迫り来る獣潮(スタンピード)
やわらかな毛布の温もりと、薪が微かに爆ぜる心地よい音の中で、私は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光に目を細めると、そこは見慣れた別塔の粗末な部屋ではなく、重厚な木製家具と深い藍色の絨毯で整えられた、ヴェルク辺境伯の私室だった。
頭痛も倦怠感もすっかり消え失せ、身体は驚くほど軽くなっている。
『マスター、意識の覚醒を確認。睡眠時間:十時間四十二分。血糖値、血圧、自律神経バランスともに基準値へ完全復帰しました。魔力器官のオーバーヒートも解消。パフォーマンスは百パーセントです』
(ありがとう、アリア。……それにしても、こんなに熟睡したのは前世を含めていつ以来かしら)
心地よい脱力感に浸りながら起き上がろうとした瞬間、ガチャリと静かに扉が開いた。
現れたのは、黒銀の軍服の上着を脱ぎ、白いリネンシャツの袖をまくったヴィルフリートだった。その手には、銀のトレイが載せられている。
私と目が合った瞬間、彼の氷藍色の瞳がパッと見開かれ、次いで安堵の色に染まった。
「セリア……目が覚めたか」
「閣下……。申し訳ありません、私のような者が閣下の私室とベッドを長時間占有してしまい……」
私が恐縮して布団から抜け出そうとすると、ヴィルフリートは大股でベッドサイドに歩み寄り、トレイをサイドテーブルに置くや否や、私の肩を両手で優しく押し留めた。
「動くな。まだ横になっていろ」
「いえ、もう体調は完全に回復いたしました。業務に復帰できます」
「駄目だ。顔色は良くなったが、油断は禁物だ。……まずはこれを腹に入れろ」
差し出されたトレイの上には、湯気を立てる熱々のスープと、柔らかく焼き上げられた白パン、そして林檎のコンポートが並んでいた。
スープからは、香味野菜と鶏肉をじっくり煮込んだ滋味深い香りが漂っている。
「……あの、これは?」
「厨房に作らせた滋養スープだ。貴様が倒れたと聞いて、料理長が血相を変えて仕込み始めた。……冷めないうちに飲め。ほら」
ヴィルフリートは自ら木製のスプーンを手に取ると、スープを掬い、ふーふーと息を吹きかけて冷まし、私の口元へと差し出してきた。
その顔は極めて真剣そのもので、まるで国家の命運を左右する軍事機密でも扱っているかのようだった。
「……っ!? か、閣下、自分でいただけます! スプーンをお渡しください!」
私の顔が一気に沸騰した。
(中身は三十代の元エンジニアなのに、外見が十八歳だからといって、十歳も年上の威厳ある元帥閣下に小さな子供のようにスープを口元まで運ばれている……!)
この状況の気恥ずかしさは、前世のどんなプレゼン失敗よりも心臓に悪かった。
「駄目だ。お前の手はまだ微かに冷えている。安静にしていろと言ったはずだ」
「冷えてなどおりません! ほら、ちゃんと動きますから!」
「口を開けろ、セリア。……それとも、俺の手からでは嫌か?」
眉を下げ、捨てられた大型犬のように哀しげな光を帯びた氷藍色の瞳に見つめられ、私は完全に言葉を失った。
あの「白銀の死神」が、こんな表情をするなど反則以外の何物でもない。
『マスターの心拍数が急上昇。体温の上昇を検知。……観念して摂取することを推奨します。なお、彼の表情の破壊力は工学的防御限界を突破しています』
(アリア、あなたまで面白がらないで……!)
観念した私は、小さく「いただきます……」と呟き、差し出されたスプーンを受け入れた。
口いっぱいに広がる、滋味豊かで優しい味わい。
喉を通る温もりが、胃の腑に染み渡っていく。
「……美味しいです」
「そうか。なら、もっと食え」
ヴィルフリートの口元が、心底嬉しそうに綻んだ。
普段の冷徹な仮面はどこへやら、彼はいそいそと次のスプーンを掬っては私の口へと運び、パンを小さくちぎって差し出してくる。
その徹底した甘やかしぶりと過保護さに、私は恥ずかしさで身悶えしながらも、胸の奥がじんわりと温かい幸福感で満たされていくのを止められなかった。
――だが、その平穏な時間は、唐突に引き裂かれた。
ドォォォォン……!
