白銀の街の視察デート
寒波が吹き荒れる北方の冬とは思えないほど、白銀砦の城下町は穏やかな朝を迎えていた。
抜けるような冬晴れの青空の下、屋根に積もった雪の間から、幾筋もの澄んだ湯気が立ち上っている。
かつてなら煙突から黒煙が吐き出され、薪の爆ぜる音と凍死を恐れる人々の呻き声が満ちていたはずの街だ。
しかし今、石造りの街並みを包んでいるのは、焼き立てのパンの香ばしい匂いと、行き交う人々の活気に満ちた笑い声だった。
その城下町へ通じる大門の前で、セリアは途方に暮れたように溜息を吐いていた。
「……あの、ヴィルフリート様。私、完全に雪だるまのようになっているのですが」
セリアの言葉通り、現在の彼女は全身を分厚く、上質な白銀狐の毛皮外套で何重にも包み込まれていた。
首元には柔らかなカシミヤのマフラーが隙間なく巻かれ、頭には耳当て付きの毛皮帽。
手には内側に極上のボアが張られた革手袋が嵌められ、露出しているのは鼻の先と瞳だけという徹底ぶりだった。
「どこが雪だるまだ。これほど愛らしい生き物が他にいるか」
その着付けを自ら行っていたヴィルフリートは、至極真面目な顔でセリアの襟元を整え直した。
黒銀の軍服の上に漆黒のマントを羽織った彼の長身は、セリアの影をすっぽりと覆い隠している。
彫刻のように冷厳な美貌には、一滴の妥協も許さないという決意が張り付いていた。
「日差しがあるとはいえ、外気温は氷点下五度だ。お前の白い肌を冷気に晒すわけにはいかん。手足の先が少しでも冷えたら、即座に抱き上げて砦へ連れ戻すからな」
「あのですね、私、城下町に新設した魔導オンドルの熱循環パイプと、断熱建材の経年耐久データを収集しにいく技術視察のつもりだったのですが……」
「俺にとっては、愛する婚約者との初めての街歩き(デート)だ」
平然と言ってのける二十八歳の元帥閣下。
外見は十八歳、中身は三十二歳の元システムアーキテクトであるセリアにとって、この堂々たる宣言の破壊力は凄まじかった。
前世を含めて三十数年の人生、休日の現場トラブル対応やサーバー監視の呼び出しなら数え切れないほど経験してきたが、年上の絶世の美男子に過保護に甘やかされながら街をエスコートされる経験など、一度たりとも存在しない。
『マスターの心拍数:毎分九十五。顔面温度の上昇を確認』
脳内でアリアが無機質に告げる。
『毛皮の防寒性能は極めて優秀ですが、それ以上にマスター自身の内因性発熱が優位になっています。……なお、ヴィルフリート閣下のマントのポケット内部に、マスターの手を収容するための空間が確保されている模様です』
(アリア、余計な実況はいいの……!)
