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それは夢ではなかった。追懐でもなかった。黄色い花にエナガは懐かしさなど感じたことはなかった。蘇るのは後悔と罪悪感。けれど、昨日マヒワが悲しい想像をするなとエナガにいった。それはエナガの戻せない記憶の色彩を変えた。黄色い花なのは変わりない。濃淡と、光と、揺れるさまが変わった。後悔が拭えたわけではない。過去が慰めで変わるわけではない。シジューは死んだ。家族が死んだ。その悲しみは知っている。マヒワが自分に関わったせいでいなくなってしまったら。アトリたちはエナガを責めず、自分たちを責めるだろう。それは皮肉にも悲しい想像だった。
最初に起き上がったのはヒクイだった。エナガはこっそり腕時計を見る。数分遅れている腕時計は六時を過ぎていたから、ちょうど六時といったところであろうか。あと二時間。到着の時間を考えたら、あと一時間半しかなかった。エナガは半分、覚悟を決めていた。エナガは背中に人の気配を感じた。それはヒクイで、エナガの肩にそっと手を置いて囁いた。
「エナちゃんご飯食べるかい?インスタントのスープを作るんだけどどう?」
タオルケットを避けて、エナガは顔を出した。ヒクイは昼のいい合いなどなかったかのように、穏やかで優しかった。エナガは起き上がった。
「頂きます」
「じゃあ、お昼のホットサンドを温め直すね」
「じゃあわたし、お茶いれます」
ソファのテーブルにヒクイがスープを並べていると、アトリが起き上がった。
「ご飯だよ」
「うん」
ふたりは普通言葉を交わした。そして皆で、晩ごはんを食べた。会話はない。早く強い雨脚が壁や窓に叩きつける音が、この気まずい空間を助けてくれていた。外は土砂降りだった。アトリはラジオをつけた。ラジオからは、喚くようなギターが躍り狂うロックが聞こえてきた。エナガとヒクイはスープを飲みながらアトリを見る。
「雨、うるさいから」
アトリは呟いてスープを飲み干した。雨とロックのおかげで、部屋は賑やかなはずなのに、とても静かだとエナガは思った。
ロックが終わればずっと、トーク番組が流れていた。ご飯を食べ終え、アトリはまた眠り、ヒクイは雑誌を読んでいた。エナガは壁の時計を見る。七時を過ぎた。
「わたしシャワー借りますね」
「あ、蛇口捻ってこようか?」
ヒクイが雑誌を閉じるが、エナガは断った。
「大丈夫です。七分ぐらい待てます」
「そっか。じゃあ、ゆっくり」
ヒクイはまた雑誌を開く。アトリは眠っているのか、起きているのかわからない。洗面所にいくエナガの心拍数は上がる。
エナガは洗面所のドアを自分が通れる分だけ開けておいた。閉めたら音が鳴るからだ。シャワーの蛇口を捻る。そこでエナガは息を吐いた。エナガは喫茶ヤドリギにひとりで行くと決めた。それがいちばん、マヒワの命が安全である気がした。アトリたちに見つからないように裏切る。それに元々、アトリたちは巻き込まれた側である。操縦室の鍵はエナガ。どうにかできるのは自分次第なのだ。チャボがアトリに預けた白い銃を盗みたかったが、アトリは肌身離さず持っておりそれは無理であった。けれどエナガには考えがあった。ジソウだ。あれも、透明な銃弾と同じ材質でできている。ジソウを操縦室の壁に叩きつければ、マイナスエネルギーが零れ出し、操縦室を溶かすことができる可能性が高い。オークロとヤマガラ相手にどこまでできるかわからない。無謀の賭けといってよかった。けれどきっと向こうの方が操縦室への手がかりをこっちよりは多く持っている見込みは強い。色々考えたが、エナガは全部言い訳な気がした。そして自分の行動が愚かで馬鹿だとわかっていた。それでも、もうこれ以上アトリたちを巻き込まず、この非日常を終わらせるならそれがいいと思ったのだ。シャワーから水が出る。エナガは洗面所を出ると音を立ててドアを閉めた。これで今はシャワーを浴びていると思うだろう。本棚のおかげでこちらは見えていない。エナガは足音を立てないように玄関に行くと、壁に立てかけていた傘を脇に挟む。息を止め、鍵を静かに開ける。からだを横にしてすり抜けられる分だけ開けて速やかに外に出ると、そっとドアを閉め、ゆっくりとドアノブから手を離した。エナガは泣きそうになったが、唇を噛み締め歩き出した。
