星の届かぬ場所
第76話 星の届かぬ場所
「私が生涯をかけて調べ続けたものだ」
アークトゥルスの声が、無数の星が浮かぶ暗闇へ静かに響いた。
僕は何も言えなかった。
さっき見た景色が、まだ頭から離れない。
星から見下ろした世界。
大地。
海。
雲。
そのすべてが一つの景色として広がっていた。
綺麗だった。
なのに。
そこに一つだけ。
黒く欠けたような場所があった。
そして何より。
僕と繋がった星が、あれを恐れていた。
「……五百年前にも、あったんだよね」
「ああ」
アークトゥルスが答える。
「私がお前と同じように、初めて星と繋がった時だ」
彼が右手を上げる。
暗闇の中に光が集まった。
それはやがて、一つの球体を形作っていく。
僕たちが生きている世界。
その周囲を、無数の小さな光が取り囲む。
星だ。
「《天曜》を習得してから、私は幾度となく星と繋がった」
アークトゥルスが話し始める。
「最初は単純な好奇心だった」
「好奇心?」
「ああ。星から世界を見ることができる。そんなことを知れば、試したくなるだろう」
「それは……分かる」
僕だって、さっきもっと見たいと思った。
自分たちが旅してきた場所。
まだ行ったことのない国。
海の向こう。
星からなら、その全部を見ることができるかもしれない。
「私は様々な星と繋がった」
アークトゥルスが指を動かす。
世界を囲んでいた星々から、細い光が伸びる。
「星によって見えるものは違う。距離も、角度も、感じ取れるものもな」
いくつもの光が世界へ降り注ぐ。
「だが、どの星と繋がっても同じものがあった」
アークトゥルスの指が止まる。
世界の一部。
そこへ。
黒い染みのようなものが現れた。
「……これ」
僕は思わず呟いた。
さっき見たものだ。
「そうだ」
アークトゥルスの声が低くなる。
「星の光が届かない場所」
黒い部分へ向かっていた光が、その直前で消えている。
「正確には、光そのものが届いていないわけではない」
「じゃあ?」
「星が、そこを認識できない」
「認識……」
「見ることができない。声を届けることもできない。そこに何があるのかすら分からない」
僕は黒い部分を見つめる。
「だから黒く見える?」
「ああ」
「でも、さっき僕と繋がった星は怖がってた」
アークトゥルスが僕を見る。
「私が繋がった星も同じだった」
「やっぱり……」
「星はあれを嫌う」
少しの沈黙。
「いや」
アークトゥルスが言い直す。
「恐れている、と言った方が正しいだろう」
胸の奥がざわつく。
星が恐れるもの。
それが何なのか。
嫌でも思い当たる。
「……天使?」
僕が言うと。
アークトゥルスは黙った。
でも、その沈黙だけで十分だった。
「やっぱり天使と関係あるんだ」
「ああ」
アークトゥルスが世界へ手を向ける。
景色が変わった。
森。
五百年前なのだろう。
巨大な木々が生い茂る場所に、一人の若いアークトゥルスが立っている。
その手には杖。
周囲には魔法陣がいくつも浮かんでいた。
「私は黒い領域について調べ始めた」
記憶の中のアークトゥルスが歩く。
「星から見えないのであれば、自分の足で向かえばいい。最初はそう考えた」
「行ったの?」
「ああ」
景色が次々と変わる。
森。
荒野。
山。
そして。
壊れた村。
「……」
僕は言葉を失った。
家が崩れている。
地面には大きな亀裂。
人の姿はない。
「黒い領域は、常に同じ場所にあるわけではなかった」
「動いてた?」
「少し違う」
アークトゥルスが首を振る。
「消えては、別の場所に現れた」
「……え?」
「だから私は記録した」
景色が消える。
代わりに巨大な地図が現れた。
地図の上に、黒い点が一つずつ浮かんでいく。
「発生した場所」
一つ。
「消えた時間」
二つ。
「周囲で起きた異常」
三つ。
四つ。
五つ。
黒い点が増えていく。
「そして、ある共通点に気づいた」
僕は地図を見る。
嫌な予感がした。
アークトゥルスが指を鳴らす。
黒い点の上に。
白い人影が現れた。
翼。
人に似た姿。
「天使……」
「ああ」
地図に現れた黒い点。
そのすべてに。
天使が重なっている。
「黒い領域が現れた場所では、必ず天使が確認された」
僕は息を呑む。
「じゃあ……」
一つの考えが浮かぶ。
「そこが天使たちの拠点?」
「違う」
即答だった。
「え?」
「私も最初はそう考えた」
アークトゥルスが地図を消す。
「天使にはこの世界のどこかに拠点があり、そこから各地へ移動しているのではないかとな」
