敗軍の始末と主権の調印
魔導レールガンの不可視の光条が雪原を薙ぎ払い、王都軍五万二千の戦意を粉砕してから一夜が明けた。
朝の冷たい陽光が照らし出す白銀砦の南側平原には、昨日の圧倒的な威容とは似ても似つかぬ光景が広がっていた。
武装解除され、槍や剣を山のように積み上げた王都兵たちが、身を寄せ合って震えている。
通常、中世の戦乱における敗軍の捕虜を待ち受けているのは、過酷な奴隷労働か、極寒の雪原への遺棄、あるいは飢餓と疫病による緩慢な死だ。
兵士たちの瞳には、自らの行く末に対する絶望と恐怖が色濃く張り付いていた。
しかし、彼らの前に現れたのは、復讐に燃える冷酷な死神ではなく、湯気を立てる巨大な大釜の列と、整然と組み上げられた仮設天幕群だった。
「第三分隊、配給速度を維持してください。奥のテントから順番に、温かい燕麦の粥と香草スープを行き渡らせます。重傷者は第一救護天幕へ、軽傷者は第二天幕へトリアージ。凍傷の初期症状が見られる兵には、火成廃石の温熱パッドを優先配布してください」
機能的な戦術コートの袖をまくり、手際よく指示を飛ばすセリアの声が雪原に響く。
セリアの網膜の奥では、アリアの並列演算プロセッサがフル稼働していた。
『捕虜五万二千名のバイタルスキャンおよび配給ロジスティクスを更新。現在の給食完了率:四十八パーセント。低体温症による重篤化リスクを昨晩の予測値から八十九パーセント削減しました。……マスター、敵兵に対する手当としては過剰なまでに親切ですね』
(敵兵だからこそ、生かして味方に変えるのよ、アリア。五万人もの人間を飢えさせれば暴動の火種にしかならないし、疫病が発生すれば砦に逆流する。何より――彼らの大半は、中央の貴族たちに無理やり徴募されただけのただの農民や平民よ)
前世の大規模インフラ開発でも同じだった。
現場で働く一次請け、二次請けの作業員たちに適切な食事と安全な環境を提供できなければ、プロジェクトは内側から腐敗する。
セリアが設計した仮設宿営地には、地面を掘り下げて廃石の排熱パイプを通した即席の「魔導オンドル」が敷設されており、天幕の中は外の極寒が嘘のようにほんのりと暖かかった。
「お、おい……本当に食っていいのか……? 毒なんか入ってねえだろうな……」
配給の列に並んでいた若い王都兵が、震える手で木椀を受け取り、恐る恐る口に運んだ。
次の瞬間、兵士の瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
「温けえ……! 肉が入ってる……! 王都を出てから何週間も、凍った干し肉と泥水しか口にしてなかったのに……!」
「あのお方が……あのお方が、王都で『悪逆非道の悪役令嬢』と罵られていたセリア様なのか……?」
「俺たちを人間扱いしてくれた貴族様なんて、王都の宮廷には一人もいなかったぞ……!」
啜り泣きと感謝の声が、波紋のように五万の兵士たちの間に広がっていく。
かつて自分たちが刃を向けようとしていた相手が、誰よりも温かな食事と寝床を与え、傷の手当てをしてくれている。
兵士たちにとって、凛とした姿で現場を巡回するセリアの姿は、もはや悪役令嬢などではなく、雪原に舞い降りた「慈愛の聖女」そのものに見えていた。
セリアが視線を向けると、屈強な兵士たちが一斉に木椀を胸に抱いたまま、地面に額を擦り付けて平伏した。
「セリア様……! ご温情、生涯忘れません!」
「どうか、我らをお許しください……!」
「頭を上げてください。食事を冷ましてしまっては意味がありません。しっかり食べて体力を回復させることが、今の皆さんの業務……いえ、務めです」
セリアは困ったように眉を下げながらも、穏やかな微笑みを返した。
十八歳の瑞々しい美貌に宿る、三十二歳の大人の知性と慈愛。
