13-4 ――シン地獄――
その後、私は地下帝国よりも奥底にある地獄の真髄を見た。
しかし、これはまだ序の口だという。
私の知る地獄など、ぬるま湯に等しかった。大して地上と変わらない場所を地獄と呼んでいたのだと思い知った。
本物の地獄はそれはもう広く深く、暗く重く冷たく熱く、とてつもなくつらく苦しい――これこそが地獄なのだと、また新たな知識が増えた。
真央さんが電話でお願いして借りてくれた場所は、有瀬くんと久月くんが格闘技を習いに通っていたジムだった。
そこで私はまず、基礎体力向上のためにしごかれシバかれ倒した。
初回ということでほんの一時間ほどだったけれど、普通に百回は死んだ。私という亡者を、隣にびたりと張り付いた真央さんという名の鬼が蘇らせる。そしてまた殺す。その繰り返しだった。
「うええええん! もう無理ぃぃぃ!」
「だったらやめちまえ!」
「やめないぃぃぃ! でももう無理ぃぃぃ!」
「なら追加で十セットだ。オラ、とっとと動け!」
「ぎゃあああん! 死んじゃうぅぅぅ! でも死にたくないぃぃぃ、やるぅぅぅやりますぅぅぅ!」
号泣しながら生死の境を行ったり来たりしてる私を、真央さんの顔見知りらしきトレーナーのおじさんは気の毒そうに眺めていた。
「根性はないけど、気概はある子だね……?」
おじさんに一言だけ褒めてもらえた。それだけが救いだった。
八時を少し回ったところで、真央さんに送ってもらった私はほうほうの体でシャワーを浴び、ママにお願いして夕飯の残り物を出してもらって、貪るようにして平らげた。
なぁにぃが、食えなくなるだよ。
普通に食えたよ。足りなかったよ。夕飯いらないなんて言った私が悪いって逆に怒られて、仕方なく冷食で飢えを満たしたよ。
真央さんの大嘘つき。閻魔さんに舌抜かれてしまえ。
真央さんも私も、九月になれば学校を優先しなくてはならない。
私の方はさておき、真央さんは仕事の後に家事も待っている。
なので特訓は八月いっぱいが限界だと伝えられた。代わりに真央さんは、ほとんどが雑務だという夏休暇期間中の仕事をなるべく早く終え、できるだけ長い時間、私の専属トレーナーを務める、と申し出てくれた。
大変ありがたい。ありがたい、のだけれど。
「なあ、ありがてぇだろ? この俺が指導してやってんだ、てめぇみたいなグズにな。ありがてぇと思え、オラ、ありがとうと言え! 言ってみろ!」
「ひぃぃぁぁあありがとうございますぅぅぅ! バカぁぁぁ! 真央さんなんか嫌いだぁぁぁ!」
「いっちょ前に悪口叩いてんじゃねぇぞ! バカはてめぇだ! 俺だっててめぇみたいなバカは嫌いだ!」
「嫌いって言ったぁぁぁ! ひどいぃぃぃ! うわあああん!」
「ちっともひどくねぇわ! 嫌いでも何でもいいからもっと早く走れ、グズ! ゴミ! 塵芥!」
鬼による亡者蘇生殺しリピートな特訓を開始して早五日。私は相変わらず泣かされていた。
己の最大降涙記録は高校に合格した時を遥かに上回り、毎日更新中。こんなに泣いたのは過去イチで、これからもこの記録は破られないだろう……と信じたい。
これ以上泣くなんてこと、経験したくないよ……想像するだけでつらすぎて、心が死んじゃう……。
「今日はこれで終了だ。水分摂って休憩しとけ」
ランニングマシンの速度を落とし、真央さんが静かに告げる。
待ちに待った時がやってくると、私の胸に大きな安堵が広がった。あぁぁ……今回も生き延びられたぁぁぁ……。
ぐったり横たわって、水筒のスポドリをストローで啜るという死体率90%みたいな状態で休んでいると、トレーナーのおじさん――市井さんが顔のそばにタオルをそっと置いてくれた。
「あざす……」
ありがとうございますと言いたかったのに、声も出なくてヤンチャな人みたいな言い方になってしまった。
ごめんなさい、文句は鬼に言っ……いや、言わないで! 礼儀知らずと罵られて、ますますトレーニングが厳しくなるから!
慌てて私は、動きたくないヤダヤダと泣き喚く全身を叱咤して体を起こした。
「ああ、いいよいいよ、無理せず休んでて。あんな指導を受けたら、動くのもキツいと思うから。真央くん、人に教えるなんて初めてなんだよね。だから、加減を知らないんだろうなぁ」
市井さんが溜息混じりに苦笑する。それを聞くや、私は再びマットに倒れ伏した。
おいおい……加減知らずがここにもいたよ……。
加減知らずのために、加減知らずに対策をお願いしたとか、私、死の泥沼ループにハマってない? そりゃ地獄も喜んで釜の蓋開いて迎え入れてくれますわ。
「君、留佳くんの彼女なんだって? 留佳くんはどう? 相変わらずかい? 小学生の時も飛び抜けてたからねぇ、やっぱり自慢の彼氏なんだろ?」
休んでてと言いつつ、笑顔で質問攻めにしてくるとは……優しいフリして、この人もやはり鬼なのね。
「おかげさまで……すくすく元気に育っております……よく食べよく寝てよく遊び、雨でどば濡れになっても風邪一つ引かない、自慢の健康優良児です……」
遺言を託すみたいな掠れ声で答えると、市井さんは目を丸くした。
「えっと……げ、元気、なんだね? もしかして数年見ない間に結構変わったのかな?」
遺品を託すみたいな手付きで、私は市井さんにロックを解除した自分のスマホを差し出した。
「うお! 相変わらずどころか、ますます美人に磨きがかかってるじゃないか。紅くんも数ヶ月で凛々しくなって……いやいや、それよりも留佳くん、本当にすごいな。真央くんも美形だけど、志貴ちゃんのいいところも全部取り込んじゃった感じだね。これ、加工してるわけじゃないんだよな? 君、こんなのと付き合ってんの? この顔を独り占めできるとは、幸せ者だねぇ」
待受の虐殺プリを見て、市井さんは驚いたり嬉しそうに目を細めたり感心したように溜息をついたりニヤニヤしたりと大忙しだ。
蟻の死骸に触れなかったことだけは、良しとしよう。
「顔なんかもう付いてりゃ何でも同じですよ……顔レベルより雑レベルの方が高いんで……そのせいで、こんな地獄に落とされてるんじゃないですか……」
「おい、那由多。動けるようになったか? 飯ができた、来れそうなら来い」
真央さんの呼びかけに、私は即座に跳ね起きた。
「はーい! 動けまーす! すぐ行きまーす!」
元気良く返事してスポドリを一気飲みする私を、市井さんは呆然とした顔で見つめていた。
あ、そっか。ちゃんとお礼言えてなかったもんね。
「市井さん、タオルありがとうございましたっ! 明日もよろしくお願いしまーす!」
挨拶してちゃんと頭を下げてから、私はジムに併設するカフェに向かって走った。
体中ギコギコだったけれど、んなもん無視だよ、無視。出来たて食べたいもん! お食事は出来たてが一番なんだもん!




