五百年越しの再会
第78話 五百年越しの再会
「『見つけた』……そう聞こえたんだな」
アークトゥルスの声は、さっきまでよりずっと低かった。
僕は頷く。
「ああ」
「間違いないか?」
「間違いない」
あの声は今でも耳に――いや、頭の奥に残っている。
千百年前。
燃え上がるアウレストラ帝国。
空を覆う巨大な裂け目。
そこから降り注ぐ、数え切れないほどの天使。
そして。
そのさらに向こう側。
姿も。
輪郭も。
何も見えなかった。
ただ、無数の光だけがあった。
それが一斉に僕を見た。
『――見つけた』
思い出すだけで背筋が冷たくなる。
「……アークトゥルス?」
返事がない。
アークトゥルスは俯き、何かを考えていた。
これまで何度も驚いた顔は見た。
でも。
ここまで険しい表情をするのは初めてだった。
「何か分かった?」
「いや」
アークトゥルスが首を振る。
「むしろ分からなくなった」
「え?」
「私は何十年も裂け目を観測した」
彼が右手を上げる。
周囲に星々が浮かび、その中央に小さな黒い亀裂が現れる。
「星と繋がり、様々な角度から世界を見た。裂け目が現れた場所へ自ら赴いたこともある。天使が出現する瞬間を観測したことさえある」
「そこまで……」
「ああ」
黒い亀裂が僅かに広がる。
その向こう側は。
何も見えない。
ただの暗闇。
「だが一度たりとも」
アークトゥルスが僕を見る。
「向こう側から認識されたことはない」
「……」
「声を聞いたこともない」
「じゃあ、なんで僕だけ……」
「それを考えている」
アークトゥルスの視線が動く。
黒い亀裂から。
その遥か上へ。
そこに。
太陽が現れた。
僕も見上げる。
「……太陽」
「ああ」
アークトゥルスが小さく呟く。
「違いがあるとすれば、それしかない」
「僕が太陽と繋がったから?」
「可能性は高い」
アークトゥルスが太陽へ手を伸ばす。
「私は星を通して裂け目を観測した」
その手は。
太陽へ届かない。
「だがお前は違う」
「……太陽を通して見た」
「ああ」
アークトゥルスが手を下ろす。
「星は裂け目を恐れている」
僕と繋がった星を思い出す。
世界を見ていた時。
黒い領域へ意識を向けた瞬間に感じたもの。
恐怖。
拒絶。
見たくない。
近づきたくない。
「星は裂け目の向こうを見ることができない」
「でも太陽なら……」
「見られるのかもしれない」
アークトゥルスが僕を見る。
「いや」
すぐに言い直す。
「見るだけではないのかもしれん」
「どういうこと?」
「千百年前、アウレストラの王族が太陽の力を使い、裂け目へ干渉した可能性があると話しただろう」
「うん」
「もし太陽だけが、裂け目の向こう側へ干渉できるのだとしたら」
僕は息を呑む。
「向こう側からも……」
「ああ」
アークトゥルスが頷く。
「お前を認識できたとしても不思議ではない」
一瞬。
言葉が出なかった。
僕が。
向こうを見た。
だから。
向こうも僕を見た。
「……もう一回」
「駄目だ」
即答だった。
「まだ何も言ってないけど」
「もう一度太陽へ繋がるつもりだろう」
「……うん」
「駄目だ」
「でも」
「駄目だ」
強い口調だった。
僕は思わず黙る。
「どうして?」
「分からないからだ」
「またそれ?」
「今回は意味が違う」
アークトゥルスの表情は真剣だった。
「お前は向こうを見た」
「うん」
「そして、向こうもお前を見た」
「……うん」
「それが何を意味するのか、私には分からない」
黒い亀裂が消える。
「次にお前が太陽へ繋がった時、再び同じ場所へ辿り着くだけならいい」
「それなら」
「だが」
言葉を遮られる。
「向こう側から何かが繋がってきたら?」
「……」
「お前が見たものが、こちらへ干渉できる存在だったら?」
何も言えない。
「《天曜》は繋がる術だ」
アークトゥルスが言う。
「それを忘れるな」
聞く。
