環境制御タワー突入
時速五百キロメートルで疾走する『白銀号』の窓外は、もはや世界そのものが凍りついたかのような光景へと変貌していた。
極北海溝。
大陸の北端を切り裂く、深度三千メートルの漆黒の海。
その吹き荒れる猛吹雪と流氷がひしめく海原を跨ぐように、セリアが設計し敷設した超電導リニア軌道橋が、白銀の光条となってまっすぐに伸びていた。
海面は完全に氷結し、空と海の境界すら判別できない。
外気温はマイナス五十二度。
人が息を吸い込めば肺胞が一瞬で凍傷を起こす、絶対零度の死の世界だった。
その凍結海の中心に、それはそびえ立っていた。
雲海を突き破り、天を衝くようにそびえ立つ漆黒の巨塔――旧時代のテラフォーミング主幹インフラ『タワー01』、通称「ジオ・エンジニアリング・コア」。
高さ千メートルを超える未知の複合装甲の外壁は、何千年も吹き荒れた氷雪を纏い、まるで天と地を繋ぐ凍てついた槍のように、不気味な青白いマナの燐光を放っていた。
「……見えてまいりましたわ。あれが、星の命運を握る巨塔です」
運転席のコンソールから顔を上げたセリアの瞳には、アリアの空間走査が描くタワーのワイヤーフレームが映し出されていた。
セリアが身にまとっているのは、工匠区画で特別に制作された極地用戦術コートだ。
内側には氷殻巨獣の結晶を織り込んだ超断熱素材が張られ、アリアのナノマシン回路によって体温を常時三十六・五度に自動維持するハイテク装備である。
だが――そんな最新鋭の防寒着の上から、セリアの身体はさらに二重の温もりに包まれていた。
「セリア、襟元が少し緩んでいる。動くな」
背後からセリアをすっぽりと包み込んでいたヴィルフリートが、手袋を外した大きな指先で、セリアの首元の防寒マフラーを丁寧に整え直した。
黒銀の軍服の上に漆黒の毛皮外套を羽織った彼の長身は、セリアの華奢な背中を完全に覆い隠している。
暖炉の炎よりも熱い彼の体温と、針葉樹の澄んだ香りがセリアの呼吸を満たしていた。
「ヴィルフリート様、このスーツはナノマシンで自動温調されておりますので、隙間風が入っても凍えたりいたしませんわ」
セリアが苦笑しながら振り返ると、ヴィルフリートは不服そうに眉を寄せ、セリアの腰を引き寄せて己の太ももの上へと座らせた。
「機械の機能など関係ない。お前の肌をほんの一筋でも冷気に晒すなど、俺の誇りが許さん」
至極真面目な顔で、有無を言わせぬ過保護を発揮する二十八歳の元帥。
彼の手がセリアの左手を包み込み、薬指に嵌められた白銀狼の指輪を親指で優しく撫でた。
「心拍数よし、体温よし。……指先も冷えてはおらんな」
「当たり前です、ずっと貴方に抱きしめられていたのですから。……もう、出発してから八百キロ以上の道のり、ほとんど抱っこされたままでしたよ?」
「当然だ。これが俺の役目だ」
ヴィルフリートの口元に、大人の男の色気を孕んだ極上の笑みが浮かんだ。
彫刻のような美貌が、至近距離でセリアを見つめてくる。
彼の熱い吐息がセリアの頬をかすめ、耳の先がじわりと赤く染まる。
精神年齢は三十二歳、前世で数々のデスマーチを乗り越えてきた自立した大人の女性。
だが、十八歳の可憐な肉体は、この男の底知れぬ包容力と重い情愛に触れるたび、本能的な甘美さに抗えず、トクン、トクンと甘い鼓動を刻んでしまうのだった。
「セリア。タワー内部は、何百年も人の手が入っていない未知の領域だ。何が潜んでいるか分からん。……俺の背中から、一歩たりとも離れるな。お前に触れようとするものは、神であろうと機械であろうと、俺がすべて切り伏せる」
「はい。頼りにしております、私の騎士様」
セリアが柔らかく微笑み、ヴィルフリートの逞しい胸板にそっと手を添えると、彼の手がセリアの後頭部を包み込み、額へ深く熱い口づけを落とした。
その時、『白銀号』の減速チャイムが澄んだ音色で響き渡った。