「ほら、行くぞ、セリア。手を出せ」
ヴィルフリートは手袋を外した大きな右手を差し出し、セリアの手袋越しではなく、わざわざセリアの手袋をそっと脱がせると、素肌のまま自らの大きな掌で包み込んだ。
そして、アリアの予言通り、自らの温かなマントの裏地ポケットへと、繋いだ手を丸ごと引き入れたのだ。
「――っ!?」
あまりの近さに、セリアの心臓が跳ね上がる。
ヴィルフリートのポケットの中で、男らしく節くれだった熱い指先が、セリアの華奢な指と一本ずつ絡め合わされる。
いわゆる恋人繋ぎ。厚手のマントの下で、二人の体温が直接溶け合っていた。
「こうしていれば、冷えまい」
ヴィルフリートは満足そうに口元を綻ばせ、セリアを引き寄せるようにして歩き出した。
◇
城下町の大通りへ足を踏み入れると、セリアは技術者としての視線で周囲を観察し始めた。
網膜の奥に、アリアの環境スキャングリッドが展開する。
『街路地下の排熱パイプライン、正常稼働中。地表面温度:プラス三度。路面の凍結は完全に防止されています。家屋内のサーモグラフィを表示……全居住区において室温十四度から十八度を維持。今冬における領民の低体温症による死亡者数、現在に至るまでゼロを継続中』
(素晴らしいわ……! 理論値通りの熱循環が維持できている)
道行く子供たちは薄手のセーター一枚で元気に雪合戦に興じ、軒先では老人たちが穏やかな顔でお茶を飲んでいる。
かつて飢えと凍えに怯え、冬になれば家の中で毛布にくるまって震えていた街の姿は、どこにもなかった。
「ああっ! セリア様だ!」
「セリア様がいらっしゃったぞ!」
露店で買い物をしていた領民たちがセリアに気づくや否や、通り全体に歓声が広がった。
八百屋の主人が駆け寄り、湯気を立てる焼き芋を紙に包んで差し出してくる。
「セリア様! これ、うちの畑で採れた芋を、新しくできた床暖房の余熱炉で焼いたんです! 甘くて美味いですよ、どうぞ召し上がってください!」
「セリア様、うちの娘の凍傷がすっかり治りました! 本当に、本当にありがとうございます……!」
次々と集まってくる領民たちの顔には、偽りのない心からの感謝と敬愛が溢れていた。
王都で「悪逆非道の悪役令嬢」として断罪され、誰からも見向きもされずに捨てられた少女が、この最果ての地で、何千人もの命を救った守護神として愛されている。
「ありがとうございます。皆さんのお元気そうな笑顔を見られて、私も安心いたしました」
セリアが帽子を軽く直し、淑女の気品を保ちながらも柔らかな笑みを返すと、領民たちから「おお……なんてお美しい……」と感嘆の溜息が漏れた。
だが、そこで話が終わるはずがなかった。
領民たちの温かな視線は、セリアの隣で仁王立ちし、片時も彼女の腰から手を離そうとしないヴィルフリートへと向けられた。
「それにしても閣下、今日も一段とセリア様にべったりですなぁ!」
露店の親父がからかい交じりに笑う。
「砦の噂は本当でしたかい! あの『白銀の死神』が、セリア様の前じゃただの甘えん坊の大型犬になっちまうって話は!」
「なっ……!?」
セリアの顔が一瞬で林檎のように赤くなった。
「ち、違います、これは閣下が過保護なだけで、その……!」
慌てて弁明しようとするセリアを余所に、ヴィルフリートは眉一つ動かさず、むしろ誇らしげに胸を張って言い放った。
「当然だ。俺の妻の美しさと尊さは世界一だからな。これほど得難い至宝を、一時たりとも手放す愚者がどこにいる」
堂々たる惚気宣言。
大通りにどっと温かな笑いと拍手が巻き起こった。
「ひゅーっ! ごちそうさまです、閣下!」
「セリア様を泣かせたら、領民総出で文句を言いに行きますからね!」
「安心しろ。泣かせるどころか、爪の先一つ傷つけさせん」
ヴィルフリートは悪びれる様子もなく言い返し、セリアの腰をぐっと引き寄せて、自分の腕の中に閉じ込めた。
セリアは恥ずかしさのあまりヴィルフリートの胸元に顔を埋め、ポケットの中で繋がれた彼の手をぎゅっと握りしめて抗議した。
(ヴィルフリート様……! もう、大勢の前で何を言っているんですか……!)