その神々しい佇まいに、兵士たちは熱烈な崇敬の眼差しを注ぐのだった。
◇
午後。白銀砦の中央会談室。
重厚な黒檀の円卓を挟み、極限の緊迫感が漂っていた。
上座に腰を下ろしているのは、漆黒の軍服に身を包んだヴィルフリート。
その隣には、分厚い羊皮紙の条約文書を広げたセリアが座っている。
対する下座には、全身泥まみれのまま青ざめ、手足をガチガチと震わせている第二王子ルーファスが、手錠を嵌められた状態で小さくなっていた。
男爵令嬢のエレナは精神的ショックで部屋の隅に座り込み、虚ろな目で壁を見つめている。
「ひっ……! た、頼む、セリア……! もう十分だろう……!? 兵も引かせた、武装も解いた! 早く私を王都へ帰してくれ……! 父上も母上も心配している……!」
泣き声を上げるルーファスに、ヴィルフリートの氷藍色の瞳から鋭利な殺気が放たれた。
「貴様のその見苦しい口を塞いでやってもいいのだぞ、愚物」
「ひいぃぃっ!」
ヴィルフリートの低く冷徹な一喝に、ルーファスは椅子から転がり落ちそうになりながら縮こまった。
セリアはそっとヴィルフリートの軍服の袖に触れ、「閣下、ここは私にお任せください」と微笑みかけた。
ヴィルフリートは不服そうに唇を引き結びながらも、セリアの手が触れた途端に殺気を霧散させ、甘やかすように彼女の頭を軽く撫でて席に戻った。
セリアは視線をルーファスへ戻し、凛とした声で口を開いた。
「ルーファス殿下。身柄の解放と王都への帰還、大いに結構です。……ただし、大人の社会において、不法行為への落とし前をつけずに解放などあり得ませんわ」
セリアは円卓の中央へ、緻密な計算式と条文が記された羊皮紙を滑らせた。
「此度の王都軍による不法侵攻、ならびにヴェルク領に対する言われなき主権侵害の損害賠償合意書です」
「そ、損害賠償……!?」
ルーファスが怯えながら羊皮紙に目を落とした瞬間、その顔が土気色に染まった。
「な、なんだこの金額は……!? 白金貨二万枚……!? 王国の国家予算の三年分に匹敵するぞ! そんな天文学的な金、払えるわけがないだろう!」
「払えないなら、それ相応の担保を差し出していただきます」
セリアは冷ややかに微笑み、ペン先で条文の特定箇所を指し示した。
「第一条:ヴェルク辺境領に対する王家の課税権、徴募権、および司法権の永久放棄。本領を『独立自治特区』として承認すること。
第二条:極北山脈における未開発魔導鉱脈の所有権、ならびに採掘利権のヴェルク領への永久譲渡。
第三条:今回捕虜となった五万の兵士のうち、希望者に対するヴェルク領への永住権および市民権の付与。……これらを以て、金銭賠償の八割を相殺として差し引いて差し上げます」
「な……っ!? 独立特区だと!? 鉱脈の利権まで……! そ、そんなことを認めたら、王国の北方は完全に貴様らのものになってしまうではないか!」
「お認めにならないのであれば、構いませんよ?」
セリアは淡々と書類を引き戻そうとした。
「賠償金の支払いが滞った場合、我が軍は国際法に基づく自衛権の行使として、武装解除された五万の兵とともに王都へ進軍し、王宮の宝物庫を直接差し押さえるまでのことです。……魔導レールガンの射程と威圧感は、殿下ご自身が身を以てご存知のはずでしょう?」
「ひ、ぎゃあぁぁぁっ!!」
雪原で二十門の魔導砲が一瞬にして消滅した記憶がフラッシュバックしたのか、ルーファスは悲鳴を上げて頭を抱えた。
勝てる道理など、最初から欠片も存在しなかった。
法的な正当性、軍事的な抑止力、そして兵站を握る経済力――すべてにおいて、セリアは完璧な外堀を埋め切っていたのだ。
「さあ、殿下。王家の玉璽をお押しください。それとも、王都の城門が消し飛ぶ光景をご所望ですか?」
「お、押す……! 押します! だから撃たないでくれぇぇっ!」
