↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/36

王都第一王子の来訪

白銀砦の中央迎賓の間には、刺すような冷気とは対照的な、息の詰まるような緊張感が張り詰めていた。


床に敷き詰められた深紅の絨毯の先、砦の主座に腰掛けるヴィルフリートの佇まいは、まさに「白銀の死神」そのものだった。


漆黒の軍服の上に羽織った豪奢なマントには、ヴェルク家の象徴である双剣と銀狼の紋章が銀糸で刻まれている。


腰にはあの大剣『白狼丸』が帯びられ、冷厳な美貌には感情の欠片すら浮かんでいない。


氷藍色の双眸は、扉の向こうを見据えて鋭利な刃のように研ぎ澄まされていた。


そして、そのすぐ隣――ヴィルフリートの玉座の肘掛けに寄り添うように置かれた豪奢な長椅子に、セリアは腰を下ろしていた。


「……ヴィルフリート様。少し、距離が近すぎやしませんでしょうか」


セリアは小声で、隣の男へと囁きかけた。


彼女が身にまとっているのは、工匠区画で特別に仕立てられた、濃紺のベルベットに純白のレースをあしらった格式高い礼装ドレスだった。


装飾を削ぎ落とした洗練されたシルエットは、セリアの白い肌と知的な美貌を際立たせている。


問題は、ヴィルフリートの左手が、先ほどからずっとセリアの腰の後ろに回され、その細いウエストを抱き寄せるようにして離さないことだった。


「近くなどない。これが正式な距離だ」


ヴィルフリートは正面を睨み据えたまま、低く掠れた声で囁き返した。


「ユリウスは、あの愚鈍なルーファスとは根本から出来が違う。宮廷の蛇どもの頂点に立つ男だ。……奴がお前に一瞥でも不躾な視線を向けた瞬間、首を刎ねられる間合いに控えておく必要がある」


「外交使節の首を初手で刎ねないでください。国際問題になります」


セリアは呆れたように息を吐きながらも、左手薬指に触れた。


そこには、昨日贈られたばかりの白銀狼のペアリングが嵌められている。


指輪を通して微かに伝わってくるヴィルフリートの張り詰めたマナと熱い体温が、彼の抱く尋常ならざる危機感と、セリアへの重すぎる独占欲を如実に物語っていた。


(外見は十八歳の可憐な少女、中身は三十二歳の元システムアーキテクト……。前世でも競合他社からの露骨なヘッドハンティングや引き抜き工作には何度も遭遇したけれど、ここまで物々しいガードマンを付けられたことはないわね)


苦笑するセリアの脳内で、アリアが静かに警告音を鳴らした。


『接近する使節団のバイタルデータを補足。随行員十六名、いずれも王都の近衛精鋭および筆頭法務官です。……先頭の生体反応:心拍数毎分六十二、極めて規則的な呼吸パターン。感情の動揺、ゼロ。マスター、極めて知能指数の高い「冷血な合理主義者」が侵入します』


