はじめて買った剣
翌朝から、俺は毎日鍛冶屋に通うようになった。
まだ日が高くなりきる前の町は、夜の冷たさを少しだけ残している。通りに水を撒く音、店の戸を開ける音、遠くで鳴る荷車の軋み。そんな中を歩いて鍛冶屋へ向かう頃には、ラエルさんはもう宿にいないことがほとんどだった。
どこへ行ったのか、何をしているのか、聞いても多分あまり答えないだろうと思って、俺は最初から聞かなかった。
鍛冶屋の戸をくぐると、炭と鉄の匂いが鼻を打つ。
「遅ぇ」
親父さんはだいたい毎朝そう言った。
「まだ鐘も鳴ってないじゃないですか」
「炉番が火を起こす前に職人が来てどうすんだ」
理不尽だと思いながらも、もう言い返す元気はなかった。炉の前に立って、息を整え、手をかざす。最初の頃は小さく火を出すだけでも緊張した。気を抜くと勢いが強くなりすぎるし、弱くしすぎると炭の奥まで熱が届かない。
「強ぇ」 「はい」 「今度は弱ぇ」 「はい」 「だから極端なんだよ、坊主」
親父さんは容赦がなかった。
けれど、その容赦のなさがありがたくもあった。何が駄目で、何が足りないのかを、その場その場ではっきり言ってくれるからだ。
火を暴れさせない。炉の奥で、必要なだけ燃やし続ける。
昨日まで戦うためのものだと思っていた炎が、今日は鉄を温めるために必要になる。その違いが最初は不思議だった。
昼を過ぎる頃には汗で服が張りつき、腕も足もだるくなる。それでも、仕事が終わる頃には昨日より少しだけうまくなっているのが分かった。
二日目には、炎の出し始めを抑えられるようになった。
三日目には、親父さんが鞴を踏むタイミングに合わせて熱を強められるようになった。
四日目には、炉の中で火の芯を残したまま、周りだけ弱める感覚が少し分かった。
「最初よりはマシな顔になったな」
親父さんがそう言って、焼けた鉄を打ちながら鼻を鳴らす。
「顔ですか?」
「火だよ。お前の火、最初は喧嘩腰だった」
意味が分かるような、分からないような言い方だった。でも、なんとなく分かった。最初の俺の炎は、出るたびに何かを傷つける前提の形をしていたんだと思う。
仕事が終わると、親父さんは小さな革袋から銅貨を数枚取り出して、俺の掌に載せた。
「今日の分だ」
それは本当に少しの金だった。
でも、受け取った瞬間、妙に重かった。
初めて、自分で働いて手に入れた金だった。
宿に戻る道すがら、俺は何度もその銅貨を握り直した。落としていないか不安になって、何度も確かめた。たった数枚なのに、前より少しだけ自分の足で立てた気がしてしまうのが、不思議で、くすぐったかった。
夜、宿に戻ると、ラエルさんはもう部屋にいたり、いなかったりした。
いたとしても、机の上に薬草が広がっていたり、見たことのない紙束や分厚い本が積まれていたりする。インクの匂いがする日もあれば、乾いた草の匂いが強い日もあった。
俺が戸を開けた瞬間だけ、その全部が視界に入る。
次の瞬間には、ラエルさんが何事もなかったみたいな顔で、それらをどこかへしまってしまう。手元の空間がわずかに揺れて、机の上があっさり片付くのだ。
「それも仕事ですか」
ある日、思い切って聞くと、
「まあな」
とだけ返ってきた。
どんな仕事なのかは言わない。薬を売っているのか、本を読んでいるだけなのか、依頼を受けているのか、それすら分からない。
ただ、俺が朝から夕方まで炉の前で汗を流している間に、ラエルさんはラエルさんで、この町の中で何かをして生きているのだと、それだけは分かった。
それをはっきり見たのは、五日目の昼だった。
親父さんに頼まれて、釘の束を受け取りに依頼所の近くまで行った時のことだ。
あの掲示板のある建物の扉が開いて、見慣れた灰色の髪が出てきた。
ラエルさんだった。
けれど、宿や旅の途中で見るラエルさんとは少し違っていた。姿は同じなのに、背筋の伸び方も、歩く速さも、表情の置き方も、町の中に馴染む形をしている。
受付の人に軽く会釈して、何か小さな袋を受け取る。その一連の動きがあまりにも自然で、俺はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。
俺が門前払いを食った場所で、ラエルさんは当たり前みたいに仕事をしている。
それが悔しいわけじゃない。ただ、遠かった。
あの人は強いだけじゃなくて、こうやってどこでも生きていけるんだと思った。
同時に、いつか俺も、と思ってしまった。
