帝国軍事衛星の遺産
白銀砦を出立してから三日。
見渡す限りの白銀が地平線まで続く極北の永久凍土は、人が立ち入ることを拒絶する絶対零度の静寂に支配されていた。
吹き荒れるブリザードが視界を白く染め上げる中、特製の耐寒ソリを牽く六頭の白銀トナカイが、氷原を踏みしめて力強く前進していた。
その頑丈な天幕張りのソリの内部で、セリアはすっぽりと毛布にくるまれていた――正確には、毛布ごとヴィルフリートの逞しい腕の中に閉じ込められていた。
「……閣下。あの、重いのですが」
「我慢しろ。外気温はマイナス三十度を下回っている。ソリに魔導オンドルを積み込んであるとはいえ、隙間風一つでお前の身体は凍りつく。……俺の体温から離れるな」
ヴィルフリートは漆黒の毛皮外套をセリアごと羽織り、彼女の腰を背後からぎゅっと抱きしめていた。
厚いウール越しに伝わってくる、暖炉の炎よりも力強く熱い大人の男の体温。
トクン、トクンと規則正しく刻まれる彼の重厚な鼓動が、セリアの背中を通して全身へ心地よい温もりを行き渡らせている。
「重いなどと嘘をつくな。お前は驚くほど華奢で、羽毛のように軽い。……抱きしめていないと、吹雪にさらわれて消えてしまいそうだ」
ヴィルフリートの低く甘い囁きが耳朶をくすぐり、熱い吐息が首筋にかかる。
セリアの耳の先が一瞬で赤く染まった。
(……この人、過保護が標準装備になりすぎて、もはや息をするように甘やかしてくるわね)
中身は三十二歳の大人の女性。
だが、十八歳の可憐な肉体は、十歳年上の屈強な武人の熱烈な愛情に触れるたび、本能的な高揚と安らぎを覚えてしまう。
前世で誰にも頼れず、一人で現場を背負い続けて過労死した記憶があるからこそ、こうして理由もなく無条件に守られ、大切にされる温もりが、乾いた魂に甘く染み渡っていった。
『マスターの深部体温、三十六・八度で極めて安定。……なお、ヴィルフリート閣下の脳内オキシトシン濃度は依然として高水準を維持しています。完全なる抱き枕状態ですね』
(アリア、余計な茶々は結構よ。……それより、目的地の座標は?)
『直進方向、残り八百メートル。氷河の亀裂の奥深くに、目的の電波発信源を確認。マイクロ波ビーコンの強度が急速に増大しています』
「ヴィルフリート様、見えてきましたわ。あの巨大な氷壁の裂け目です」
セリアが指差した先――永久凍土の氷河が不自然に垂直に裂けた巨大なクレバスの底に、白銀の雪を被った「異形の構造物」が姿を現していた。
それは、中世の石造りやレンガ造りの建築とは根本から異なるものだった。
幾何学的な直線と滑らかな曲面で構成された、漆黒と鈍色の未知の複合装甲板。
数千年の氷雪に晒されながらも、錆一つ浮いていない巨大な耐圧ハッチが、絶壁の氷の中に埋め込まれていた。
「……これが、お前の言っていた古代遺跡か」
ソリを止め、ヴィルフリートが外の光景を見据えた。
その氷藍色の瞳に、歴戦の武人としての鋭い警戒が宿る。
「魔導文明の遺構とは明らかに造りが違う。魔力の発現が一切感じられん……だが、底知れぬ圧迫感があるな」
「ええ。ここは魔法の遺跡などではありません。……失われた超古代の科学技術の遺産です」
ソリを降りようとしたセリアの身体を、ヴィルフリートが素早く抱き上げ、雪の上にそっと降ろした。
自らの手袋を一度外し、セリアの防寒帽の紐を丁寧に締め直す。
徹底した過保護ぶりに苦笑しながらも、セリアは未知のハッチの前へと歩み寄った。
分厚い装甲扉の中央には、見覚えのある意匠――円環と三本の交差する矢を描いた、前世の軍事インフラ開発機構のシンボルマークに酷似したエンブレムが刻まれていた。
扉の横に設置されたコンソールパネルに、セリアがそっと手をかざす。
『生体スキャン、および量子鍵照合を開始』
セリアの網膜の奥で、アリアが超高速のアクセスプロトコルを展開した。
『周波数同調……旧帝国軍事データリンクを確立。マスターの魂に同調したアリアの管理者権限コードを送信します』
――ピピッ。
