19-11 85%キス
「イヤだ、帰らない」
「お願い、そこを何とか」
「こんな遅い時間に一人で帰って、今度こそ通り魔に襲われたらどうするんだ。那由多の命が危ない。恋人の身の安全を守るのは、恋人の大事な役目だ。これだけは譲れない」
「わかってる、有瀬くんは私を心配してるんだよね。でもお願いだから、今日だけ。今日だけ、友達を優先させて。城咲さんのためにできることをしたいの」
退勤するや、高速で着替えてイートインスペースにいた有瀬くんを引っ掴んで外に出た私は、コンビニ横の駐輪スペースで押し問答を繰り返していた。
「明日香、見付かったんだろ? ならやることなんか何もないじゃねぇか」
「なくないよ! どうしてこんなことをしたのか、どうしたらこんなことをせずに済むか、ちゃんと話を聞いて解決しないと、また繰り返すかもしれないでしょ!? その度に皆心配してたら、心労が祟って死んじゃうかもしれないでしょ!?」
「那由多も死ぬかもしれない?」
「そうだよ! 真っ先に死ぬのは私だと思うね! 誰よりも打たれ弱い自信あるからね!」
有瀬くんは綺麗な曲線を描く顎に手をやり、切れ長の目を細めて斜め下に視線を落とした。エロクールイカす、私にド直球で突き刺さる思案のポーズだ。
「……那由多が死ぬのは、ものすごくイヤだな。わかった」
わかってくれた!
私はぱぁっと笑顔を咲かせた。
「じゃあ送る代わりに、新しい恋人らしいことをする。そしたら那由多の言うこと聞く」
わかってくれた、んだよね……?
私の笑顔が、嫌な予感に曇る。
「那由多、青飴持ってるなら寄越せ。あれ、レモン味だからな」
わかって……くれた、はずなのに。
私の顔から笑みが消え失せ、どんどん血の気が引いていく。
「あ、あの、有瀬くん? まさかと思うけど……?」
「何がまさかだか知らねぇけど、キスならとっとと終わるだろ。那由多も明日香と話す時間がたくさん取れるし、俺も恋人らしいことができる。今一番の最適解だ」
…………最低だ、こいつ!
「イヤだよ! キスなんてしないよ! 何でそうなるの!? 恋人らしいことは他にもあるでしょ!?」
神聖なるキスという行為を、おっさんが居酒屋でやるっていう『取り敢えず生』みたいなノリで蔑ろにされた悔しさで、ザブザブ涙が溢れた。
当然、全力で拒否だ。
ふざけんな! 私の大切な初めての儀式を、こんなにも雑に汚されてたまるもんか!
「他って何だ? 命に関わる送迎より重要で、一度もやったことなくて、素早く終わる恋人らしいことって他に何があるんだ?」
有瀬くんが淡々と聞く。
えぇぇぇ……急に言われても。
な、何だろ? 手を繋ぐ、とか? うーん、誕生日の時にカフェで手は握り合ったからきっと却下されるな。
腕を組む、も一応やった。
ハグ……もそれに近いことは体育祭でしたかも。
お姫様抱っこはキスより無理だ。あと五キロ痩せなきゃ絶対無理だ。それに抱えて持ち上げられたことはあるし、こっちも却下される可能性が高い。おんぶも、今日似た感じのことをやった。
あ、あれ? 思ったよりいろいろやってるな?
待って、本当にどうしよう?
焦って何も思い付かない。冷や汗の代わりに、涙がダラダラ出てくる。
やばいよまずいよ、城咲さんのためにキスするしかないの? こんな不本意な形でファーストキスなんかしたくないよ!
