新しい世界の幕開け
白銀砦の南側に広がる果てしない雪原を、黒々とした巨大な影が埋め尽くしていた。
王都正規軍、総勢五万二千。
整然と掲げられた黄金の百合の軍旗、分厚い鋼鉄の鎧に身を固めた重装歩兵団の長槍の列、そして後方にずらりと並べられた王宮魔導砲兵団の巨大な砲列。
中世貴族社会が動員し得る最大規模の軍勢が、地平線を覆い尽くす威容を誇っていた。
その中央、豪奢な金箔で飾られた移動指揮天幕の前で、第二王子ルーファス・エドワードは純白の軍馬に跨がり、傲慢な笑みを浮かべていた。
その隣には、毛皮の豪奢な外套に身を包み、勝ち誇った顔をした男爵令嬢エレナの姿もある。
「ふはははっ! 見よ、エレナ! これが王家の真の力だ! 辺境の貧乏貴族と、追放された悪役令嬢ごときが、五万の精鋭を前に何ができるというのだ!」
「殿下、本当に素晴らしい軍勢ですわ! あのような無礼な辺境伯など踏み潰して、セリアの盗んだ新技術をすべて殿下のものにしてしまいましょう!」
エレナの甘えた声に気を良くしたルーファスは、拡声の魔導具を手元に引き寄せ、白銀砦へ向けて嘲弄の声を響かせた。
雪原を震わせて届くその声は、かつて王立学園の大広間で喚き散らしていた時と寸分違わぬ、身勝手な欲望に塗れていた。
「愚かなるヴィルフリート・フォン・ヴェルク! ならびに大罪人セリア! 貴様らの命運は尽きた! 我が軍の五万の刃が防壁を灰にする前に、セリアを縄で縛って差し出し、未知の兵器と床暖房の利権をすべて王家に引き渡せ! そうすれば、貴様らの首だけは城門に吊るさずに残してやるぞ!」
五万の軍勢が一斉に鬨の声を上げ、大気を震わせる。
圧倒的な兵力差を背景にした、愚かな略奪者たちの最後通告だった。
◇
その喚き声を、白銀砦の中央防壁の最上段から、冷ややかに見下ろす二つの影があった。
漆黒の軍服の上に純白のマントを羽織ったヴィルフリートと、機能的な戦術コートに身を包んだセリアである。
ヴィルフリートの冷徹な氷藍色の瞳には、蟻の群れを見るような侮蔑しか宿っていなかった。
だが、彼の大きな左手は、隣に立つセリアの腰を抱き寄せ、冷たい風から庇うようにすっぽりと包み込んでいた。
「相変わらず、虫酸の走る男だ」
ヴィルフリートが低く吐き捨てると、セリアは小さく肩をすくめて微笑んだ。
「典型的な『破綻した現場に後から乗り込んできて、他人の成果だけを総取りしようとする無能な役員』ですわね。現場のリソースも、技術の背景も理解せず、ただ権力と数で押し通せると思い込んでいる。……ビジネスにおいても、戦場においても、最も淘汰されるべき人種です」
澄み渡るセリアの声。
外見は十八歳の可憐な少女。
しかし、その瞳に宿る知性と落ち着きは、前世で数々の巨大プロジェクトの危機を切り抜けてきた三十二歳のアーキテクトそのものだった。
「セリア」
ヴィルフリートが振り返り、セリアの肩に両手を置いた。
見上げるほど屈強な男の顔に浮かんだのは、冷徹な元帥の貌ではなく、愛しい少女を何よりも慈しむ大人の男の、甘く切実な表情だった。
「お前はここに残れ。これから先は、俺の役目だ。……お前が整えてくれたこの砦と新兵器で、あの愚か者どもを一掃してくる」
彼の手が伸び、セリアの防寒帽から零れた黒髪をそっと耳にかける。
手袋を外した彼の温かな親指が、セリアの滑らかな頬を愛おしそうに撫でた。
「お前の知恵を、血で汚したくはない。……俺がお前のために、平和な世界を作ってみせる」
その過保護で不器用な愛の言葉に、セリアの胸の奥がじんわりと熱くなった。
出会った当初、あれほど冷酷に突き放してきた「白銀の死神」が、今や世界中の何よりも自分を優先し、己の命を盾にして守ろうとしてくれている。
前世を含めた三十数年の人生で、一度も味わったことのない絶対的な肯定と溺愛。
セリアはそっと手を重ね、ヴィルフリートの手の甲を包み込んだ。
