白銀の刃と絶対の信頼
ズガガガガガァァァァンッ!!
「氷殻巨獣」が放った絶対零度の衝撃波が、白銀砦の第一防壁を薙ぎ払った。
轟音とともに、強固な白銀石の外壁が分厚い氷柱に覆われ、バリスタの鉄製支柱がガラス細工のように粉々に砕け散る。
吹き荒れる冷気は、作戦司令室の分厚い強化ガラス窓をも軋ませ、白く凍りつかせた。
「ひ、第一防壁、第三・第四砲座が完全凍結! 外装装甲の剥落を確認!」
「駄目だ、バリスタの魔導ボルトが跳ね返された! 奴の全身を覆う永久凍土の結晶装甲……通常の物理攻撃も魔導兵器も一切受け付けません!」
水晶モニターの前で、通信兵が悲鳴のような報告を上げる。
体長三十メートルを超える巨躯。
何万年もの時を経て圧縮された永久凍土の結晶を纏ったその姿は、歩く氷山そのものだった。
巨獣が一歩踏み出すたびに大地が軋み、砦の足元を揺るがす地響きが司令室にまで伝わってくる。
『対象:氷殻巨獣の構造解析を完了』
セリアの網膜に、アリアの警告サインが激しく明滅した。
『外殻結晶のモース硬度:推定九・五。高密度マナが分子間力で強固に結合しており、既存の火薬兵器や魔導投石器の破壊力を完全に減衰・反射します。既存の通常火力による装甲貫通確率、一・二パーセント未満。防壁への直接衝突まで、あと百二十秒』
百二十秒。
防壁に体当たりを食らえば、いくら堅牢な要塞とはいえ城門は粉砕され、背後の城下町に数千頭の残存魔獣が雪崩れ込む。
何千人もの命が一瞬で失われるカウントダウンだった。
「……ここまでか」
副官の男が絶望に膝をつきかけた、その時だった。
カツン、と静かに軍靴の音が響いた。
ヴィルフリートが、腰に帯びていた長剣の柄に手をかけ、大股で司令室の出口へ向かって歩き出したのだ。
その表情には、恐怖も絶望も微塵もなかった。
ただ、自らの命を薪にして領民を守り抜くという、冷厳で凄絶な「死神」の決意だけが張り付いていた。
「閣下……!? まさか、直々に打って出るおつもりですか!?」
副官が目を見開いて叫ぶ。
「無茶です! あんな化け物、人の身で斬れるはずがありません! 今すぐ脱出路から――」
「退く道など、最初からこのヴェルクにはない」
ヴィルフリートは振り返ることなく、冷徹に言い放った。
「俺が前線に出て奴の眉間を穿ち、足止めをする。その間に、セリアを連れて全軍を第二防壁へ後退させろ。……セリアに指一本触れさせるな。それが、お前たちに下す最後の命令だ」
最後の命令。
それは、明らかな捨て身の特攻――己の命と引き換えに時間を稼ぐという宣言だった。
「お待ちください、ヴィルフリート閣下!」
セリアが駆け寄り、彼の逞しい腕を掴んだ。
華奢な十八歳の少女の指先が、二十八歳の屈強な武人の腕を強く引き留める。
ヴィルフリートが立ち止まり、苦しげにセリアを見つめ返した。
その氷藍色の瞳には、世界中の誰よりも愛おしい宝物を手放さねばならないような、張り裂けんばかりの痛惜が宿っていた。
「離せ、セリア。……お前を死なせるわけにはいかない。お前はまだ十八だ。こんな最果ての凍土で散っていい命ではない。俺が必ず、お前の生きる時間を稼いでみせる」
彼の大きな手が伸び、セリアの頬にそっと触れた。
分厚い手袋越しにも伝わる、熱く切実な体温。
