守るための牙、愛するための力
王都の特使が這うように白銀砦から逃げ去った直後、静まり返っていた大広間に、ヴィルフリートの重厚で威厳に満ちた声が雷鳴のように轟いた。
「白銀砦の全将兵、ならびにヴェルクの民に告ぐ!」
ヴィルフリートは両断された勅命書の残骸を踏み越え、居並ぶ百戦錬磨の将校たち、そしてざわめく兵士たちを氷藍色の瞳で見据えた。
その左手は、セリアの華奢な右手をしっかりと、片時も離すまいと包み込んでいる。
「先刻、王都の使いが告げた戯言を耳にしたはずだ。彼らは我が領の至宝たるセリアを大罪人として縛首に処し、民を救った新技術を奪い取ろうとした。……だが、ヴェルクの誇りは、中央の腐敗した権力に屈することはない!」
ヴィルフリートはセリアの手を掲げ、大広間の全員へ向けて、迷いのない峻烈な声で宣言した。
「セリア・フォン・アルトハイムは、飢えと凍えに瀕していたこの北方を救い、魔獣の猛威から命を賭して我らを守り抜いた。彼女は我が領の魂であり――私の未来の妻、ヴェルク辺境伯夫人となる女性だ。彼女に仇なす者は何人たりとも許さん。王家であろうと、帝国であろうと、指一本触れさせん!」
一瞬の静寂。
そして――次の瞬間、石造りの砦を根底から揺るがすような地鳴りの歓声が爆発した。
「「「うおおおおおおおおおおっっっ!!!」」」
将校たちが一斉に軍帽を天へと放り投げ、兵士たちが腰の剣を鞘ごと打ち鳴らして熱狂した。
「辺境伯閣下万歳!」
「セリア様万歳!」
「ヴェルクの守護女神だ!」
砦の外にまでその歓声は波及し、工房街の職人たちや、城下町の広場に集まっていた領民たちからも、歓喜の口笛と祝砲のような歓声が響き渡った。
王都を追放された「悪役令嬢」の居場所など、最初からどこにもなかったはずだった。
だが今、目の前に広がる光景は、彼女を領地全体の魂として、そして主君の最愛の伴侶として、誰一人として疑うことなく熱狂的に受け入れている民の姿だった。
「……閣下、あの、皆様の前でそのような宣言を……っ」
セリアは耳まで真っ赤に染め上げ、ヴィルフリートの手の中で指先を震わせた。
外見は十八歳の可憐な少女。
しかし、その内面は三十二歳の大人の女性だ。
前世で大きなトラブルを解決した後に、プロジェクトメンバーから拍手を送られた経験は何度もある。
だが、何千人もの筋骨隆々な軍人たちから「俺たちの元帥夫人に万歳!」と熱狂的に拝まれるなど、前世のどんな修羅場よりも心臓に悪かった。
「何か不服があるか?」
ヴィルフリートは周囲の熱狂を意に介さず、セリアを見下ろして優しく微笑んだ。
彫刻のように整った美貌に浮かぶのは、全幅の信頼と、世界中の誰にも邪魔させないという甘く重い独占欲だった。
「これで王都にも、帝国全土にも公式に通達できる。お前は俺のものだ。……誰にも手出しはさせん」
「独占欲の塊ですか、貴方は……っ」
恥ずかしさのあまり俯くセリアの額に、ヴィルフリートは衆人環視など欠片も気にすることなく、大広間の壇上で堂々と、慈しむような口づけを落とした。
割れんばかりの冷やかしの指笛と拍手が大広間を満たし、セリアはヴィルフリートの胸元に顔を埋めて完全に沈黙するしかなかった。
◇
そして――その公式な婚約宣言を境に、ヴィルフリートの過保護ぶりは、もはや制御不能の領域へと突入していた。
「……閣下。お願いですから、私を床に下ろしてください」
翌朝、白銀砦の主廊下。
セリアは力のない声で、頭上のヴィルフリートへ懇願していた。
現在、セリアはヴィルフリートの逞しい両腕にすっぽりと収まり、いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢で運ばれていた。