ルーファスは涙と鼻水を垂らしながら、震える手で懐から取り出した玉璽を羊皮紙へ叩きつけ、乱れた署名を書きなぐった。
『玉璽の刻印パターン、マナ透かしを照合完了』
アリアがセリアの脳内で高らかに告げた。
『真正と判定。ヴェルク領の完全自治権、永久免税、鉱山利権の確保……全条件のクリアを確認しました。完璧なディール(取引合意)です、マスター』
セリアは満足そうに書類を回収し、美しく一礼した。
「契約成立ですわ、元婚約者殿。……どうぞ、丸腰の近衛兵数名と共に、徒歩で王都へお帰りくださいませ。道中の安全は保証いたしかねますが」
ルーファスとエレナは、衛兵たちによって引きずられるようにして部屋から連れ出されていった。
理不尽な感情論でセリアを追放した愚者たちの、あまりにも哀れで無様な幕切れだった。
◇
深夜。
白銀砦の主領主執務室には、依然として魔導ランプの淡い光が灯っていた。
「……捕虜のうち、約三万人がヴェルク領への移住と開拓への従事を希望。インフラ整備の労働力としては願ってもないリソースね。鉱山の採掘プラントの図面も、今夜中に第一稿を仕上げておかないと……」
セリアは一人、机の上に広げた膨大な書類の山と格闘していた。
昼間の条約調印、捕虜の処遇決定、移住者の戸籍登録、物資の再配分――。
こなすべきタスクは山積みだった。
『マスター。心拍数および脳波の警告閾値を突破しています』
アリアの機械音声が脳内に響く。
『過去四十八時間の総睡眠時間:三時間二十分。前世のデスマーチのトラウマを再現するおつもりですか? 即刻、ベッドへの移動を要求します』
(あと少しだけよ、アリア。この開拓工程表のクリティカルパスを確定させておかないと、明日の資材手配が……)
セリアが羽ペンを走らせようとした、その時だった。
バタン、と執務室の扉が音を立てて開いた。
入ってきた人影を認識した瞬間、セリアの背筋が冷やりと凍りついた。
そこに立っていたのは――軍服の上着を脱ぎ、黒いシルクのシャツを着崩したヴィルフリートだった。
その氷藍色の瞳には、戦場の死神すら逃げ出すような、底知れぬ怒りと……そして、それ以上に深い情愛がギラギラと渦巻いていた。
「……セリア」
地を這うような低音。
「あっ、ヴィルフリート様……! あの、これは明日の開拓計画の……」
言い訳を口にする間もなかった。
ヴィルフリートは大股で机に歩み寄るなり、セリアの手から羽ペンを乱暴にもぎ取って机の端へ放り投げた。
そして、椅子に座るセリアの脇の下へ腕を滑り込ませると、まるで羽毛を拾い上げるかのような軽やかさで、彼女の身体をひょいと抱き上げた。
「きゃっ……!? な、何を……!」
セリアの足が宙に浮き、視界がぐるりと回る。
気がついた時には、彼女はヴィルフリートの分厚い胸板に押し付けられ、完璧な「お姫様抱っこ」で拘束されていた。
「動くなと言ったはずだ」
ヴィルフリートはセリアの腰と膝裏を鋼のような力で固定し、大股で執務室を出て、隣接する自室の寝室へと直行した。
「ヴィルフリート様! 下ろしてください! まだ書類の決裁が……!」
「書類など知るか!」
ヴィルフリートは寝室の重い扉を蹴りで閉め、そのまま中央の天蓋付きベッドへとセリアを運んだ。
そして、羽毛布団の上へと、壊れ物を置くようにそっと横たえた。
起き上がろうとするセリアの両肩を、ヴィルフリートが覆いかぶさるようにしてベッドへ縫い止める。
至近距離で交わる視線。
濡れた銀髪の隙間から覗くヴィルフリートの瞳は、悔しさと愛おしさで濡れていた。
大人の男の圧倒的な体躯と、清潔な石鹸と針葉樹の匂いが、セリアの思考を麻痺させていく。
「お前は……なぜそうやって、すぐに自分の身を削るのだ」
彼の声が、痛ましげに震えていた。
