空から来たもの
昼過ぎのカエルムは、今日も人で溢れていた。
店の前を荷車が通り、通りの向こうでは果物屋の親父が声を張り上げている。翼を畳んだ天使族の若者が連れと笑いながら歩き、その脇を獣人の女が革袋を抱えて急ぎ足で抜けていく。
少し前まで、その全部が「都会」だった。
今はもう、俺にとっては見慣れた日常の一部になりつつある。
「おいルカ、その箱、奥じゃなく右だ」 「右って、こっちですか」 「違ぇよ、そっちは修理上がりだ。売り物と混ぜんな」
店の奥から飛んできた声に、俺は慌てて箱を抱え直す。
「分かりにくいんですよ」 「分かりにくくしてねえ。覚える気が足りねえ」
今日もバルザさんはいつも通りだった。
午前中の修行で木剣を振らされ、昼からは武具店の荷運びと店番。足も腕もまだ少し重い。でも、こうして動いていると、自分がここでちゃんと役に立っている気がする。
箱を棚へ戻しながら、ふと表へ目をやった時だった。
通りを歩いていた女が、何かに気づいて顔を上げる。
次の瞬間、甲高い悲鳴が空気を切った。
「――きゃあああっ!」
反射的に、俺も外へ飛び出す。
空に、黒い影がいた。
鳥だった。
ただの鳥じゃない。翼がやけに大きく、羽の隙間から黒い魔力みたいなものが滲んでいる。嘴は金属みたいに尖っていて、羽ばたくたびに空気が濁る。
しかも一羽じゃない。
二羽、三羽――いや、もっといる。
「……なんだ、あれ」
喉の奥がひりついた。
見たことがない。でも、本能がすぐに答えを返してくる。
魔族だ。
いや、鳥そのものじゃない。鳥に、魔族の力が混じっている。そんな気配だった。
「下がれ!」
店の奥から飛び出してきたバルザさんが、通りに怒鳴る。
その声だけで、人が一斉に散った。荷車がひっくり返り、果物が石畳に転がる。悲鳴と足音が一気に増えて、街の空気が平和な昼から一瞬でひっくり返る。
一羽が急降下した。
黒い嘴を開く。喉の奥で、赤黒い光が膨らむ。
「まずい――!」
次の瞬間、そいつの口から、黒い魔力を帯びた炎が一直線に吐き出された。
向かう先にいたのは、逃げ遅れた母親と、まだ小さい子供だった。
頭より先に体が動いた。
右手を突き出す。熱を掴む。広げるな、当てろ、逸らせ――バルザさんに言われたことも、ラエルさんに言われたことも、何もかもが一瞬でごちゃ混ぜになる。
炎を撃つ。
俺の火は黒い炎の先端へぶつかり、そこで弾けた。
真正面から相殺したわけじゃない。ぶつかった瞬間、軌道がずれた。黒い炎は母子の頭上を掠め、背後の石壁に叩きつけられて、爆ぜるように燃え広がる。
熱風が頬を打った。
でも、当たっていない。
母親が子供を抱きしめたまま、その場に崩れ落ちるのが見えた。
守れた。
その実感が来るより先に、バルザさんが動いていた。
「ルカ! 余所見すんな!」
怒鳴り声と同時に、バルザさんの体が地面から消えたみたいに見えた。
次に見えた時には、もう店の屋根の上だ。
剣が抜かれる音が、遅れて耳に届く。
修行中に見ていた動きとは、まるで違った。
大きい。速い。無駄がない。
一羽目が嘴を向けるより先に、バルザさんの剣が翼の根元を斬り飛ばす。黒い羽と血がばらまかれ、魔鳥の体が傾いたところへ、返す刃が首を断った。
そのまま落ちてくる死体を足場みたいに蹴って、二羽目へ飛ぶ。
魔鳥が爪を振り下ろす。バルザさんは避けない。半歩だけ懐へ入って、振り上げた剣で胸から真っ二つに裂いた。
落ちる。潰れる。石畳が黒い血で濡れる。
通りの向こうでは、別の一羽が天使族の男へ襲いかかっていた。男は翼で子供を庇っているが、間に合わない。
「ちっ」
舌打ちが聞こえた。
バルザさんが路地の看板を蹴り、横っ飛びみたいに飛ぶ。剣が一閃する。鳥の嘴が吹き飛び、そのまま勢いで壁に叩きつけられた魔鳥を、上からもう一度斬り伏せた。
土煙が舞う。
ほんの数呼吸だった。
さっきまで空を埋めていた黒い影は、もう動いていない。
俺は剣も抜けないまま、その一部始終を見ていた。
これが、本気。
木剣で打ち込みを見せてくる時とも、店でだらけた顔をしている時とも違う。剣を振るうために無駄なものを全部削ったような動きだった。
「怪我は!」
バルザさんが通りへ怒鳴る。
最初に守った母親が、震えながら何度も頷いた。