足元にはセリア自身の革のブーツがあるというのに、彼女の足裏は回廊の石床に一度たりとも触れていない。
「ならん」
ヴィルフリートは軍服のマントを翻しながら、平然と大股で歩を進める。
「今朝は昨晩の吹雪のせいで、回廊の敷石が芯まで冷え切っている。床暖房が敷設された部屋まで、お前の足を冷やすわけにはいかん」
「私、ちゃんと羊毛の靴下を二重に履いておりますし、ブーツの底も防寒仕様です! 十八歳の成人女性が、朝の移動のたびに抱き上げられるなど、不自然極まりありません!」
「どこが不自然だ。婚約者を慈しむのは男として当然の務めだ。それに……お前は小柄で、羽毛のように軽い。抱いて歩く方が俺の歩調も乱れん」
「歩調の問題ではありません!」
セリアが赤面して抗議する横を、巡回中の重装歩兵部隊が通りかかる。
兵士たちは立ち止まって直立不動の敬礼を捧げながらも、その口元には全員が生暖かい、微笑ましいものを見る笑みを浮かべていた。
「閣下、セリア様、おはようございます!」
「仲がよろしくて何よりですな!」
「ほら、見なさい! 兵士の皆さんが生暖かい目で見ています!」
「気にするな。あいつらも『元帥閣下がすっかり骨抜きになられた』と喜んでいる」
「開き直らないでください!」
『マスターの精神的ストレスを解析』
セリアの網膜の隅で、アリアが淡々とした合成音声を響かせた。
『照れ指数:九十二パーセント。怒り指数:ゼロパーセント。……マスター、口では抵抗していますが、腕にしがみつく握力は極めて安定しています。本能レベルでは運搬プロセスを受け入れていますね』
(アリア、あなたまで面白がるのはやめなさい! 私は三十代の自立した元エンジニアなのよ! こんな子供扱いされて平気なわけがないでしょう!?)
『客観的事実として、マスターの現在の生体データは十八歳の華奢な女性です。また、ヴィルフリート閣下の腕力は成体グリフォンを素手で組み伏せる水準にあります。物理的抵抗はエネルギーの浪費と結論付けます』
(ああもう、どいつもこいつも……!)
執務室に到着すると、ヴィルフリートはセリアを落とさないよう細心の注意を払いながら、毛皮が何重にも敷かれた特等席の長椅子へとそっと降ろした。
それだけに留まらず、すぐさま侍従に用意させた温かい蒸しタオルでセリアの指先を一枚ずつ丁寧に拭い、湯気を立てるスパイス入りのホットミルクを手渡してくる。
「熱いから気をつけて飲め」
「……いただきます」
観念してカップを受け取り、一口含むと、蜂蜜の優しい甘さとカルダモンの香りが喉を滑り落ち、冷えていた内臓がじんわりと温まった。
朝食の席でも、ヴィルフリートの過保護は徹底していた。
焼きたてのパンを自ら一口大にちぎり、バターとベリーのジャムを均等に塗り、セリアの口元へと運んでくる。
セリアが自分でフォークを持とうとすると、ヴィルフリートは少しだけ傷ついたような、捨てられた大型犬のような瞳でセリアを見つめ返すのだ。
結局、セリアは毎食、彼の給仕を甘んじて受け入れることになっていた。
(……でも、不思議ね)
温かいミルクの湯気を見つめながら、セリアは小さく息を吐いた。
前世での人生は、常に「自力で立つこと」だけを求められる日々だった。
納期に追われ、深夜のオフィスで一人キーボードを叩き、風邪を引いても栄養ドリンクで誤魔化して出社した。
他人に頼れば「自己管理ができていない」と責められ、弱音を吐けば現場の士気が落ちる。
誰かに守られることなど、甘えであり罪だと信じ込んでいた。
そして、この世界に転生してからも同じだった。