そして、悪戯っぽく微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、ヴィルフリート様。血を浴びるのが貴方の役目なら、貴方を無傷で勝利へ導くのが私の役目です。……二人の居場所なのですから、二人で勝ち取りましょう」
セリアの力強く真っ直ぐな瞳に、ヴィルフリートは息を呑み、やがて敗北を認めたように柔らかく相好を崩した。
彼はセリアの額を引き寄せ、慈しむように深く、熱い口づけを落とした。
「……敵わんな。お前の言う通りだ、我が最愛の軍師殿」
二人の吐息が白銀の空の下で重なり合い、絶対の信頼が結ばれた。
セリアが顔を上げると、その瞳の奥で、怜悧な青い演算光が鮮烈に明滅を始めた。
「――アリア、全システムをオンラインへ移行。送電リンクを確立して」
『了解、マスター』
セリアの脳内に、アリアの澄み切った合成音声が響き渡った。
『静止軌道上・防衛軍事衛星「ヘイムダル」とのマイクロ波ビーム送電リンクを認証。……地上受電アンテナへ指向性エネルギーの降着を確認。励起マナ変換効率、九十四パーセント。白銀砦中央魔導ジェネレーター、出力最大定格に到達』
キィィィィィィン……ッ!
白銀砦の地下深部から、地鳴りのような重低音が響き渡った。
衛星軌道上から照射された無尽蔵のエネルギーが、砦の各所に敷設された超伝導ラインを駆け巡り、要塞全体が淡いエメラルドグリーンの光の網膜で覆われていく。
「な、なんだあの光は……!?」
雪原の遥か彼方で、ルーファスが馬上で眉をひそめた。
「構わん、撃て! 王宮魔導砲兵団、全門斉射! あの生意気な砦を門ごと消し飛ばせ!」
ルーファスの怒号とともに、王都軍の後方に並んだ二十門の王宮魔導砲が一斉に火を噴いた。
ズガガガガァンッ!と大地を割る轟音とともに、巨大な火炎球と雷撃の砲弾が、放物線を描いて白銀砦へ殺到する。山一つを吹き飛ばすほどの飽和魔導砲撃だった。
だが――。
『敵砲弾の弾道予測完了。空間偏向シールド、励起マナ充填率百パーセントで展開』
セリアが指先を軽く払った瞬間、砦の前方に巨大な六角形の幾何学バリア――量子ナノマシンによる指向性偏向力場が展開した。
ドォォォォォンッ!!
激突した二十発の火炎砲弾は、砦の外壁に触れることすら叶わず、空中に張られた透明な壁の上で炸裂し、ただの眩い花火となって霧散した。
衝撃波の一片すら、防壁の上のセリアたちの髪を揺らすことはなかった。
「ば、馬鹿な……!? 王宮最高峰の魔導砲撃が、傷一つつけられんだと……!?」
ルーファスが目を剥き、エレナが悲鳴を上げて馬にしがみつく。
王都軍の五万の兵たちに、目に見える動揺と恐怖が走った。
だが、彼らの絶望は、まだ始まったばかりだった。
「防衛フェーズ終了。……これより、外科手術的排除オペレーションを開始します」
セリアの冷徹な号令が、アリアのC4I通信水晶を通じて、砦の全砲座へ送信された。
「自律偵察ドローン網、王都軍の精密座標をロックオン。――魔導レールガン砲兵隊、照準データ同期」
白銀砦の防壁に据え付けられた十二門の漆黒の砲身が、油圧シリンダーの鋭い駆動音とともに一斉に旋回した。
砲身の内側に刻まれた超伝導マナ加速レールが青白いプラズマの光を放ち、空気中の空気がイオン化されてパチパチと紫色の火花を散らす。
『標的設定:敵の兵站補給物資集積所、ならびに王宮魔導砲兵団二十基。……人的殺傷を最小限に留める非致死性精密弾道モードを選択。装填弾:氷殻巨獣結晶コート特殊運動エネルギー弾』
アリアの機械的なアナウンス。
セリアは無駄な殺戮を望まない。
前世のエンジニアとしての倫理と、大人の知性が導き出した「最も低コストで敵の戦意を完全にへし折る最適解」が、この外科手術的射撃だった。
セリアの瞳が青く輝きを増す。
「撃て」
――ドォォォォォンッ!!
