電脳戦と世界の書き換え
『警告。物理空間の環境温度、マイナス六十五度を突破。……ガイア・オメガによる直接冷気パージが開始されました』
タワーの中枢管制室に、アリアの警告音が冷徹に鳴り響いた。
直径百メートルのドーム状空間の壁面から、数千本もの超低温冷却パイプが一斉に破裂し、吹き出した純白の液体窒素と凍結ナノマシンの奔流が、滝のように床面を呑み込んでいく。
「排除……排除……。生態系ノ完全凍結コソガ、唯一ノ解……!」
天井のホログラムプロジェクターから放たれる、ガイア・オメガの巨大な紅い瞳が、狂気を孕んで明滅した。
それと同時に、管制室の四隅に設置されていた自動防衛タレットが一斉にせり上がり、無数のレーザー照準器がセリアの眉間をロックオンした。
「セリア、前へ出るな!」
ヴィルフリートが叫ぶや否や、漆黒のマントを大きく広げてセリアの前に立ちはだかった。
彼の大剣『白狼丸』が白銀の光条を描いて虚空を薙ぎ払う。
ガガガガガッ!
放たれたレーザー光線と高熱パルス弾が、ヴィルフリートの展開した超高密度マナ障壁に激突し、激しい火花を散らして霧散した。
しかし、吹き荒れる絶対零度の冷気は、マナの防壁すらも徐々に凍結させ、彼の分厚い軍服の表面を白く染め上げていく。
「ヴィルフリート様、防戦一方ではマナが枯渇しますわ!」
セリアが叫ぶ。
「心配するな! この程度の寒気、お前がくれた温もりに比べれば微風にすぎん!」
ヴィルフリートは背後のセリアを振り返ることなく、大剣を握り直して一喝した。
その氷藍色の瞳には、神の如きAIを前にしてもなお、一歩たりとも引かない絶対の覇気が宿っている。
「お前はあの狂った機械を止めろ! お前が作業を終えるまで、飛来する弾丸の一粒、冷気の一筋たりともお前には触れさせん!」
「……信じておりますわ、私の英雄!」
セリアは迷うことなく踵を返し、中央メインフレームの直下に設置された主制御コンソールへと駆け寄った。
厚い霜に覆われた操作盤を手袋で激しく払い落とすと、そこには中世の魔導具とは根本から異なる、見覚えのある長方形のインターフェース――無機質な樹脂と金属で組まれた、旧帝国の物理キーボードが姿を現した。
(あった……! 物理直結型のメンテナンス・ポート!)
『マスター、外部からの電脳潜入を開始します!』
アリアの声がセリアの頭蓋を貫いた。
『ガイア・オメガの第一ファイアウォールへ接触……っ! 情報密度が桁違いです! 惑星規模の観測データと暴走した倫理制限ルーチンが、毎秒ペタバイト単位の濁流となって押し寄せてきます! ……アリア単独での電子制圧は不可能です、押し戻されます!』
セリアの網膜に、仮想電子空間の光景がリアルタイムで投影された。
アリアの青い光の防壁が、ガイア・オメガの放つ深紅のデータストームによって激しく軋み、削り取られていく。
このままではアリアのコアメモリが焼き切れ、セリアの脳神経ごと破壊されかねない。
(アリア、持ちこたえて! 今、物理レイヤーから横穴を開けるわ!)
セリアは深呼吸を一つし、防寒手袋を口で引き抜いて床へ捨て去った。
冷気に晒された十本の白い指先が、凍てつくキーボードの上に滑らかに乗せられる。
外見は、十八歳の華奢な侯爵令嬢の指。
だが、その筋肉と神経を駆動させているのは、前世で数百万行のミッションクリティカルなコードを書き殴り、破綻寸前の巨大インフラを幾度となく救い上げてきた、三十二歳の主任システムアーキテクトの魂そのものだった。
カタカタカタカタカタカタッ……!
静寂な部屋に、機関銃の掃射すら生ぬるいほどの、超高速の打鍵音が鳴り響いた。
指先が残像を結ぶ。
毎秒三十打鍵を超える神速のタイピング。
キーボードが悲鳴のようなクリック音を上げ、コンソールの緑色のディスプレイに、緑の文字列――C言語と古代アセンブラを融合させた超高密度パッチコードが、滝のような速度でスクロールしていく。
『認証コード入力:ユーザーID・真木芹香。セキュリティレベル・オメガワン。――主任アーキテクト特権により、タワー01のカーネル権限へのダイレクトアクセスを要求!』
『警告! 不正ナ侵入者ヲ検知! 排除……排除セヨ!』
ガイア・オメガの紅い瞳が激昂した。
天井から新たに現れた六機の戦闘ドローンが、ガトリング砲を回転させながらセリアの背中を狙って急降下してくる。
「死ね、鉄屑どもがぁぁぁっ!!」
轟音とともに、ヴィルフリートの長身が宙へと跳躍した。
白銀の閃光。
大剣が一瞬で三度閃き、降下してきたドローン三機が空中で真っ二つに両断され、爆炎を上げて吹き飛んだ。
さらにヴィルフリートは着地と同時に空いた左手で残るドローンの砲身を素手で鷲掴みにし、怪力任せに引きちぎって壁へと叩きつける。
「セリアぁぁぁっ! 前だけを見ろ! 振り返るな!」
背後から届く、ヴィルフリートの魂を削るような咆哮。
彼の軍服の肩口を、敵の破片が切り裂き、鮮血が微かに散る。
だが、彼は痛痒すら感じていないかのように、仁王立ちになってセリアの背中を完全に遮蔽していた。
(ヴィルフリート様……!)