重厚な両開きの扉が、衛兵たちによって厳粛に押し開かれた。


靴音を響かせて広間へ足を踏み入れてきたのは、豪奢でありながら無駄な飾りを排した、濃紺の王族用軍服に身を包んだ青年だった。


ユリウス・エドワード。二十六歳。


王国の第一王子であり、事実上の国政を牛耳る宮廷の筆頭実力者。


背筋を凛と伸ばした長身に、流れるような金髪を首の後ろで一つに束ねている。


眼鏡の奥に光るヘーゼル色の双眸は、まるで精密機械のように冷徹で、周囲の空間と人員配置を一瞬にして分析し尽くしていた。


かつて雪原で泣き叫び、泥にまみれて命乞いをした弟のルーファスとは、月とスッポン、天と地ほどの隔絶があった。


「お初にお目にかかる、ヴェルク辺境伯閣下。ならびに――」


ユリウスはヴィルフリートの前で完璧な宮廷礼を執ると、視線を滑らかにセリアへと移した。


その瞳に、ほんの一瞬、計算された驚嘆の光が宿る。


「セリア・フォン・アルトハイム侯爵令嬢。……いや、今は北方特区の最高技術顧問と呼ぶべきかな」


「ようこそお越しくださいました、ユリウス殿下。白銀砦へ歓迎いたします」


セリアが淑女の礼を返そうとわずかに前傾した瞬間、腰に添えられていたヴィルフリートの腕にグッと強い力が込められた。


セリアを半歩背後へ隠すような、露骨な牽制だった。


ヴィルフリートの氷藍色の瞳が、氷柱のような冷たさでユリウスを射貫く。


「挨拶は結構だ、第一王子殿下。敗残兵の引き渡しと賠償条約の締結は、すでにそちらの無能な弟との間で完了しているはずだが? 王国の次期国王が、わざわざこんな吹き溜まりの僻地まで何の用だ」


敵意を隠そうともしない無骨な言葉。


だが、ユリウスは眉一つ動かさず、むしろ心地よさそうに薄い笑みを浮かべた。


「そう警戒しないでいただきたい、元帥閣下。私は今日、愚弟ルーファスがしでかした前代未聞の不始末について、王室を代表して正式に謝罪に参ったのだ」


ユリウスは背後の侍従に合図を送り、紫のビロード張りの小箱を差し出させた。


蓋が開かれると、中には王家の紋章が刻まれた純金の親書と、王宮秘蔵の最高級マナクリスタルが整然と並んでいた。


「ルーファスは即座に王位継承権を剥奪、全財産を没収の上、最果ての修道院へ永久幽閉と決定した。彼を唆したエレナ男爵令嬢の実家も改易処分だ。……あのような無能な狂人に五万もの兵を預け、尊いヴェルクの領地を脅かしたこと、心よりお詫び申し上げる」


淀みない謝罪と、一切の情を挟まない肉親への断罪。


「無能な身内を迅速に切り捨て、損害を最小限に抑え込む」という、極めて有能なトップの危機管理(クライシスマネジメント)だった。


前世で多くの経営者と対峙してきたセリアの目から見ても、ユリウスの初動対応は満点に近かった。


「謝罪は受け取ろう」


ヴィルフリートは冷ややかに言った。


「それで? 用件はそれだけか」


「まさか」


ユリウスの眼鏡の奥の瞳が、妖しい光を帯びて細められた。


彼の視線が、再びセリアへと真っ直ぐに向けられる。


「本題は、セリア嬢……貴女についてだ」


ユリウスが一歩、セリアの前へと歩み出た。


「先の戦いの詳細な観測ログを拝見した。数キロメートル先から王宮魔導砲の中枢だけを撃ち抜いた未知の高速質量投射兵器……そして、街全域の凍死者をゼロにしたという画期的な熱循環インフラ。これらを開発し、運用プロトコルを組んだのが貴女だと聞き、私は己の耳を疑った」


ユリウスの声に、熱を帯びた称賛が滲む。


「あの夜会で貴女を『悪役令嬢』として追放したことこそ、我が王国が建国以来犯した最大の国家的大失策だ。貴女の知性は、一地方の領地に留まっていいものではない。世界を動かし、歴史を数百年先へ進める『国家の至宝』そのものだ」


ユリウスは胸に手を当て、芝居がかったほど優雅に深々と頭を下げた。


「セリア嬢。王都へ戻ってきてはくれないだろうか。王室は貴女に対するすべての罪状を完全破棄し、アルトハイム侯爵家の家督を貴女へ継承させる。さらに、新設する『王立魔導科学アカデミー』の初代総裁の座と、国政の最高諮問権を与えよう。貴女の知恵を、王国全土……いや、大陸全土の人類のために振るってほしいのだ」


破格を通り越した、国家最高待遇のヘッドハンティングだった。


名誉、地位、富、そして自らの研究と技術を巨大国家のリソースを使って展開できる無限の予算。


技術者や学者であれば、誰もが喉から手が出るほど欲しがる甘美な誘い文句だった。


だが――セリアが口を開くより、コンマ一秒早く。


ズガァァァァンッ!!