届ける。
繋がる。
借りる。
「繋がるということは、一方的に見るということではない」
「……向こうからも繋がれる」
「可能性はある」
アークトゥルスが僕の胸を指差す。
「少なくとも、安全だと確認できるまでは太陽への接続を禁ずる」
「でも、時間がないって言ったのはアークトゥルスでしょ」
「ああ」
「だったら調べないと」
「だからこそだ」
「え?」
「焦って死ねば、それこそ時間を失う」
僕は口を閉じた。
「ソル」
アークトゥルスが僕を見る。
「知ることと、無謀であることは違う」
「……」
「お前は一人ではないのだろう?」
ベラ。
アン。
二人の顔が浮かぶ。
「うん」
「なら、お前一人の命ではない」
その言葉に。
アルデバランのことを思い出した。
守ること。
逃げること。
生き残ること。
あの人にも。
似たようなことを教えられた。
「……分かった」
「本当か?」
「分かったって」
「顔が納得していない」
「そりゃ、完全には納得してないよ」
アークトゥルスが小さく笑う。
「それでいい」
「いいの?」
「疑問を持たなくなったら賢者としては終わりだ」
「僕、賢者じゃないけど」
「そうだったな」
少しだけ。
空気が軽くなった。
でも。
僕にはまだ気になることがある。
「《天曜》は?」
「何?」
「修行」
アークトゥルスを見る。
「まだ最後まで終わってない」
「終わっている」
「え?」
思わず聞き返した。
「いや、まだ『借りる』をちゃんと教えてもらってないよ」
「必要ない」
「なんで?」
「お前はすでにできる」
「でも、それが危険な使い方だったんじゃ」
「違う」
アークトゥルスが右手を上げる。
四つの光が現れる。
「聞く」
一つ目。
「届ける」
二つ目。
「繋がる」
三つ目。
「借りる」
四つ目。
「お前に欠けていたのは最初の三つだ」
「……」
「お前は星から力を借りること自体はできていた。ただ、その過程を理解していなかった」
四つの光が一本の線で繋がる。
「これからは違う」
アークトゥルスが最初の光へ触れる。
「声を聞け」
次。
「意思を届けろ」
次。
「星と繋がれ」
そして最後。
「その上で、力を借りろ」
四つの光が一つになる。
「奪うな」
アークトゥルスの声が響く。
「命令するな」
光が僕の胸へ飛び込む。
「星は道具ではない」
胸の奥が温かくなる。
「共にあるものだ」
「……共にある」
「それを忘れなければ、お前の《天曜》は今までとは違うものになる」
僕は自分の胸へ手を置いた。
何か新しい魔法を覚えたわけじゃない。
新しい必殺技を教えられたわけでもない。
でも。
前とは明らかに違う。
今まで僕は。
星の力を使っていた。
これからは。
星と繋がって、力を借りる。
似ているようで。
全然違う。
「ソル」
顔を上げる。
「私がお前に教えられるのは、ここまでだ」
「……ここまで?」
「ああ」
その言葉の意味に気づく。
「待って」
周囲を見る。
星々が。
少しずつ遠ざかっている。
「アークトゥルス」
「この記憶も永遠ではない」
「でも」
「役目を終えた」
彼の身体が。
僅かに透けている。
「……そっか」
何度経験しても。
慣れない。
レグルス。
シリウス。
アルデバラン。
ルナ。
残された思いに触れて。
話して。
そして。
別れる。
「答えを残せなくてすまなかったな」
アークトゥルスが言った。
「またそれ?」
「事実だ」
「十分だよ」
僕は彼を見る。
「アークトゥルスがここまで調べてくれた」
千百年前のアウレストラ。
裂け目。
天使。
星の届かない場所。
そして。
《天曜》。
「だから僕は、その続きを探せる」
アークトゥルスは何も言わなかった。
ただ。
しばらく僕を見て。
「……そうか」
笑った。
「ならば」
彼の身体がさらに薄くなる。
「一つだけ、賢者から忠告を残そう」
「何?」
「知ることを恐れるな」
