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魔族


 ラエルさんが戻ってきたのは、もう空がだいぶ暗くなってからだった。


 俺は宿の部屋で、窓の外の灯りを何度も見ていた。別に、いなくなったまま戻らないと思っていたわけじゃない。けれど、今までずっと一緒にいたせいで、待つというだけで妙に落ち着かなかった。


 扉が開く。


 いつも通りの顔で、ラエルさんが入ってきた。


「おかえりなさい」


「ああ」


 それだけ返して、椅子に腰を下ろす。外套の裾を払う動作までいつも通りで、本当に少し出ていただけみたいに見えた。


 でも、違うのだと思う。


 この街には、俺の知らないラエルさんの用事がある。


「……何してたんですか」


 聞くと、ラエルさんは少しだけ間を置いた。


「知り合いに会っていた」


「知り合い」


「ああ。研究者だ」


 研究者、という言葉はラエルさんによく似合う。宿の机に積まれていた本や紙束、薬草の匂いを思い出す。そういう顔で、この街の中を歩いていたのだろう。


「その人が、お前に剣を教えられる相手を紹介してくれた」


 思わず、背筋が伸びた。


「本当ですか」


「本当だ」


 ラエルさんは短く頷く。


「名前はエルヴァル。魔法研究をしている。私はしばらくあいつの研究に付き合う。その代わり、お前の剣の師を繋いでもらった」


 さらりと言ったけれど、俺には少し意外だった。


 ラエルさんが誰かに借りを作るみたいなことをするのも、その相手のために時間を使うのも、あまり想像していなかったからだ。


「……ラエルさんにも、そういう人がいるんですね」


「いることもある」


 はぐらかすような言い方だった。


 でも、否定しないだけ前より少しだけましな気がした。


「明日の昼前に行け。場所は紙に書いてある」


 そう言って、ラエルさんが机の上に小さな紙片を置く。地図とまではいかないが、目印になる建物と通りの名前が簡単に書かれていた。俺でも読めるくらいには、字が整っている。


「一人で、ですか」


「ああ」


 即答だった。


「私は行かない」


 少しだけ、胸の奥が空く。


 鍛冶屋へ通った時も、一人で歩くことはあった。けれど、それはあの小さな町の中での話だ。ここはカエルムだ。道は広いし、人は多いし、見たことのない種族だっていくらでもいる。


 それに、剣を教えてくれる相手がどんな人なのかも分からない。


 俺の顔に出たのか、ラエルさんは机に肘もつかないまま言った。


「迷うな。余計なものに気を取られるな。聞かれたことだけ答えろ」


「それだけですか」


「十分だ」


 それだけで一人で行けるなら苦労しない、と思ったけれど、口には出さなかった。


 ラエルさんは少しだけ俺を見て、それから視線を外した。


「嫌なら断ってもいい」


「え」


「剣を習うのはお前だ。私じゃない」


 その言い方は、突き放しているようでいて、選ぶ余地を残している。


 俺は紙片を見た。


 鍛冶屋で手に入れた剣が、壁に立てかけてある。まだ振れない。まだ何もできない。それでも、あれを持った時に、自分の足で一歩進んだ気がしたのは本当だった。


「行きます」


 言うと、ラエルさんはそれ以上何も言わなかった。


 翌日、俺は一人で宿を出た。


 剣を腰に下げて、ラエルさんに渡された紙を何度も見返しながら、通りを歩く。昨日よりは少しだけ人の流れが読めるようになっていたけれど、それでも、気を抜くとすぐ別の通りへ流されそうになる。


 大通りを一本外れるだけで、街の顔が変わるのも不思議だった。


 市場の喧騒が遠のき、本を積んだ店や、ガラス瓶を並べた店が増える。白い石造りの建物が多くなり、行き交う人間の服もどこかきちんとしていた。天使族の姿も目立つ。翼の擦れる小さな音が、近くを通るたびに耳に残った。