「お前と出会えたこの数日だけで……俺の凍りついていた人生は報われた。だから――」
「お黙りなさいと言いましたわ、閣下!」
パアンッ、と澄んだ音が司令室に響いた。
セリアが、自分の頬に触れていた彼の手を、両手で強く挟み込んだのだ。
「私を置いて一人で逝くなど、絶対に許しません! 誰が貴方に命を捨てろと頼みましたか!? 三十代の社会人を……いえ、私を舐めないでいただきたいわ!」
セリアの瞳の奥で、青い演算光がかつてないほどの輝きを放ち、幾何学的な紋様を描いて回転を始めた。
その気迫は、武人として数千の屍を越えてきたヴィルフリートですら、息を呑んで気圧されるほどに苛烈だった。
「奴の永久凍土の結晶装甲は、確かに通常の大砲や剣撃では傷一つつきません。ですが、どれほど強固な物質であっても、原子が結合してできている以上、必ず『共振周波数』が存在します」
セリアはヴィルフリートの胸元――彼が腰に佩く、白銀砦に代々伝わる家宝の魔導大剣『白狼丸』の柄を指差した。
「マナを高密度に励起させ、毎秒数万回の微細振動――超音波振動を刀身に同期付与します。超高周波で振動する刃を、巨獣の結晶格子の継ぎ目へ寸分の狂いもなく叩き込めば、どれほど強固な装甲であろうと、豆腐のように容易く両断できます」
「……超音波、振動……?」
ヴィルフリートが呆然と呟く。
彼にとって、それは理解の範疇を超えた未知の魔導物理理論だった。
「私の脳内にある『アリア』の演算能力を全開放し、私の魔力回路を、貴方の神経系と大剣へ直接同期させます。私が奴の急所座標と振動数を計算し、貴方の網膜へ直接照準データを投射します」
セリアはヴィルフリートの氷藍色の瞳を、真っ直ぐに見据えた。
十歳も年下の、華奢な少女の姿。
しかし、そこに宿る魂は、幾多の難局を乗り越えてきた歴戦のアーキテクトとしての絶対の矜持だった。
「閣下。貴方の超人的な剣技と身体能力を、私に預けていただけますか? ……私の計算を信じて、私が示す座標へ、ただ大剣を振り抜いてください」
それは、命を他者に完全に委ねろという、武人にとっては狂気の要求だった。
神経系を他者の魔力に同期させるなど、一歩間違えれば脳が焼き切れ、廃人になりかねない禁忌の領域である。
だが、ヴィルフリートの顔から迷いが消え去った。
彼の彫刻のような端整な顔に浮かんだのは――恐怖でも疑念でもなく、自らの魂の半身を見出した男の、獰猛で熱烈な歓喜の笑みだった。
「フ……ハハッ。よかろう」
ヴィルフリートは躊躇うことなく大剣を引き抜くと、柄を握り直した。
そして、セリアの腰を強く引き寄せ、彼女の額に自らの額をコツンと押し当てた。
至近距離で交わる二人の吐息。
「お前の言葉なら、命ごと預ける。……俺の肉体も、魂も、すべてお前の好きに使え、セリア」
そのあまりにも深く熱い絶対の信頼に、セリアの心臓がトクンと激しく跳ねた。
だが、感傷に浸っている時間はない。
防壁の外では、巨獣が前脚を持ち上げ、第一防壁への破城の一撃を繰り出そうとしていた。
「同期シーケンス、開始!」
セリアは右手をヴィルフリートの胸当てに押し当て、アリアの全リソースを解き放った。
『外部生体リンク・プロトコル承認。対象:ヴィルフリート・フォン・ヴェルクの生体電流および魔力循環経路へダイレクトアクセス』
キィィィィィィン……ッ!