卒業夜会の場で理不尽な罪を着せられ、無能な第二王子から糾弾された時、誰も私を庇ってはくれなかった。
実の家である侯爵家ですら、私を切り捨てて王家に平伏した。
だからこそ、「一人で生き抜くための損得勘定」を張り巡らせ、誰にも心を開かずに生きていく覚悟を決めていたはずだった。
それなのに。
この不器用で、戦うことしか知らなかったはずの男は、出会ってから今日まで、私を「便利な技術者」として利用するのではなく、ただ「傷ついた一人の女」として、己のすべてを差し出して守ろうとしてくれている。
「……セリア? 口に合わなかったか?」
考え込んでいたセリアを心配したのか、ヴィルフリートが長椅子の隣に腰を下ろし、覗き込んできた。
その端整な顔には、先ほどまでの甘やかな笑みとは異なる、真剣な気遣いが宿っている。
「いいえ。とても美味しいです」
セリアは首を横に振り、カップを両手で包み直した。
「……ただ、不思議だったのです。前世……いえ、私の生きてきたこれまでの人生では、誰かに甘やかされたり、守られたりすることなど一度もありませんでしたから。
皆、私に『結果』と『成果』だけを求めていました。
役に立たなくなれば、あの夜会のように捨てられるのが当たり前でした」
セリアの瞳に、ほんの微かな寂寥の影がよぎる。
ヴィルフリートの氷藍色の瞳が、痛ましげに細められた。
彼の手が伸び、セリアの小さな手をカップごと包み込む。
「愚かな連中だ」
ヴィルフリートの声は、低く、しかし確固たる重みを持っていた。
「お前のその類稀なる知恵も、気高い魂も、すべて尊い。だが、俺がお前を愛しているのは、お前が奇跡を起こすからではない。……お前が、お前だからだ」
ヴィルフリートの親指が、セリアの手の甲を優しく撫でる。
「お前が何一つ魔法を使えず、何の知識も持たぬ無力な娘であったとしても、俺はお前を同じように腕に抱き、同じように命を懸けて守った。お前が笑って、温かい飯を食い、安らかに眠る。俺にとって、それ以上の価値を持つものなど、この世界には何一つない」
嘘のない、魂の底からの言葉だった。
その熱が、セリアの心の奥深くに沈んでいた「真木芹香」の孤独を、跡形もなく溶かしていく。
(……ああ、そうか)
セリアの目元が、熱く潤んだ。
頼ってもいいのだ。
甘えてもいいのだ。
この人の腕の中なら、私は「完璧なアーキテクト」でいなくてもいい。
ただのセリアとして、呼吸をしていいのだ。
前世の三十数年間、そして現世の十八年間で、一度も得られなかった絶対的な肯定。
胸の奥に満ちていく甘く切ない幸福感に身を委ね、セリアはそっとヴィルフリートの肩に頭を預けた。
「……ずるいですわ、ヴィルフリート様。そんなことを言われたら、私、貴方の腕の中から二度と抜け出せなくなってしまいます」
セリアの素直な甘えに、ヴィルフリートの身体が歓喜に震えた。
彼は愛おしさに耐えかねたように、セリアの肩を抱き寄せ、その髪に幾度も唇を寄せた。
「抜け出す必要などない。一生、俺の腕の中にいろ」
二人の吐息が重なり、静謐で甘やかな時間が執務室を満たしていく。
過保護で重すぎる愛。
だがそれは、セリアにとってこの極寒の世界で手に入れた、何よりも温かく頑丈な揺りかごだった。
◇
だが、安らぎの時間は永遠には続かない。
ヴィルフリートが自分を守るために全霊を捧げてくれるなら、セリアもまた、彼を守るための絶対的な力を手に入れねばならなかった。
午後の執務時間。
ヴィルフリートが城壁の警戒巡回へと向かった後、セリアは執務室の作業机で、砦の防衛資材の在庫リストとマナ結晶の精錬データを睨みつけていた。
あの傲慢な特使を叩き出し、王家の勅命書を両断したのだ。