僕は黙って聞く。
「知らぬものを恐れ、目を逸らせば、真実には永遠に辿り着けない」
アークトゥルスが僕の肩へ手を置く。
触れている感覚はない。
それでも。
なぜか温かく感じた。
「だが」
彼の目が鋭くなる。
「知ろうとするお前を」
あの声を思い出す。
『見つけた』
「向こうも見ていることを忘れるな」
「……うん」
「よし」
アークトゥルスが手を離す。
「では」
「アークトゥルス」
「なんだ?」
「ありがとう」
一瞬。
彼は目を丸くした。
そして。
「礼を言うのはこちらだ」
「え?」
「五百年後に」
アークトゥルスが星空を見上げる。
「私の続きを見つけてくれた」
身体が光へ変わっていく。
足元から。
少しずつ。
「……じゃあな、ソル」
僕は拳を握る。
「うん」
光が胸元まで届く。
もう。
ほとんど時間がない。
でも。
その時。
アークトゥルスが何かを思い出したように動きを止めた。
「いや」
「……?」
「まだ一つあったな」
「何が?」
アークトゥルスが僕を見る。
「五百年前に残してきたものが」
「残してきたもの?」
少しだけ。
彼が笑う。
さっきまでとは違う。
賢者の顔じゃない。
もっと。
普通の人みたいな。
懐かしい誰かを思い出したような笑顔。
「ソル」
「うん」
「少し身体を借りるぞ」
「……え?」
意味を理解するより早かった。
アークトゥルスが僕の額へ指を当てる。
「ちょっ――」
光が弾けた。
*
「ソル」
ベラの声が聞こえる。
「おい、ソル」
遠い。
「いつまでそうしておる」
現実の賢者の塔。
ベラは腕を組み、《天曜》の本を手にしたまま動かないソルを見ていた。
その隣で、アンも心配そうに様子を窺っている。
「……長いですね」
「うむ」
ソルが本を開いてから。
どれほど経ったのか。
外から見れば、それほど長い時間ではないのかもしれない。
それでも。
ベラには長く感じた。
「何を見ておるのじゃ」
返事はない。
「アークトゥルスめ」
ベラが小さく舌打ちする。
「余計なことまで吹き込んでおらねばよいが」
ソルへ視線を戻した。
その時。
ソルの指が動いた。
「!」
ベラが顔を上げる。
本が閉じる。
ゆっくりと。
ソルが顔を上げた。
「ソル?」
返事はない。
「……戻ったのですか?」
アンが一歩近づこうとする。
だが。
ベラが腕を出した。
「待て」
アンはすぐに足を止めた。
「……はい」
何かがおかしい。
姿はソルだ。
黒い髪。
まだ幼さの残る顔。
着ている服も。
何も変わらない。
なのに。
違う。
立ち方。
視線。
呼吸。
何より。
目。
ベラは知っている。
この目を。
五百年前。
何度も。
何度も見た。
「……まさか」
ソルがベラを見る。
そして。
口元を僅かに緩めた。
「久しぶりだな」
ベラの身体が固まる。
「ベラトリクス」
その声はソルのものだった。
なのに。
話し方が。
違う。
「……」
ベラの唇が僅かに震える。
「アーク……トゥルス?」
ソルの顔で。
アークトゥルスは笑った。
「ああ」
一拍。
「五百年ぶりだ」
ベラは何も言わない。
言えなかった。
アンが二人を交互に見る。
「……どういうことですか?」
「驚かせてすまない」
アークトゥルスがアンを見る。
「少しだけ、ソルの身体を借りている」
「そんなことが……できるんですか?」
「《天曜》と、この塔に残した私の記憶。それにソルの許可……は取る前に借りたが」
『取ってないよ!』
頭の奥からソルの声が響く。
アークトゥルスが少し笑う。
「元気そうだ」
「……お主」
ようやく。
ベラが声を出した。
「相変わらずじゃな」
「お前もな」
「妾の何を見てそう思った」
「その口調だ」
「喧嘩を売りに来たのか?」
「五百年ぶりに会った仲間へ最初から喧嘩は売らん」
「もう売っておるわ」
アンが二人を見ながら、ほんの少しだけ表情を緩めた。