数千年もの沈黙を破り、凍りついていたコンソールに鮮やかなエメラルドグリーンの光が灯った。
『――認証完了。生体ID:真木芹香。主任システムアーキテクト権限を確認。……ようこそ、極北第零工廠へ』
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
地鳴りのような重低音とともに、氷漬けになっていた巨大な耐圧ハッチが、気密を解放する白い蒸気を噴き出しながら、左右へと滑らかにスライドした。
「なっ……扉が、独りでに開いただと!?」
背後に控えていた副官や精鋭兵たちが、信じられないものを見る目で息を呑んだ。
鍵穴も、魔導刻印もない。
ただセリアが手を触れただけで、巨大な鉄塊が沈黙を解いたのだ。
ヴィルフリートは驚愕に目を見張りながらも、即座に大剣の柄を握り、セリアの前に立ちはだかった。
「俺が先に入る。お前は俺の背後にいろ」
「ヴィルフリート様、大丈夫です。ここは私の……いえ、私たちが知るべき世界の真実が眠る場所ですから」
セリアは彼の逞しい腕に手を添えて優しく微笑み、二人並んで暗闇の奥へと足を踏み入れた。
◇
ハッチの内部へ進むと、人感センサーが反応したかのように、天井の無機質なLED照明が端から順にカチカチと点灯していった。
埃一つない清潔な回廊。
壁面には無数の光ファイバーケーブルと冷却配管が幾何学的に走り、時折、空調システムが起動する低い機械音が響いている。
最奥部に位置する巨大な円形ドーム――中央管制室に到達した瞬間、セリアとヴィルフリートは息を呑んだ。
広大な空間の中央にそびえ立っていたのは、透き通るような巨大な水晶柱……ではなく、超高密度の量子演算ユニットを内蔵した、球状のメインフレームだった。
『メイン電源、非常用核融合炉から通常地熱発電ラインへ切り替え完了。全システム、オンライン』
アリアの機械音声が、管制室全体のスピーカーから重低音で響き渡った。
次の瞬間、ドームの全方位に巨大なホログラフィック・スクリーンが展開した。
宇宙空間に浮かぶ、美しくも過酷な蒼い惑星の立体映像。
その周囲を、無数の人工衛星と巨大な軌道ステーションが周回している。
「こ、これは……何だ……? 空の上に、星が浮いているのか……?」
ヴィルフリートが呆然と呟く。
中世魔法社会の武人にとって、それは神の領域の光景だった。
「ヴィルフリート様。これが、私たちが生きているこの星の真の姿です」
セリアはスクリーンに映し出された英語と古代コードのログを、アリアを介して読み解いていった。
「この世界は……遥かな昔、地球人類が居住地を求めて環境改造を試みた、フロンティア惑星でした。ですが、急激な気候変動と外宇宙からの未知の素粒子線の激突により、環境改造プロジェクトは途中で破綻……文明は崩壊し、生き残った人々は科学の記憶を失ったのです」
セリアはホログラムに描かれた素粒子の流れを指差した。
「私たちが『マナ』と呼び、魔法の源として使っているエネルギーの正体は……かつて星の環境を変革するために散布された、自己増殖型の超微細ナノマシン粒子流です。人々の感情や意思決定の生体電流に反応して物理法則を書き換えるよう設計された、旧時代の環境制御プログラムそのものなのですよ」
魔法の神秘性の完全な脱構築。
アリアの演算によって暴かれた世界の真実に、ヴィルフリートは激しい衝撃を受けながらも、その知性で理解しようと必死に思考を巡らせていた。
「……では、あの魔獣どもは? 先の巨獣は一体何だったのだ」
「テラフォーミングの失敗によって変異した、野生動物と暴走したナノマシンの融合体です。そして、北方の過酷な寒冷気候も、壊れた環境制御プラントが今なお暴走し、誤った冷却プログラムを実行し続けているからに過ぎません」
セリアはメインコンソールへと歩み寄り、キーボードへ指を走らせた。
前世の記憶が指先を滑らせる。
何百時間、何千時間と叩き続けてきたプログラミング言語が、古代のシステムと完全に同期していく。
カタカタカタ……ッ!