砦の遥か北側から、重く鈍い地鳴りのような衝撃が響いた。
部屋の窓ガラスがビリビリと激しく震える。
それと同時に、白銀砦の全域にけたたましい警鐘の音が鳴り響いた。
三打、間を置いて三打――最上級の軍事警戒を告げる『赤色警鐘』だった。
「――っ!?」
ヴィルフリートの表情が、一瞬で「領主」そして「帝国軍元帥」の冷徹な貌へと切り替わった。
スプーンをトレイに戻し、素早く立ち上がる。
扉が激しく叩かれ、息を切らした伝令兵が転がり込んできた。
「元帥閣下! 北方の警戒網第十二監視塔より緊急魔導通信! 永久凍土深部より、大規模な魔獣の群れが南下を開始! その数、目視および魔力探査でおよそ五千……いえ、六千を超過! 白銀砦へ向けて直線進軍中です!」
「……来たか。『獣潮』め」
ヴィルフリートの低い声に、氷のような殺気が宿った。
「先行部隊との接触予測時間は?」
「およそ二時間後! 前哨陣地は放棄、全軍を本砦の防壁内へ後退させています!」
「よし。全軍に戦闘配置につかせろ。重装歩兵を第一城門に集結、対空バリスタには火炎魔石を装填。……何としても、この防壁で食い止める」
「はっ!」
伝令が嵐のように去っていく中、ヴィルフリートは背後の椅子に掛けてあった漆黒の外套を鋭い所作で羽織った。
腰に長剣を帯び、冷厳な瞳を私に向ける。
その瞳には、先ほどまでの甘やかな熱の代わりに、死地へ赴く武人の覚悟が宿っていた。
「セリア。砦の最下層に、古代の防護結界が張られた退避用シェルターがある。副官に案内させるゆえ、直ちにそこへ入れ」
「閣下、しかし……!」
「聞け」
ヴィルフリートは私の手を取り、強く握りしめた。
手袋越しにも伝わる、確固たる決意。
「敵の数は六千。我が軍の防衛兵力は千二百。五倍以上の兵力差だ。……白銀砦の防壁は頑強だが、今回の規模は過去数十年で最大だ。防壁の一部が削り取られる激戦になる。だが、安心しろ。俺の首が落ちぬ限り、奴らをお前がいる区画へ一歩たりとも近づけはしない。お前は俺の命に代えても守る」
その言葉は、どこまでも純粋で、不器用な愛の誓いだった。
だが、その瞳の奥にある「玉砕覚悟」の覚悟を、私の知性が、そして前世のアーキテクトとしての魂が見逃すはずがなかった。
(……五対一の兵力差で、正面からの消耗戦? そんな前時代的な精神論で、この人を死なせるわけにはいかない)
ヴィルフリートが手を放し、背を向けて部屋を出ていく。
重い足音が遠ざかる中、私はベッドから一気に跳ね起きた。
「アリア、現状の観測データを全展開して!」
『了解。深層知覚サブシステムのログを復元。外部マナフラックスの解析データをディスプレイに投射します』
網膜に、鮮烈な青いホログラムマップが展開した。
北方の永久凍土から、赤黒い無数の光点――六千を超える魔獣の群れが、扇状に広がりながら砦へ向けて猛烈な速度で押し寄せてきている。
アリアはその一体一体の魔力波形を瞬時にスキャンし、敵の構成比率を割り出していた。
『敵勢力分析:主体は「フロストウルフ」約四千、中型装甲種「白銀甲殻熊」約千五百、および飛行種「フロストバット」五百。指揮個体と思われる超高密度マナ反応を中央後方に確認。……全軍が盲目的に直進しているのではなく、特定の低周波マナパルスに誘導されて進軍しています』
(誘導……? 自然発生のスタンピードじゃないの?)
『はい。極めて不自然な指向性ベクトルが存在します。何者かが意図的に砦へ群れを誘導している可能性、七十四・二パーセント』
(背後に何がいようと関係ないわ。問題は、今の砦の防衛体制よ)
アリアが白銀砦の防衛計画をシミュレーションする。
立体図面上に、赤と青の光が激突するアニメーションが高速描画された。
『シミュレーション結果:現行の防衛プロトコル(防壁への籠城および魔導投石器による飽和攻撃)を実施した場合、防壁外縁の突破確率六十八パーセント。防衛部隊の損害率、推計四十二パーセント。閣下を含む主幹戦闘員の生存確率、五十パーセント未満』
(損害率四割……! そんな損害を出したら、仮に撃退できたとしても、この極寒の冬を越せずに領地そのものが崩壊するわ!)