電気は消されていた。雨夜のぼんやりとした月明かりだけが店内唯一の明りだった。窓の外はオークロの車と流れる雨のせいで、すりガラスのように外が見えなくなっていた。マヒワは前で手を縛られ、カウンターの横の床に座らされていた。カウンターのスツールにオークロは座っていた。マヒワとオークロのふたり。ヤドリギに他の人間はいなかった。マヒワはカウンターの向こうの壁時計を見た。七時半を過ぎている。縛られてから三十分が経とうとしていた。オークロは店仕舞いをしていたマヒワに銃を突きつけ、縛って監禁をした。
「騒がなければ殺しません。八時までお付き合いください」
オークロにそう脅され、マヒワはずっと黙っていたが、相手の目的を探ろうと慎重に口を開いた。
「名前、聞いてもいいかしら?」
控えめの声で尋ねた。オークロはマヒワを見下ろし、微笑を浮かべた。
「オークロといいます。マヒワさん」
「オークロさんね。勝手に惚れられて、男に逆恨みされたことあるけれど。そんな名前の男を振った覚えはないんだけど?」
あだっぽい流し目をマヒワはオークロにやり、挑発できるような余裕があるようにみせた。だが、オークロはその挑発にはのらなかった。
「美人は大変でしょうね」
同情で流されたマヒワは目を鋭くする。オークロはスツールからおりた。
「ヒガラ兄弟が持っているものが欲しくて。僕がもらうはずだったんだけれど、なぜか彼らのところに行ってしまって。八時までにここに届く予定なのです」
「それは本当にあなたが貰うべきものなの?」
マヒワの不信にオークロは微笑をきつくもせず、緩くもしなかった。マヒワの方へ一歩近づく。マヒワは睨み続けるが、背中に冷たい汗が伝う。
ドアベルが鳴り、マヒワはオークロの向こうを見た。エナガだ。ドアが閉まり、ドアベルがまた鳴る。エナガの右手に握られた濡れた傘が床にちいさな水溜りをつくる。
「エナちゃん、どうして」
「思ったよりも早かったですね」
マヒワの声を打ち消すようにオークロはいった。エナガは俯いてしまい、唇は震えた。からだも震える。雨の冷たさのせいではない。短く酸素を吸うのが精一杯だった。声も出せない。膝も笑う。覚悟を決めて愚かになったところで臆病は治らない。エナガは傘から手を離す。傘が倒れた音が店内に響く。エナガは震える両手を合わせると必死にこすり合わせる。そして人差し指に弱々しい吐息を吹きかけた。その仕草はマヒワも知っていた。マヒワは立ち上がろうと膝を立てると、すかさずオークロがマヒワの額に銃口を向けた。エナガは悲鳴を出そうとするが喉がしまっただけだった。
「座って」
マヒワは銃口に視線をとらわれ、そのままオークロのいう通りに膝を床につけた。
「そ、」
エナガはやっと声が出た。そこから何度か口を「そ」のかたちにして、声を絞り出した。
「その人に、手を出さないでください。アトリさんたちの大事な人だから、」
エナガはそこまでいうと下を見た。もう声は出そうになかった。
「エナちゃん……」
マヒワが瞳を揺らし、呟いた。
「動かないでくださいね」
オークロはマヒワに忠告をすると、銃をおろしエナガの方へ歩き、正面で止まった。エナガは顔を上げられなかった。オークロは何かを出すと、エナガの手首を掴み抱きしめるように背後に回した。手早い手つきで紐でエナガの手首を拘束した。そして、エナガの耳元で囁いた。
「僕についてきてくれますか?」
オークロはきちんと屈服させたかった。エナガは唇を噛み締めると重く、頷いた。オークロは満足そうにすると、マヒワを振り返りカウンターにナイフを置いた。
「僕らが出たらご自由に」
オークロはエナガの二の腕を掴むと外を連れ出し、車へと押し込んだ。そして颯爽と喫茶ヤドリギを後にした。




