラエルさんが聞くと、
「まだ雑だが、変な癖は少ねえな」 「そりゃラエルさんが最初に言ってたから」 「私が言ったのは最低限だ」 「最低限であれなら十分だろ。お前のそういうとこが面倒なんだよ」
バルザさんが鼻で笑う。
ラエルさんは反論しない。ただ、煮込みを口に運ぶ手が一瞬だけ止まった。
仲が良いわけじゃないのは、何となく分かった。
喧嘩もしない。でも、言葉の端が少しだけ噛み合わない。
エルヴァルさんはそのやり取りを気にした様子もなく、パンをちぎりながら俺を見た。
「店の仕事はどうだ」
急に振られて、少し背筋が伸びる。
「えっと、荷運びと店番です。あと武器の場所を覚えたり」 「覚えたところで振れなければ意味は薄いが」 「おい、せっかく働いてんのに夢のねえこと言うな」 「事実だ」
エルヴァルさんは本気でそう思っている顔だった。
でも、その後に少しだけ言葉を足す。
「ただ、道具を知るのは悪くない。使う者の癖も見える」
それは、バルザさんがよく言うのに近かった。
「だろ?」 「同意しただけで、お前の手柄ではない」 「感じ悪ぃな、ほんと」
そんな会話を聞きながら、俺は少しだけ笑ってしまう。
食事の席に座っているだけなのに、不思議と居心地が悪くなかった。
この四人が一緒にいること自体が、少し変なのかもしれない。でも、その変さの中にちゃんと席があると感じるだけで、少し嬉しかった。
半ばを過ぎた頃だった。
バルザさんが肉を噛みながら、ふとラエルさんを見た。
「お前も感じてるんだろ?」
その一言で、卓の空気がほんの少しだけ変わった。
何が、とは言わない。
でも、さっきまで好き勝手に喋っていた声の調子が、少しだけ低くなる。
ラエルさんはすぐには答えなかった。
匙を持つ手が一瞬だけ止まる。目線が皿から動かない。ただ、それだけなのに、聞こえているのが分かった。
「何の話だ」
やがて返ってきた声は、いつも通り平坦だった。
でも、いつもの平坦さと少し違う気がした。押さえている、というか、最初からそこに壁を置いて話しているみたいな声だ。
バルザさんが鼻で笑う。
「そういう誤魔化し方が一番分かりやすいんだよ」
俺は黙って、二人を見た。
何の話なのか、本当に分からない。
でも、俺の知らない何かを、この三人は共有している。そんな感じだけははっきりあった。
エルヴァルさんがスープを一口飲んでから、面倒そうに言う。
「感覚論だけで騒いでも仕方ない。増えているのは事実でも、起点が測れない以上、結論は出ない」
ますます分からない。
増えている? 何が?
俺が問いかける前に、ラエルさんが短く言った。
「今は関係ない」
その言い方は、答えを拒んでいるというより、ここで話す気がないという感じだった。
バルザさんも、それ以上は追わなかった。
「まあいい。お前がそう言うなら、今日は流してやる」
肩をすくめて、またパンをちぎる。
空気は少しずつ元に戻っていった。
その後の食事は、確かに普通に終わった。バルザさんがまた俺の足運びをからかって、エルヴァルさんが「炎の記録だけは取りたい」と言って、ラエルさんが「勝手にしろ」と投げる。さっきの数呼吸の重さが嘘みたいに、いつもの調子に戻った。
それでも、俺の中には小さな引っかかりが残った。
何を感じているのか。
何が増えているのか。
どうして俺には話さないのか。
分からないことばかりだ。
食事のあと、帰り道でラエルさんと並んで歩きながら、結局一度だけ聞いてみた。
「さっきの、何の話だったんですか」
ラエルさんは前を向いたまま、少しだけ考えるような間を置いた。
「気にするな」
「でも」
「お前が今知っても、剣は上手くならない」
それは、多分正しい。
正しいけど、ずるい返し方だとも思った。
言い返したかったのに、できなかった。バルザさんの言葉でも、鍛冶屋の親父の言葉でも、ラエルさんのこういう言い方でも、時々その通りすぎて反論できなくなる。
宿に戻り、剣を壁に立てかける。
窓の外では、カエルムの夜がまだ起きていた。灯りが途切れず、人の声も完全には消えない。ここは安全な場所だと、少し前の俺なら思っただろう。
今も、そう思いたい。
そう思えるだけの居場所が、少しずつできてきたのも本当だ。
それなのに、食事の席で落ちたあの短い言葉だけが、喉の奥に小骨みたいに残っていた。
ベッドに横になって目を閉じても、消えない。




