執着と深夜の誓約
昼間に行われた王国第一王子ユリウスとの外交会談は、セリアが事前に組み上げた「不可侵通商条約」の草案通り、ヴェルク領の完全なる主権勝利で幕を閉じた。
条約の骨子は明快かつ冷徹だった。
王家によるヴェルク領の「完全独立自治権」の承認、関税自主権の完全獲得、そしてセリアがもたらした新技術に関する「ブラックボックス条項」――王都側による魔導オンドルやレールガン技術のリバースエンジニアリングの永久禁止と、違反時の巨額違約金ペナルティ。
前世で巨大テック企業の知財戦略とアライアンス契約を数多く取りまとめてきたセリアにとって、国家間のパワーバランスを利用した契約締結など、手慣れた業務の一つに過ぎなかった。
ユリウスは条約書にペンを走らせる際、完敗を認めるように苦笑し、最後にこう言い残して宿舎へと引き上げていった。
『素晴らしい条約だ、セリア嬢。貴女のような知性の巨人が、王都の宮廷ではなくこの白銀の砦に閉じ込められていることが、我が国にとって最大の損失であり……そして、恐怖だよ』
その言葉が、火種だった。
◇
深夜。白銀砦の最上層、領主私室。
暖炉にくべられた薪が、パチパチと爆ぜて柔らかな橙色の炎を揺らしている。
厚手の絨毯が敷き詰められた静まり返った部屋のソファで、セリアは湯気の立つカモミールティーのカップを手に、小さく息を吐いた。
「……ふう。これでひとまず、王都との正面衝突によるリスクは法的にヘッジできたわね。アリア、通商ルートの物流シミュレーションのログを保存して」
『了解、マスター。条約発効に伴う経済効果予測、現行の四百二十パーセント増と推計。……ですがマスター、優先して対処すべき問題が、あなたの斜め後ろ約三メートルの地点に存在します』
頭蓋の奥で、アリアが警告音混じりの電子音を響かせた。
『対象:ヴィルフリート・フォン・ヴェルクの生体パラメータを観測中。心拍数毎分九十、血圧上昇、遊離マナの局所的乱れを検知。情動指数:極度の焦燥、抑制された破壊衝動、および計測限界レベルの「執着・独占欲」が検出されています』
セリアはカップをサイドテーブルに置き、そっと振り返った。
部屋の隅、凍てつく雪原を見下ろす大きな窓辺に、ヴィルフリートが一人、微動だにせず佇んでいた。
軍服の上着は脱ぎ捨て、黒いシルクのシャツを着崩している。
普段なら結い上げられている銀髪が額や首筋に乱れ落ち、彫刻のように整った横顔は、夜の闇に溶け込むほどに冷たく研ぎ澄まされていた。
だが、その背中から放たれている威圧感は、戦場で敵軍を前にした時よりも重く、鋭く、張り詰めていた。
昼間の会談が終わってからというもの、彼は必要最低限の軍務上の指示を出したきり、セリアに対してほとんど言葉を発していなかった。
だが、決して冷淡になったわけではない。
むしろその逆――セリアが少しでも動けば、その氷藍色の瞳が飢えた獣のように彼女の姿を追い、セリアの左手薬指に嵌められた白銀のペアリングからは、彼の心拍の乱れがトクントクンと途切れることなく送られてきていたのだ。
「……ヴィルフリート様」
セリアが静かにその名を呼んだ。
ピクリと彼の肩が跳ねた。
ヴィルフリートはゆっくりと振り返り、セリアを見つめた。
その氷藍色の瞳は、暗がりの中で爛々と熱い光を帯びている。
「まだ起きていたのか」
低く、かすれ切った声。
喉の奥で氷が軋むような、危うい響きだった。
「貴方が戻られるのを待っておりましたのよ。……お疲れではありませんか? 温かいお茶をお淹れしましょうか」
セリアが立ち上がろうとした、その瞬間だった。
ダンッ、と床を蹴る鋭い音が響いた。
ヴィルフリートの長身が、まるで夜風が吹き抜けるような速さで間合いを詰めてきたのだ。
「きゃっ……!?」
セリアの視界が暗転した。
ヴィルフリートの両手がセリアの背後のソファの背もたれに叩きつけられ、逃げ場が完全に塞がれたのだ。
覆いかぶさるように屈み込んだ彼の分厚い胸板が、セリアの鼻先数センチに迫る。
清潔な石鹸の香りと、針葉樹の冷涼な匂い、そして彼自身の燃え盛るような高熱が、セリアの呼吸を奪うように押し寄せてきた。
「ヴィルフリート……様……?」
見上げるセリアの瞳に、ヴィルフリートの苦悶に満ちた美貌が映る。
彼の瞳は、激しい怒りと、それ以上に深い哀切と恐怖に濡れていた。
二十八歳の歴戦の元帥が、まるで大切な宝物を奪われかけた子供のように、唇を小刻みに震わせている。
「……なぜだ」
