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戦勝の夜、外された仮面

白銀砦を揺るがした未曾有の危機――六千頭を超える魔獣の群れと、古代種「氷殻巨獣(フロスト・ベヒモス)」の襲来は、奇跡的な完全勝利によって幕を閉じた。


夜の帳が下りる頃、砦の至る所にかがり火が焚かれ、勝利に沸く兵士たちの歓声と乾杯の怒号が響き渡っていた。


工匠長のバルボアが振る舞ったエール樽は次々と空になり、雪原で凍死の恐怖に怯えていたはずの兵士たちが、涙を流しながら肩を組んで歌っている。


味方の死者ゼロ、重傷者数名、砦の外壁損傷はわずか数パーセント。


ヴェルク辺境領の開闢以来、類を見ない大勝利だった。


その歓声の中心にいるべき英雄の一人――セリアは、大広間の大宴会から抜け出し、静まり返った執務室で一人、書類をめくっていた。


「……戦後処理の資材搬出リスト。それと、巨獣の永久凍土結晶の回収工程表ね。硬度九・五の結晶装甲は、破砕して魔導炉の断熱材や装甲板の素材として最高のリサイクル資源になるわ。アリア、結晶の融解温度とマナ抽出レートの計算を――」


『マスター。警告音を鳴らしますよ』


セリアの脳内で、アリアが呆れたような合成音声を響かせた。


『生体モニタリング結果:神経系の疲労度六十二パーセント。先ほどの大剣同期シークエンスによる魔力神経の局所的な過熱がまだ完全に沈静化していません。本日の業務終了(定時退勤)を強く推奨します。……そもそも、主役であるあなたがなぜ大広間の祝勝会から脱走しているのですか?』


「あんな汗臭い男たちの熱気の中にいたら、頭が痛くなるわよ。それに、十八歳の小娘が英雄扱いされて神輿に担がれるなんて、居心地が悪すぎるわ」


セリアは羽ペンを置き、椅子の背もたれに深く体重を預けて小さく息を吐いた。


外見は十八歳。


だが中身は三十二歳の元プロジェクトアーキテクトだ。


プロジェクトが成功した直後、現場のメンバーが飲み会で盛り上がるのを遠目で見守りながら、一人静かに残務処理とドキュメント整理を進めていた前世の悪癖が抜けきらない。


派手にちやほやされるより、静かな部屋で一人、冷たいハーブティーでも飲んでいる方が何倍も落ち着くのだ。


「……それに、あの場にはヴィルフリート様もいらっしゃらないしね」


ぽつりと漏らした独り言に、自分でハッとした。


(何を考えているのよ、私は……)


