死神の逆鱗
凍てつく雪原に、分厚い氷が砕け散るような重々しい足音が響いていた。
漆黒の軍服の上に純白のマントを羽織り、白銀の大剣『白狼丸』を下げて歩み出るヴィルフリート。
その全身から放たれているのは、もはや人間が放つ気迫ではなかった。
吹雪の白煙を黒く染め上げるかのような、濃密極まりない漆黒のマナの陽炎――触れるものすべてを絶対零度で凍結粉砕する、「死神」の名の通りの殺気だった。
武器を焼き切られ、魔導バイクの動力を奪われたルミナス神聖皇国の特務工作員たち四十名は、恐怖に顔を引きつらせて後ずさった。
「ひ……っ! べ、辺境伯……ヴィルフリート・フォン・ヴェルク……!」
隊長の男が、焼け焦げた右手を抱えながら絶叫した。
「怯むな! 奴は一人だ! 予備の短剣を抜け! 肉弾戦で囲んで殺せぇぇっ!」
隊長の号令に背中を押され、狂信者としての意地を振り絞った十数名の工作員が、腰のミスリル製コンバットナイフを抜き放ち、雪を蹴って一斉に四方からヴィルフリートへ殺到した。
だが――その瞬間、彼らの視界からヴィルフリートの巨躯が掻き消えた。
ザンッ!
「が、は……っ!?」
先頭の工作員が叫ぶ間すら与えられなかった。
風が爆発したかのような轟音とともに、ヴィルフリートの姿がすでに男の懐に侵入していたのだ。
大剣の刃ではない。
鞘に収められたままの柄頭が、男の鳩尾へ電光石火の速度で叩き込まれた。
内臓を破砕する鈍い音とともに、男はくの字に折れ曲がり、雪原を三十メートル以上もバウンドして吹き飛んで沈黙した。
「な……っ!? 速すぎ――」
左右から飛びかかろうとした二人の工作員の首筋を、ヴィルフリートの分厚い革手袋が、猛禽の鉤爪のように同時に鷲掴みにした。
そのまま、一切の減速もなく、二人の頭部同士を力任せに激突させる。
ゴキャッ!と頭蓋が軋む凄まじい破壊音が響き、白目を剥いた二つの身体が、人形のように雪の上へと崩れ落ちた。
「ひ、あ、悪魔だ……! 化け物めぇぇっ!」
残る工作員たちが狂乱し、刃を振り回して突進してくる。
だが、ヴィルフリートの氷藍色の瞳には、蟻を踏み潰す感情すら宿っていなかった。
「……セリアに、その薄汚い武器を向けたな」
氷河が割れるような低音。
ヴィルフリートの右手が大剣を一閃させた。
抜刀すらしていない。
鞘ごと振るわれた大剣の風圧――凝縮されたマナの衝撃波が、目に見える三日月型の白銀の刃となって大気を切り裂いた。
ドガガガガガァンッ!!
雪原が深さ一メートル、長さ五十メートルにわたって両断された。
吹き荒れる衝撃波の余波だけで、突撃してきた残りの三十数名の工作員全員が木の葉のように空中に巻き上げられ、全身の骨を軋ませながら雪の上に叩きつけられた。
刃を交えることすら許されない、神話の武勇。
時間にしてわずか十秒足らず。
神聖皇国が誇る最精鋭の暗殺部隊四十名は、一人としてヴィルフリートの服のかすり傷一つつけられず、完全なる戦闘不能となって雪原の上でのたうち回っていた。
「ひ……ぎぃ……っ!」
唯一、足腰を砕かれながらも辛うじて意識を保っていた隊長が、這いつくばって逃げようとした。
その背中に、ヴィルフリートの重厚な軍靴が容赦なく踏み下ろされた。
メキリ、と肋骨が軋む音が響く。
ヴィルフリートは切っ先を隊長の眉間わずか数ミリへと突きつけ、氷よりも冷たい瞳で見下ろした。
「吐け。誰の差し金だ。……教皇庁のどの派閥が、我が妻の命を狙った」
「わ、我らは……神の正義を……悪魔の技術を操るあの魔女を……ぐあああああっ!」
ヴィルフリートが軍靴を踏み込んだだけで、隊長の口から鮮血が吹き飛んだ。
「その口で二度とセリアを侮辱するな。……貴様らの腐った神など、俺には何の関係もない。セリアの髪一本にでも触れようとするならば、貴様らの神殿ごと、国のすべてを更地にしてやる」
本気だった。
もしセリアが今ここにいなければ、ヴィルフリートはこの四十名全員の首を躊躇なく刎ね、その血で雪原を染め上げていたはずだった。
彼の全身から立ち上る黒銀のマナは、周囲の雪を一瞬にして蒸発させるほどの凄まじい怒りに震えていた。
「そこまでですわ、ヴィルフリート様」
凛とした、澄み渡る声が雪原に響いた。