脳髄を突き抜けるような澄み切った高周波音が鳴り響き、セリアの掌から溢れ出た極光のような青い光脈が、ヴィルフリートの全身を駆け巡った。
ヴィルフリートの視界が一変する。
吹き荒れる猛吹雪の向こう、迫り来る巨大な氷殻巨獣の姿がスローモーションのように減速し、その全身の結晶装甲の継ぎ目が、網の目のような蛍光色のグリッド線として鮮明に浮かび上がった。
そして、巨獣の眉間――装甲の分子結合が最も脆弱な一点に、眩い赤色の照準サークルがロックオンされた。
さらに、ヴィルフリートの握る大剣『白狼丸』の白銀の刀身が、視認できないほどの超高速で微細に震え始めた。
キィィィィンという大気を切り裂くような不可視の超音波が刃から放たれ、触れた空気中の水分が一瞬で霧散していく。
『テラヘルツ帯マナ高周波振動、出力百二十パーセントで安定。……マスター、脳波同調率九十八パーセント。完璧な同期です』
(ヴィルフリート様……いけます!)
(ああ、見えるぞ、セリア……! お前の見ている世界が……!)
司令室のガラスが内側から吹き飛び、ヴィルフリートはセリアのマナを纏ったまま、猛吹雪の吹き荒れる防壁の上へと躍り出た。
「グオオオオオオオオオッ!!」
氷殻巨獣が、防壁を粉砕すべく、数千トンの質量を誇る巨大な前脚を振り下ろす。
避けることは不可能。
防壁の兵士たちが死を覚悟して目を閉じた、その刹那――。
ダンッ!
ヴィルフリートの足元が爆発的なマナの推進力で弾け、彼の身体は重力を無視した白銀の閃光となって宙へと跳躍した。
十メートル、二十メートル――防壁の高さを遥かに超え、巨獣の眼前にまで一瞬で到達する。
『相対速度計算完了。目標、眉間中央のクラックポイント! 角運動量を乗せ、右斜め四十五度からブレードを投入してください!』
脳内に直接響くセリアの凛とした声。
「――応ッ!!」
ヴィルフリートは空中で身を捻り、超音波を放つ大剣を頭上高く振りかぶった。
巨獣がその異変に気づき、口から絶対零度の吹雪を吐き出そうとする。
だが、遅い。
セリアの完璧な計算と、ヴィルフリートの研ぎ澄まされた武勇。
二人の魂が完全に一つに溶け合った一撃が、虚空を切り裂いて振り下ろされた。
「おおおおおおおおおおっ!!」
ギイィィィィィィンッ――!!
大気が悲鳴を上げるような、耳を劈く金属摩擦音が雪原に轟いた。
何万年もの永久凍土の結晶で守られていたはずの巨獣の眉間に、白銀の刃が触れた瞬間――。
パキィンッ!
乾いた音とともに、巨獣の装甲全体へ、蜘蛛の巣のような亀裂が一瞬で全方位に走った。
高周波振動のマナが結晶格子の結合を原子レベルで断ち割り、超音波の衝撃波が巨獣の体内へと突き抜ける。
抵抗など存在しなかった。
まるで灼熱のナイフをバターに突き立てるように、大剣は巨大な頭部を両断し、その巨大な胴体を真っ二つに切り裂いていった。
ズパァァァァァァンッ!!
一閃。
ヴィルフリートが雪原の上へと軽やかに着地し、ザシュと大剣を振り抜く。
巨獣の動きが、完全に停止した。
次の瞬間――ズゴゴゴゴゴォォォォンッ!!