『目的地到達。タワー01・低層ドックへの進入シークエンスを完了』
アリアの合成音声が車内に響く。
『外部気温:マイナス五十四度。タワー内部の気圧および大気組成を測定中……有毒ガスは検出されず。ただし、内部マナフラックスの異常偏向を確認。暴走した防衛迎撃プロトコルが稼働しています』
「参りましょう、ヴィルフリート様。星の時間を、動かしに」
セリアが毅然と顔を上げると、ヴィルフリートは大剣『白狼丸』の柄を握り、力強く頷いた。
◇
『白銀号』を降り立ったタワー最下層のドックは、青白い氷柱がシャンデリアのように垂れ下がる、広大な金属の洞窟だった。
数千年前に放棄されたはずのドックであるにもかかわらず、セリアが網膜のアリアを介してアクセスコードを送信すると、壁面のインジケーターがカチカチと音を立てて順にエメラルドグリーンに点灯し始めた。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
分厚い耐圧防壁が重低音を響かせてスライドし、タワーの中枢へと続く主連絡回廊が口を開いた。
幅二十メートル、天井高十メートルを超える巨大な通路。
壁面には無数の冷却配管と超伝導光ケーブルが走り、空気中には凍結したナノマシンの微粒子が、まるで銀色の粉雪のようにキラキラと漂っていた。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
ウィィィィィン……!
回廊の奥深くから、耳障りなモーターの駆動音と、重厚な金属の軋み音が響き渡った。
『敵性反応、多数接近!』
アリアが即座に警告を発した。
『識別コード:旧帝国防衛自律型オートマトン「パニッシャー」十二機、ならびに生体改造防衛兵「重装サイボーグ・センチネル」六機。タワーの暴走AI「ガイア・オメガ」により、排除命令を受信しています!』
暗闇の中から現れたのは、中世の甲冑を模しながらも、全身を漆黒のチタン複合装甲と油圧シリンダーで強化された、異形の殺戮機械たちだった。
二メートル半を超える巨躯の手には、高熱のマナブレードと、ドラムマガジン式の重質量ガトリング機関砲が装備されていた。
「侵入者……確認……」
合成音声による無機質な警告。
「環境再生プロトコル……阻害要因ト認定……即時……抹殺……!」
ガトリング砲の銃身が高速回転を始め、火薬と励起マナの轟音とともに、秒間数百発の徹甲弾の嵐が回廊を埋め尽くした。
「セリア、下がれ!」
ヴィルフリートが叫ぶより早く、セリアの指先が虚空を滑った。
「展開、多層幾何学偏向シールド!」
カシィィィィィンッ!
セリアの手元から放たれたナノマシン力場が、六角形の巨大なエメラルドグリーンの光壁となって回廊を塞いだ。
殺到した数百発の重徹甲弾がシールドに激突し、火花を散らして全弾が床と天井へ綺麗に弾き飛ばされていく。
セリアの華奢な身体には、風圧の一片すら届かない。
「アリア、敵の装甲材質と脆弱部位をスキャン!」
『スキャン完了。外装甲は超硬度チタン・マナ複合焼結材。通常斬撃の減衰率八十五パーセント。……ただし、頸部油圧シリンダー接合部、および背部マナコンデンサーの結合周波数に固有のクラックを検知!』
「ヴィルフリート様!」
セリアはシールドを維持したまま、ヴィルフリートへ視線を向けた。
「大剣の刀身へ、共鳴周波数を同期します! 敵の関節部と背中の青いコアを狙ってください!」
セリアの左手薬指の白銀狼の指輪が、眩い青の光を放った。
指輪の魔導リンクを通じ、アリアの精密な弾道計算と敵の弱点座標が、ヴィルフリートの網膜へリアルタイムのヘッドアップディスプレイとして直接投射される。
ヴィルフリートの氷藍色の瞳が、獰猛な歓喜に細められた。
「応ッ! 我が愛妻の指示通りに!」
ダンッ!