 ラエルさんの字を頼りに何度か角を曲がると、やがて街の端に近い、少し開けた場所へ出た。


 訓練場――と呼ぶには、少し雑な場所だった。


 石畳の途切れた先に、土の地面が広がっている。柵で囲われた一角には、木人や打ち込み用の柱が並び、隅には刃こぼれした武器が無造作に立てかけられていた。


 その真ん中に、一人立っている。


 最初に見た時、何の種族なのか分からなかった。


 大柄な男だった。肩幅が広く、立っているだけで場所を取る。髪は暗く、顔の片側には、皮膚の下を走るみたいな黒い模様が刻まれていた。目の色も妙だった。赤とも金ともつかない色が、こっちを真っ直ぐ捉えている。口元からは、人間にはない長さの犬歯が少しだけ覗いていた。


 見たことのない種類の圧だった。


 ただ、人間じゃない、とまでは分かっても、それが何なのかはすぐには結びつかなかった。カエルムにはいろんな種族がいる。昨日から、それを嫌というほど見ている。


 男は俺を見るなり、にやりと笑った。


「よう。お前がラエルの連れてきたガキか」


 声はよく通った。隠す気のない、自信のある声だ。


 俺は一歩だけ近づいて、止まる。


「……ルカです」


「バルザディーグだ」


 男は胸を張るみたいに名乗った。


「バルザ師匠でいいぞ」


 思わず瞬きをした。


 あまりにも自然に「師匠」が出てきたからだ。


 ラエルさんは、師匠なんていらないと言った。なのに、この人は自分からそう名乗る。


「えっと……でも」


「でも?」


「師匠はラエルさんだから、バルザさんでもいいですか」


 言ってから、少し変なことを言った気がした。ラエルさん本人は、一度も師匠だなんて認めていない。けれど、俺の中ではもう、そうとしか思えなかった。


 一瞬の沈黙のあと、バルザディーグは大きく笑った。


「はっ、良い弟子を持ってるじゃねえか、あいつ」


 あいつ、という呼び方に驚くより先に、その言葉の方が胸に残った。


 良い弟子。


 面と向かって言われると、なんだかこそばゆい。


「まあいい。呼び方なんざ何でもいい。剣を振る気があるなら、それで十分だ」


 そう言って、バルザさんは俺の腰の剣を見る。鍛冶屋の親父に作ってもらった、飾り気のない剣だ。


「ふん。初心者の癖に、悪くないもん持ってるな」


「町で打ってもらいました」


「見りゃ分かる。安物じゃねえが、見栄の張り方も知らねえ剣だ」


 褒めているのかけなしているのか分からない。


 バルザさんは俺の周りを半歩だけ回るように見て、それから唐突に言った。


「で、炎の方はどの程度だ」


「え」


「ラエルから聞いてる。消えねえ火だろ」


 そこで初めて、ああ、この人は本当にラエルさんの紹介なんだと思った。


 何も知らない相手じゃない。俺の能力のことまで、もう話が通っている。


「まだ、そんなにうまくは」


「うまい下手は後で見る」


 バルザさんはあっさり遮った。


「俺にその炎を打ってみろ」


 言葉の意味が、一瞬分からなかった。


「……はい?」


「炎だ。俺に向けて出せ」


 冗談を言っている顔じゃない。


 俺は思わず剣の柄を握りしめた。


「いや、でも……危ないです」


「危なくて結構」


「結構って」


「確認したいんだよ。お前が何を持ってるのかをな」


 それでも、足が動かなかった。


 目の前にいるのは、剣を教えてくれる相手のはずだ。そんな相手に向けて、いきなり炎を放てと言われて、はいそうですかとできるわけがない。


 戸惑う俺を見て、バルザさんは呆れたように肩を竦めた。


「殺す気でやれとは言ってねえ。掠らせるくらいでいい。どうせその程度じゃ死なねえ」


 死なねえ、という言い方が妙に引っかかった。


「……本当に、いいんですか」


「くどい」


 その一言で、逆に腹が決まった。


 俺は右手を前に出す。熱の感覚を掴む。小さく、浅く。まだ戦いで使えるほどじゃなくても、当てるだけならできるはずだ。


 指先から、細く炎を走らせた。


 炎はバルザさんの左腕に触れ、そのまま張り付くように燃えた。


 次の瞬間。


 バルザさんは、何でもないことみたいに、燃えた自分の前腕を肘の少し下から斬り落とした。


 ぼとり、と地面に落ちる。


 黒い魔力が傷口から噴き出すみたいに溢れ、切断面を覆う。肉が生える、というより、何か別のもので無理やり形を繋ぎ直していく感じだった。ほんの数呼吸のうちに、腕は元通りの形に戻る。