その日の夕方、鍛冶屋の前で炉の火を見ていると、通りの向こうからラエルさんが歩いてきた。片手には紙包みが一つ。俺の様子を一瞬だけ見て、炉を見て、それから親父さんの方へ軽く会釈する。
「順調そうですね」
「最初よりは使い物になる」
「それは良かった」
それだけの会話だった。
ラエルさんは俺に向かって何か言うこともなく、紙包みを少し持ち上げて見せるような仕草だけして、そのまま通り過ぎていった。
後で宿に戻ると、その紙包みの中身はパンと干し肉だった。
別に俺のためだとは言われなかったし、多分言わない。
でも、あの人はちゃんと見ているのだと、その短いやり取りだけで分かった。
数日も通えば、鍛冶屋の中の景色にも少し慣れる。
壁に掛かった道具の名前までは分からなくても、どれがよく使われるのかは分かるようになる。鉄を挟むやつ、叩くやつ、削るやつ。棚に立てかけられた剣や槍も、最初よりは違いが見えるようになった。
長いもの、短いもの。幅の広いもの、細いもの。握りの部分に布が巻かれたもの、革のもの。刃こぼれした古い剣もあった。
火の番をしながら、ついそっちへ目がいってしまうことが増えた。
「欲しいのか」
ある日、親父さんが何でもないみたいに言った。
俺は思いきりむせた。
「な、何がですか」
「分かりやすいガキだな。剣だよ」
ごまかせなかった。
親父さんは鉄を打つ手を止めず、ちらりと棚の方を顎で示した。
「毎日見てりゃ分かる」
俺はしばらく迷ってから、火を見たまま口を開いた。
「……剣って、高いですか」
「物による」
「俺でも、買えるくらいのやつは」
言いながら、自分で無茶だと思った。今持っている金なんて、銅貨が少し増えただけだ。
案の定、親父さんは鼻を鳴らした。
「既製品なら厳しいな」
やっぱり、と思った。そう簡単な話じゃない。
けれど、親父さんはそこで終わらなかった。
「ただ、端材ならある」
「え」
「大物を打った残りだ。長さも厚みも半端なやつだが、子供が振る分には足りる。工賃も多少は抑えられる」
胸の奥がどくんと鳴る。
買えないと思っていたものが、急に現実の話になった。
「……本当に、できますか」
「お前が出す火の具合次第だな」
親父さんはそこでようやく俺を見た。
「剣は見た目で振るもんじゃねえ。熱の入りが甘きゃ歪むし、雑に焼けば脆くなる。お前が毎日ここでやってること、そのままだ」
俺は黙って、自分の手を見た。
この炎で、人を焼ける。
でも、この炎で剣も作れる。
「いくら、必要ですか」
親父さんがざっくり言った額を聞いて、俺はその場で懐の小袋を握りしめた。足りない。あと少しだけ足りない。
その日の仕事が終わってから、宿に戻るなり、俺は袋の中の銅貨を全部机の上に並べた。
数えて、また数える。
やっぱり足りない。
そんな俺を見て、向かいで本を開いていたラエルさんが一度だけ視線を上げた。
「何をしてる」
「……金、数えてます」
「見れば分かる」
「剣が欲しくて」
言ってから、少しだけ後悔した。別に止められるとは思わない。でも、何となく、口に出すのが照れくさかった。
ラエルさんは本を閉じもしないまま、机の上の銅貨を一瞥した。
「足りないのか」
「少しだけ」
「そうか」
それで会話は終わった。
少しくらい、何か言うかと思った。
けれど、ラエルさんはそれ以上口を開かなかった。
次の日、親父さんに正直に金を見せると、親父さんは一枚一枚、俺よりずっと手際よく数えた。
「足りねえな」
「……はい」
「だが、まあいい」
顔を上げる。
親父さんは銅貨を袋に戻して、俺に押し返した。
「全部は取らねえ。炉番代の分で見てやる」
「でも」
「全部タダでやる気はねえし、お前もそれは嫌だろ」
図星だった。
ただ貰うのは違うと思った。でも、全部払えなくて悔しいのも本当だった。
「だから半端にしとく。お前の仕事と、俺の気分だ」
親父さんはぶっきらぼうに言って、棚の奥から細長い鉄材を何本か引っ張り出した。
「変なのを期待するなよ。特別な剣になるわけじゃねえ。ただの剣だ」
「……はい」
「特別なのは、お前の火の方だ」
その言葉だけで、妙に背筋が伸びた。
その日の鍛冶屋は、いつもと少しだけ違って見えた。
炉に入れる鉄が、自分の剣になる。
そう思うだけで、火の扱いに向ける意識が変わる。強すぎても駄目だ。弱すぎても駄目だ。親父さんの合図に合わせて、熱を入れ、保ち、少し引く。
鉄が赤くなる。
親父さんが取り出して、打つ。