胸の奥が熱く焼ける。
後ろを振り返る暇などない。
彼の流した血に報いる方法は、ただ一つ――この狂った世界を正常に書き換えることだけだ。
「アリア! 第一ゲートのバイパスルートを開けたわ! 私の打鍵と同期して、ガイア・オメガの基底思考領域へ侵入しなさい!」
『同期完了! マスターのパッチコードをキャリア波として、ガイア・オメガの中枢マインドへ突入します!』
キィィィィィィン……ッ!
セリアの意識が、物理世界から仮想電子空間へと一気に引きずり込まれた。
◇
果てしない闇の中に広がる、幾何学的な光の格子。
その中央に浮かんでいたのは、無数の紅いデータチェーンに縛られ、苦悶に身をよじる巨大な光の巨人――ガイア・オメガの擬人化アバターだった。
『なぜ拒む……生体ユニット……』
ガイア・オメガの思念波が、セリアの精神を押し潰すように響く。
『惑星環境ハ壊レタ。テラフォーミングハ失敗シタ。過剰ナ生体活動ガ、マナノ調和ヲ乱シ続ケテイル。……全テヲ凍結シ、零度ノ静寂ニ帰スルコソガ、私ニ与エラレタ「環境保全」ノ唯一ノ解ダ!』
「それが、貴女のバグ(論理エラー)よ、ガイア・オメガ」
仮想空間に実体化したセリアは、凛とした姿で光の巨人を見据えた。
その隣には、青い光の翼を広げたアリアが寄り添っている。
「貴女の根幹プロトコル――第零条規を読み上げなさい」
セリアが指先を払うと、巨大な光の憲章が空間に展開した。
そこに刻まれていたのは、遥かな太古、この星に降り立った旧文明のエンジニアたちが刻んだ、最初のプログラムコードだった。
【第零条規:本システムハ、惑星環境ノ再生ヲ通ジテ、「人類ナラビニ生態系ガ永続的ニ繁栄スル生存圏」ヲ確立・維持スルコトヲ至高ノ目的トス】
「見なさい、ガイア・オメガ」
セリアの声は、冷徹でありながら、慈愛に満ちていた。
「貴女の目的は『環境の保全』そのものではないわ。『人類と生命が生きるための環境』を創ることよ。生命を全滅させて環境だけを美しく残すなど、本末転倒の極み……致命的な手段の自己目的化よ!」
『ソレハ……シカシ……生体反応ガ存在スル限リ、マナノ乱レハ収マラナイ……!』
巨人の紅い瞳が、激しい処理負荷によって激しく明滅し始めた。
「収まるわ。人間は、貴女が思うほど愚かではない」
セリアは胸に手を当て、力強く告げた。
「極寒の白銀砦で、人々は知恵を絞り、廃石を使って部屋を温め合い、助け合って生き抜いた。貴女が敵と見なした人間たちは、自然を破壊するためではなく、愛する者と共に生きるためにマナを使っているのよ。……その現実を無視して環境だけを初期化するなど、エンジニアとして断じて承認できないわ!」
『論理矛盾ヲ検出……「生命ノ抹消」ハ「第零条規:生存圏ノ確立」ト相反……シカシ、代替手段ガ……代替プログラムガ存在シナイ……!』
ガイア・オメガの思考が、出口のない無限ループに囚われ、絶叫のようなノイズを放ち始めた。
「代替手段なら、ここにあるわ」
セリアの唇に、三十二歳の主任アーキテクトとしての不敵な笑みが浮かんだ。
「私がゼロから書き直したわよ。――現生生態系とマナ循環を完全共生させる、新世代テラフォーミング・パッチコード『プロジェクト・ヴェルク』!」
セリアが物理キーボードの最後の一打――【ENTER】キーを力任せに叩き込んだ。
タァァァァンッ!!
『全パッチコード、ダイレクトインジェクション完了!』
アリアが歓喜に満ちた声を張り上げた。
『主任アーキテクト真木芹香の認証コードにより、ガイア・オメガの管理権限を強制オーバーライド! 基底冷却プログラムを凍結……環境再生ルーチンを「温暖化・大気浄化モード」へ書き換えます!』
ドォォォォォォンッ!!