鼓膜を突き破るような轟音の代わりに響いたのは、大気そのものを切り裂く、鋭利な破裂音だった。
電磁気力と励起マナのローレンツ力によって音速の十倍――マッハテンまで加速された質量弾が、白銀の光条となって虚空を一瞬で貫通した。
次の瞬間、数キロメートル離れた雪原の彼方で、超常の破壊が連鎖した。
ズババババババァァァンッ!!
王都軍の誇る二十基の王宮魔導砲が、砲撃した兵士の肉体には掠りもせず、砲身の魔導回路の中枢だけをピンポイントで貫通され、一瞬にして金属粉となって吹き飛んだ。
さらに間髪を入れず放たれた弾頭が、後方に山積みされていた王都軍の食糧倉庫と弾薬コンテナを正確無比に撃ち抜き、大爆発とともに雪原の上で燃え上がらせた。
わずか一斉射。
時間にしてコンマ数秒。
王都軍は、兵士を一人も殺されることなく、その攻撃力(砲兵)と継戦能力(兵站)のすべてを、完全に消滅させられたのだ。
「ひ……っ!? な、何が起きた……!? 砲が……我が軍の魔導砲が消えた……!?」
ルーファスが恐怖に顔を引きつらせ、腰を抜かして落馬した。
「殿下ぁぁっ! 火が、補給部隊が全滅ですわぁっ!」とエレナが泥だらけになって叫ぶ。
五万の兵士たちは、もはや統制を失い、目に見えない神の雷のような圧倒的な力に恐慌をきたしていた。
槍を投げ捨て、盾を放り出し、我先にと逃げ惑う怒号が雪原を埋め尽くす。
「……完璧な射撃だ、セリア」
ヴィルフリートの感嘆に満ちた声が響いた。
彼は大剣を引き抜くと、防壁の下に控える白銀砦の精鋭騎兵隊へ向けて、威厳に満ちた剣を振り下ろした。
「全軍突撃! 敵の戦意はすでに崩壊している! 無駄な流血は避け、首謀者を捕縛せよ!」
「「「オオオオオオオオオッ!!」」」
砦の城門が開き、ヴィルフリートを先頭にした白銀の騎兵団が、雪原を疾風のように駆け抜けた。
混乱の極みにあった王都軍に、彼らを阻む術などあろうはずがなかった。
ヴィルフリートの剣が翻るたびに敵の包囲網はバターのように切り裂かれ、わずか数分で、騎兵団はルーファスの指揮天幕を完全包囲していた。
「ひ、来るな……! 近衛兵、私を守れ! 私は第二王子だぞ……!」
泥まみれの雪の上にへたり込み、情けなく後ずさるルーファス。
その首元に、冷たい白銀の切っ先がピタリと突きつけられた。
馬上のヴィルフリートが、氷藍色の瞳で冷酷に見下ろしていた。
「動くな、愚物。お前の無能な茶番劇は、これで幕引きだ」
「ひっ……! た、助けてくれ! 悪かった、セリアの追放も取り消す! 地位も財産もやる! だから命だけは――!」
泣き叫び、地面に額を擦り付けて命乞いをするルーファス。
かつて王立学園で、大勢の貴族を前にセリアを指差して断罪していた傲慢な男の姿は、そこには微塵もなかった。
エレナもまた、恐怖のあまり失禁し、雪の上で白目を剥いて震えている。
後方から、戦術ドローンの護衛を伴い、優雅に歩み寄ってきたセリアの姿が、ルーファスの涙で滲む視界に入った。
「セ、セリア……! 頼む、お前から言ってくれ! 私たちは婚約者だっただろう!? 昔の情に免じて――」
セリアは足を止め、哀れみすら浮かべずにルーファスを見下ろした。
その瞳には、恨みも怒りもなく、ただ不採算事業の契約書を破棄する時のような、冷徹な清々しさだけがあった。
「元婚約者殿。貴方が私を理不尽に追放してくださったおかげで、私は最高の居場所と、真の理解者に出会うことができました。……その点だけは、感謝申し上げますわ」
