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氷血公の視線が揺らぐ時

白銀砦の兵舎第三区画に導入された「魔導オンドル」の試験運用は、驚異的な成果を叩き出していた。


導入からわずか三日で、兵舎内の平均室温は氷点下から常時十五度前後へと安定。


夜間に寒さで目を覚ます兵士は皆無となり、凍傷による戦線離脱者は文字通りゼロになった。


煙突からの排煙も劇的に減少し、消費された薪の量は従来の四分の一以下。


その劇的な劇的変化は、頑固な職人たちや前哨基地の兵士たちを熱狂させるに十分だった。


だが、システムの成功は同時に、新たな業務の奔流を意味していた。


「セリア様! 第四・第五兵舎の改修図面の承認をお願いします!」


「工匠区画から連絡です、廃石の粉砕プラントの拡張にあたり、マナ刻印石の初期励起シーケンスの確認を求めています!」


「城下町の長老会から陳情が届きました! 民家区画への導入優先度について、協議の場を設けてほしいとのことです!」


白銀砦の執務室の一角。


私に割り当てられた作業デスクの上には、羊皮紙の束が山のように積み上がっていた。


「順次対応します。第四・第五兵舎の図面は煙道の傾斜角を二度上方修正した上で承認。粉砕プラントの刻印石は、私が午後一番で直接術式コードを焼き付けに行きます。長老会への回答は、まず資材供給ラインのキャパシティを数値化した上で、公平な工程表を作成して提示しましょう」


私は羽ペンを滑らせ、次々と書類に決裁印を押していく。


頭蓋の中では、アリアがフル回転でタスクの優先順位付けとリソース配分の最適解を計算し続けていた。


『タスク完了率:六十八パーセント。本日の処理速度は前日比百十四パーセントを記録。……マスター、手際が良すぎるのも考えものです。現地職員たちが完全にあなたをボトルネック解消の特効薬として依存し始めています』


(いいのよ。現場が混乱している立ち上げ初期に、アーキテクトが全体設計と進行管理を巻き取るのは鉄則だもの。


ここで標準化(テンプレート化)を完了させておけば、後は現場だけで自律運用できるようになるわ)


前世のデスマーチの記憶が蘇る。


システムトラブルで炎上した現場に乗り込み、徹夜続きで仕様書を書き直し、泥水を啜るようにエナジードリンクを流し込んでいたあの頃。


あの過酷さに比べれば、現場の人間が皆協力的で、成果がダイレクトに人の命を救う結果として跳ね返ってくる現在の状況は、信じられないほど健全でやりがいがあった。


――だが、私の精神がどれほどタフであろうと、この身体は温室育ちの貴族令嬢のものだった。


時計の針が深夜一時を回った頃。


執務室の暖炉の薪が、パチリと小さな音を立てて爆ぜた。


周囲の文官や従卒たちはすでに全員退出させ、広大な部屋には私一人だけが残っていた。


机上の魔導ランプの光を見つめながら、私は次の羊皮紙に手を伸ばそうとした。


その瞬間――。


視界がぐにゃりと歪んだ。


(……あれ?)


ピントが合わない。


目の前の文字が二重、三重にブレて重なり合い、急速に暗転していく。


心臓が不自然な早鐘を打ち、手足の指先から血の気が引いていく冷たい感覚が走った。


『警告。警告。生体維持プロトコル・レッドアラート発令』


アリアの機械音声が、これまでにない鋭さで脳内に鳴り響く。


『宿主(マスター)の血糖値急低下、血中酸素飽和度低下、脳血流の一時的遮断を検知。過去七十二時間における総睡眠時間、わずか七時間四十分。魔力器官のオーバーヒートおよび肉体疲労が限界域を超過しました。直ちにすべての業務を中断し、水平姿勢を取ってください』


(待って、アリア……。あと、この三枚だけ……明日の資材搬入の承認書だけは、サインしておかないと現場が止まる……)


立ち上がって棚の印章を取ろうとした。


しかし、両足にまったく力が入らない。


膝の関節が抜け、世界が斜めに反転した。


あ、倒れる――。


冷たい石の床が急速に迫り、私は固く目を閉じた。


前世の最期、オフィスのカーペットに崩れ落ちた瞬間の冷気が、生々しく脳裏をよぎる。


また、同じ過ちを繰り返すのかという自嘲が胸を満たしかけた、その時。


――ガシッ!