迎賓の間を揺るがす轟音が響き渡った。


ヴィルフリートが、腰の大剣の鞘の先端を、容赦なく大理石の床へと叩きつけたのだ。


床石に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、凄まじい衝撃波がユリウスの足元を襲った。


「――そこまでだ、ユリウス」


地獄の底から這い上がってきたような、氷よりも冷たいバリトンボイス。


ヴィルフリートの全身から噴き上がった濃密な殺気が、目に見える青白いマナの陽炎となって部屋全体を支配していた。


ユリウスの背後に控えていた王都の近衛兵たちが、息を詰まらせ、青ざめてバタバタと膝をつくほどの絶対的な重圧。


ヴィルフリートは座ったまま、セリアの細い腰を強引なまでに強く抱き寄せた。


セリアの身体がヴィルフリートの逞しい胸板へと引き寄せられ、彼の腕の中にすっぽりと閉じ込められる。


「貴殿の用件は、すべて俺を通してもらおう。……妻の時間を、そのような下らん無駄話で消費させる気はない」


冷酷無比な宣戦布告。


大広間の空気が一瞬で氷点下まで凍りついた。


ユリウスは足元に走った亀裂を見つめ、それからわずかに眉を跳ね上げて、セリアを腕の中に囲い込むヴィルフリートを見据えた。


「……手厳しいな、元帥閣下。『妻』と呼ぶには、まだ正式な婚儀を挙げておられないはずだが?」


「形式など関係ない」


ヴィルフリートの氷藍色の瞳が、獲物を威嚇する獰猛な狼のように細められた。


彼の手がセリアの顎へ伸び、白い肌を慈しむようにそっと撫でる。


ユリウスに見せつけるかのような、濃密で甘い、暴力的なまでの独占欲の誇示。


「セリアは我がヴェルク領の魂であり、俺の命そのものだ。王都が彼女を切り捨て、泥を塗って追放した時、お前たちは何をした? 今さらその真価に気づいたからと、擦り寄って奪い取ろうとするなど……虫酸が走る」


ヴィルフリートの切っ先のような視線が、ユリウスの眉間を射貫く。


「彼女の髪の一筋、吐息の一つすら、貴様らには渡さん。二度とセリアを王都へ連れ戻すなどと口にするな。……舌を引き抜いて城門に晒すぞ」


本気だった。


もしユリウスがこれ以上セリアを勧誘しようとすれば、たとえ第一王子であろうと、この場で即座に両断する――その揺るぎない殺意が、部屋を満たしていた。


張り詰める沈黙。


二十八歳の歴戦の元帥と、二十六歳の王国の最高権力者。


大人の男同士のプライドと覇気が激突し、迎賓の間には火花が散っていた。


(……まったく、この人は)


ヴィルフリートの胸元に抱きすくめられたまま、セリアは心の中で小さく息を吐いた。


精神年齢三十二歳の大人の女性として、ユリウスの提案の裏にある意図など、アリアの解析を待つまでもなく最初から見え透いていた。


『ユリウス王子の提案をプロファイリング完了』


脳内でアリアが淡々と補足する。


『王都へ呼び戻すことで新技術の独占権を王家に握らせ、同時にマスターを人質としてヴェルク領の手綱を引く意図が明白です。典型的な「高待遇を餌にした技術資産の吸収合併」ですね』


(ええ、わかりやすすぎるわ。一度捨てた技術者に、会社が傾いたからって『役員待遇で戻ってこい』と泣きついてくるブラック企業の社長そのものよ)


前世の社畜時代なら、どれほど甘言を弄されようと二度と関わりたくない案件だ。


そして何より――。


セリアは、自分の腰を抱きしめるヴィルフリートの逞しい腕に、そっと自らの手を重ねた。


手袋越しに伝わってくる彼の指先が、微かに、本当に微かに震えているのが分かった。


激しい怒りと殺気の裏で、この男は――「セリアが王都の華やかな地位に惹かれて、自分の元を去ってしまうのではないか」という、哀しいほどの恐怖を抱えているのだ。


誰よりも強く、誰よりも孤独だった

「白銀の死神」。


その男が、十歳も年下の自分を失うことを恐れて、必死に腕の中に閉じ込めている。


(……馬鹿ね、ヴィルフリート様。私が、貴方を置いていくはずがないでしょうに)


