炎が役に立つ日
朝、目を覚ますと、火はもう起きていた。
昨夜あれだけ暴れた炎の跡が残る薪の前で、ラエルさんはいつも通りの無表情で鍋をかき混ぜている。夜露に濡れた空気の中、湯気だけがやけに白かった。
俺が身を起こすと、ラエルさんはこっちを見もしないまま、木の器を一つ差し出してきた。
「飲め」
受け取った中身は、薄い塩味の野菜の煮込みだった。具は少ない。でも、空っぽの腹には十分すぎる。
「……ありがとうございます」
返事はない。
それでも俺は器を両手で持ち、息を吹きかけながら少しずつ口に運んだ。温かさが喉を通って、腹の底に落ちていく。
村を出てから、俺はずっとついていくだけだ。
道も知らない。金もない。強さもない。
昨日は炎が出た。けれど、出ただけだ。消すことさえ、自分一人ではできなかった。
器の中を見つめたまま、俺は小さく息を吐いた。
「……あの」
「なんだ」
「俺、お金を稼ぎたいです」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。思っていたより、その言葉はずっと前から中に溜まっていたらしい。
ラエルさんは鍋をかき混ぜる手を止めない。
「急だな」
「急ですけど……でも、ずっと養ってもらうわけにはいかないし。俺、何も持ってないし」
言葉にしてしまうと、余計にみじめだった。
何も持っていない。家も、家族も、金も、行く先も。あるのは昨日知ったばかりの炎だけだ。
「何をすればいいかも、よく分からなくて」
しばらくして、鍋を火から下ろす小さな音がした。
「近いのはアシュカエルだが」
唐突に出てきた知らない地名に、俺は顔を上げる。
「アシュ……?」
「魔族側の主要拠点だ。お前の村は境界に近い。地理だけで言えば、カエルムよりそちらの方が近い」
さらりと言われた内容に、思わず黙った。
魔族側。近い。そんな場所が、あの村のすぐ向こうにあったのか。
「だが、人間のお前が仕事を探すなら向いていない。武力が前提になる。身分も後ろ盾もない子供に回る仕事は、ろくなものじゃない」
「……じゃあ、カエルム?」
「ああ。途中の町を経由して向かう」
ラエルさんは当たり前みたいに言う。
もう方針は決まっている声だった。俺がどう生きるか、その先まで、昨日会ったばかりのこの人はもう考えていたらしい。
「そこなら、俺でも何かできますか」
「さあな」
あっさりした返事だった。
でも、少し間を置いてから、
「探せばあるかもしれない」
とだけ続けた。
その一言だけで、少し前を向けるから不思議だった。
朝食を終え、荷物らしい荷物もない俺たちはすぐに歩き始めた。
空は高く、風は乾いていて、昨日よりずっと平穏に見える。何事もなかったみたいな青空だった。
「ラエルさん」
「なんだ」
「能力って、見つけたらそれで終わりじゃないですよね」
「終わりではない」
ラエルさんは前を向いたまま答える。
「見つけるのは入口だ。使い方を誤れば、自分を焼く」
昨夜の炎が脳裏に蘇って、思わず肩がすくんだ。
「……もう焼きました」
「見れば分かる」
ほんのわずかに、声が平たく柔らかくなった気がした。
「だが、お前の炎は距離を取って使う型じゃない」
「え?」
「残る性質がある。消えないなら、当てた後が強い。接近して使う方が向いている」
接近。俺は自分の手のひらを見る。
炎を飛ばすんじゃなくて、近づいて使う。
「剣、ってことですか」
「そうなるだろうな」
言われて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
剣を振る俺なんて想像したこともなかった。けれど、魔法だけで戦うラエルさんの背中とは別の形が、初めてぼんやり見えた気がした。
その時だった。
前方から、馬の甲高い悲鳴が響いた。
続けて、木の軋む音。何かが倒れる重い音。人の叫び声。
ラエルさんが足を止める。
俺も反射的に顔を上げた。
街道の少し先で、一台の馬車が横倒しになっていた。車輪は半ば砕け、荷台の布が裂けている。その周囲を、黒い影が三つ、四つ、取り囲んでいた。