ヴィルフリートの肩がピクリと跳ねた。
彼がゆっくりと振り返ると、『白銀号』のタラップを降り、雪原へ優雅に歩み寄ってくるセリアの姿があった。
自律防衛ドローン群が彼女の周囲を整然と護衛し、冬の陽光を浴びるセリアの黒髪が、風に柔らかくなびいている。
「セリア……っ!」
その瞬間、ヴィルフリートの顔から「死神」の冷酷な仮面が完全に崩壊した。
彼は足元の隊長など視界から消え去ったかのように蹴り飛ばすと、大剣を鞘に納めるや否や、雪を蹴ってセリアの元へと駆け寄った。
その速度は、先ほど敵を殲滅した時よりも遥かに速かった。
「きゃっ……!?」
セリアが何かを言う暇などなかった。
ヴィルフリートの長い両腕が、セリアの身体を抱きすくめ、そのまま雪原から軽々と抱き上げたのだ。
力任せに、骨が軋むほどの強さで、セリアの顔がヴィルフリートの分厚い胸板へと押し付けられる。
「セリア……! セリア、無事か!? 怪我はないか!? どこも痛まないか!?」
ヴィルフリートの声は、取り乱して激しく裏返っていた。
先ほど四十人の精鋭を一撃で壊滅させた百戦錬磨の英雄の手が、まるで嵐の夜に震える子鹿のように、目に見えてガタガタと激しく震えているのだ。
「どこを撃たれた!? あの光線がお前の近くをかすめたはずだ! 装甲の破片は当たっていないか!? どこか……どこか血を流していないか……!」
ヴィルフリートはセリアを抱きしめたまま、狂気じみた必死さで彼女の全身を確認し始めた。
手袋をかなぐり捨てた大きな両手が、セリアの頭から頬、肩、腕、そして腰へと滑り、傷がないかを確かめるように何度も何度も撫で回す。
彼の氷藍色の瞳には、大粒の涙が盛り上がり、今にも零れ落ちそうになっていた。
「ヴィルフリート様……! 落ち着いてくださいませ、私、本当にどこも怪我などしておりません!」
セリアは慌てて彼の頬に両手を伸ばした。
「ほら、見てください。煤一つついておりませんでしょう? ドローンのシールドが完璧に防ぎましたから!」
「だが……だが、もしあの光線が直撃していたら……!」
ヴィルフリートの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。
彼はセリアの首筋に自らの顔を深く埋め、彼女の甘い香りと体温を貪るように、ぎゅうと抱きしめ直した。
その逞しい胸板が、激しい心拍とともに上下している。
「怖かった……! お前が俺の目の前で消し飛ぶのではないかと……そう想像しただけで、心臓が止まりそうだった……! 俺が……俺がもっと早く敵に気づいていれば、お前をあのような危険に晒さずに済んだものを……!」
男の剥き出しの恐怖と、激しい自己嫌悪。
セリアを失うことへの恐怖があまりにも大きすぎて、彼の精神は限界まで張り詰めていたのだ。
(……ああ、本当に。この人は……)
セリアの胸の奥が、熱く、甘く締め付けられた。
外見は十八歳、中身は三十二歳の元システムアーキテクト。
前世の過労死寸前の現場でも、現世の王立学園の断罪劇でも、セリアの身の安全を本気で心配し、自分の命以上に恐れて涙を流してくれる人間など、ただの一人も存在しなかった。
「無事でよかった」と、こうして全身全霊で抱きしめられ、自分の存在そのものを肯定される温もり。
セリアはそっと腕を回し、ヴィルフリートの銀髪に指を滑らせた。
子供をあやすように、優しく、慈しむようにその頭を撫でる。
「私の命を、そこまで重く背負ってくださって……ありがとうございます、ヴィルフリート様」
セリアは耳元で、柔らかく囁いた。
「ですが、私はそう簡単に壊れたりいたしませんわ。貴方の隣で、貴方と共に新しい世界を創ると誓ったのですから」
セリアはヴィルフリートの首筋に顔を寄せ、そっと小さく口づけを落とした。
ピクリとヴィルフリートの身体が跳ねる。
「……セリア?」
顔を上げたヴィルフリートの瞳には、濡れた睫毛の奥に、切実な情熱が渦巻いていた。
至近距離で見つめ合う二人。
セリアの左手薬指の白銀狼のリングが、ヴィルフリートのリングと触れ合い、淡い青い共鳴光を脈打たせている。
「お前を……絶対に離さん」