強い力で、私の身体が空中で受け止められた。


硬質な革の感触。


厚いウール越しに伝わってくる、驚くほど高熱を帯びた体温。


石床の硬い衝撃の代わりに私を包み込んだのは、鋼のように逞しく、それでいて壊れ物を扱うように慎重な、二本の腕だった。


「セリア……っ!!」


鼓膜を震わせたのは、かつて聞いたことのないほど取り乱した男の叫び声だった。


恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に、見紛うことなきヴィルフリートの顔があった。


普段の怜悧な冷徹さは見る影もなく、その彫刻のような美貌は蒼白に染まり、氷藍色の双眸は恐怖と動揺で見開かれていた。


乱れた銀髪が私の額に触れている。


「……か、く下……?」


掠れた私の声に、ヴィルフリートの肩が大きく跳ねた。


「喋るな! おい、しっかりしろ! どこが痛む!? 傷を負ったのか!? 誰か、誰かある――っ!」


彼が怒声を上げて人を呼ぼうとするのを、私は震える指先で彼の胸元――軍服の襟元を掴んで引き留めた。


「呼、ばないで……ください……。大丈夫、ですから……。ただの……立ちくらみです……」


「これが大丈夫に見えるわけがあるか! 顔色が死人のように白いぞ! 身体もこんなに冷え切って……!」


ヴィルフリートの腕に、ぎゅうと痛いほどの力が込められた。


見上げると、彼の唇がわずかに震えていた。


戦場で数千の魔獣を屠り、兵士たちから「白銀の死神」と恐れられる男の手が、ただ一人の女が倒れかけたという事実だけで、目に見えて小刻みに震えているのだ。


『対象:ヴィルフリート・フォン・ヴェルクの生体データを計測』


アリアが私の耳元で、静かに告げる。


『心拍数毎分百五十を超過。極度の交感神経優位、パニック状態。……マスター、彼は本気であなたが死ぬのではないかと恐怖しています』


「……本当に、少し目眩がしただけです。座って、少し休めば……」


「黙れと言っている!」


低く、押し殺したような怒声が頭上から降ってきた。


だが、その怒りは私に向けられたものではないことは明白だった。


自分自身に対する、激しい悔恨と怒り。


「俺が……俺が気づくべきだった。貴様がこの数日、睡眠も取らずに領民や兵のために駆け回っていたことくらい、見ればわかっていたはずだ。それなのに、あの連中が貴様に群がるのを止めもせず、仕事を押し付け……!」


「違います、私が自分でやりたくて……」


「言い訳をするな!」


ヴィルフリートは私の言葉を遮ると、躊躇うことなく私の膝裏に腕を滑り込ませた。


「――っ!? 閣下!?」


ふわりと身体が浮き上がり、視界が高くなる。


いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢で軽々と抱え上げられたことに気づき、私の頭の芯が急激に熱くなった。


前世を含めて三十数年の人生で、男性にこのような形で抱き上げられた経験など一度もない。


「な、何を……下ろしてください! 不作法です、私のような罪人をこのような……!」


「罪人などと二度と口にするな!」


ヴィルフリートは私を腕の中に強く抱きすくめたまま、執務室の奥にある彼自身の私室へと大股で歩き出した。


「お前が罪人なら、この砦の人間は全員地獄行きだ。誰がお前を責める権利を持つというのだ。……俺の許可なく、これ以上己の身を削ることは絶対に許さん」


扉を蹴り開けて入った彼の私室は、簡素だが上質な絨毯と暖炉が備えられた部屋だった。


ヴィルフリートは私を、部屋の中央にある巨大なベッドへと、羽毛に触れるような手つきでそっと横たえた。


すぐに起き上がろうとする私の肩を、彼の手が優しく、しかし絶対に逆らえない力加減で押し留める。


「動くな。寝ていろ」


「ですが、明日の資材搬入の書類が……」


「そんなものは俺が後で全て目を通す。不備があれば俺が責任を取る。お前が気にする必要は欠片もない」


ヴィルフリートは外套を脱ぎ捨てると、ベッドサイドの椅子を引き寄せ、私のすぐ隣に腰を下ろした。


そして、厚手の毛布を私の首元まで丁寧に引き上げ、自らの大きな両手で、冷え切っていた私の右手を包み込んだ。


彼の手は驚くほど熱く、分厚いタコと無数の傷跡に覆われていた。


その武骨な両手が、まるで壊れやすいガラス細工を温めるかのように、祈るような力加減で私の手を包み、包み込んだ手へ自らの呼気を吹きかけて温めていく。


「……閣下?」


あまりの近さと、そこに込められた感情の重さに、私の心臓が激しく跳ねた。


三十代の大人の女性として培ってきた冷静さや論理的思考が、彼の体温に触れた瞬間から、音を立てて融解していく。


見上げるヴィルフリートの瞳には、かつて向けられていた氷のような冷たさは微塵もなかった。


そこにあるのは、底知れぬ慈しみと、縋るような哀切だった。


「セリア。……お前を失うかと思った」


掠れた声で、彼がぽつりと零した。


「お前が王都から来た時、俺はお前を突き放した。どうせすぐに泣き言を言って逃げ出すと思っていたからだ。だが、お前は違った。文句一つ言わず、この凍えきった土地を、寒さに震える民を、そして俺の部下たちを、その身を削って温めてくれた」