「た、助かりました……っ、本当に……!」
別の場所でも、天使族の男が子供を庇ったまま、呆然とバルザさんを見上げている。
「ありがとうございます……!」
感謝の声が上がる。
けれど、その全部が同じ顔ではなかった。
遅れて駆けつけた兵士たちの中に、翼持ちの兵がいた。その視線は、倒れた魔鳥より先にバルザさんへ向く。
「……またお前か」
低い声だった。
助けられたはずの場で、歓迎ではない音が混じる。
バルザさんは剣の血を払うだけで、何も返さない。
「飛行型だ。城壁は意味を成さねえ。上を見張れ」
短くそれだけ言う。
兵士の一人が眉をひそめた。
「命令する立場か、魔族」
「してねえ。教えてやってんだよ」
空気が、一瞬だけ冷える。
それでも、さっき助けられた母親は、兵士の顔色なんて見ずに頭を下げ続けていた。
同じ行動なのに、見ている側で意味が変わる。
俺はその真ん中に立っていた。
――同じ頃。
私がエルヴァルといたのは、王都の北区にある研究棟の外だった。
あれの記録を取るだの、封印術式の古文書と照合するだの、あいつは相変わらず面倒なことばかり言っていた。
「昨日の数値と合わない」
エルヴァルが手元の板を見ながら言う。
「増え方が早すぎる」
「誤差ではないのか」
「そうであってほしいな」
そう返した直後だった。
上空を、大きな影が横切る。
見上げた瞬間、私は息を止めた。
竜。
そう呼ぶしかない輪郭だった。だが、ただの竜ではない。鱗の隙間を黒い魔力が脈打つみたいに走り、翼膜の端が裂けた影みたいに揺れている。
魔族との融合型と言う所か。
エルヴァルが息を吐いた。
「間違いなく、影響が出てるな」
私は答えず、魔竜から目を離さなかった。
巨体が旋回する先に、人の多い通りがある。
「……止めるしかない」
それだけ言って、前へ出る。
水を顕現する。
圧縮...放出。
三本の水刃が空気を裂き、魔竜の右翼と首筋を貫く。手応えはあった。鱗も肉も断った。だが、巨体は止まらない。黒い魔力が傷口を覆い、そのまま無理やり繋ぎ直していく。
埒が明かない。
エルヴァルが後ろで言った。
「魔力の無駄だな」
「そのようだ」
相手が大きすぎる。再生も早い。点で切るだけでは足りない。
魔竜が旋回しながら口を開く。喉の奥で黒い炎が膨らむ。あれを街に吐かせるわけにはいかない。
私は右手を振り上げ、今度は数で押した。
圧縮した水刃を十数枚、一気に生み出す。扇状に広げ、口腔へ向けて撃ち込む。上顎、下顎、喉元。切断というより、吐く形を壊すための連撃だ。
魔竜の顎が裂けた。
けれど、完全には間に合わない。
黒い炎が漏れる。
私はそのまま左手で大量の水を生み出し、壁のようにぶつけた。
轟音。
蒸気が街路を白く埋める。黒い炎と水がぶつかり、濁った霧が一気に膨れ上がった。その向こうで魔竜が吼える。喉を潰された怒りか、再生の痛みかは分からない。
再生は続いている。
なら、鈍化させる。
蒸気越しに残る水の感触を辿り、そこへ雷を走らせた。
青白い閃光が霧の中を網みたいに走る。
魔竜の巨体が痙攣した。
麻痺。
それだけで倒れるほど甘くない。でも、一瞬止まる。それで十分だ。
私は間髪を入れず、水の柱を十本、いや十二本。圧縮して細くし、鱗の隙間へ打ち込む。翼の付け根、首、胸、関節。さっきより深く入る。雷で固まった巨体が、ようやく石畳へ落ちかける。
だが、それでも終わらない。
黒い魔力が再び膨らみ、無理やり肉を繋ぎ直そうとする。
まだ足りない。
私は一度だけ、呼吸を整えた。
普段ならば、必要ない。
必要ないからこそ、意味がある。
喉の奥から、言葉を落とす。
「変換 発散 雷鳴」
魔竜が足掻く。
体の中の魔力が、言葉を条件に一段深く沈み、次の瞬間には鋭く立ち上がる。詠唱は枷だ。枷だからこそ、外した時より強くなる。
頭上に雷光が凝縮する。
魔竜が再生しかけた首を持ち上げる、その一瞬を狙って、私は手を振り下ろした。
轟雷が、街を白く染めた。
音は遅れて来た。
巨大な柱みたいな雷が魔竜の頭から胴体を貫き、黒い魔力ごと内部を焼き切る。再生に使われていた魔力の流れが一瞬で断ち切られ、巨体が石畳へ崩れ落ちた。
焦げた臭いと、蒸気と、雷の残光だけが残る。
