惑星環境制御タワーのSOS
淡い冬の朝日が、白銀砦の領主私室の天蓋付きベッドを柔らかな光で包み込んでいた。
目覚めのまどろみの中、セリアは自らの身体が驚くほど心地よい熱気に包まれているのを感じていた。
厚手の羽毛布団越しではない。
セリアの華奢な腰を背後から力強く抱き寄せ、自らの長い脚でセリアの両脚を挟み込むようにして絡め取っている、逞しい男の肉体の熱だった。
背中に密着しているヴィルフリートの分厚い胸板から、トクン、トクンと規則正しい、重厚な鼓動が伝わってくる。
彼の腕はセリアの鳩尾のあたりでしっかりと組まれ、まるで夜の闇から彼女を守り抜く強固な檻のように、微塵の隙間もなく閉じ込められていた。
(……昨晩のあれは、夢じゃなかったのね)
セリアの耳の先が、思い出してじわりと熱くなった。
王都の第一王子ユリウスとの会談後、激しい独占欲と恐怖を露わにして感情を爆発させたヴィルフリート。
ソファでの切実な告白、首筋に刻まれた熱い痕、そしてベッドで幾度も重ね合わされた甘く深い口づけ。
精神年齢三十二歳の大人の女性として培ってきたはずの冷静な自立心は、二十八歳の成熟した武人の重く一途な情愛の前では、跡形もなく蕩け去っていた。
ふと動こうと身じろぎした瞬間、腰を抱くヴィルフリートの腕にグッと力が込められた。
「……ん……動くな」
耳元で、掠れた低いバリトンボイスが響いた。
目覚めたばかりのヴィルフリートの吐息がセリアのうなじをくすぐり、チリリとした甘い電流が背筋を駆け抜ける。
「ヴィルフリート様……おはようございます。もう朝ですわ」
セリアが首を巡らせると、乱れた銀髪の隙間から、まだ微睡みを帯びた氷藍色の瞳が覗いていた。
普段の軍務で見せる冷厳な仮面はどこにもなく、そこにあるのは、愛しい宝物を腕の中に抱きしめて離したくない大型犬のような、無防備で甘やかな表情だった。
「あと少しだけ、こうしていろ」
ヴィルフリートはセリアの首筋に額を擦り寄せ、深く息を吸い込んだ。
「お前の匂いと温もりが、ここに満ちている。……昨夜のことが幻ではなかったと、身体の芯で確かめていたいのだ」
彼の手がセリアの左手をすくい上げ、薬指に嵌められた白銀狼の指輪へ、そっと唇を落とす。
熱く柔らかな感触。
十八歳の瑞々しい肌が、彼の仕草一つで過敏に熱を帯びていく。
「……幻などではありませんわ。私はここにいます」
セリアがくすぐったそうに身を縮めると、ヴィルフリートの口元に蕩けるような笑みが浮かんだ。
彼はセリアの身体をくるりと自分の方へ向き直らせると、額、鼻の頭、そして少し腫れた唇へと、羽毛のように優しい口づけを降らせた。
「愛している、セリア。……お前を失う悪夢を見ることは、もう二度とない」
そのあまりにも深く純粋な誓いに、セリアの胸の奥がじんわりと満たされていく。
前世で孤独に働き詰め、誰からも求められずに命を落とした自分が、今、この世界の最果てで、これ以上ないほど大切に愛されている。
――だが、その至福の甘やかな静寂を、冷徹な電子アラートが無残に引き裂いた。
ピピピピピピピピッ!
セリアの網膜の奥で、真紅の警告ウィンドウが激しい明滅とともに強制展開した。
『――緊急事態発生。深層通信プロトコルにより受信した暗号パケットの解読を完了しました』
アリアの合成音声が、平時の落ち着きを完全に失った切迫したトーンで脳髄を叩いた。
『マスター、至急の状況確認を要求します。……事態は極めて深刻です。この惑星の環境維持システムに、破滅的な致命的例外が発生しました』
(アリア……!? 一体、何が起きたの?)