『静止軌道上、防衛軍事衛星「ヘイムダル」との通信リンクを確立』
アリアが歓喜に満ちたトーンで告げた。
『衛星軌道上の太陽光発電アレイ、稼働率八十二パーセント。マイクロ波送電システム、地上受電アンテナへ指向性ビームの照射準備完了。……マスター、莫大なエネルギーのボトルネックが、完全に解消されました』
スクリーンの宇宙空間で、静止軌道上に眠っていた全長数百メートルの巨大な軍事衛星が光を放ち、その巨大な受光翼を展開した。
太陽の光を直接吸収し、超高出力のマイクロ波へと変換して地上へ送電する、旧時代のエネルギー供給インフラだった。
「これで、すべてが揃ったわ」
セリアの唇に、三十二歳の元プロジェクトアーキテクトとしての、冷徹で誇り高い笑みが浮かんだ。
「王都軍五万を迎え撃つための、無尽蔵のエネルギー源。そして――」
セリアはコンソールの操作パネルを押し込んだ。
ウィィィィン……と重厚な駆動音とともに、管制室の床が左右に割れ、下層の巨大な自動工廠が姿を現した。
そこには、巨大な旋盤や分子レベルの3Dプリンタが整然と並び、何千本もの未知の砲身や装甲板が、自動機械の光の走査を受けながら組み上げられていた。
「超電導加速レールガン、および自律索敵ドローン網のリバースエンジニアリング用プラントです。……これを使えば、白銀砦の旧式の大砲を、すべて十倍以上の射程と破壊力を持つ魔導レールガンへと換装できます」
中世の戦場に、数千年の時を超えた近代~未来の超兵器工廠が蘇った瞬間だった。
常識を遥かに超越した光景。
普通の大名や王族であれば、この強大すぎる力に狂喜するか、あるいはセリアを「化け物」として恐れ、遠ざけようとするだろう。
だが――ヴィルフリートの反応は、まったく違っていた。
ガシッ、と強い力で、セリアの肩が引き寄せられた。
気づいた時には、セリアはヴィルフリートの胸の中に強く抱きすくめられていた。
「ヴィルフリート……様?」
見上げると、ヴィルフリートの端整な顔は、怒りと痛ましさに歪んでいた。
彼が見つめていたのは、眼下に広がる超兵器の工廠ではない。
キーボードを叩き、何千人もの命を左右する決断を一人で下そうとしている、セリアの細い指先だった。
「……セリア。お前はまた、一人で世界のすべてを背負い込もうとしている」
彼の低く掠れた声が、管制室に響いた。
「この星の成り立ちがどうであれ、太古の文明がどう滅びたのであれ……俺にとってはどうでもいい。俺にとって重要なのは、お前が今、この過酷な宿命に巻き込まれ、また己を削ろうとしていることだけだ」
ヴィルフリートの大きな掌が、セリアの後頭部を優しく包み込み、自らの首元へと引き寄せる。
鋼のような腕の中に閉じ込められ、セリアの視界は彼の漆黒の軍服で覆われた。
「お前がどれほどの知識を持ち、どれほど恐ろしい兵器を呼び覚まそうと、お前は俺のセリアだ。俺の愛する、たった一人の十八歳の少女だ。……この力を手に入れたからといって、お前が前線で戦う必要はない。すべての引き金は、俺が引く。血を浴びる役目は、すべて俺が背負う」
熱く、重く、どこまでも純粋な誓約。
この男は、神の技術を前にしてもなお、セリアを「兵器の鍵」としてではなく、ただ「守るべき最愛の伴侶」としてしか見ていないのだ。
(……ああ、本当に、敵わないわね)
セリアは胸の奥が熱く焼けるのを覚えながら、彼の背中にそっと手を回した。
精神年齢三十二歳の大人の女性が、十歳年下の男の腕の中で、すっかり骨抜きにされている。
だが、その敗北感は、これまでのどんな勝利よりも甘く心地よかった。
「いいえ、ヴィルフリート様。引き金を引くのは、貴方一人ではありません」
セリアは顔を上げ、ヴィルフリートの氷藍色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「貴方が私の盾となってくださるなら、私は貴方の絶対の矛(知恵)となります。……二人で背負いましょう。この領地も、未来も、中央から攻め寄せる愚かな軍勢を叩き潰す責任も、すべて」
セリアの力強い言葉に、ヴィルフリートの瞳が揺らぎ、やがて歓喜に満ちた柔らかな笑みが零れた。
「……ああ。二人で背負おう、我が最愛の妻よ」
ヴィルフリートの顔が近づき、セリアの唇に、熱く深い口づけが落とされた。
数千年の時を超えて起動した古代の星間管制室。
無数のホログラムの星々が瞬く光の下で、二人の影は一つに重なり合い、永遠を誓うように甘く溶け合っていた。
◇
数日後。
古代工廠から回収された超伝導マナ加速ユニットと、軌道給電受電アンテナを満載した遠征隊は、無事に白銀砦へと帰還した。
砦ではすでに、工匠長バルボアをはじめとする職人たちと全兵士が、セリアから送られた設計図を元に、防壁の大改修を急ピッチで進めていた。
防壁の各砲座には、氷殻巨獣の結晶装甲でコーキングされた漆黒の細長い砲身――「魔導レールガン」が次々と据え付けられていく。
そして、砦の通信室。
アリアの長距離索敵レーダーが、南方の街道――雪解けを待たずに強行軍で北上してくる、巨大な軍勢の反応を捉えた。
『観測ログ:南方軍道より、王都正規軍の大部隊が接近中。動員兵力、およそ五万二千。歩兵団三十、重装騎兵団五、および王宮魔導砲兵団二十基を確認。……指揮官は、第二王子ルーファス・エドワードです』
白銀砦の天守閣。
冷たい北風が吹き荒れる中、ヴィルフリートとセリアは並んで立ち、南方の空を見据えていた。
ヴィルフリートの腰には研ぎ澄まされた大剣。
セリアの瞳には、神の知性を宿した青い演算光。
理不尽な罪を着せて追放した女と、蔑み見下していた最北の辺境領。
そこに眠るものが、自分たちのちっぽけな権力など塵芥のごとく吹き飛ばす「新世界の幕開け」であるとも知らずに、愚かな侵略者たちは着実に死地へと足を踏み入れつつあった。