「……なるほど。確かに消えねえな」


 俺は動けなかった。


 知っている。


 この光景を、俺は知っている。


 馬車を襲った魔族。俺の炎が肩を掠めた時、そいつは燃えた肉を自分で剥がして、傷口を黒い魔力で塞いだ。


 あれと、同じだ。


 頭の奥で、あの日の悲鳴と血の匂いが一気に蘇る。焼けた村。崩れた荷台。爪。黒い影。俺の炎。切り落とされた肉。


「――魔族」


 喉が、勝手にそう言っていた。


 バルザさんは、再生したばかりの手を軽く握ったり開いたりしてから、何でもない顔で俺を見た。


「ああ、そうだが」


 あまりにも普通の返事だった。


 まるで、空が青いと言うのと同じくらい、当たり前みたいに。


 俺の足が、一歩だけ後ろへ下がる。


 頭の中では、分かっているはずだった。


 種族と敵味方は同じじゃない。全員が全員、同じじゃない。そういう話を聞いてきた。カエルムに来て、いろんな種族が混ざって暮らしているのも見た。


 それでも。


 感情の方は、そんなにすぐ追いつかない。


 村を焼いた魔族の影が、目の前の男の姿に重なる。馬車を襲った異形の爪が、再生した腕に重なって見える。理屈じゃなく、体が勝手に警戒してしまう。


 バルザさんは、そんな俺を見ても、顔色一つ変えなかった。


「それで?」


 短い声。


「……え」


「魔族だって分かった。それで、お前はどうする」


 突き放すでもない。慰めるでもない。ただ、本当にそれだけを聞いている声音だった。


 嫌なら帰れ。続けるなら剣を持て。


 そう言われているのと、ほとんど同じだった。


 俺の手の中で、汗がじわりと滲む。


 怖いと思った。


 正直に。


 目の前の相手が、さっきまでよりずっと分からなくなったからだ。強そうだと思っていた相手が、今は明確に、俺の中の「敵」の記憶に繋がってしまっている。


 でも、それで逃げたら、どうなる。


 また種族だけで決めるのか。見た目だけで、全部同じだと決めるのか。


 俺はあの日、憎まないと口にした。


 それは簡単なことじゃないと、今ようやく分かった。


 頭の中では決めていても、体は震える。心は勝手に後ずさる。嫌いだと思う前に、怖いが来る。


 それでも。


 それでも、ここで目を逸らしたくなかった。


 腰の剣に手をかける。


 鍛冶屋の親父に打ってもらった、まだ振れもしない剣だ。鞘越しの重さが、掌に少しだけ現実を返してくる。


 バルザさんは急かさない。ただ待っている。


 俺は一度だけ息を吸って、吐いた。


「……続けます」


 声は少しだけ掠れた。


 でも、自分の耳にはちゃんと届いた。


 バルザさんの口元が、ゆっくり歪む。


「そうこなくちゃな」


 次の瞬間には、さっきまでの重さが少しだけ引いた気がした。


「いいか、ルカ」


 バルザさんは足元に落ちていた、自分で斬り落とした腕の名残をつま先で脇へ転がす。


「魔族だから斬る、人間だから守る、そんなもんで剣を振るうならやめとけ。すぐ鈍る」


 低い声が、まっすぐ入ってくる。


「だが、目の前の相手が何をする奴か、自分の目で見て決めるってんなら――少しは面白くなる」


 言いながら、バルザさんは腰の剣を抜いた。


 抜かれた刃は、音まで重かった。無駄な飾りのない、ひどく実戦的な剣だ。


「来い。まずはそのへっぴり腰をどうにかする」


 俺は一瞬だけ目を見開いて、それから慌てて自分の剣を抜く。


 怖さが消えたわけじゃない。


 目の前の相手が魔族だという事実も、何も変わっていない。


 それでも、剣を握る手はもう逃げていなかった。


 土の上で向き合う。


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