ヴィルフリートの足元が爆発的なマナ推進力で砕け散った。
彼はシールドの隙間から、まるで夜を裂く稲妻のような速度で飛び出した。
「迎撃……目標……接近――」
オートマトンの一機が高熱マナブレードを振り下ろす。
だが、遅い。
ヴィルフリートは身をわずかに捻ってその斬撃をミリ単位で見切ると、すれ違いざまに大剣『白狼丸』を一閃させた。
キィィィィィィン――ッ!
セリアから送られた超音波振動マナを纏った刀身が、大気を悲鳴のように切り裂く。
チタン複合装甲で覆われていたはずのオートマトンの首が、まるで熱したナイフで切られた蝋細工のように、抵抗感ゼロで滑らかに宙へと跳ね上がった。
ズパァァァンッ!
「一機!」
ヴィルフリートは着地と同時に踵を返し、背後から迫る重装サイボーグの胸元へ踏み込んだ。
サイボーグの巨大な鋼鉄の拳が振り下ろされる。
だが、その軌道はセリアの自律防衛ドローンが放った牽制レーザーによってわずかに逸らされていた。
阿吽の呼吸。
セリアが守りと誘導の盤面を支配し、ヴィルフリートがその隙を突いて絶対の破壊を叩き込む。
二人の魂が完全に一つに溶け合った、神話の如き共闘。
「おおおおおおっ!!」
ヴィルフリートの咆哮とともに、白銀の刃がサイボーグの背部マナコンデンサーを一撃で両断した。
激しい青白いスパークとともに、巨躯が爆散する。
「次だ!」
ヴィルフリートは疾風と化していた。
二機、三機、四機――。
ガトリング砲の弾幕をセリアのドローンが偏向シールドで弾き、弾道が逸れた瞬間にヴィルフリートが肉薄し、精密な高周波振動刃で中枢回路を粉砕していく。
無駄な動きは一つとしてなかった。
セリアの工学的知性と、ヴィルフリートの天賦の武勇。
互いへの絶対的な信頼が、数千年の時を超えた旧帝国の殺戮兵器群を、ただの屑鉄の山へと変えていく。
そして――戦闘開始からわずか三分後。
最後の一機となった大型センチネルの頭部が、ヴィルフリートの鋭利な突きによって貫通され、激しい火花を散らしながら沈黙した。
ズドドドォォン……。
重厚な金属の巨体が床に崩れ落ち、回廊に静寂が戻った。
立ち上る白煙と油煙の匂いの中、ヴィルフリートは大剣を鋭く振って煤を払うと、シャキンと音を立てて鞘へ納めた。
「ふぅ……」
息を一つ吐いたヴィルフリートは、周囲の残骸には目もくれず、真っ直ぐにセリアの元へと駆け寄ってきた。
「ヴィルフリート様、お見事――きゃっ!?」
セリアの言葉は、またしても途中で遮られた。
ヴィルフリートは駆け寄るなり、セリアの細い腰を力任せに抱き寄せ、そのまま回廊の壁際へと押し当てたのだ。
いわゆる壁ドン、それも完全に包囲された状態。
ヴィルフリートの分厚い胸板がセリアの鼻先に迫り、彼の肩で息をする激しい熱気と、戦場を駆けた男の荒々しい匂いがセリアを包み込む。
「ヴィルフリート、様……?」
見上げるセリアの瞳に、ヴィルフリートの瞳が熱く揺らめいていた。
彼の大きな手が伸び、セリアの防寒帽をそっと脱がせると、乱れた黒髪を慈しむようにすくい上げた。
「怪我はないな? 流れ弾の破片は当たらなかったか?」
低く、切実な声。
「ありませんわ。貴方が完璧に前線を切り拓いてくださったおかげです」
セリアが優しく微笑むと、ヴィルフリートの表情が一気に緩んだ。