体長三十メートルの氷殻巨獣が、中央から真っ二つに割れ、巨大な氷山の崩落のように左右へと崩れ落ちた。
吹き飛ぶ氷塊の嵐が雪原を覆い尽くし、やがて静寂が訪れる。
ボスを失った数千の残存魔獣たちは、恐怖に狂ったように咆哮を上げ、蜘蛛の子を散らすように北方の荒野へと敗走していった。
沈黙。
風の音だけが吹き抜ける雪原で、防壁の上の兵士たちも、将校たちも、何が起きたのか理解できずに立ち尽くしていた。
神話の怪物と恐れられた古代種が、わずか一合、たった一撃で両断されたのだ。
「か……勝った……?」
誰かが呟いた。
「勝ったぞ……! 巨獣を……あの化け物を討ち取ったぞおおおおっ!!」
地鳴りのような大歓声が、白銀砦の隅々から爆発した。
兵士たちが抱き合い、空へ向けて剣を突き上げ、歓喜の涙を流して叫んでいる。
だが、その歓喜の渦の中で、ヴィルフリートは雪原に転がる巨獣の残骸を一瞥すらしなかった。
彼は大剣を鞘に納めるや否や、凄まじい脚力で防壁を駆け上がり、司令室のテラスへと舞い戻ってきた。
その瞳が捉えているのは、ただ一人――青い演算光が消え、肩で息をしながら壁に寄りかかっていたセリアの姿だけだった。
「セリア……っ!」
ヴィルフリートは駆け寄るなり、セリアの身体を自らの腕の中へと力任せに抱き寄せた。
ドサリと、彼の分厚い胸板にセリアの顔が埋まる。
金属の甲冑の冷たさと、それを遥かに上回る彼の身体の激しい熱、そしてトクントクンと激しく脈打つ早鐘のような心拍が、ダイレクトに伝わってきた。
「……閣、下……? 苦しい、です……」
「馬鹿者が……! どれだけ無茶をすれば気が済むのだ、貴様は……っ!」
抱きしめる腕の力が、さらに強くなる。
セリアの細い腰を軋むほどに抱きすくめ、ヴィルフリートは彼女の首筋に自らの顔を埋めた。
その逞しい身体が、目に見えて小刻みに震えている。
怒りではない。
安堵と、恐怖と――そして、胸の奥底から溢れ出た、抑えきれない激情による震えだった。
「無事でよかった……。本当に、無事でよかった……! 同期した瞬間、お前の脳にかかった負荷の凄まじさを感じたぞ。……もしお前が倒れていたら、俺は……俺は正気でいられなかった……!」
銀の髪がセリアの鎖骨をくすぐる。
戦場を支配した絶対の英雄が、まるで迷子の子供のように、セリアの温もりを確かめるように縋り付いている。
(……この人、本当に……)
精神年齢は三十二歳の大人の女性。
冷静沈着にプロジェクトを回してきたはずの自分が、彼の腕の中に閉じ込められた途端、頭の芯がトロトロと痺れていくような甘い麻痺を覚えていた。
十歳も年下の肉体(十八歳)が、彼の逞しい腕と男らしい匂いに抗えず、トクン、トクンと激しく鼓動を打っている。
「……勝ちましたね、閣下」
セリアは躊躇いながらも、そっと腕を持ち上げ、ヴィルフリートの広い背中に手を回した。
トントンと、子供をあやすように優しく叩く。
「私の計算通り……防壁の損害は最小限、味方の戦死者はゼロです。……貴方が、私の計算を信じて剣を振るってくださったおかげです」
「お前の知恵が、俺とこの砦のすべてを救ったのだ」
ヴィルフリートが顔を上げ、セリアの瞳を見つめた。
その氷藍色の瞳には、もはや隠しようもない、底なしの独占欲と慈しみの色が渦巻いていた。
彼の手がセリアの顎を優しく掬い上げ、親指が彼女の唇をそっと撫でる。
司令室に残っていた将校たちが見守る中、衆人環視であることなど微塵も気にしていないような、濃密で甘やかな視線だった。
「セリア。……もう二度と、お前を誰にも渡さん。王都の連中が何と言おうと、この命に代えてもお前を守り抜く。……今宵は、お前を片時も離さんぞ」
熱く掠れたその囁きに、セリアの顔が一気に朱に染まった。
『マスターの心拍数、毎分百四十を記録。体温の急上昇を検知』
脳内でアリアが澄ました声で告げる。
『防衛戦タスクは完全勝利でクローズしましたが……プライベートにおける防壁の突破アラートが発令されています。迎撃しますか?』
(……アリア、強制スリープモードに入りなさい!)
心の中で叫びながら、セリアはヴィルフリートの熱い胸元に、恥ずかしさのあまり顔を埋め直すことしかできなかった。
極寒の雪原に、二人の熱い吐息だけが甘く溶け合っていた。