ベラがそれに気づく。
「何がおかしい」
「いえ……すみません」
アンはすぐに表情を戻した。
「ただ、本当にお仲間だったんだなと思って」
ベラは何も言わなかった。
アークトゥルスがアンを見る。
「少しだけ、ベラトリクスと二人で話してもいいか?」
アンは一瞬ベラを見る。
ベラが小さく頷いた。
「分かりました。私はここで待っています」
「アン」
「はい」
「少し待っておれ」
「はい」
ベラが歩き出す。
アークトゥルスも続いた。
塔の階段を上る。
一段。
また一段。
二人とも何も話さない。
やがて。
最上階へ辿り着いた。
外へ出る。
夜だった。
空には無数の星。
風が吹く。
ベラの長い髪が揺れる。
「……」
アークトゥルスは空を見上げた。
「変わらんな」
「何がじゃ」
「星だ」
「五百年程度で変わられてたまるか」
「それもそうだ」
また。
沈黙。
ベラは星を見ている。
アークトゥルスも。
五百年前。
同じ空を見たことがある。
戦いの前。
戦いの後。
六人で。
何度も。
「ベラトリクス」
「なんじゃ」
「元気そうでよかった」
「……」
「五百年も経てば、もう少し落ち着くかと思ったが」
「お主は本当に喧嘩を売りに来たようじゃな」
「褒めている」
「どこがじゃ」
アークトゥルスが笑う。
でも。
ベラは笑わなかった。
「……遅いわ」
小さな声だった。
「何?」
「遅いと言ったのじゃ」
アークトゥルスの笑みが消える。
ベラは空を見たまま。
「五百年じゃぞ」
「……ああ」
「五百年」
もう一度。
ベラが言う。
「レグルスも」
風が吹く。
「シリウスも」
星が瞬く。
「アルデバランも」
声が。
僅かに震える。
「ルナも」
そして。
「お主も」
ベラが拳を握る。
「皆」
顔を俯かせる。
「勝手にいなくなりおって」
アークトゥルスは何も言わない。
「妾だけ」
ベラの髪が顔を隠す。
「妾だけ置いていきおって」
五百年。
言葉にすれば短い。
でも。
その時間を。
ベラは生きた。
仲間がいなくなった世界で。
五百年前の真実が歪められ。
自分が魔王として語り継がれる世界で。
身体の中には。
あの日の災厄を抱えたまま。
「……すまなかった」
アークトゥルスが言った。
「謝るな」
すぐに返ってきた。
「だが」
「謝るなと言っておる」
ベラが顔を上げる。
目が。
僅かに濡れている。
「お主らが悪いわけではなかろう」
「……」
「人間は死ぬ」
ベラが言う。
「知っておった」
「ベラトリクス」
「分かっておった」
声が震える。
「最初から」
魔族と人間。
生きる時間が違う。
そんなこと。
分かっていた。
それでも。
「分かっておっても」
ベラが唇を噛む。
「腹が立つものは立つのじゃ」
「……そうだな」
アークトゥルスは否定しなかった。
「レグルスも最後まで馬鹿じゃった」
「否定できんな」
「シリウスは最後まで何を考えておるか分からん」
「あれも否定できん」
「アルデバランは頑固者」
「お前にだけは言われたくないだろうな」
「ルナは……」
そこで。
ベラの声が止まる。
少しして。
「ルナは最後まで優しすぎた」
「……ああ」
また沈黙。
でも。
さっきまでとは少し違う。
五百年前。
二人の間にあった時間が。
少しずつ戻ってくる。
「お主は」
ベラが言う。
「最後まで何でも一人で調べておった」
「耳が痛いな」
「妾たちにも言わずに」
「心配をかけたくなかった」
「それを余計なお世話と言うのじゃ」
「五百年後に説教されるとは思わなかった」
「五百年前にしておけばよかったわ」
二人が。
ほんの少しだけ笑った。
やがて。
アークトゥルスがベラを見る。
「まだ」
その視線が。
ベラの胸元へ向く。
「抱えているんだな」
ベラの表情が消える。
何を言っているのか。
聞く必要はなかった。
「……ああ」
「そうか」
「感じるのか?」