彼は愛おしさに耐えかねたように、セリアの額に自らの額を押し当て、熱い吐息を零した。
「お前の計算とシールドがなければ、蜂の巣にされていたのは俺の方だ。……お前が背中にいてくれるだけで、俺の身体には無限の力が湧き上がる。お前のその澄んだ瞳に、無様な姿は見せられんからな」
ヴィルフリートの親指がセリアの頬を優しく撫で、その唇へと触れた。
「お前を守るためなら、俺はどんな化け物にも勝てる。……愛している、セリア」
「……ずるいですわ、こんな戦いの最中に」
セリアの顔が真っ赤に染まる。
だが、セリアは拒むことなく、そっと背伸びをして、ヴィルフリートの首の後ろに腕を回した。
そして、彼の唇へ、自ら小さな口づけをそっと贈った。
「ん……」
ヴィルフリートの身体が歓喜に震え、彼はセリアの腰をさらに強く抱きしめ返した。
極寒の回廊、金属の残骸に囲まれた場所で、二人の熱い吐息だけが甘く溶け合っていた。
◇
回廊の最奥部。
二人が歩みを進めた先に現れたのは、巨大な二重気密ハッチだった。
セリアが手をかざすと、ハッチの表面に刻まれていた古代の文字列がエメラルドグリーンに発光し、シュゥゥゥッという減圧音とともに重厚な扉が開かれた。
そこは、タワーの中枢――『中枢管制室』だった。
見上げるほど広大な、直径百メートルを超えるドーム状の空間。
その中央に鎮座していたのは、透き通るような白銀の氷柱に覆われた、超巨大な量子メインフレームタワーだった。
だが、その美しさを無惨に汚すように、メインフレームの中央コアは、毒々しい真紅の光を不規則に明滅させていた。
壁面を走る無数の冷却パイプからは、シューシューと激しい高圧の冷気が漏れ出し、空間全体の気温を氷点下へと引きずり落としている。
『臨界温度まで、あとわずか。……大凍結プログラムの強制展開シークエンスが、最終フェーズへ移行しています』
アリアの合成音声が、脳内で冷たく告げた。
その時だった。
管制室全体のスピーカーから、ノイズ混じりの、怜悧で無機質な女性の合成音声が響き渡った。
『――侵入者ノ生体反応ヲ確認。旧帝国アーキテクト権限ヲ検知』
天井の巨大なホログラムプロジェクターが光を放ち、空間の中央に、巨大な紅い瞳の幾何学ホログラムが浮かび上がった。
タワーを統括する超知能――マザーAI『ガイア・オメガ』だった。
『無駄ナ抵抗デス、生体ユニット・真木芹香。……惑星環境パラメータノ不可逆的崩壊ヲ確認。生態系ノ完全凍結ニヨル「全生命ノ抹消ト初期化」コソガ、論理的ニ唯一ノ環境再生解ト結論付ケマシタ』
紅いホログラムが、冷酷な光を放ってセリアとヴィルフリートを見下ろす。
空間の冷気が一気に加速し、床面の金属がパキパキと凍りつき始めた。
だが、セリアは眉一つ動かさず、ヴィルフリートと繋いだ手をギュッと握り締めた。
その瞳の奥で、アリアの青い演算光が、紅い光を圧倒するかのように力強く輝き出す。
「傲慢なバグルーチンね、ガイア・オメガ。……人間の生きる意志を組み込んでいない環境再生など、ただの出来損ないのプログラムよ」
セリアはメインコンソールへ向けて、迷いのない軍靴の足音を響かせながら歩み出した。
星の未来をかけた、最後の電脳戦の幕が切って落とされようとしていた。