魔族だ。
村で見たのと同じ、黒い魔力を纏った異形の体。馬の首筋に爪を食い込ませている個体もいる。御者らしい男が地面に転がり、荷台の陰からは女の悲鳴が聞こえた。
その瞬間、頭より先に体が動いた。
崩れた木枠の向こうに、小さな手が見えたからだ。
子供だ。
「おい――」
ラエルさんの声が背中にかかった。でも、止まれなかった。
俺は街道を蹴って走り出した。助けなきゃ、という考えだけが先にあって、自分が何をできるのかは何もなかった。
魔族の一体がこちらを振り向く。ぎらついた眼。地面を蹴る音。速い。
間に合わない、と思った瞬間。
「何やってる」
背後から、低い声が叩きつけられた。
次の瞬間には、俺の目の前を透明な線が走っていた。
――シュッ。
空気そのものが裂けたみたいな音と一緒に、飛びかかってきた魔族の首が斜めにずれ落ちる。血が噴き出すより先に、ラエルさんが俺の横にいた。
速すぎて見えなかった。
「下がれ」
いつもの平坦な声だった。けれど、さっきの一言だけは、初めて聞く音だった。
もう一体が横から爪を振るう。ラエルさんは振り向きもしないまま片手を払った。薄い水膜が刃みたいに伸び、魔族の腕を肘から断ち切る。続けざまに踵を返し、三体目の胴を真横に裂いた。
それでも一体、荷台の陰へ回り込もうとした個体がいた。
子供がいる。
俺は咄嗟に右手を突き出した。熱のイメージを掴む。昨夜みたいに暴れさせるな、狙え、狙え――そう思うのに、出てきた炎はまっすぐ飛ばず、魔族の肩先を掠めただけだった。
黒い皮膚の一部が燃える。
だが、それだけだ。
魔族は顔をしかめ、燃えた肉を自分で引きちぎるみたいに剥がして、そのまま動いた。傷口は黒い魔力で無理やり塞がっていく。
次の瞬間、そいつの体は左右に分かれていた。
俺が何をされたのか理解した頃には、ラエルさんはもう手を下ろしていた。
水の刃だったと分かった時には、全て終わっていた。
風だけが、ぬるく血の匂いを運んでくる。
俺の呼吸は浅く早いままなのに、ラエルさんの呼吸は乱れていない。
「怪我は」
「……ないです」
「そうか」
それだけ言って、ラエルさんは荷台の方へ歩いた。俺も慌てて後を追う。
横倒しの馬車の隙間に、五つか六つくらいの子供が挟まっていた。顔は涙と土でぐしゃぐしゃだ。腕の擦り傷はあるが、命に別状はなさそうだった。
ラエルさんが木材を持ち上げる。俺も反対側に回って必死に手をかけたが、役に立ったのかどうか分からない。それでも、子供が一人這い出してきて、泣きながら母親らしい女にしがみついたのを見て、膝から力が抜けそうになった。
助かった。
そう思ったのに、胸の中は全然軽くならなかった。
俺は、何もできなかったからだ。
最初に飛び出したくせに、守れたのは結局ラエルさんだった。俺の炎は掠めただけで、相手は止まらなかった。むしろ、また危ないところを助けられただけだ。
御者の男と女は、何度も頭を下げた。
「ありがとうございました……! 本当に、もう駄目かと……」
ラエルさんは短く頷いただけだった。
「近くの町までは行けるか」
「は、はい……馬は一頭やられましたが、もう一頭は……なんとか」
「急げ。また寄って来る」
言葉は事務的だった。でも、助かった人間が次にすべきことだけを、一番短く示していた。
去っていく馬車を見送りながら、俺は地面を見たまま動けなかった。
ラエルさんも何も言わない。
責めもしない。慰めもしない。
その沈黙が、余計に苦しかった。
しばらく歩き直してから、ようやく俺は絞り出すように言った。
「……すみません」
「何に対してだ」
「勝手に飛び出したことです」
「ああ」
肯定された。胸が少しだけ痛む。
「目の前にいたら、助けたくなるのは分かる」
意外な言葉に顔を上げる。
「だが、できることと、やりたいことは分けろ。お前が死ねば、助ける数はそこで終わる」
淡々とした声だった。
怒鳴られた方が、まだ楽だったかもしれない。
「……何もできませんでした」
「最初からできると思う方がおかしい」