しばらく、何も動かなかった。
「……疲れたな」
私がそう吐くと、エルヴァルが横から残骸を見下ろした。
「鳥どころか竜まで混ざるか」
声に、嫌な納得が混じっていた。
私が答える前に、通りの向こうから複数の足音が近づいてくる。鎧の擦れる音。翼の羽ばたき。遅れて駆けつけた天使側の兵だ。
「動くな!」
先頭の天使族の兵が声を張る。視線は私たちではなく、まず石畳に倒れた魔竜の残骸へ向いていた。焼け焦げた鱗、裂けた肉、周囲に走る雷の痕。あまりにも派手な戦闘跡だ。見れば、誰だって立ち止まる。
「……誰がやった」
低い問いだった。
責める響きではない。だが、警戒は隠していない。
私は口を開きかけて、隣の気配が一歩前に出るのを感じた。
「私たちです」
エルヴァルが、いつもの平坦な声で言った。
兵たちの視線が一斉に集まる。その中に、エルヴァルを知っている顔が混じっていたのか、一人がわずかに眉を動かした。
「エルヴァル殿……?」
「ええ。研究棟の外で遭遇しました。私の術式と、こちらの魔法で対処しています」
こちら、と言う時だけ、エルヴァルは少しだけ顎を引いた。私の方を示すようでいて、詳しくは触れない言い方だった。
「術式?」
「拘束と観測の補助です。主な火力は彼女ですが、単独で落としたわけではありません」
さらりと、分散させる。
完全に隠すのではなく、事実を散らして、中心を曖昧にする。エルヴァルらしいやり方だった。
兵は残骸と私たちを見比べる。
雷の痕跡。切断面。焼け焦げた内部。どう見ても、普通の応戦ではない。
「詳細を聞かせてもらう」
「構いません」
エルヴァルはあっさり頷いた。
「ただ、見る通り不安定な素材です。近づきすぎると残留魔力に触れますよ」
その一言で、兵たちの足が半歩だけ止まる。嘘ではないし、警告としても正しい。だが、同時に主導権を少しだけこちらへ引き戻す言い方でもあった。
事情聴取は長くは続かなかった。
どこで遭遇したか。いつ現れたか。どう対処したか。エルヴァルが答え、私は必要最低限だけ補足する。兵たちの目は終始厳しかったが、エルヴァルの名前があることで、露骨に疑われるところまでは行かない。
ただ、一人だけ、若い天使族の兵が最後まで私を見ていた。
研究者の連れにしては、妙に強い。
そう顔に書いてある視線だった。
「協力に感謝する」
形式的な言葉を残して、兵たちは残骸の周囲へ散っていった。封鎖と確認に入るつもりなのだろう。
その背を見送ってから、私はようやく息を吐いた。
「……助かった」
率直に言うと、エルヴァルは手元の板へ何かを書き込みながら答えた。
「お前に協力してもらわなければ実験が進まない」
礼と打算が、同じ声で並ぶ。
それでいいと思った。そういう関係だから、ここまで続いている。
私は残骸へ目を戻した。
黒い魔力が、まだ鱗の割れ目で微かに脈打っている。死んでいる。だが、消え方が妙だった。自然に生まれた魔族ではない。何かを継ぎ足し、無理やり形にしたような濁りがある。
「……あの封印か」
私が呟くと、エルヴァルが頷いた。
「緩んでいる」
短い断定だった。
「漏出量が増えているだけじゃない。質も変わってる。従来なら成立しなかった融合が、力押しで成立している」
鳥どころか竜まで混ざる。
飛行型の融合魔族。しかも、城壁を越えて王都へ直接来る規模の個体。
偶発で出てくるには、出来すぎていた。
「魔鳥も、これも」
私は残骸を見下ろしたまま言う。
「封印の緩みそのものか、それに乗じた実験の産物だろう」
「私もそう見る」
エルヴァルは淡々としていたが、言葉の端だけが重かった。
「どちらにしろ、段階が一つ進んだな」
その通りだった。
昨日までの異変は、まだ“兆候”だった。身体が軽い。魔力が増した気がする。そういう、制御する側にしか分からない不気味さだった。
だが、もう違う。
こんなものが、実際に空から降ってきた。
しかも、カエルムの中へ。
私は昨夜、何の話だ、ととぼけた。
バルザの言葉を切った。
――答えは、これだ。
戦争は、もう次の段階へ踏み込んでいる。
まだ街は、その形を正しく知らない。
ルカも知らない。
だが、知らないままでは済まなくなる。
焦げた臭いの残る風の中で、私はしばらく黙って立っていた。