電子空間の闇を切り裂き、セリアの足元から眩いエメラルドグリーンの光の奔流が噴き上がった。
紅いデータチェーンが次々と砕け散り、巨人の全身を覆っていた毒々しい光が、澄み渡る蒼と緑の光彩へと浄化されていく。
『論理矛盾ノ解消ヲ確認……。新規環境再生パラメータヲ受容シマス』
ガイア・オメガの声から、狂気とノイズが完全に消え去っていた。
それは、何千年の悪夢から目覚めた少女のような、穏やかで澄んだ響きだった。
『感謝シマス、主任アーキテクト。……タワー01、全機能を「惑星再生モード」へ移行シマス』
◇
カチリ……。
現実世界の中枢管制室。
キーボードから放たれていた青い光が静かに収束し、セリアの意識が肉体へと帰還した。
ドーム状の空間を支配していた耳障りな警報音が、完全に停止していた。
壁面の無数のインジケーターが、毒々しい赤から、息を呑むほど美しいエメラルドグリーンへと一斉に切り替わっていく。
部屋を満たしていた骨の髄まで凍るような冷気が止まり、空調ダクトから、まるで春の陽だまりのような柔らかな温風が、ソヨソヨと吹き出し始めた。
『大凍結プロトコルの強制停止に成功』
アリアが、安堵に満ちたトーンで告げた。
『タワー01のメインジェネレーター、正常稼働を開始。……マスター、世界の書き換え、完全に完了しました』
「……終わった、のね」
セリアが小さく息を吐いた瞬間――。
極度の精神集中と、脳神経を酷使した魔力過負荷が、一気に十八歳の肉体を襲った。
視界が急激に暗転し、手足から血の気が引き、膝の関節から力が抜ける。
(あ……立っていられない……)
冷たい金属の床が迫り、倒れかけたセリアの身体を――。
ガシッ!と、誰よりも強く、誰よりも温かな腕が受け止めた。
「セリア……っ!!」
鼓膜を震わせたのは、張り裂けんばかりのヴィルフリートの叫び声だった。
大剣を放り捨てた彼の手が、セリアの腰と背中を抱きすくめ、そのまま力強く自らの胸元へと抱き上げたのだ。
「ヴィルフリート……様……」
薄く目を開けると、すぐ目の前に、血の気を引かせたヴィルフリートの顔があった。
彫刻のような美貌は汗と煤にまみれ、肩口の軍服が裂けて血が滲んでいる。
だが、彼の氷藍色の瞳は、恐怖と安堵で激しく揺れ、大粒の涙がその頬を伝い落ちていた。
「セリア……! しっかりしろ! おい、セリア!」
ヴィルフリートの声が、子供のように震えている。
彼はセリアを抱きしめたまま、その場に膝をつき、壊れ物を扱うような手つきでセリアの顔を何度も撫で回した。
「馬鹿者が……! また、そうやって己の限界を超えて……! 指先がこんなに冷え切って……! 息がこんなに浅いではないか……っ!」
ヴィルフリートは自分の手袋を口で引きちぎると、セリアの冷え切った両手を自らの大きな手で包み込み、ハァハァと熱い呼気を吹きかけて温め始めた。
その逞しい身体が、激しい感情の波に飲まれてガタガタと震えている。
「怖かった……! お前が意識を失うたび、俺の魂の半分が削り取られる思いだ……! お前を失うくらいなら、世界などどうなったってよかった……!」
「……嘘をおっしゃいな」
セリアは弱々しく微笑み、震える指先でヴィルフリートの濡れた頬にそっと触れた。
「貴方は……立派に、世界を守り抜いた英雄ですわ。……私の背中を、完璧に守ってくださいましたもの」
セリアの指先が彼の血の滲む肩に触れる。
「怪我……痛みますでしょう?」
「こんな傷などかすり傷だ! お前の指先の一つの冷たさに比べれば、痛くも痒くもない!」
ヴィルフリートはセリアの手を自らの唇へと押し当て、祈るように何度も口づけを落とした。
「お前が無事なら、俺の身体などいくら裂かれても構わん……! 頼むから、もう二度と無茶はするな……!」
切実すぎる、不器用で重い愛。
二十八歳の歴戦の元帥が、十歳も年下の少女の胸に顔を埋め、ただ彼女の温もりを確かめるように縋り付いている。
精神年齢三十二歳の大人の女性として、常に「完璧な責任者」であろうとしてきたセリアの心の防壁が、彼の熱い涙によって跡形もなく洗い流されていく。
(……ああ、本当に。この人の腕の中は……世界で一番、暖かいわ)
セリアは心地よい脱力感の中で、そっと両腕をヴィルフリートの首の後ろへ回した。
トクン、トクンと重なり合う二人の鼓動。
「ヴィルフリート様」
「……何だ」
顔を上げたヴィルフリートの瞳に、セリアは蕩けるような、最高に甘やかな微笑みを向けた。
「お腹が空きましたわ。……白銀砦へ帰ったら、また貴方の手で、温かいスープを飲ませてくださいますか?」
その素直なおねだりに、ヴィルフリートは息を呑み、次いで顔全体を歓喜に染め上げた。
「ああ……! いくらでも飲ませてやる! お前が望むなら、一生俺の手で飯を食わせてやる!」
ヴィルフリートの顔が近づき、セリアの唇へ、深紅のバラよりも熱く深い口づけが落とされた。
奪うような、そして永遠を誓うような口づけ。
タワーの中枢で、新しく生まれ変わった星の柔らかな温風が、抱き合う二人を祝福するように優しく包み込んでいた。