私を温かいスープで甘やかしてくれた、あの不器用で優しい人を。
そして、私を信じて床暖房の設置に汗を流してくれた、あの職人たちや兵士たちを、無駄な消耗戦で失うわけにはいかない。
「アリア、私の魔力残量は?」
『睡眠による完全休養により、魔力器官は百二十パーセントまで過充填状態。アリアの全演算プロセッサ、並列稼働可能です』
「十分ね。……通信水晶網の周波数ハッキングと、戦術C4Iシステムの構築プランを策定して。全軍の射線とマナ効率を私が同期制御する」
『プラン了解。工学的見地に基づくキルゾーンの設計を開始します。……マスター、お転婆が過ぎますね。閣下に叱られますよ?』
「事後承諾で結構よ。死なれるより、後でいくらでもお説教された方が何万倍もマシだわ!」
私はトランクから、動きやすい仕立ての作業用コートを羽織り、髪を黒いリボンでキュッと一つに束ねた。
足元には頑丈な革のブーツ。
淑女のドレスを機能的な戦術服へと変貌させ、私は迷うことなく、緊迫した空気が張り詰める前線司令部へと走り出した。
◇
白銀砦の中央天守、最上階の作戦司令室。
壁一面に張られた巨大な羊皮紙の防衛地図を囲み、ヴィルフリートと十数名の歴戦の将校たちが、重苦しい空気を張り詰めていた。
「閣下! 第一防壁の矢玉の備蓄が足りません! 工廠からの搬入が吹雪で遅延しております!」
「魔導投石機の魔石充填率、まだ六割です! 開戦までに間に合いません!」
「くそっ、数が多すぎる……! この規模は十年前の『大厄災』以来だぞ!」
飛び交う怒号と悲鳴に近い報告。
将校たちの顔には、歴戦の猛者であっても隠しきれない焦燥と恐怖が張り付いていた。
その中央で、ヴィルフリートは抜刀した長剣を机の端に突き立て、冷徹な声で一喝した。
「取り乱すな! 我らが退けば、背後にある城下町の民が喰い殺されるのだぞ! 第一防壁が破られれば第二防壁へ後退、矢が尽きれば白兵で迎え撃つ! 俺が先陣に立つ。ヴェルクの誇りにかけて、一歩たりとも引くな!」
「「「はっ……!」」」
悲壮な覚悟が部屋を満たし、将校たちが敬礼を返そうとした、その時だった。
バァン……ッ!
重厚なオーク材の扉が、勢いよく左右に押し開かれた。
全員の視線が入り口へと吸い寄せられる。
そこに立っていたのは――乱れた黒髪を揺らし、息を弾ませながらも、凛とした気迫を全身から放つセリアだった。
「セ……セリア……!? なぜここにいる! シェルターへ避難しろと命じたはずだ!」
ヴィルフリートが目を剥き、激昂して机を叩いた。
「ここは戦場だ! お前のような女が立ち入る場所ではない! 衛兵、直ちに彼女を――」
「お黙りなさい、ヴィルフリート閣下!」
凛冽な、澄み渡る声が部屋の怒号を圧殺した。
侯爵令嬢の威厳と、数千人のプロジェクトを率いてきた一流アーキテクトの絶対的な命令権威が、その声には宿っていた。
歴戦の将校たちが、気圧されたように息を呑んでたじろぐ。
セリアは軍靴を響かせて大股で部屋の中央へ進み出ると、机の上の防衛地図を一瞥し、冷ややかに言い放った。
「矢が尽きれば白兵戦? 閣下自ら先陣に立つ? ……正気ですか。それは戦術ではなく、ただの無計画な玉砕です」
「なっ……貴様、何を無礼な……!」
副官の男が剣の柄に手をかけようとしたが、セリアの瞳に宿る異様な光を見て硬直した。
セリアの双眸の奥深くで、淡く怜悧な、幾何学模様を描く青い光――アリアの演算グリッドが、高速で明滅していた。
「兵力差一対五の状況で、防壁に頼った単純な籠城と飽和攻撃を行えば、前衛の消耗により防衛ラインは二時間で崩壊します。閣下の武勇で一時的に食い止めたとしても、兵の四割が戦死し、この領地は今冬の寒さを迎える前に防衛機能を喪失します」
セリアはヴィルフリートの氷藍色の瞳を、真っ直ぐに見据えた。
その眼差しには、怯えも、感傷も、一切の迷いもない。
ただ純粋な、絶対的な勝算を握る者の確信だけがあった。
「感情論での無駄死には、極めて非効率です。私に、全軍の通信水晶と防衛兵器の指揮リンクをお預けいただけますか?」
「……指揮リンクだと? お前に、この戦の指揮を執れというのか?」
ヴィルフリートの声が低く震えた。
驚愕と、困惑、そして彼女の尋常ならざる気迫に圧倒された男の呻きだった。
「はい。私の『計算』通りに動いていただければ、防壁の損傷率五パーセント未満、味方の損害ゼロで、あの六千の魔獣を全滅させてみせます」
傲慢とすら取れる不敵な宣告。
だが、その背後に浮かび上がる青い演算光の幾何学模様は、まるで神の知恵を宿した異界の軍師そのものだった。
沈黙が支配する作戦室で、ヴィルフリートとセリアの視線が激しく火花を散らした。




