戦場を制する不可視のグリッド
「私の『計算』通りに動いていただければ、防壁の損傷率五パーセント未満、味方の損害ゼロで、あの六千の魔獣を全滅させてみせます」
張り詰めた作戦司令室に落ちたセリアの宣告に、歴戦の将校たちは凍りついていた。
青い演算光を瞳の奥に宿し、机上の防衛図面を指先で叩くセリア。
その佇まいは、王都から追放されてきた十八歳の可憐な侯爵令嬢などでは断じてなかった。
数千人規模の国家プロジェクトを冷徹に統括してきた、歴戦のアーキテクトそのものの威圧感だった。
「ば、馬鹿を言うな! 十八の小娘が戦の何を知るというのだ!」
「魔獣の突進力を見くびるな! 貴族の机上の空論で、現場の兵が命を落とすんだぞ!」
副官をはじめとする将校たちから、怒号のような反発が噴き上がる。
彼らにとってセリアは、十歳も年下の、戦場を知らぬ温室育ちの子供にしか見えないのだ。
その反発は感情論として当然だった。
だが、セリアは眉一つ動かさず、静かに彼らを見据えた。
(現場のベテランが、若造のコンサルタントに反発するのと同じ構図ね。実績のない言葉だけで人は動かない。……なら、動かすべき人間は一人だけ)
セリアの視線が、机の向こうで沈黙を守るヴィルフリートへと向けられた。
ヴィルフリートの氷藍色の瞳は、激しい葛藤に揺れていた。
彼にとってセリアは、理不尽な断罪に遭い、傷つきながらもこの極寒の地にやってきた、わずか十八歳の可憐な少女だ。
二十八歳の成熟した軍司令官として、そして一人の男として、彼女を戦火の恐怖から遠ざけ、安全なシェルターに匿い、己の腕の中で過保護なまでに守り抜きたいという本能的な庇護欲が渦巻いている。
だが同時に、武人としての鋭敏な直感が告げていた。
目の前に立つ少女は、ただ守られるだけの存在ではない。
自分たちの常識を遥かに超越した、未知の知性と戦略眼を宿した『奇跡』そのものだと。
「……セリア」
ヴィルフリートの低く嗄れた声が響いた。
部屋の怒号がピタリと止まる。
彼は机を回り込み、セリアの目の前に歩み寄った。
大柄で屈強な体躯が、華奢なセリアの影をすっぽりと覆い隠す。
「お前を、危険に晒したくはない。十八のお前に、六千の命を背負わせるなど……男として、領主として恥ずべきことだ」
彼の手が伸び、セリアの肩に触れた。
分厚い革手袋越しに、彼の指先が微かに震えている。
「ですが閣下、合理的でない戦いで貴方を……この領地を失うことなど、私は絶対に容認できません」
セリアは一歩も引かず、ヴィルフリートの瞳を見つめ返した。
外見は十歳も年下の少女。
だが、その瞳の奥にある三十代の自立したプロフェッショナルの魂が、対等な覚悟を突きつけていた。
「私を信じてください。貴方を、誰一人として死なせはしません」
二人の視線が交錯し、火花を散らす。
やがて、ヴィルフリートは短く息を吸い込むと、自らの漆黒のマントを外した。
そして、それをセリアの華奢な肩へと、慈しむようにふわりと羽織らせた。
彼の温もりと、研ぎ澄まされた鋼のような匂いがセリアを包み込む。
「――全軍に告ぐ」
ヴィルフリートは振り返り、将校たちへ向けて雷鳴のような号令を下した。
その貌は、冷徹無比なる「帝国軍元帥」のそれだった。
「これより、全防衛部隊の戦術指揮権をセリア・フォン・アルトハイムへ委譲する。各部隊の通信水晶を彼女の魔力波へ同期させろ。異論は一切認めん。彼女の指示に従わぬ者は軍律違反とみなし、この俺が直々に斬る!」
「か、閣下……っ!?」
将校たちが息を呑むが、主君の絶対的な眼光の前に、もはや反論できる者はいなかった。
「感謝いたします、閣下。……では、オペレーションを開始します」
セリアはマントの襟元を軽く引き締め、脳内でアリアを完全に覚醒させた。
(アリア、白銀砦の主幹魔導通信網へ侵入。水晶発振周波数を解析、ミリ波帯マナリンクを確立して)
『了解。白銀砦の魔導通信ネットワークへアクセス……旧式暗号プロトコルを突破。全防衛区画の通信水晶六十四基、および個体携行型水晶百二十基の周波数を完全掌握しました。戦術C4Iシステム、オンライン』
キィィィン……と、セリアの頭蓋の奥で澄んだ電子音が鳴り響いた。
その瞬間、砦の防壁に配置された数百人の兵士たちの腰にある通信水晶が、淡く青い光を帯びて一斉に励起した。
『全兵士へ、骨伝導マナパルスによる個別音声ガイドリンクを構築。弾道計算エンジン、同期完了』