彼の手がわずかに震え、私の手の甲に彼の額が押し当てられた。


銀の髪が私の指先に触れる。


「お前がどれほど優れた知恵を持っていようと、お前はただの一人の人間だ。肉を持ち、血を流し、疲れ果てれば倒れる生身の女だ。……それを忘れ、お前の善意に甘えきっていた己の不明が許せない」


「閣下のせいでは……」


「俺のせいだ。だから、もう二度とお前に無茶はさせん」


ヴィルフリートが顔を上げ、私の瞳を真正面から見つめた。


その氷藍色の瞳には、揺らぐことのない絶対的な誓いが宿っていた。


「これからは、お前が誰かのために働くのではない。俺とお前の部下が、お前のために働くのだ。お前が笑って過ごせる環境を作るのが、このヴェルク領主たる俺の役目だ。……わかったな?」


それは、命令の形を取った、あまりにも重く甘い誓約だった。


誰かに頼ることも、弱音を吐くことも許されず、常に「責任者」として一人で現場を背負い続けてきた前世。


そして現世でも、無実の罪を着せられ、誰からも庇われずに追放された。


「一人で戦い、一人で生き抜くこと」が当たり前だった私の頑なな心の防壁を、この不器用で真っ直ぐな男の言葉が、強引に、そしてどこまでも優しく突き崩していく。


(……ああ、駄目ね。これじゃあ……)


目頭が熱くなるのを必死に堪えながら、私は彼の手の中で小さく指を丸めた。


彼の温もりが心地よくて、身体中の強張りが解けていく。


「……はい、閣下。少しだけ……お言葉に甘えさせていただきます」


私の小さな返答に、ヴィルフリートの顔にフッと、初めて見るような柔らかく美しい微笑みが浮かんだ。


彼の手が私の頭へと伸び、その武骨な指先が、私の髪を優しく撫でる。


「ああ。ゆっくり眠れ、セリア。俺がずっとここにいる。何者にも、お前の眠りを邪魔させはしない」


子守唄のように響く低い声と、頭を撫でる温かな手のひら。


アリアの生体モニターが、私の脳波が急速に深いリラクゼーション状態へ移行していることを告げていたが、それを意識する間もなく、私は心地よい暗闇の中へと意識を手放していった。


◇


『マスターの睡眠導入を確認。バイタルサイン、急速に安定領域へ回復中』


セリアの規則正しい寝息が部屋に満ちる中、ヴィルフリートは彼女の手を握ったまま、動かなかった。


彼の視線は、眠るセリアの穏やかな寝顔に釘付けになっていた。


白銀の月の光が差し込む部屋で、ヴィルフリートの瞳に宿る熱は、もはや隠しようもないほどに濃密なものへと変わっていた。


(愛おしい……)


胸の奥底から湧き上がるその感情の奔流に、ヴィルフリート自身、戦慄を覚えていた。


戦場しか知らず、血と鉄の匂いの中で生きてきた自分が、出会ってわずか数日の女に、これほどまでに魂を奪われるとは思いもしなかった。


彼女の知性、彼女の気高さ、そして何より、誰にも頼らずに一人で立とうとするあの痛々しいほどの強さ。


守りたくてたまらない。


己の腕の中に閉じ込め、二度と誰にも傷つけさせず、あらゆる理不尽から隔離して、世界中の幸福を与えて甘やかしたい。


「……二度と、手放すものか」


ヴィルフリートは彼女の小さな手の甲に、誓いを立てるように静かに唇を落とした。


その時だった。


眠るセリアの脳内――アリアの深層知覚サブシステムが、北方の永久凍土深部から放たれた『異常な重力波パルス』と『マナフラックスの激変』を捉えたのは。


『観測ログ記録:北緯七十二度、極北マナ収束点において臨界圧力を検知。未知の生体マナ反応、急速に増大中。……最短到達予測時間、四十八時間後』


セリアが安らかな眠りの中で体力を回復させている裏で、ヴェルク領を根底から揺るがす未曾有の厄災――『獣潮(スタンピード)』の足音が、確実に、そして急速に白銀砦へと迫りつつあった。

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