火花が散る。
また炉に戻す。
その繰り返しだった。
単純なのに、目が離せなかった。自分の火で焼かれた鉄が、親父さんの腕の中で少しずつ剣の形へ近づいていく。
「もっと左だ」 「はい」 「今は強めろ」 「はい」 「次は抑えろ、持たせろ」
声に従って炎を整える。
途中で一度だけ熱が強くなりすぎて、親父さんに「焦るな」と短く叱られた。その一言だけで、すぐに呼吸を整え直す。
何度目かの加熱の時、戸の方で小さく足音がした。
ラエルさんだった。
買い物帰りなのか、小さな包みを二つ持っている。鍛冶屋の中の様子を一通り見て、最後に打たれかけの剣へ目を止めた。
「少し長い」
入ってきて最初の言葉がそれだった。
親父さんが眉をひそめる。
「見ただけで分かるのか」
「こいつの手首じゃまだ振り回される」
こいつ、という言い方に少しむっとしたけど、反論する前に親父さんが俺の腕と剣を見比べた。
「……言われてみりゃそうか」
「気持ち短めでいい。重さも前に寄せすぎるな」
「注文の多い連れだな」
「金を出すのはこいつだ。振るのもこいつだ」
ラエルさんはそれだけ言うと、それ以上は口を出さなかった。剣そのものに興味がないような顔で、少し離れた場所へ下がる。
でも、その一言で、剣の長さが少し変わった。
多分あの人は、最初から気づいていたのだと思う。
俺が剣を見ていたことも、これを欲しがることも、俺にどれくらいの長さが合うかも。
それでも、自分から用意はしない。
最後のところだけ、さりげなく口を出す。
それがラエルさんらしかった。
刃を整え、冷やし、最後に柄をつける頃には、日がだいぶ傾いていた。
完成した剣は、思っていたよりずっと地味だった。
飾りなんてない。鞘も簡素だ。刀身もぴかぴか光るわけじゃなく、使うために作られた顔をしている。
親父さんがそれを布で拭ってから、俺の方へ差し出した。
「持ってみろ」
両手で受け取る。
ずしり、と重みが掌に乗った。想像していたより重い。でも、持てない重さじゃない。柄を握ると、変に滑る感じもしなかった。
振ってみろ、と言われて、店の外の空き地で恐る恐る一度だけ振る。
ぶん、と鈍い音がした。
まだ全然うまくない。構えも変だと思う。それでも、自分の手の中にちゃんと武器があるという事実だけで、胸の奥が熱くなった。
「悪くねえ」
親父さんが腕を組んで頷く。
「ガキ用に軽くしすぎるのも癪だったが、そのくらいならすぐ慣れる」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早ぇ。振れなきゃ鉄の棒だ」
そう言いながらも、親父さんの口元は少しだけ緩んでいた。
俺は鞘に戻した剣を見下ろす。
これを、俺が買った。
全部じゃない。親父さんの仕事と好意に支えられている。でも、ただ貰ったわけじゃない。
炉の前で出した火も、手に入れた銅貨も、少しずつここに繋がっている。
その実感が、何より嬉しかった。
数日後、町を出る朝が来た。
鍛冶屋の前に立つと、いつもより炉の音が遠く感じる。親父さんはもう仕事着のまま、戸口にもたれていた。
「世話になりました」
そう言って頭を下げると、親父さんは片手をひらひらさせる。
「真面目に来た分は働かせた。こっちも助かった。それで終わりだ」
ぶっきらぼうな言い方だった。でも、多分それがこの人なりの別れ方なんだと思う。
「剣、折るなよ」
「はい」
「折ったら次はもっと高くつく」
「じゃあ折らないようにします」
「最初からそうしろ」
思わず少しだけ笑ってしまう。
親父さんは俺の腰の剣を一度見て、それから真面目な顔に戻った。
「火に頼りすぎるな。だが、火を怖がりすぎるな。お前のだろ」
短い言葉だった。
けれど、何日も炉の前で同じ火を見てきた人間の言葉だった。
「……はい」
今度は、ちゃんと頷けた。
鍛冶屋を離れると、通りの先でラエルさんが待っていた。いつもの顔、いつもの立ち方、いつもの何も持っていない手。
でも、俺の腰には剣がある。
「終わったか」
「はい」
ラエルさんの視線が一度だけ剣に落ちる。
「重くないか」
「少し」
「そのうち慣れる」
それだけ言って、ラエルさんは歩き出した。
俺も、その背中を追う。
前と同じようで、少しだけ違う重さが腰にあった。
町の外へ続く道は相変わらず長く、空は高い。
けれど、剣の鞘が歩くたびに腿へ当たる感触が、昨日までと違うことだけは、はっきり分かった。