「第一防壁、対空バリスタ部隊へ通達!」
セリアの声が、司令室だけでなく、吹雪が吹き荒れる防壁上の全兵士の耳元へと、驚くほどクリアな音声で直接響き渡った。
「方角北北西、迎撃仰角二十二度。射程八百五十メートルに固定。装填弾は第二種破砕榴弾。――まだ撃たないでください。私のカウントがゼロになるまで、絶対に引き金を引かないこと」
防壁の上で、凍えながら巨大なバリスタを構えていた兵士たちがざわめいた。
「な、なんだこの声は!? 頭の中に直接響いてくるぞ!?」
「令嬢の声だ! だが、仰角二十二度だと? 敵の飛行魔獣はまだ雲の向こうだぞ、何も見えねえ!」
猛吹雪の暗雲の彼方からは、キチキチと耳障りな超音波が響いてくるだけだった。
視界は五十メートル先すらおぼつかない。
通常なら、当てずっぽうに魔導弾を乱射してマナを浪費する場面だった。
だが、セリアの網膜には、アリアのドップラー・マナレーダーが捉えた五百頭のフロストバットの正確な飛行軌跡が、赤色の方形グリッドとして鮮明に投影されていた。
『敵飛行集団、気流に乗って急降下を開始。速度、時速百二十キロ。防壁到達まで十秒……九、八……』
(気圧変動による弾道偏差、プラス一・二メートル。風速八・五メートルを相殺するリード角を各砲座へ送信!)
『各バリスタの照準補正データを水晶経由でバイブレーション伝達。兵士の筋肉反射遅延を〇・三秒と予測』
セリアの瞳が青く輝きを増す。
「三、二、一――全門、斉射!」
「撃てぇぇぇっ!!」
現場の隊長が半信半疑のまま叫び、一斉にバリスタの撃鉄が落とされた。
ドガガガガガッ!
轟音と共に、十二本の巨大な魔導ボルトが吹雪の虚空へと射出された。
目視すらできない暗雲の中へと消えていく矢。
兵士たちが「無駄撃ちだ」と絶望しかけた、そのコンマ五秒後だった。
ドォォォォォンッ!!
何もないはずの暗雲のただ中で、目も眩むような爆炎が連鎖的に炸裂した。
雲を突き破って突撃してきたフロストバットの大群が、まるで自ら進んで爆炎の渦へ飛び込んだかのように、寸分の狂いもなく破砕榴弾の直撃を受けたのだ。
ギャアアアアッ!と引き裂かれるような断末魔が響き渡り、炎に包まれた数百頭の魔獣の残骸が、ボタボタと雪原へ叩きつけられていく。
わずか一斉射。
それだけで、砦を空から脅かすはずだった飛行部隊の八割が、防壁へ指一本触れることなく消滅した。
「な……っ!?」
「命中……全弾、直撃だと……!?」
防壁の上で、百戦錬磨の兵士たちが呆然と自らの手を見つめていた。
目視すらできない吹雪の彼方の敵を、言われた通りの角度で撃っただけで、完全に撃破してしまったのだ。
「驚いている暇はありません! 次が来ます!」
セリアの冷静沈着な指示が、再び兵士たちの鼓膜を叩いた。
「地上部隊、フロストウルフ四千、白銀甲殻熊千五百が前哨地溝帯へ侵入。――投石器部隊、照準座標デルタ・フォー。通常魔石ではなく、先ほど工房から搬入した『火成廃石ブロック』を装填してください」
「なっ、あの産業廃棄物を投げるのか!?」
投石器の兵が叫ぶが、セリアの指示に迷いはなかった。
「廃石の蓄熱層には、アリア……私が事前にテラヘルツ帯のマナ共鳴術式を焼き付けてあります。地溝帯の凍結マナ層に着弾した瞬間、共鳴連鎖による水蒸気爆発を引き起こします。――撃ち出せ!」
ギギギ……ドガァンッ!
三基の大型投石器から、黒ずんだ廃石の塊が放物線を描いて射出された。
雪原の谷間――四千頭の狼と熊が密集して雪崩れ込んできた、まさにその中心点へと廃石が落下する。
その瞬間。
ズドドドォォォォォンッ!!
雪原が割れ、大地が跳ね上がった。
廃石に含まれる共鳴マナが、永久凍土の氷と瞬時に反応し、超高圧の水蒸気爆発を誘発したのだ。
凄まじい熱風と衝撃波が地溝帯を吹き荒れ、頑強な氷殻を持つ魔獣たちが、吹き飛ばされた氷塊の散弾を浴びて次々と薙ぎ倒されていく。
さらにセリアは間髪を入れず、弓兵部隊へ通信を繋いだ。
「狙撃兵各員、通信水晶が発する光の点を、視界の照準器に合わせてください。水晶が二度振動した瞬間、引き金を引く。それだけでいいです」
『全狙撃兵へ、白銀甲殻熊の装甲接合部の座標を個別送信。偏差射撃アシストを展開』
アリアの冷徹なサポートにより、弓兵たちには「敵の急所が光って見える」という奇跡がもたらされていた。
ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ!