絶望で気が遠くなってきたところで、ウォォォンアォォォンギニョォォンと奇妙な音が響き渡った。
夕食を待ち焦がれ待ち侘び待ちくたびれた、私の腹の雄叫びだ。
さすがの有瀬くんも引いたようで、眉を下げて一歩下がった。
「今の、那由多? 何かすごい吠え方してたけど……腹の中に発情期の雄猫か、群れの主の餓狼でも飼ってるのか?」
呆れたようなイケボを耳にした瞬間、雷撃のような閃きが脳天を貫いた。同時に、冷や汗代わりの涙も止まる。
ゴシゴシと目を拭い、私は有瀬くんのズタボロモッズコートの襟首を掴んだ。
「あるよ、有瀬くん! 私達がまだやってない、新たな恋人らしいことが!」
「それより腹の中の生物は放っておいて大丈夫か? 食い破って出てこない? 押さえとく?」
が、有瀬くんは恋人の行為以上に私の腹の中の方が気になって仕方ないらしい。
「帰ったら即餌やりするから大丈夫! いい? 聞いて、有瀬くん……これは、すごいことだよ」
要らぬ心配を適当に受け流し、私は真剣な眼差しで訴えた。
「どうすごいんだ」
有瀬くんもやっと興味を持ったようで、軽く身を屈めて顔を寄せてくる。
「何と、他の恋人達もあまりやってないレア行為です!」
「レア行為」
長い睫毛が瞬く。
「そんなレア行為の名は……鼻チューといいます!」
「鼻チュー」
有瀬くんがまた繰り返す。
「鼻と鼻でチューすることによって、信頼と愛情と感謝と安心感を伝え合うのです!」
「そんなバケツパフェみたいな行為があるのか」
感心したように目を見開く有瀬くんに、私は大きく頷いた。
あるんだよ。人間じゃなくて、猫とだけどね。
嘘は言ってないよ。人間の恋人同士でやる行為だなんて条件設定はされてないからね。
「ということで有瀬くん、鼻チューしよう!」
「わかった、しよう」
素直に答えるや、有瀬くんはこれまた雑に自分の鼻先を私の鼻先にくっつけてきた。
え? あれ?
何というか……想像してたより。
「あの、有瀬くんさ……目、閉じないの?」
「那由多だって閉じてないだろ」
焦点が合わないほどの至近距離から、有瀬くんが言う。
判別しにくいとはいえ、恐ろしいほどの美貌が目前に迫っていることは伝わった。声に合わせて吐息が唇を掠めて、甘いベリーの香りが鼻腔に届く。きっと、さっきまで食べてたグミの香料だろう。
……うん、ダメだ、これ!
想像してたより近い、近すぎる!
想像してたより恥ずかしい、恥ずかしすぎる!
唇が触れてないだけで、ほぼキスじゃん! 四捨五入したらキスじゃん!!
「も、もうよろしいのでは? その、初回ですし……あまり長々と致すのも何というか……フシダラミダラというか……」
「そうか、フシダラミダラは良くないな」
有瀬くんのベリーの吐息が離れると、私はやっとほっとして止めていた息を吐き出した。
実は高速着替え中に、小腹を満たすためにビーフジャーキー踊り食いしたのよ……。ジャーキー臭漂うジャンクな呼気なんて、好きな人に嗅がせられるかっての。
自由に呼吸をできる喜びを味わっていたら、背中から重くて温かい何かが被せられた。何事かと肩を見れば、ズタボロモッズコートが着せかけられている。
「鼻冷たかったから、着て帰れば少しはあったかいと思う。何か本物の軍用の防寒着らしいし」
鼻が冷たいのはお互い様だったと思うんだけど……え、これ本当に軍用なの? じゃあ結構頑丈なんじゃないの?
それがここまでボロボロになるとは……冗談抜きで野戦に参加したのかな?
「え、いいよいいよ。有瀬くんが寒くなるじゃん。今夜は特に冷えるし風邪引いちゃうよ」
慌てて脱ごうとしたけど、有瀬くんは勝手にボタンまで止めてしまった。ものっすごいかけ違えてたけれども。
「近いから大丈夫だ。俺はもう一回コンビニ行ってジャーキー買って帰る。何か無性に食いたくなった。那由多も気を付けて帰れよ」
そう告げて有瀬くんは、店内に入って行った。
ああ、そう……。
あんなに頑張ったのに、息を吐き出さずに喋るって結構大変だったのに、ジャーキー臭はとめどなく漏れていたんだ…………ふふっ、軽く死にたい。
いや、今だけは死んでたまるか!
ジャーキー臭漂わせたまま死ぬなんて、真っ平ごめんだ!!