セリアの意識が、一瞬で三十二歳の主任システムアーキテクトの戦闘モードへと切り替わった。
ヴィルフリートは、セリアの瞳の奥に淡い青の演算光が鋭く走ったのを即座に見逃さなかった。
彼の表情からも甘やかな微睡みが一瞬で消え去り、百戦錬磨の元帥の鋭敏な光が宿る。
「セリア? どうした」
「……ヴィルフリート様、申し訳ありません。至急、服を着て執務室へ向かう必要があります。……この星全体を揺るがす、最悪のトラブルが発生しました」
◇
執務室の窓の外には、静かな雪景色が広がっていた。
しかし、部屋の中央に投影されたアリアの立体ホログラムは、その平穏を嘲笑うかのような地獄絵図を描き出していた。
暗闇の中に浮かび上がる、蒼い惑星の三次元立体図。
その北極点近く、白銀砦の遥か北北西――人が立ち入ることすら叶わない絶対零度の極北海溝の海域に、巨大な深紅の警告マーカーが点滅していた。
「……これが、お前の言っていた『タワー』なのか?」
軍服を着込み、セリアの肩を抱き寄せるようにして立つヴィルフリートが、険しい眼光でホログラムを見据えた。
「はい。旧時代のテラフォーミング主幹インフラ――惑星環境制御施設『タワー01』、通称『ジオ・エンジニアリング・コア』です」
セリアは空中に浮かぶデータを指先で払った。
ホログラムがズームし、荒れ狂う凍結海の上にそびえ立つ、高さ千メートルを超える漆黒の巨塔のワイヤーフレームが表示される。
「かつてこの星を人類が住める環境へ改造するために建造された、気候制御の中枢プラントです。……ですが、アリアが受信したSOSダウンリンク信号によれば、タワー内部のメイン冷却ジェネレーターが臨界暴走を起こしています」
『補足データを提示します』
アリアの冷静な声が、二人の間に響いた。
『タワーの中枢AI「ガイア・オメガ」の思考ルーチンにおいて、過去の文明崩壊時の外傷的論理エラーが発生。暴走したプログラムは、環境の異常を「過剰な熱エネルギーによる汚染」と誤認し、惑星全体を完全凍結させて初期化するプロトコルを実行し始めました』
セリアの顔が、氷のように引き締まった。
ホログラムの惑星図において、極北海溝から青白い絶対零度の波動が、同心円状に南へと広がっていくシミュレーションが再生される。
「このまま冷却プログラムの暴走が続けば、タワー周辺のマナ粒子が超低温凝固を起こし、大陸全土へ向けて不可逆的な『絶対零度寒波』が吹き荒れます。……到達予定日は、今から約六十日後。外気温はマイナス五十度から七十度以下まで低下。この白銀砦も、王都も、大陸のすべての生態系が凍結し、死に絶えます」
「マイナス七十度……!? 全土が、だと……!?」
歴戦の武人であるヴィルフリートですら、息を呑んで戦慄した。
中世の戦争であれば、どんな大軍であれ、城壁とレールガンで迎え撃つことができる。
だが、相手は自然法則を書き換えて星そのものを凍りつかせる、神の如き旧文明の暴走兵器なのだ。
「そんな事態を許すわけにはいかん。……止める手立てはあるのか、セリア」
ヴィルフリートの手がセリアの腰を強く引き寄せた。
彼の手袋越しに伝わる体温は、依然として熱く、揺るぎない。
世界が滅びの危機に瀕していようと、この男の最優先事項はセリアを守り抜くことだけだった。
「あります」
セリアは迷いなく頷いた。
「タワーの外部からの通信回線は、暴走プログラムによって物理的に遮断されています。遠隔操作によるハッキングは不可能です。ですが――タワーの最深部にある中央メインフレームへ直接物理アクセスし、私の魂に同調しているアリアの『主任システムアーキテクト権限』をダイレクトインジェクションすれば、暴走ルーチンを強制停止させ、正常な環境再生プログラムへ書き換えることができます」