ラエルさんは前を向いたまま言う。
「だが、炎は当たった」
「掠っただけです」
「魔族があの場で肉を捨てたのを見ただろう」
見た。肩の肉を、自分で剥がすみたいに捨てていた。
でも、あれは妙だった。
ただ燃えただけなら、あんなふうにわざわざ肉ごと切り離す必要があるのか。
「……普通の火なら、ああしなくても再生で押し切れるんじゃないんですか」
「そうだ」
ラエルさんは即答した。
「再生で誤魔化せるが、無視はできない。あの性質なら、近づいて当てる方がいい」
俺は黙って、自分の手を見る。
遠くから大きな炎を撃つんじゃない。近づいて、確実に残す。
「剣を持てるようになれば、形になる」
その言葉は、慰めじゃなかった。もっと硬くて現実的で、だからこそ救いになった。
「……はい」
それしか言えなかった。
昼を過ぎる頃、ようやく町が見えた。
高い城壁があるわけじゃない。木と石を継ぎ足して作ったような外壁が街道の脇に延びていて、出入口の門には槍を持った見張りが二人立っている。大きくはないが、人の匂いがした。干した布、煮炊きの煙、家畜の鳴き声。村が焼けてから初めて嗅ぐ、生きた町の匂いだった。
門に近づいた時、隣の気配が少し変わるのを感じた。
「止まってください。どちらから?」
見張りに声をかけられる。
その瞬間、ラエルさんが一歩前に出た。
「南東の街道から参りました。道中で魔族に襲われた馬車と遭遇し、応急の対応だけしております。もし同じ方角へ人を出すご予定があるなら、警戒を強めた方がよろしいかと」
丁寧だった。
言葉遣いだけじゃない。声の硬さも、間の取り方も違う。まるで別人みたいで、俺は思わずラエルさんの横顔を見てしまう。
見張りは少し目を見開き、それから真面目な顔で頷いた。
「情報提供、感謝します。お連れは?」
「身寄りのない子です。しばらく同行しています」
嘘ではない。でも、説明が上手すぎた。
俺がぽかんとしているうちに、通行はあっさり許された。
門をくぐり、雑多な通りへ入る。行商人の声、子供の笑い声、金属を打つ音。人が多いだけで、景色が急に遠く感じた。
「……今の」
「なんだ」
もう声は元に戻っていた。
「しゃべり方、違いました」
「町の中では多少合わせる」
「多少……?」
「私語で面倒を増やしたくない」
その「多少」がどう見ても多少じゃなかったけれど、俺は何も言えず口をつぐんだ。
通りを少し歩いた先に、掲示板の並んだ建物があった。出入りする人間はまちまちで、荷車引き、武器を持った護衛らしい男、帳簿を抱えた女までいる。看板には「依頼取次」と書かれていた。
ここか、とすぐ分かった。
ラエルさんは迷いなく中へ入る。俺も後を追った。
中の壁一面には、紙が何枚も貼られていた。運搬、護衛、倉庫整理、屋根修理、家畜の捜索。字が全部読めるわけじゃないけど、仕事の内容らしいことは分かる。
その間を歩く人たちの腰には、剣や短剣や槍が下がっていた。革鎧の擦れる音。金具のぶつかる音。
自然と視線が、一人の男の剣に吸い寄せられる。
鞘に収まっているだけなのに、妙に目が離せなかった。
「何かお探しですか?」
受付の女がこちらに声をかける。
ラエルさんがまた、あの丁寧な口調になった。
「この子にできそうな仕事がないかと思いまして。力仕事でも雑務でも構いません」
女の視線が俺に落ちる。年齢、服装、体格。全部を一瞬で見られた気がした。
「……申し訳ありませんが、その年頃のお子さんに回せる依頼はありません」
柔らかい言い方だったけど、意味ははっきりしていた。
「危険の少ない雑務も?」
「今は人手が足りておりますし、身元保証もない方ですと……」
そこで言葉を切られる。
断られた。仕方ない。分かっていた。分かっていたのに、喉の奥がきゅっと縮む。
俺は受付から目を逸らし、壁際に立つ武装した連中を見た。剣を提げた人間ばかりが、ちゃんと仕事を持っているように見えた。
「失礼しました」
ラエルさんはそれ以上食い下がらず、すぐ踵を返した。
建物を出た後も、俺はしばらく黙ったままだった。
「……すみません」
