城壁の向こうの街
町を出てから二日目の朝、俺は街道脇の開けた場所で、ぎこちない素振りを繰り返していた。
剣を持つたびに、まだ少しだけ胸が熱くなる。
鍛冶屋の親父に打ってもらった剣は、腰に下げて歩くだけでも存在感があった。持てない重さじゃない。でも、思った通りに振るには、体の全部が追いついていない。
ぶん、と一度振る。
次の瞬間、体が前に流れそうになって、慌てて踏ん張った。
「足が死んでる」
すぐ後ろから声が飛んできた。
振り向かなくても分かる。ラエルさんだ。
少し離れた岩に腰を下ろしたまま、こっちを見ている。手を出してくるでもなく、近づいてくるでもない。ただ、間違っているところだけを切り落とすみたいに言う。
「足?」
「振った後に重心が前へ逃げてる。切る前から終わってる動きだ」
言い方は相変わらず容赦がない。
俺は剣を握り直し、自分の足元を見る。確かに、さっきの俺は腕で振った勢いにそのまま引っ張られていた。
「もう一回」
言われて、今度は少しだけ膝を意識して振る。
さっきよりはましだったと思う。でも、止まる時に剣先がぶれた。
「振ることより止めることを覚えろ」
「止める……」
「当てた後、次がない。剣は勝手に戻ってこない」
淡々とした声。
けれど、その一言で分かることがあった。
ラエルさんは剣の形そのものを教えているわけじゃない。構えの型も、切っ先の角度も、何も言わない。その代わり、体の使い方だけはひどく正確に見ている。
足。重心。止まり方。
武器が何であれ必要になるところだけを、無駄なく指摘してくる。
俺は何度か振って、何度か止まり損ねて、そのたびに短い言葉を飛ばされた。
「肩で振るな」 「柄を握り潰すな」 「振る前に脇が開いてる」 「間合いに入る前に死角を晒すな」
その全部が、言われてみればその通りだった。
悔しいけど、分かる。
何度目かの素振りの後、息を整えながら俺は聞いた。
「……ラエルさん」
「なんだ」
「剣、使ったことあるんですか」
「ある」
即答だった。
でも、それで終わりじゃなかった。少しだけ間を置いてから、ラエルさんは前を見たまま続けた。
「私が使うのは大鎌だ」
思わず、手を止めた。
「大鎌?」
「ああ」
それだけだった。
大鎌。畑仕事に使うような道具しか思い浮かばない。けれど、ラエルさんの口から出ると、それは全然別のものに聞こえた。
魔法であれだけ強いのに、近くで振る武器まで持っているのか。
想像がつかない。
「……見てみたいです」
つい口に出すと、ラエルさんは少しだけこっちを見た。
「機会があればな」
ないと言われたわけじゃない。でも、今すぐ見せる気もない声音だった。
それ以上は踏み込めなくて、俺は黙ってまた剣を構えた。
何も知らない。
ラエルさんの強さのことも、魔法以外のことも、どこで何をしてきたのかも。
大鎌、というたった一言だけで、その知らなさを突きつけられた気がした。
同時に、今の俺じゃ剣の形だけ真似しても駄目なんだとも思った。
ちゃんと習う相手が、いずれ必要になる。
その感覚だけが、ぼんやり残った。
昼に近づくにつれて、街道を行き交う人の数が目に見えて増えていった。
荷車を引く商人、荷を背負った旅人、白い布を頭から被った巡礼みたいな一団。経由地の町へ向かう道よりも、ずっと流れが太い。
道そのものも整っていた。踏み固められた土の幅が広く、轍の数が多い。脇には簡素な道標まで立っている。
「もう近いんですか」
歩きながら聞くと、ラエルさんは短く頷いた。
「ああ」
その返事のあと、前方の空が少しずつ切り取られていくのが見えた。
最初は岩壁かと思った。
でも違った。
それは壁だった。灰白色の石を積み上げて作られた、見上げるほど高い城壁。経由地の町にあった木と石の継ぎ足しみたいな外壁とは、比べるまでもない。
その向こうに、塔の先端がいくつも突き出ている。
人の声が、遠くからでも分かった。荷車の軋み、呼び込みの声、金属のぶつかる音。門へ近づくほど、それらが一つの大きなざわめきになっていく。
「……すごい」
思わず、そんな言葉しか出なかった。
村とも、経由地の町とも違う。
ここには最初から、人がたくさんいる前提の空気があった。
門前にはすでに長い列ができていた。行商人らしい連中、旅人、武装した護衛、家族連れ。服装も、持ち物も、顔つきもばらばらだ。
そして、その中に――俺が今まで見たことのない姿が混じっていた。
背に白い翼を持つ種族。
人間と同じように服を着て、同じように列に並んでいるのに、肩越しに覗く羽があるだけで、まるで別の生き物に見えた。翼は飾りみたいに小さく畳まれている者もいれば、肩幅より広く張っている者もいる。髪の色も目の色も明るい者が多くて、陽の光を受けると妙に眩しかった。