「戦が終わったばかりだぞ。五万の敵を退け、王国の頸木を断ち切ったのだ。少しは己を労わるということを知らんのか」
「ですが、今ここで手を打っておかないと、移住してくる人々の生活基盤が……」
「それは俺の役目だ! 家臣たちの役目だ!」
ヴィルフリートはセリアの言葉を遮り、彼女の小さな右手を自らの両手で強く包み込んだ。
彼の手は驚くほど熱く、セリアの冷え切っていた指先を、じくじくと溶かすように温めていく。
「お前はもう十分に働いた。領民を救い、俺を生かし、この領地に未来を与えてくれた。……これ以上、お前が一人で背負い込むことなど、俺が天地にかけて許さん」
ヴィルフリートの顔が近づき、セリアの額に、熱く長い口づけが落とされた。
次いで、こめかみ、滑らかな頬、そして震える唇の端へと、慈しむようなキスが幾重にも降ってくる。
「ひゃ……っ、ヴィルフリート、様……っ」
甘い刺激に、セリアの背中が小さく跳ね上がった。
外見は十八歳。だが精神は三十二歳の大人の女性のはずだ。
それなのに、この二十八歳の成熟した武人の情熱的な瞳に見つめられ、熱い腕の中に閉じ込められると、すべての理性が蕩けてしまう。
ヴィルフリートはベッドサイドのワゴンを引き寄せると、そこに用意されていた銀の小鉢を取り上げた。
中に入っているのは、皮を剥いて薄く切り分けられた、シロップ漬けの林檎と野いちごだった。
ヴィルフリートは自ら銀のフォークで林檎を一片刺すと、セリアの口元へと運んできた。
「ほら、口を開けろ」
「じ、自分で食べられます……! 手は動きますから!」
「駄目だ。お前の手はまだ疲れている。……俺に食べさせろ」
有無を言わせぬ過保護さだった。
あの冷酷無比な元帥が、まるで小さな子供を世話するかのように、真剣な面持ちで果物を差し出してくるのだ。
観念したセリアが恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら小さく口を開くと、シャクシャクとした果実の甘みが舌の上に広がった。
「美味しいか?」
「……はい。とても」
「そうか」
ヴィルフリートの顔に、フッと極上の柔らかな笑みが浮かんだ。
彼は満足そうに次々と果物をセリアの口へ運び、セリアが飲み込むのを愛おしそうに見守った。
セリアの唇にわずかについた果汁を、自らの親指で丁寧に拭い、その指を自分の唇で吸い寄せる。
「――っ!?」
セリアの顔が一瞬で林檎よりも赤く染まった。
「も、もう……っ! そういう不意打ちは反則です……!」
「反則ではない。妻を愛でる夫の正当な権利だ」
ヴィルフリートは悪戯っぽく囁くと、セリアの掛け布団を首元まで引き上げ、自らも靴を脱いでベッドへと滑り込んできた。
そして、毛布の上からセリアの華奢な身体をすっぽりと抱きしめ、自分の胸元へと強く引き寄せたのだ。
「ヴィルフリート様……!?」
「寝るぞ。お前が眠るまで、一歩たりともここから離さん」
ヴィルフリートの逞しい腕が、セリアの腰をしっかりと抱きすくめる。
彼の分厚い胸板から伝わってくる、力強く温かな鼓動。
「……お前の健康管理は、俺の絶対権限だ。誰にも邪魔はさせん」
耳元に落ちてくる、低く甘い声。
セリアの心を長年縛り付けていた「一人で立たなければならない」という呪縛が、彼の腕の中で完全にほどけていくのを感じた。
(……ああ、本当に。敵わないわね)
セリアは小さく息を吐き、ヴィルフリートの胸元に額をこてんと擦り寄せた。
彼の清潔な香りと温もりが、心地よい睡魔を誘う。
「……おやすみなさい、私の過保護な旦那様」
セリアの素直な呟きに、ヴィルフリートの腕が愛おしさに震え、さらに強く抱きしめ返された。
極寒の雪原にそびえ立つ白銀の砦。
その温かな寝室の中で、二人は互いの熱を分け合いながら、深く、安らかな眠りの中へと落ちていった。