ルーファス王子と中央の貴族たちが、この屈辱を黙って見過ごすはずがない。
春の雪解けを待たず、王都の正規軍を動員してヴェルク領への大規模侵略を仕掛けてくるのは確実だった。
(王都の常備軍はおよそ五万。対して、このヴェルク領が動員できる兵力は、各前哨基地を合わせても三千が限界。兵力差は十五倍以上……)
前回の獣潮のような魔獣相手の防衛戦とはわけが違う。
相手は知性を持ち、魔導兵器を組織的に運用する人間だ。
いくらアリアの戦術C4Iシステムがあろうと、絶対的な火線密度と射程で圧倒されれば、いずれ防壁は削り切られる。
「アリア。現行のヴェルク領の工業リソースで、王都軍五万を抑止可能な超長距離・高初速質量投射兵器――いわゆる『魔導レールガン』の試作は可能かしら?」
セリアが脳内で問いかけると、アリアの演算プロセッサが静かに唸りを上げた。
『理論設計はすでに完了しています。砲身のローレンツ力加速レールには、討伐した氷殻巨獣の超硬度結晶を転用可能。ただし……致命的なボトルネックが存在します』
(ボトルネック? マナの充填速度?)
『はい。レールガンを連続斉射、および領内全域をカバーする高出力レーダー網を常時稼働させるには、既存の魔導鉱石の変換効率では電力が……いえ、励起マナが圧倒的に不足します。桁が二つ足りません』
アリアの指摘は的確だった。
どんなに優れたSF兵器の設計図があっても、それを駆動させる動力源がなければただの鉄屑だ。
セリアが眉をひそめた、その時だった。
『――ッ!? 空間通信知覚サブシステムに異常割り込み!』
アリアの合成音声が、突如として鋭い電子警告音を伴って跳ね上がった。
『周波数帯:マイクロ波極超短波。……信じられません。白銀砦の北北東百四十キロ、極北永久凍土の古代遺跡深部より、微弱な指向性信号を検知しました』
セリアの背筋が、ゾクリと粟立った。
マイクロ波。
極超短波。
そんなものは、この中世魔法貴族社会に存在するはずのない、純然たる近代物理通信の用語だった。
(アリア、その信号の正体は……!?)
セリアの視覚野に、アリアが受信した電波の波形データが目まぐるしく描画されていく。
規則正しいパルス信号。
それは、遥か上空――大気圏外の軌道上から地上へ向けて定期発信されている、自動ビーコンのダウンリンク信号だった。
『信号プロトコルを照合中……合致率九十九・九パーセント。マスター、これは旧時代の遺物です』
アリアが、驚愕を押し殺した声で告げた。
『北方の古代遺跡に眠っているのは、単なる古代文明の遺構ではありません。――かつてこの惑星をテラフォーミングしようとした旧文明の「軍事衛星中継基地」、および「高出力軌道給電プラント」の残骸です』
セリアの瞳が、大きく見開かれた。
この世界は、単なる剣と魔法のファンタジー世界ではなかった。
遥かな過去、高度な科学技術文明が挫折した「失敗したテラフォーミング惑星」の成れの果て――。
(……足りない動力源の答えが、そこにあるというのね)
セリアの口元に、三十二歳の元システムアーキテクトとしての、不敵で冷徹な笑みが浮かんだ。
ヴィルフリートが愛のために牙を剥いて守ってくれるなら、自分はその愛に応え、世界を塗り替える絶対の力を手に入れる。
愛する人を誰にも奪わせないために。
この温かな居場所を、永遠のものにするために。
「アリア。北方の古代遺跡の調査準備を始めなさい。……失われた科学の遺産、すべて私たちがリバースエンジニアリングして回収するわよ」
『了解、マスター。探査プロトコルを開始します』
青い演算光がセリアの瞳の奥で力強く輝き、新たな戦いへの扉が静かに開かれた。