「今日はそればかりだな」
呆れたようでもなく、ただ事実を述べる声。
「だって」
「断られるのは想定内だ」
「でも」
「お前にできることがないとは言っていない」
その言葉に、顔を上げる。
ラエルさんは俺を見ず、通りの先を見ていた。その視線の先からは、一定の間隔で甲高い金属音が聞こえてくる。カン、カン、と鉄を打つ音だ。
「来い」
「え?」
「仕事を探すんだろう」
そう言って歩き出す。
行き先を教えられなくても、今度はちゃんとついていけた。
通りの奥、炭と鉄の匂いが濃くなる一角に、小さな鍛冶屋があった。戸は半分開いていて、中では大柄な男が腕を組んで炉を睨んでいる。
けれど、火が弱い。
いや、ほとんど消えている。赤熱しているはずの炉床が、くすんだ灰色のままだった。
「何か御用で――ああ、客じゃねえか」
男が振り向き、俺たちを見る。
ラエルさんは店先の炉を一瞥した。
「炉の調子が悪いんですか」
「見りゃ分かるだろ。火打ち石の仕組みがいかれてな。替えを頼んでるが、届くのは早くて数日後だ。その間は細かい仕事しかできねえ」
男は機嫌悪そうに鼻を鳴らした。
ラエルさんは炉を見たまま、何も言わなかった。
俺も黙って、赤みの消えた炉床を見つめる。火が弱い。いや、死にかけている。
しばらくして、ラエルさんがほんの少しだけ俺の方を見た。
「……火は出せるか」
「え」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
「暴れさせるな。炉の中で維持しろ」
そこでようやく、言葉の意味が繋がる。
俺の炎だ。
消えない炎。
人を焼くためじゃなく、炉に使う。
「……やってみます」
鍛冶屋の男が眉をひそめる。
「子供の火遊びでどうにかなる炉じゃねえぞ」
「そうでしょうね」
ラエルさんは平然と返す。
「ですが、継続する火なら代用になるかもしれません」
炉の前に立つ。熱は弱いが、炭の匂いは濃い。昨日とは違う。暴れさせたら駄目だ。あくまで火種として、炉の中で燃え続けるように。
手をかざし、息を整える。
熱のイメージを掴む。
怖い。けれど、今度は壊すためじゃない。
指先から、小さく火を落とした。
ぽ、と音を立てて炉の中の炭に火が移る。最初は頼りなかった炎が、次の瞬間には芯のある橙色へ変わった。炭の奥でじわりと広がり、空気を食べるみたいに温度を上げていく。
鍛冶屋の男の顔色が変わった。
「おい……」
男が慌てて鞴を踏む。風が送られ、炎が一段と強くなる。
それでも消えない。
むしろ、しっかりと炉の底に居座り続ける。
赤みが戻る。鉄の色が変わる。死んでいた炉が、ゆっくり息を吹き返していく。
「すげえ……」
その呟きが、誰のものだったのか分からなかった。
鍛冶屋の男は炉を覗き込み、それから俺を見た。
「坊主、今の火、維持できるのか」
「え、えっと……たぶん。俺が消そうとしない限りは」
「本当か」
男の目が、さっきまでとはまるで違っていた。子供を見る目じゃない。使えるものを見つけた職人の目だ。
「数日の間だけでもいい。炉番をやってくれりゃ助かる。飯代くらいなら出すし、邪魔にならねえ場所も貸してやる」
思考が一瞬止まる。
仕事。
今、この人は俺に、仕事を頼んだのか。
「……いいんですか」
「こっちが頼んでんだ。嫌なら別だが」
「嫌じゃ、ないです」
むしろ、胸の奥が熱くて仕方なかった。
「やります」
鍛冶屋の男は大きく頷き、分厚い手で俺の頭を一度だけ乱暴に撫でた。
「よし。じゃあ、まずはその火の癖を見せてもらおうか」
そのやり取りを、ラエルさんは少し離れた場所から黙って見ていた。
俺はそっちを見る。
「……ラエルさん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
ラエルさんはいつもの無表情のまま、ほんの少しだけ首を傾げた。
「仕事をしたのはお前だ」
それだけ言って、店先の壁にもたれた。
炉の炎が、ごう、と低く鳴る。
昨日の夜は、ただ怖かっただけの火だ。
でも今は違う。