大広間の宴席に、ヴィルフリートの姿はなかった。


将校たちに勝利の労いと特別手当の支給を短く言い渡したきり、早々に席を外したのだという。


戦場であれほど激しく抱きしめられ、衆人環視の中で「今宵は片時も離さん」と囁かれた熱い感触が、今も肌の奥に残っている。


その熱を思い出すたびに、胸の奥がトクンと落ち着かない音を立てていた。


その時だった。


カチャリ、と執務室の重い扉が静かに開いた。


振り返ったセリアの瞳に飛び込んできたのは、軍務用の甲冑を脱ぎ捨て、深い藍色のくつろいだ室内着(ローブ)を身にまとったヴィルフリートの姿だった。


濡れた銀髪が額に落ち、普段の冷徹な「元帥」の面影は薄れ、大人の男としての無防備な色香が漂っている。


手には、琥珀色の液体が入った硝子のデキャンタと、二つのグラスが握られていた。


「……やはり、ここにいたか」


低く、柔らかなバリトンボイス。


「閣下……。祝勝会には戻られないのですか?」


立ち上がろうとしたセリアを、ヴィルフリートは片手を軽く挙げて制した。


「兵たちに気を遣わせるだけだ。あそこは命拾いをした奴らが騒ぐ場所だ。……俺の居場所は、ここだ」


彼は迷いのない足取りでセリアのデスクへと歩み寄ると、デキャンタを机に置き、そのまま机の横を通り過ぎた。


そして――。


スッ……と、背後からセリアの華奢な身体を、両腕で包み込むように抱きしめた。


「――っ!?」


セリアの思考が、一瞬で真っ白に焼き切れた。


椅子の背もたれ越しではない。


ヴィルフリートは椅子に座るセリアの背後に回り、屈み込むようにしてその長い腕をセリアの胸元へと回し、すっぽりと腕の中に閉じ込めたのだ。


背中に伝わってくる、驚くほど高熱を帯びた彼の胸板の厚み。


湯浴みを終えたばかりの清潔な石鹸の匂いと、彼特有の冷涼な針葉樹のような香りが、セリアの嗅覚を麻痺させるように満たしていく。


「か……閣下……!? な、何を……!」


慌てて身じろぎしようとしたが、ヴィルフリートの腕はまるで鋼の戒めのようにビクともしなかった。


「動くな、セリア」


耳元で、掠れた吐息が零れた。


熱い唇が、セリアの耳朶をかすめる。


チリリと痺れるような快感が首筋を駆け抜け、セリアの背筋がピンと跳ね上がった。


「二度と、危険な場に出すものか……」


ヴィルフリートはセリアの首筋に額を埋め、深く、深く、彼女の香りを吸い込むように息を吐き出した。


その逞しい肩が、微かに震えている。


「お前を失う想像だけで、狂いそうだった。……お前が大剣と神経を繋いだ瞬間、俺の中に流れ込んできたお前のマナは、あまりにも澄んでいて、脆く、壊れそうだった。もしあの巨獣の一撃を防ぎきれず、お前がその小さな身体ごと砕け散っていたら……俺は、あの雪原のすべてを焼き尽くして自害していただろう」


「閣下、そんな……」


「大袈裟ではない」


ヴィルフリートの手がセリアの細い指先に重なり、指と指を絡め合わせるように強く握りしめられた。


男らしく節くれだった、タコのある大きな手。


その温もりが、セリアの冷え切った指先を融解させていく。


「お前が来るまで、俺にとってこの砦はただの墓場だった。死に場所を探し、義務のためだけに剣を振るっていた。……だが、お前が来てくれた。氷のように冷え切っていたこの城を、民の生活を、そして俺の凍りついていた心を、お前のその知恵と温もりで変えてしまった。……お前がいない世界など、俺にはもう一秒たりとも耐えられん」


切実すぎる告白だった。


「白銀の死神」「氷血公」と恐れられ、一切の甘えも許されずに北方の防壁を背負わされてきた二十八歳の青年が、初めて見せた、むき出しの弱さと独占欲。


(……ずるいわ、この人)


セリアの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。


前世で三十代を迎えるまで、他人に弱音を吐くことも、甘えることも許されずに生きてきた。


常に「頼られる側」「責任を取る側」だった。


そんな自分が、十歳も年下の肉体に転生し、こうして年上の大人の男性から、すべてを投げ打つような重い愛で抱きすくめられている。


『マスターの心拍数:毎分百三十五。血圧上昇、オキシトシンおよびエンドルフィンの分泌量が計測限界を突破。……マスター、完全に陥落(フォール・イン・ラブ)していますね』


(アリア、空気を読みなさい……! ログアウトして!)


『了解。主電源を省電力モードへ移行。生体維持以外の通知を一時停止します。――ご武運を、マスター』


脳内の相棒が気を利かせて沈黙したことで、かえってヴィルフリートの体温と息遣いだけが、世界から浮き彫りになったように鮮烈に感じられた。


ヴィルフリートはセリアの椅子をゆっくりと回転させ、彼女を自分と向かい合わせにした。


そして、戸惑うセリアの身体をひょいと軽々と抱き上げると、自らが執務用の革張りの長椅子に腰を下ろし、その膝の上にセリアをすっぽりと座らせたのだ。


「ひゃっ……!? か、閣下!?」


思わず変な悲鳴が漏れた。


いわゆる「膝の上抱っこ」の体勢。


ヴィルフリートの逞しい太ももの上に座らされ、彼の腕がセリアの腰をしっかりと抱き寄せている。


至近距離で見つめ合う形になり、逃げ場が完全に塞がれた。


「落ち着け。暴れると落ちるぞ」


ヴィルフリートの口元に、悪戯っぽく、しかし蕩けるように甘い微笑みが浮かんだ。


彫刻のような美貌が、セリア一人だけに向ける柔らかな表情。


その破壊力に、セリアの顔は茹でダコのように赤く染まる。


「お、落ち着けるわけがありません! 私を膝の上に乗せるなんて……! 私は十八歳の成人女性ですし、閣下は帝国軍の元帥ですよ!? 誰かに見られたらどうするのですか!」