セリアはヴィルフリートの隣に並び、彼の逞しい腕に自らの腕をそっと絡めた。
「ですが、契約違反と不法侵入の代償はきっちりと清算していただきます。五万の軍勢の武装解除、ならびにヴェルク領に対する国家賠償金の支払い合意書に、今すぐサインをいただきますわ。――あの夜会で、私にサインをさせたようにね」
セリアが差し出した羊皮紙を前に、ルーファスは震える手でペンを握り、号泣しながら署名を書きなぐるしかなかった。
完全なる勝利。
理不尽な感情論で自らを追放した者たちへの、知性と技術による完璧な幕引きだった。
◇
戦後処理の指示を副官たちに下し終えた頃、雪原の地平線は、夕暮れの茜色と夜の帳の群青色が混じり合う、息を呑むほど美しい黄昏に染まっていた。
五万の王都軍は完全に武装解除され、捕虜となった兵士たちには、セリアの指示で温かい炊き出しと魔導オンドルによる仮設暖房が振る舞われていた。
敵兵たちすらも、かつて自分たちが蔑んでいた「悪役令嬢」の慈愛と知性に涙し、平伏していた。
静まり返った防壁のテラス。
茜色の風が吹き抜ける中、セリアは一人、遠くの山並みを見つめていた。
(……終わったのね)
前世での過労死。
この世界での理不尽な断罪と追放。
常に一人で戦い、一人で生き抜くために張り詰めていた心の防壁が、雪解けのように静かに解けていくのを感じていた。
ふわり、と背後から温かな毛皮のマントが掛けられた。
次いで、逞しい二本の腕がセリアの身体を包み込み、すっぽりとその胸の中へと抱き寄せた。
「……ヴィルフリート様」
セリアが振り返ろうとすると、ヴィルフリートの唇がセリアの項にそっと触れた。
戦場で大剣を振るっていた男とは思えないほど、壊れ物を慈しむような、あまりにも甘く切実な体温。
「寒くはないか」
「はい。貴方がこうして温めてくださいますから」
セリアが素直に笑うと、ヴィルフリートの腕にぎゅうと愛おしさを噛み締めるような力が込められた。
「すべてが終わったな。……いや、お前が切り拓いてくれたのだ。俺たちの新しい世界を」
ヴィルフリートはセリアの顎に指を添え、自分の方へと向けさせた。
氷藍色の瞳が、夕陽の光を浴びて琥珀色に揺らめいている。
そこにあるのは、底知れぬ愛と、永遠の誓約だった。
「もう誰もお前を脅かすことはできない。王都も、帝国も、お前の知恵と俺の剣の前に屈した。……お前はこの砦で、俺の隣で、誰よりも幸せに暮らすのだ。美味いものを食い、暖かい部屋で眠り、俺に飽きるほど甘やかされていればいい」
「……ふふ。本当に、最後まで過保護で重い愛ですこと」
セリアは小さく吹き出し、それから両手を伸ばしてヴィルフリートの首の後ろへ回した。
十八歳の瑞々しい身体が、二十八歳の成熟した男の胸元にぴったりと寄り添う。
精神年齢三十二歳の大人の理性など、彼の熱い眼差しと甘い吐息の前では、とっくに心地よく融解していた。
「約束してくださいね、ヴィルフリート様。……一生、私を甘やかし尽くすと」
「言われるまでもない」
ヴィルフリートの口元に、大人の色香に満ちた極上の笑みが浮かんだ。
「お前の髪の一筋、吐息の一つまで、俺の命が尽きるその瞬間まで慈しみ、愛し抜くと誓おう」
二人の唇が重なり合った。
茜色の空の彼方、静止軌道上に浮かぶ古代の軍事衛星が、二人を祝福するかのように青く瞬いていた。
理不尽に断罪された悪役令嬢の孤独な魂は、最果ての白銀の地で、最高に愛おしい伴侶と、自らの手で創り上げた温かな奇跡に抱かれながら、輝かしい新しい時代の扉を今、確かに開いたのだった。