「今の私は《天曜》を通してソルと重なっている」
アークトゥルスが目を細める。
「僅かにな」
ベラが自分の胸へ手を置く。
その奥。
今も。
いる。
五百年前。
六人が戦った災厄。
大天使ゼファリエル。
その一部。
アルデバランが自らの力を使って。
ベラの中へ封じたもの。
「まだ消えてはおらぬ」
「ああ」
「封印は弱くなっておる」
「……そうか」
「じゃが」
ベラが顔を上げる。
「まだ妾が抑えられる」
「昔からそうだったな」
「何がじゃ」
「お前はすぐそう言う」
アークトゥルスがベラを見る。
「妾なら大丈夫」
一歩。
「妾なら耐えられる」
もう一歩。
「妾がやればいい」
ベラが眉をひそめる。
「何が言いたい」
「五百年経っても変わらんな」
「……」
「ベラトリクス」
アークトゥルスが静かに言う。
「今度は一人で抱えるな」
ベラが目を見開く。
「妾は」
「一人ではないだろう」
ソルの身体。
アークトゥルスが。
自分の胸へ手を置く。
「こいつがいる」
ベラは何も言わない。
「下には、あの赤髪の娘もいる」
「アンタレスじゃ」
「アン、と呼んでいるのだろう?」
「……聞いておったのか」
「少しな」
「趣味が悪いぞ」
「賢者は情報を大切にする」
「覗き魔の言い訳じゃ」
アークトゥルスが笑う。
「ともかく」
その表情が穏やかになる。
「頼れ」
「……」
「五百年前は」
一瞬。
アークトゥルスが言葉を止める。
「私たちも、お前に頼った」
ベラが彼を見る。
「魔王だったお前に」
五百年前。
本来なら。
敵だった。
人間と魔族。
勇者と魔王。
それでも。
本当の敵を前に。
六人は並んだ。
「だから今度は」
アークトゥルスが言う。
「お前が頼れ」
ベラは答えない。
星空を見上げる。
長い。
長い沈黙。
「……考えておく」
「素直ではないな」
「うるさい」
「それだけ言えれば十分か」
「勝手に納得するな」
風が吹いた。
その時。
アークトゥルスの身体。
いや。
ソルの身体を覆っていた淡い光が揺れた。
ベラが気づく。
「……もうか」
「ああ」
アークトゥルスが自分の手を見る。
指先から。
小さな光が離れていく。
「これ以上はソルの負担になる」
『最初から勝手に使ってるんだけど』
内側から声がする。
「すまんな」
『絶対思ってないでしょ』
「思っている」
ベラが小さく笑った。
「仲良くなったようじゃな」
「面白い奴だ」
『聞こえてるからね』
「だそうだ」
「ふっ」
ベラが笑う。
本当に。
僅かに。
でも。
五百年前の仲間へ向ける笑顔だった。
「では」
アークトゥルスが言う。
「今度こそ行く」
「……そうか」
「ああ」
「次はいつ会える」
ベラが言った。
アークトゥルスが動きを止める。
「……」
ベラ自身も。
言ってから気づいたのかもしれない。
次なんて。
ない。
これは記憶。
五百年前に死んだ人間が残した。
最後の思い。
「……すまぬ」
ベラが目を逸らす。
「忘れよ」
アークトゥルスは。
少しだけ笑った。
「ベラトリクス」
「なんじゃ」
「生きていてくれて」
ベラが彼を見る。
「ありがとう」
時間が。
止まったような気がした。
ベラの目が見開かれる。
「……」
声が出ない。
「お前が生きていたから」
アークトゥルスが続ける。
「五百年前の私たちと」
自分の胸へ手を置く。
その中にいるソルを示すように。
「今を生きるこいつらが繋がった」
「……」
「お前が覚えていてくれたから」
光が。
少しずつ薄くなる。
「私たちは完全には消えずに済んだ」
ベラの目から。
一滴。
光が落ちた。
本人は。
気づいていないのかもしれない。
「だから」
アークトゥルスが笑う。
「ありがとう」
ベラが俯く。
「……馬鹿者」
「そうだな」
「遅すぎるわ」
「ああ」
「五百年じゃぞ」
「待たせたな」
「本当に……」
もう一滴。
「遅すぎる」
アークトゥルスは。