「誰も入ってこん。鍵はかけた」


ヴィルフリートは平然と言い放ち、テーブルからグラスを一つ引き寄せた。


中に入っているのは、琥珀色の林檎の果実酒だ。


アルコール度数は極めて低く、甘い香りが漂っている。


彼はグラスに口をつけ、少しだけ含むと――そのまま、セリアの唇の前へとグラスを運んだ。


「ほら、一口飲め。身体が温まる」


「じ、自分で持ちますから……!」


「駄目だ。お前の手はまだ疲れている。……俺に世話を焼かせろ」


有無を言わせぬ過保護さだった。


観念したセリアがグラスに口をつけ、トポトポと甘い果実酒を喉に流し込むと、ヴィルフリートは満足そうに目を細めた。


そして、空いた手でサイドテーブルの小皿から、シロップ漬けにされた干し葡萄を一つ摘み上げ、セリアの口元へと差し出す。


「次世代の兵站改革も、魔獣の結晶の利用法も、すべて明日でいい。今夜は、ただ俺の腕の中で甘えていろ」


「……っ」


差し出された果実をパクリと咥えると、ヴィルフリートの指先がセリアの唇に触れた。


びくりと身体を震わせるセリアを、ヴィルフリートは愛おしくてたまらないというように抱きしめ直す。


彼の武骨な指先が、セリアの黒髪をすくい上げ、優しく、慈しむように梳いていく。


戦場で大剣を振るっていたとは思えないほど、繊細で、壊れ物を扱うような手つきだった。


「……セリア」


「はい……」


「お前の過去を、無理に話せとは言わん。だが……お前が時折見せる、すべてを一人で背負い込もうとするあの寂しげな目は、見ていて胸が張り裂けそうになる」


ヴィルフリートの指先が、セリアの滑らかな頬を優しく撫でた。


「俺の前でくらい、ただの女でいてくれ。弱音を吐け。疲れたと言え。……お前がどんな我儘を言おうと、俺のすべてを捧げて叶えてやる」


その言葉に、セリアの心の奥底にあった、誰にも見せなかった「真木芹香」の孤独が、静かに溶かされていくのを感じた。


前世では、弱音を吐けば現場が崩壊した。


疲れたと言えば誰かが倒れた。


だから、常に強靭なリーダーでいなければならなかった。


理不尽に追放されたこの世界でも、生き抜くために知識と計算をフル回転させてきた。


そんな自分の内面を、この男は驚くほど鋭く見抜き、包み込もうとしてくれている。


(……ああ、本当に敵わないわ)


セリアは小さく息を吐くと、強張らせていた身体の力を抜いた。


そして、ヴィルフリートの広い胸元に、こてんと額を預けた。


「……本当に、過保護なんですから」


くぐもった声で呟くセリア。


その素直な甘えに、ヴィルフリートの身体が一瞬硬直し、次いで歓喜に震えた。


「ああ。お前に対してだけは、一生過保護でいると決めた」


ヴィルフリートの腕が、ぎゅうとセリアを抱きしめる。


彼はセリアの頭の頂に、愛おしさを噛み締めるように何度も口づけを落とした。


額、こめかみ、そして耳の後ろへと、羽毛のように柔らかく熱いキスが降ってくる。


セリアは顔を真っ赤にしながらも、その温もりに身を委ねていた。


大人の男の逞しい体温と、甘やかな香り。


二度と手放さないという強い独占欲に包まれながら、セリアの意識は、これまでの人生で一度も味わったことのない、深い安らぎと幸福感の中へと沈んでいった。


◇


二人が甘く濃密な夜を過ごしていた、まさにその時。


白銀砦の南――王都へと続く街道の吹雪を突き破り、一騎の早馬が猛スピードで南下していた。


馬上の男が身につけているのは、王立学園および第二王子直属の使節団の紋章。


「急げ! 一刻も早く王都のルーファス殿下へ報告せねばならん!」


男の懐には、白銀砦の戦果を記した密書が収められていた。


『ヴェルク辺境領において、数千の魔獣および古代種を瞬時に壊滅せしめる未知の魔導兵器、ならびに奇跡の戦術が発動せり。その中核に座すは、追放されし悪役令嬢セリア・フォン・アルトハイムなり――』


王都の愚かな者たちが、自ら手放した「至宝」の真価に気づき、醜い欲望の牙を剥き出しにする時は、すぐそこまで迫っていた。

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