(事実を言ったまでだ。お前が愛おしくてたまらん)
視線だけで交わされる会話。
三十代の冷静な理性が、彼の甘く熱い視線の前では形無しだった。
だが、周囲の人々の温かな祝福の笑顔に包まれながら、セリアの胸の奥には、これまで生きてきた中で一度も味わったことのない、甘美で誇らしい幸福感が満ちていた。
◇
大通りを抜け、工匠区画の一角へと足を運んだ二人は、落ち着いた佇まいの石造りの店舗の前で足を止めた。
看板には、絡み合う金銀の細工とルーペの絵。
白銀砦でも指折りの腕を持つ、老舗の魔導彫金工房だった。
カランコロン、と澄んだ鐘の音を響かせて店内に入ると、工房の奥から白髪混じりのエルフの細工師が顔を出した。
店主はヴィルフリートの姿を見るなり、深々と一礼した。
「お待ちしておりました、辺境伯閣下。……ご下命の品、完璧に仕上がっております」
「……? ヴィルフリート様、何かお買い物を?」
小首をかしげるセリアに、ヴィルフリートは優しく微笑み、店主へ顎で合図を送った。
店主は恭しい手つきで、黒いベルベットの小箱をカウンターの上へと差し出した。
パチン、と金具が外され、蓋が開かれる。
そこに収められていたのは、息を呑むほどに美しい、二振りの指輪だった。
純白の銀――先の戦いで撃破した氷殻巨獣の結晶装甲と、ヴェルク領の最高純度ミスリルを極限まで精錬して鍛え上げられた、白銀のリング。
細身でありながら重厚な存在感を放つその指輪には、互いを守り合うように交差する二振りの剣と、誇り高く咆哮する白銀狼の意匠が、神業のような精密さで彫り込まれていた。
「これは……」
セリアが目を見張る。
だが、セリアの視線が釘付けになったのは、その美しさだけではなかった。
『対象物を超深度スキャン』
アリアが即座に解析ウィンドウを展開した。
『白銀狼の瞳に極小の青色魔導結晶を配置。内部構造:テラヘルツ帯マナ共鳴回路、ミリ波暗号通信アンテナ、および生体バイタル検知ナノラインを確認。……マスター、これはただの装飾品ではありません。超高精度の戦術端末です』
「ヴィルフリート様、この指輪……魔導通信と生体検知の術式が組み込まれていますわ」
「ああ」
ヴィルフリートは満足そうに頷き、小箱から小さな方の指輪を指先で摘み上げた。
「バルボアとこの親方に頼み込んで作らせた。お前が開発した通信網のプロトコルを、この指輪の魔導回路に常時リンクさせてある。……これを身につけていれば、お前が砦のどこにいようと、たとえ世界の果てにいようと、俺はお前の心拍と体温、そして居場所を常に感知できる」
彼の手がセリアの左手袋を優しく外した。
冷気に晒されたセリアの白い手が、ヴィルフリートの温かな指先に触れる。
「そして、万が一にもお前に危険が迫り、心拍が乱れた瞬間――俺の手の指輪が激しく振動し、即座にお前の元へ空間転移に等しい速度で駆けつけることができる。お前を守るための、俺の牙であり盾だ」
それは、常軌を逸した重い執着であり、同時に、世界中の何よりも深く切実な愛の証だった。
普通の大人の女性であれば、「監視されているようだ」と気味悪がるかもしれない。
だが、セリアの心に湧き上がったのは、恐怖などでは断じてなかった。
前世で過労死した時、自分がオフィスで倒れて息絶えていく瞬間、その異変に気づいてくれる者は世界に誰一人としていなかった。
理不尽な罪を着せられて王都を追放された時も、自分の無実や絶望に手を差し伸べてくれる者など誰もいなかった。
「私がどこでどう倒れようと、誰も気づかない」――そんな乾いた孤独を抱えて生きてきたセリアにとって、自分の存在を、心拍の乱れ一つすら見逃さずに追い求めてくれるこの男の愛は、何よりも頑丈で、温かな救いだった。
「……本当に、過保護で重い愛ですこと」
セリアの瞳が、熱い涙で微かに潤んだ。
「嫌か?」