放たれた矢が、分厚い氷の装甲を持つ白銀甲殻熊の、わずか数センチの首の隙間へと吸い込まれるように次々と突き刺さる。
通常なら何十本もの矢を跳ね返し、防壁に体当たりを食らわせるはずの中型魔獣が、前進することすら叶わず、雪原の上で次々と沈黙していった。
完璧だった。
敵の進路、速度、地形の起伏、風向き、マナの流動――すべてがアリアの演算によってチェス盤の駒のようにコントロールされていた。
六千もの圧倒的な軍勢が、セリアの敷いた「見えないキルゾーン」へと吸い寄せられ、防壁から五百メートル以上離れた雪原で、一方的に、効率的に刈り取られていく。
「す、すげえ……」
作戦室で、モニター用の水晶を凝視していた副官が、震える声で呟いた。
「敵の前衛部隊が……壊滅していく……。味方の矢玉の消費量は通常の十分の一以下……防壁への接触、ゼロ……」
将校たちのセリアを見る目が、完全に変わっていた。
小娘、温室育ち、役立たずの悪役令嬢――そんな侮蔑は微塵も残っていない。
そこにいたのは、わずか十八歳の身体に、軍神の頭脳を宿した絶対的な戦術家だった。
「……セリア」
隣でその全てを見届けていたヴィルフリートが、息を呑んでセリアを見つめていた。
彼女の羽織る自分のマントが、風もないのに彼女から放たれる膨大なマナの余波で小さく揺れている。
冷徹に戦局を支配し、無駄のない言葉で数百の兵を統率するその横顔は、息を呑むほどに美しく、そして神々しかった。
だが、ヴィルフリートの鋭い目は見逃さなかった。
毅然と言葉を紡ぎながらも、セリアの白い額に薄っすらと冷や汗が浮かび、唇がわずかに強張っているのを。
(この小さな身体で……また、限界まで己を削って戦っているのか……)
胸が締め付けられるような激痛が、ヴィルフリートを襲った。
十歳も年下の、守るべき愛しい少女。
その彼女が、自分と領民を守るために、神業のような奇跡を一人で維持し続けている。
ヴィルフリートは無言のまま、セリアの背後へと寄り添った。
そして、マントの上から、彼女の華奢な背中にそっと大きな掌を当てた。
「――っ!?」
セリアの肩が小さく跳ね、瞳の青い光が微かに揺らいだ。
振り返ろうとするセリアを、ヴィルフリートの低く優しい声が押し留める。
「振り返るな、前を見ろ。……お前がこの砦の頭脳を担うなら、俺はお前の盾となる。お前の背中は、俺が命に代えて守り抜く」
背中に当てられた掌から、驚くほど熱いヴィルフリートの体温とマナが、じんわりとセリアの体内へと流れ込んできた。
冷え切っていた神経が解きほぐされ、オーバーヒートしかけていた魔力器官が、彼の包容力によって急速に安定していく。
(……この人ったら、こんな戦場の真ん中で……)
精神年齢は三十二歳の大人の女性のはずなのに、彼の掌の温もりに触れた瞬間、セリアの心臓がトクンと甘く跳ねた。
外見は十八歳、中身は三十代――そんな理屈を軽々と吹き飛ばすほどに、ヴィルフリートの注ぐ愛情は重く、深く、切実だった。
『マスター、副次的マナ供給により演算プロセッサの冷却効率が三十パーセント向上。……それと、マスターの脈拍が跳ね上がっています。平常心を保ってください』
(うるさいわよ、アリア! わかってるわ!)
セリアは熱くなる頬を誤魔化すように、鋭く前方を指差した。
「全軍、攻撃の手を緩めないでください! 残余の敵を掃討――」
その時だった。
ピピピピピピピピッ!
アリアの空間走査アラートが、これまでにない最大音量で脳内に鳴り響いた。
『緊急警告! 地中深部より超質量マナ反応が急速浮上! 深度マイナス五十……三十……十! マスター、直上です!!』
ズザザザザァァァァッ!!
突如、キルゾーンの崩壊した雪原の中央が、火山の噴火のように爆発した。
吹き飛ぶ数千トンの雪と岩石の向こうから姿を現したのは――体長三十メートルを超える、全身を白銀の永久凍土の結晶で覆われた、超巨大な古代種「氷殻巨獣」だった。
その咆哮一閃。
大気を揺るがす絶対零度の衝撃波が、砦の第一防壁へと真っ直ぐに押し寄せてきた。