ヴィルフリートの喉から、掠れた呻きが漏れた。
「なぜ、あのような男を前にして、平然としていられる。……ユリウスのあの目を、お前も見ていただろう」
彼の大きな手が伸び、セリアの顎をすくい上げた。
男らしく硬い指先が、セリアの白い肌に触れる。
痛いほどの力で引き寄せられ、二人の吐息が絡み合う。
「ユリウスはお前を狙っている。愚弟ルーファスとは違う、あの男はお前の真の価値を理解した上で、己の野心と国家のために、お前の知恵を欲しているのだ。……『王立アカデミー総裁』だと? 『国家の至宝』だと? 反吐が出る」
ヴィルフリートの指先がセリアの頬を滑り、彼女の豊かな黒髪を乱暴に掻き抱いた。
そのまま、耐えきれなくなったように、セリアの首筋へと自らの顔を深く埋める。
「――っ!」
熱い唇が、セリアの鎖骨の窪みに押し当てられた。
ビクン、とセリアの身体が甘い痺れに跳ね上がる。
「あのような男に、目を向けるな……」
耳元で、切実な熱を孕んだ吐息が弾けた。
ヴィルフリートの唇が、セリアの首筋を這い上がり、薄い皮膚を吸い上げるようにして赤紫の痕を刻みつけていく。
「あいつの言葉に、耳を貸すな。……お前のあの澄んだ瞳に、俺以外の男の姿を映すことすら許したくない。狂いそうだ、セリア。お前があいつの誘いに乗り、いつかこの雪原を捨てて、あの華やかな王都へ去ってしまうのではないかと……そう考えるだけで、胸が引き裂かれそうになる」
「ヴィルフリート様、そんなこと……」
「お前は、眩しすぎるのだ!」
ヴィルフリートはセリアの言葉を遮り、彼女の細い腰に腕を回して、ソファの上から自らの胸の中へと力任せに引きずり上げた。
ぎゅう、と骨が軋むほどの力で抱きしめられる。
ヴィルフリートはセリアの肩に顎を乗せ、彼女の温もりを貪るように、背中に回した大きな掌で彼女を抱きすくめていた。
「お前は十八の可憐な少女の姿をしていながら、神の知恵を持ち、国を動かし、五万の軍勢すら一瞬で退けてみせる。……俺のような、人を斬ることしか知らん不器用な武人の隣など、お前にとっては狭すぎるのではないか? いつかお前が俺に愛想を尽かし、遠い空へ飛び去ってしまうのではないか……!」
男の剥き出しの弱白だった。
「白銀の死神」「氷血公」と帝国全土から恐れられる英雄が、ただ一人の少女を失う恐怖に囚われ、魂を震わせて縋り付いている。
「奪わせん……誰にも、天地が裂けてもお前を渡すものか。もし王都がお前を連れ去ろうとするなら、俺はこの命を捨てて国を滅ぼす。お前が去ろうとするなら……俺はお前をこの城の奥深くに閉じ込め、一生鎖で繋いででも、俺の腕の中に留まらせてみせる……!」
重く、狂気じみた、底なしの独占欲。
常識的な令嬢であれば、その執着の凄まじさに怯え、悲鳴を上げて逃げ出すかもしれない。
だが――セリアの心を満たしたのは、恐怖などでは断じてなかった。
(……ああ、本当に)
セリアの胸の奥が、熱く、痛いほどに締め付けられた。
前世で三十代を迎えるまで、誰からもこんな風に求められたことなどなかった。
成果を出せば賞賛されたが、それは「便利な機能」としての評価だった。
過労で倒れても誰も気にとめず、この世界に転生してからも、無実の罪を着せられて家族からもあっさりと見捨てられた。
「お前がいなければ生きていけない」
「世界を滅ぼしてでもお前を離さない」と、己のすべてを投げ打って自分に執着してくれる人間など、これまでの人生でただの一人もいなかったのだ。
外見は十八歳、中身は三十二歳の大人の女性。
その自立した精神の防壁が、ヴィルフリートの重く切実な愛の奔流に呑み込まれ、心地よく融解していく。
『マスターの心拍数:毎分百二十。オキシトシン分泌量が急上昇』
脳内でアリアが静かに告げる。
『対象の独占欲ベクトルを解析完了。病的な執着ですが……マスター、あなたの情動パラメータはそれを完全に「至上の安らぎ」として受容しています。論理的介入は不要と判断します』
(ええ、そうよ、アリア。介入なんて無用よ)
セリアはそっと腕を持ち上げ、ヴィルフリートの広い背中に回した。
そして、子供を宥めるように、優しく、慈しむようにその背中を撫でた。
「ヴィルフリート様。……顔を上げてくださいませ」
セリアの柔らかな声に、ヴィルフリートが恐る恐る顔を離した。
その氷藍色の瞳には、自分の凶暴な独占欲を露わにしてしまったことへの後悔と、拒絶されるのではないかという怯えが浮かんでいた。
セリアは微笑んだ。