ヴィルフリートの氷藍色の瞳が、少しだけ不安そうに揺れる。
セリアを縛り付けるような真似をして、嫌悪されることを心底恐れているような、不器用な男の表情。
セリアは小さく首を横に振った。
そして、自らの左手を、ヴィルフリートの掌の上へとそっと預けた。
「いいえ。……世界で一番、嬉しいです」
セリアの言葉に、ヴィルフリートの表情が一気に輝いた。
彼はカウンターの前で、躊躇うことなく片膝をついた。
二十八歳の帝国元帥が、十八歳の少女の前に跪く。
その神聖な所作に、工房の店主も息を呑んで見守っていた。
ヴィルフリートは震える手で白銀の指輪を手に取ると、セリアの左手薬指へと、滑り込ませた。
スッ……と、寸分の狂いもなく薬指に収まる白銀のリング。
触れた瞬間、セリアの指先から淡い青い光が微かに瞬き、アリアの通信リンクと完璧に同調した。
指輪を通して、ヴィルフリートの熱いマナが、セリアの魂の奥深くまで溶け込んでくる。
「セリア・フォン・アルトハイム」
ヴィルフリートは跪いたまま、指輪の嵌められたセリアの左手を両手で包み込んだ。
そして、その薬指のリングへ、誓いを立てるように深く、熱い口づけを落とした。
柔らかな唇の感触と、熱い吐息が指先を包む。
見上げるヴィルフリートの瞳には、一切の迷いのない、永遠の熱情が宿っていた。
「生涯、お前を離さん。俺の命のすべてを懸けて、お前を愛し、守り抜くと誓おう」
「……はい。私も、生涯貴方の隣にいます。私の知恵と心のすべてを、貴方に捧げます」
セリアもまた、もう一つの大きな指輪を小箱から取り出すと、ヴィルフリートの逞しい左手薬指へと押し込んだ。
二つの白銀の指輪がカチリと触れ合い、淡い光の共鳴を放つ。
立ち上がったヴィルフリートは、セリアを力強く抱き寄せた。
工房の中、窓から差し込む冬の陽光が、抱き合う二人の影を温かく照らし出していた。
◇
視察を終え、夕暮れの茜色に染まる白銀砦への帰路。
繋いだ手と手の薬指で、二つの白銀の指輪が夕陽を反射して煌めいていた。
「……美味しかったですね、焼き芋」
「ああ。だが、お前の作った林檎タルトの味には及ばん」
「もう、あれは厨房の料理長が焼いたものですってば」
他愛のない会話を交わしながら、二人は歩調を合わせて砦の跳ね橋を渡る。
穏やかで、満ち足りた時間。
だが、その静寂を破るように、砦の物見櫓から鋭い角笛の音が響いた。
ブォォォォォン……!
来客を告げる、二長一短の合図。
軍事警戒の警鐘ではないが、国家元首級の貴賓が接近したことを示す特別な音色だった。
「……何事だ?」
ヴィルフリートの表情が、即座に厳格な領主のものへと引き締まる。
跳ね橋の向こうから、一騎の伝令将校が馬を飛ばして駆け寄ってきた。
将校は馬から飛び降りるなり、地面に片膝をついて息を切らしながら叫んだ。
「報告いたします! 南方の王都街道より、大規模な親善使節団が白銀砦の防衛境界線に到達いたしました!」
「親善使節だと? ルーファスを叩き出した直後に、王都が何の用だ」
ヴィルフリートが冷ややかに問うと、将校は緊張に声を震わせながら答えた。
「使節団を率いておられるのは……王国第一王子、ユリウス・エドワード殿下にございます! 『ヴェルク領との新たな不可侵条約の締結、ならびにセリア嬢への直接の謁見を求めたい』との親書を携えておられます!」
「……ユリウスだと?」
ヴィルフリートの氷藍色の瞳が、険しく細められた。
ルーファスのような無能な道化ではない。
王国の実権を握り、冷徹な現実主義者として知られる第一王子の直接の来訪。
波乱の気配を察知したのか、ヴィルフリートは無意識にセリアの肩を抱き寄せ、自らの背後へと庇うように立ちはだかった。
白銀の指輪が微かに熱を帯びる中、二人の前に、新たな時代の激動の扉が開かれようとしていた。