何も言わなかった。
ただ。
笑っていた。
そして。
「じゃあな」
光が消える。
「ベラトリクス」
「……ああ」
「またな」
ベラが顔を上げる。
「……またな」
次の瞬間。
ソルの身体から光が抜けた。
「っ……」
身体から力が抜ける。
倒れる。
「ソル!」
ベラが咄嗟に受け止めた。
「……ん」
視界がぼやける。
星空。
そして。
僕を支えているベラ。
「……ベラ?」
「戻ったか」
「うん……」
頭が重い。
身体も怠い。
でも。
意識はある。
「アークトゥルスは?」
ベラは少し黙った。
そして。
空を見る。
「行った」
「……そっか」
僕はベラを見る。
目元が。
少しだけ赤い。
僕は。
全部聞いていた。
アークトゥルスの中から。
二人の会話を。
全部。
でも。
何も言わなかった。
言う必要はないと思った。
「立てるか?」
「多分」
ベラの肩を借りて立ち上がる。
「ごめん」
「気にするな」
「重くない?」
「妾を誰だと思っておる」
「魔王」
「分かっておるではないか」
少し笑った。
階段を降りる。
途中まで来ると。
下から足音が聞こえた。
「ソル!」
アンだった。
僕の姿を確認すると、明らかに安心したように息を吐く。
「よかった……戻ったんですね」
「うん。心配かけた」
「本当にです」
アンはそう言ってから、すぐにベラを見る。
「ベラ、ご無事ですか?」
「ああ。何も問題ない」
「……そうですか」
アンはそれ以上聞かなかった。
ただ。
ほんの少し赤くなったベラの目元を見て。
そして。
何も見なかったように僕へ視線を戻した。
「それで、ソル」
「うん」
「何があったんです?」
僕は少し黙る。
ベラもこちらを見る。
今。
僕と一緒に旅をしている二人。
僕は《天曜》の本を握った。
「天使の向こう側を見た」
アンの表情が変わる。
「……向こう側?」
「うん」
ベラの目が細くなる。
「何かがおったのか」
「分からない」
僕は首を振る。
「姿は見えなかった」
「では」
「でも、いた」
あの無数の光。
「それに」
『見つけた』
声。
「僕を見た」
二人の表情が変わる。
アンも先ほどまでとは違い、真剣な目で僕を見る。
「向こうから……ソルを?」
「うん」
「どういうことじゃ」
「僕たちはずっと」
《天曜》の本を見る。
「天使が何なのか調べてきた」
五百年前の真実。
六英雄。
災厄。
ゼファリエル。
裂け目。
全部。
答えを探すために。
「でも」
僕は本を強く握る。
「僕たちだけじゃなかった」
「何?」
「僕たちが向こうを見てる間」
星空を見上げる。
今まで。
綺麗だと思っていた空。
その遥か先。
星の光さえ届かない場所。
「向こうも」
胸の奥に。
あの声が残っている。
「僕たちを見てる」
風が吹く。
ベラは何も言わない。
アンも。
静かに空を見上げていた。
しばらくして。
ベラが僕の隣へ並んだ。
「ならば」
「え?」
「都合がよい」
ベラが言った。
「どういうこと?」
「こちらから探す手間が省ける」
僕は思わずベラを見る。
「ベラ」
「妾たちを見ておるのであろう?」
ベラの口元が。
僅かに上がる。
魔王。
五百年前。
天使と戦った一人。
「ならば見せてやればよい」
「何を?」
ベラが僕を見る。
その目には。
もう涙はなかった。
「五百年前とは違うということをじゃ」
僕は少しだけ驚いて。
そして。
笑った。
「……うん」
隣でアンも静かに頷いた。
「私も行きます」
ベラがアンを見る。
「当然じゃ」
「はい」
アンは僅かに笑った。
「どこまででも、お供します」
三人で階段を降りていく。
僕たちの旅は。
まだ終わらない。
むしろ。
ここからなのかもしれない。
五百年前の答えを追う旅から。
その先へ。
僕たち自身で。
答えを見つける旅へ。
僕は《天曜》の本を抱え。
ベラとアンと共に。
賢者の塔を降り始めた。