そして、両手を伸ばすと、彼の彫刻のように端整な頬を、己の小さな両手で優しく包み込んだ。
「ひゃ……セリア?」
冷え切っていた彼の頬に、セリアの柔らかな手の温もりがじわりと伝わる。
「馬鹿な人」
セリアは愛おしさに目を細め、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私が、あんな胡散臭い第一王子の甘言に乗るはずがないでしょう? 昼間も申し上げましたわ。私の知恵も、この命も、私のすべては貴方に捧げると」
「だが、お前ほどの才能があれば、王都の宮廷で世界を動かすことも……」
「世界を動かすことなど、私にとっては業務上の課題解決に過ぎません。そんなものに、私の魂の価値はありませんわ」
セリアは首を横に振った。
「私が欲しいのは、世界一の栄誉でも、絢爛豪華な王宮でもありません。……凍えていた私を温かい毛布で包み、不器用な手でスープを飲ませてくれた、貴方の温もりだけです。私の居場所は、この雪原の……貴方の腕の中以外に、世界のどこにも存在しません」
セリアは背伸びをし、ヴィルフリートの額に自らの額をコツンと当てた。
至近距離で重なる二人の視線。
「私は誰のものでもありません。……貴方だけの妻です、ヴィルフリート様」
その言葉が落ちた瞬間、ヴィルフリートの瞳から、ポロリと一筋の熱い涙が零れ落ちた。
百戦錬磨の死神の頬を伝う、信じられないほど純粋な安堵の涙。
「セリア……っ」
ヴィルフリートの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。
彼はセリアの腰を再び強く抱き寄せると、今度は慈しむように、壊れ物を愛でるように、彼女の唇へと自らの熱い唇を重ねた。
「ん……っ」
深く、熱く、息が止まるほどの口づけ。
先ほどまでの狂気じみた執着は、どこまでも甘やかで深い情愛へと姿を変えていた。
ヴィルフリートの舌がセリアの唇を割り、熱い吐息を分け与えるように絡み合っていく。
セリアの華奢な身体が、彼の逞しい胸板の中でトロトロと熱を帯びて溶けていく。
十八歳の瑞々しい肉体が、二十八歳の大人の男の包容力に抗えず、甘い疼きを立てて反応していた。
精神年齢三十二歳の大人の理性など、彼の腕の中ではとっくに甘美な幸福感に塗り潰されていた。
どれほど長く唇を重ね合っていただろうか。
ようやく唇が離れた時、二人の間には銀色の糸が微かに引いていた。
ヴィルフリートは乱れた呼吸のまま、セリアの左手を取り上げた。
薬指に嵌められた白銀狼の指輪へ、誓いを刻み直すように深く口づける。
「生涯、お前を離さん。……お前を幸せにするためなら、俺のすべてを捧げよう」
「ええ。離さないでくださいね、私の過保護な旦那様」
セリアが蕩けるような笑みを浮かべると、ヴィルフリートの顔に、この世のものとは思えないほど美しく艶やかな微笑みが浮かんだ。
彼はセリアを軽々と抱き上げると、ソファを離れ、奥の天蓋付きベッドへとゆっくりと歩みを進めた。
暖炉の炎が優しく揺れる中、二人の影はベッドの帳の奥へと重なり合い、外の猛吹雪を忘れさせるほどの濃密で甘やかな熱気の中に沈んでいった。
◇
翌朝。
窓から差し込む冬の澄んだ陽光が、ベッドに横たわる二人の姿を優しく照らしていた。
毛布の中で、セリアはヴィルフリートの分厚い胸板にぴったりと抱き寄せられ、彼の逞しい腕に包まれながら穏やかな寝息を立てていた。
昨夜の甘やかな誓約の余韻が部屋を満たし、白銀狼のペアリングが二人の微睡みに合わせて淡い共鳴光を脈打たせている。
だが――その静寂のただ中で。
セリアの脳内深く、休眠状態にあったアリアの深層知覚プロセッサが、微弱なパルス信号を捉えた。
『空間通信ログ:北北西、極北海溝の海底下深度三千メートル地点より、非常割り込みダウンリンク信号を受信』
アリアの無機質な解析ルーチンが、受信した暗号パルスを瞬時にテキスト化していく。
『送信元識別コード:テラフォーミング主幹インフラ・環境制御施設「タワー01(ジオ・エンジニアリング・コア)」
ステータス:緊急事態発生。
冷却プログラムの臨界暴走を確認。
予測事象:大陸全土における不可逆的「絶対零度大凍結」まで、残り六十日――』
安らかな眠りの中、セリアの眉が微かに動いた。
愛する伴侶と共に手に入れた温かな楽園を、そしてこの星の命運そのものを根底から揺るがす、真の惑星規模の危機が、音もなく幕を開けようとしていた。