「……あれが、天使族」
小声で呟くと、ラエルさんは前を向いたまま、
「ああ」
とだけ返した。
初めて見た。
魔族は見たことがある。焼け跡と一緒に記憶に残っている。けれど、天使族をこんな近くで見るのは初めてだった。
もっと、何かこう、近寄りがたいものを想像していた。でも実際には、人間と同じように荷物を持って、同じように門番と話して、同じように街に入っていく。
ただ、人間と同じではないことも、翼があるだけで嫌でも分かる。
列が進み、俺たちの番が近づく。
その頃には、ラエルさんの雰囲気が少し変わっていた。
経由地の町で見た時とも違う。丁寧になる、というより、余計な引っかかりを一つも残さない形に整っている感じだった。姿勢も、歩幅も、声の置き方も、この大きな流れの中で不自然にならない位置に収まっている。
知らない土地に来た人の動きじゃない。
「身分証と滞在目的を」
槍を持った門番が言う。
横には、もう一人。そちらは人間じゃなかった。背中の翼を半ばだけ畳み、こちらをまっすぐ見ている。表情は薄いのに、視線だけが妙に鋭かった。
俺は少しだけ背筋を固くする。
ラエルさんは動じない。
「短期滞在です。私は研究資料の調達と確認をいくつか。この子は同行者になります」
言葉が淀まない。
門番は紙を受け取り、目を通す。何かを聞き返されても、ラエルさんは最初から全部想定していたみたいに答えた。
その間、俺はただ黙って立っているしかなかった。
やがて通行が許されると、ラエルさんは小さく会釈して歩き出す。俺も慌てて後を追った。
門をくぐった瞬間、世界の密度が変わった。
人が多い。建物が高い。道が広い。見上げる先に空があるのに、足元の方が先に埋まっていく。
石畳の通りの両脇には、店が隙間なく並んでいた。布を売る店、果物を山にして積んだ屋台、金具の並ぶ武具屋、香草の匂いが強い食堂。行き交う声も、足音も、荷車の音も絶えない。
そして、人間だけじゃない。
翼を持つ者が歩き、角の小さな獣人らしい種族が荷を運び、耳の長い種族が本を抱えて通り過ぎる。誰も彼も、ここではそれが普通みたいに混ざっていた。
俺は何度も立ち止まりそうになった。
「きょろきょろするな」
前から声が飛んでくる。
「だって……」
「迷うぞ」
それだけ言われて、俺は口をつぐんだ。
でも、きょろきょろしない方が無理だった。
通りの向こうでは、翼の大きな天使族が子供と手を繋いで歩いている。その横を、人間の商人が値段交渉しながら通り抜ける。空の上には、低く飛んで屋根から屋根へ移る影も見えた。
ここは、村とも町とも違う。
戦争の話でしか知らなかった「天使寄りの世界」が、目の前で普通に息をしている。
ラエルさんは、そんな中を迷いなく歩いていく。
宿を取る時もそうだった。
通りの一角にある中規模の宿へ入ると、ラエルさんは勝手知ったる様子で受付と話し、部屋と食事の手配を済ませてしまった。俺が周りを見回しているうちに、鍵まで受け取っている。
「来たことあるんですか」
階段を上がりながら聞くと、
「ある」
とだけ返ってきた。
それ以上は言わない。
でも、その一言だけで十分だった。
この街は、俺にとって初めてでも、ラエルさんにとってはそうじゃない。
部屋に入ると、窓から街の一部が見えた。石造りの屋根が重なり、その向こうに白い塔が覗いている。遠くからでも、人のざわめきが完全には切れない。
剣を壁際に立てかけ、ようやく息を吐いた時だった。
ラエルさんが荷物らしい荷物もないくせに、立ち上がる。
「少し出てくる」
「え」
思わず顔を上げた。
今まで、ずっと一緒に動いてきた。村を出てから、町でも、街道でも、鍛冶屋のあるあの数日間ですら、完全に別行動になることはほとんどなかった。
「どこに行くんですか」
「用がある」
短い返事。
それだけで終わりかと思ったら、ラエルさんは扉の前で一度だけ足を止めた。
「日が落ちるまでには戻る」
「あ、はい」
返事をした頃には、もう扉が閉まっていた。
部屋の中が急に静かになる。
窓の外はあれだけ賑やかなのに、ここだけ切り離されたみたいだった。
俺はしばらく、閉じた扉を見ていた。
大鎌。
初めて見る天使族。
この街に慣れた足取り。
そして今の、「用がある」の一言。
知らないことばかりだ、と思う。
ラエルさんは、俺の知っているラエルさんだけじゃない。
ベッドの端に腰を下ろすと、窓の外から鐘の音が低く流れてきた。
聞いたことのない街の音だった。