「現地へ乗り込み、中枢の機械を直接叩くということだな」
ヴィルフリートの言葉は的確だった。
しかし、その直後、ヴィルフリートの端整な眉が苦渋に歪んだ。
「……だが、タワーのある極北海溝までは、ここからどれほどの距離がある?」
セリアは無言で、立体地図の縮尺を広げてみせた。
白銀砦からタワー01までの直線距離――約八百五十キロメートル。
「距離にして八百五十キロ。しかも、道中の大半はクレバスが無数に走る永久凍土の荒野と、氷塊がぶつかり合う極寒の凍結海です。現地の外気温は現在すでにマイナス四十度を下回っており、秒速三十メートルを超えるブリザードが常時吹き荒れています」
セリアの口から紡がれる絶望的な環境データ。
「通常の馬車やソリでは、一日に進める距離はせいぜい二十キロから三十キロ。補給部隊を伴って移動すれば、片道だけで四十日以上かかります。しかも、道中でブリザードに巻き込まれれば全滅は免れません。……現在の移動手段では、六十日というタイムリミットに物理的に間に合わないのです」
張り詰める沈黙。
距離、時間、そして極限の環境。
どれほどセリアに神業の知恵があろうと、物理的な移動速度の壁を突破できなければ、現場に辿り着く前に世界は凍りつく。
ヴィルフリートはセリアの肩を抱きしめたまま、静かに、しかし鋼のような確固たる声で告げた。
「俺が連れていく」
「ヴィルフリート様……?」
「どれほどの極寒であろうと、嵐が吹き荒れようと関係ない。俺が先頭に立ち、剣で氷山を砕き、道を切り拓く。……お前を凍えさせはせん。俺の体温のすべてを使って、お前を守りながら必ずタワーへ送り届けてみせる」
不器用で、命を投げ打つような覚悟。
二十八歳の男の、魂の底からの愛の言葉だった。
その言葉に、セリアの心の奥底が熱く震えた。
だが、セリアは彼の胸元にそっと手を添え、優しく微笑みながら首を横に振った。
「感謝いたします、私の騎士様。……ですが、貴方にそんな無茶な特攻をさせるわけにはまいりませんわ」
セリアの瞳の奥で、青い演算光がかつてないほどの眩い輝きを放ち始めた。
幾何学的なグリッドが網膜の上で高速展開し、無数の数式と物理モデルが再構築されていく。
そこにいたのは、守られるだけの可憐な十八歳の令嬢ではなかった。
かつて数々の不可能なデスマーチをねじ伏せ、誰も見たことのない巨大インフラをゼロから組み上げてきた、超一流のシステムアーキテクトの貌だった。
「タイムリミットは六十日。ならば、八百五十キロの道のりを、わずか数時間で踏破できる『移動インフラ』を、私たちがこの手で創り出せばいいだけの話です」
「……数時間で八百五十キロだと? そんな移動手段が、この世に存在するのか?」
ヴィルフリートが目を瞠る。
「存在しないなら、創るのです。技術者とは、そのためにいる人種ですから」
セリアは机の上の端末を操作し、新たな設計ホログラムを空間に展開した。
そこに現れたのは、巨大な二本のレールと、流線型の未知の車両――。
「白銀砦の防壁に設置した『魔導レールガン』の超伝導加速技術。そして、静止軌道上の軍事衛星『ヘイムダル』からの無尽蔵のマイクロ波送電。……これらを融合させ、永久凍土の上に超電導リニア軌道を敷設します」
セリアの唇に、不敵で、最高に知的な笑みが浮かんだ。
「名付けて――『大陸横断・超電導魔導リニア鉄道』構想。時速五百キロメートルで吹雪の氷原を駆け抜ける、鉄の龍を建造しますわ」
中世の魔法貴族社会の常識を根底から吹き飛ばす、空前絶後のインフラ革命。
星を救うための、そして愛する人と生きる未来を勝ち取るための、新たな挑戦の狼煙が上がった。