ヴィルフリートは掠れた声で告げると、セリアの唇を塞ぐように、激しく、深い口づけを落とした。
「ん……っ、ふ……」
雪原の吹き荒れる風の中、二人の熱い吐息だけが溶け合う。
奪うような、そして慈しむような大人の男の口づけ。
セリアの華奢な身体が、彼の腕の中でトロトロと熱を帯びて力を失っていく。
その時だった。
ザザザザッ!と雪を踏みしめる多数の足音が響き渡った。
後方から護衛のために全速力で駆けつけてきた白銀砦の精鋭騎兵部隊と、視察に同行していた第一王子ユリウス率いる王都の護衛隊が、現場に到着したのだ。
「セリア様! ご無事で――」
「閣下、敵の増援は――」
息を切らして駆け込んできた数十名の屈強な兵士たち。
そして彼らが目撃したのは――雪原の上で転がる四十名の敵の残骸と、その中央で、セリアをお姫様抱っこにしたまま、衆人環視など欠片も気にせず熱烈な口づけを交わし続ける、主君ヴィルフリートの姿だった。
「「「…………」」」
兵士たちが一斉に足を止め、静かに敬礼を解いた。
ユリウスに至っては、眼鏡を指先で押し上げながら、深いため息を吐いて肩をすくめている。
「……あー、元帥閣下。お取り込み中のところ大変恐縮だが、敵部隊の身柄確保と尋問を始めてもよろしいかな?」
ユリウスの呆れた声に、セリアがハッと我に返った。
「――っ!? ヴィルフリート様、皆様がいらっしゃいました! 下ろしてください!」
セリアの顔が一瞬で林檎よりも真っ赤に染まり、胸元をポカポカと叩いて抗議した。
だが、ヴィルフリートは唇を離したものの、腕の力を微塵も緩めようとしなかった。
むしろ、ユリウスや兵士たちを睨みつけ、セリアを自らのマントで覆い隠すように抱きしめ直した。
「下ろさん。セリアは先ほどの戦闘で極度の精神的疲労を負っている。……このまま車内へ運び、安静にさせる」
「精神的疲労など負っておりません! 私、ドローンを数回タップしただけです!」
「駄目だ。お前の手先が微かに冷えている。……俺が温める」
「ヴィルフリート様ぁっ!」
セリアの悲鳴のような赤面の抗議を完全に無視し、ヴィルフリートは堂々たる大股で『白銀号』の車内へとセリアを抱えたまま戻っていった。
その背中を見送る兵士たちの間から、ドッと温かな笑い声が上がった。
「相変わらず、閣下のセリア様への過保護っぷりは天下一品だな!」
「敵を瞬殺した直後にあれだもんなぁ、ごちそうさまだぜ!」
「おい野郎ども、転がってる神聖皇国の狂信者どもを縛り上げろ! セリア様のお邪魔にならねえよう、さっさと片付けるぞ!」
雪原に活気ある怒号が響き渡る中、ユリウスは呆れと感嘆の混じった笑みを零した。
「……やれやれ。あの二人が揃っている限り、どんな国家の陰謀も付け入る隙などありはしないな」
◇
数日後。
捕縛されたルミナス神聖皇国の工作員部隊は、ユリウスの外交ルートとアリアの電脳尋問によって、教皇庁内部の過激派による独断専行であったことが完全に立証された。
ユリウスは即座に皇国へ対して厳重な抗議声明と天文学的な賠償請求を突きつけ、ヴェルク領の軍事的正当性は国際的にも揺るぎないものとなった。
そして、妨害を完全に排除した『白銀号』の試験運行は、予定通りの大成功を収めた。
白銀砦の地下工廠。
セリアの設計図に基づき、極北海溝の「タワー01」へ直通する全線八百五十キロメートルの超電導軌道は、四基のシールドマシンの昼夜を問わぬ掘削により、ついに最終貫通を果たそうとしていた。
工廠の中央にそびえ立つ、完全装備の『白銀号』本編成。
その先頭車両の前で、セリアとヴィルフリートは並んで立ち、極北の空を見据えていた。
セリアの瞳には、アリアの空間ナビゲーションが描く、漆黒の巨塔「タワー01」の精密座標。
大凍結のタイムリミットまで、残り三十五日。
「準備は整いましたわ、ヴィルフリート様」
セリアが微笑みかけると、ヴィルフリートは彼女の腰を優しく引き寄せ、その頭の頂に愛おしそうに口づけを落とした。
「ああ。行こう、セリア。……お前と共に、この星の未来を切り拓くために」
二人の愛と、失われた超科学の遺産が交錯する極北の巨塔へ向けて、大陸横断魔導リニア『白銀号』は、今まさに最終出撃の汽笛を鳴らそうとしていた。