セリアの胸の奥に、甘く切ない愛おしさがこみ上げた。


彼女はヴィルフリートの手の甲を優しくトントンと叩いて安心させると、首を巡らせて、ユリウスのヘーゼル色の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「ユリウス殿下。身に余る破格のご提案、謹んで拝聴いたしました」


涼やかで、澄み渡るセリアの声が広間に響く。


ユリウスが期待を込めて目を細めた。


「ですが――そのご提案、すべて謹んでお断り申し上げます」


きっぱりとした、一切の迷いのない拒絶。


ユリウスの完璧なポーカーフェイスに、初めて微かな動揺の亀裂が走った。


「……断る、と? セリア嬢、理由を伺ってもよろしいかな。名誉も、富も、世界を変える力も、すべて貴女の思い通りになるのだぞ? この寒冷の僻地に縛り付けられるには、貴女の才能はあまりにも惜しい」


「理由など、単純なことでございます」


セリアは微笑みすら浮かべ、自らの左手を掲げてみせた。


薬指に輝く、白銀狼と双剣のペアリングが、冷たい陽光を浴びて凛とした輝きを放つ。


「私の知恵と力は、すべて私の愛する夫――ヴィルフリート様と、この極寒の地で私を信じてくれたヴェルク領の民のために捧げると、すでに誓っておりますから」


セリアはヴィルフリートの胸元に寄り添い、彼を見上げて柔らかく微笑んだ。


そして、再びユリウスへ視線を戻すと、三十二歳の歴戦のプロフェッショナルとしての冷徹な光を瞳に宿して言い放った。


「それに殿下。一度現場を捨て、理不尽に切り捨てた相手が、成功した途端に甘言を弄して擦り寄ってくる……そのような不誠実な組織と再び契約を結ぶほど、私はお人好しではございません」


痛烈な皮肉。


王家の腐敗と身勝手さを、論理と知性で完膚なきまでに切り捨てる宣告だった。


ユリウスは息を呑み、やがてハッとしたように目を見開いた。


そして――ククッ、と喉を鳴らして笑い出した。


「……完敗だな。なるほど、ルーファスが手玉に取られたわけだ」


ユリウスは肩をすくめ、降参を示すように両手を軽く上げた。


「素晴らしい気概だ、セリア嬢。そして……貴殿の勝ちだ、ヴェルク元帥。これほど聡明で忠誠心篤い伴侶を得た貴殿が、心底羨ましいよ」


ユリウスの表情から外交官としての胡散臭い仮面が剥がれ、現実主義者としての純粋な知性が戻っていた。


「引き抜きの話は撤回しよう。……では、対等な国家間の交渉に移らせてもらってもよろしいかな? 王家は、ヴェルク領を完全な独立主権を持つ『北方自治特区』として公式に承認する。その上で、我が国とヴェルク領との間で、相互不可侵条約および通商経済協定を結びたい」


空気が一変した。


略奪でもなく、引き抜きでもない。


対等な二つの勢力としての、真の外交交渉の幕開けだった。


「……よかろう」


ヴィルフリートの殺気がようやく収まり、彼は大剣を床から離した。


しかし、その腕は依然として、セリアの腰をしっかりと抱き寄せたままだった。


「席に着け、ユリウス。……ただし、条約の内容次第では、即座に追い出すからな」


大人の男たちの火花散る交渉が始まろうとする中、セリアはヴィルフリートの腕の中で小さく笑った。


左手薬指のリングが、トクン、トクンとヴィルフリートの熱い脈拍を伝えてくる。


その重く不器用な愛に守られながら、セリアは新たな世界のルールを自らの手で書き換えるべく、知性の光を瞳に宿すのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。