「違った?」
「ああ」
「じゃあ、あれは何なの?」
アークトゥルスが少し黙る。
そして。
「場所ではない」
「……場所じゃない?」
「ああ」
彼が右手を振る。
目の前の空間に一本の線が現れた。
その線の中央に。
亀裂が走る。
「裂け目だ」
僕は目を見開いた。
「裂け目……」
「この世界と」
アークトゥルスが亀裂へ触れる。
その向こう側。
何も見えない。
ただ黒い。
「別の何かを繋ぐ裂け目」
「別の……何か」
「それがどこなのか。何なのか。私にも最後まで分からなかった」
僕は黒い亀裂を見る。
「じゃあ天使は……」
アークトゥルスが頷く。
「少なくとも、私が調べた限りでは」
一拍。
「奴らはこの世界のどこかから来ているわけではない」
背筋が冷たくなる。
「別の場所から……来てる?」
「そう考えれば、ほとんどの現象に説明がついた」
亀裂の向こうから。
白い指が伸びる。
僕は反射的に身構えた。
でも、これはアークトゥルスの記憶だ。
一本。
二本。
亀裂を押し広げるように。
白い手が現れる。
そして。
翼を持つ人影が、こちら側へ出てきた。
「天使が現れる直前、星から見た世界には黒い領域が生まれる」
人影が地面へ降りる。
「天使が消えると、黒い領域もやがて消える」
「……扉みたいなもの?」
「近い」
アークトゥルスが答える。
「だが、私たちが使う転移魔法とは根本的に違う」
天使の姿が消える。
「転移魔法は同じ世界の二地点を繋ぐ」
亀裂だけが残る。
「だが、あれは違う」
「世界そのものを……繋いでる?」
アークトゥルスは答えなかった。
でも。
その目を見れば分かった。
「私はさらに記録を調べた」
景色が変わる。
今度は巨大な書庫。
古びた本。
石板。
崩れかけた紙。
数え切れないほどの記録が並んでいる。
「五百年前より古い記録を」
アークトゥルスが一冊の本へ手を伸ばす。
「そして辿り着いた」
本が開く。
そこに描かれていたのは。
太陽の紋章。
「……アウレストラ」
「ああ」
胸が強く鳴る。
「千百年前に滅びた古代アウレストラ帝国」
ページがめくられる。
古代文字。
僕には読める。
《空が黒く欠けた》
《星々は沈黙した》
《白き翼、裂け目より来たる》
「……これ」
声が震えた。
「同じだ」
「そうだ」
アークトゥルスが僕を見る。
「アウレストラが滅びる直前にも、同じ現象が起きていた」
ページが次々とめくられる。
黒い空。
白い翼。
燃える都市。
逃げる人々。
そして。
太陽の紋章を掲げて戦う者たち。
「天使が現れたのは……五百年前が最初じゃない」
「ああ」
「千百年前にも」
「いた」
僕は拳を握った。
知っていた。
アウレストラが天使によって滅ぼされたことは。
でも。
今まで別々に存在していた出来事が。
繋がった。
千百年前。
アウレストラ帝国。
五百年前。
六人の英雄と災厄。
そして。
今。
「繰り返してる……?」
思わず口から出た。
アークトゥルスの目が細くなる。
「私もそう考えた」
「じゃあ、一定の間隔で天使が来る?」
「それは分からない」
「でも」
「千百年前と五百年前。その二つだけでは周期と断定できない」
「……そっか」
六百年。
そして五百年。
同じ間隔でもない。
「ただ、一つ確かなことがある」
景色が再び変わる。
五百年前。
荒れ果てた大地。
遠くに巨大な光が見える。
六人が災厄と戦った場所。
僕は黙ってそれを見る。
「五百年前、私たちは災厄を封じた」
アークトゥルスの声が響く。
「多くを失った」
光が消える。
「それでも」
静寂。
「終わったと思った」
景色の中。
若いアークトゥルスが空を見上げている。
「裂け目も消えるはずだった」
星空。
その一角。
小さな黒い点。
「……消えなかった?」
僕が聞く。
「ああ」
アークトゥルスの声が低くなる。
「小さくはなった」
黒い点が縮んでいく。
「災厄を封じる前とは比べものにならないほどにな」
それでも。
消えない。
小さな黒い点だけが残る。
「私は観測を続けた」
景色の中のアークトゥルスが年を取っていく。
書物を読む。
術式を書く。
星を見る。
また記録する。
「十年」
髪が少し伸びる。
「二十年」
顔に皺が増える。
「三十年」
それでも。
星を見続けている。
「仲間たちが一人ずつこの世を去っても」
僕は何も言えなかった。
レグルス。
シリウス。
アルデバラン。
そして。
いつかルナも。
五百年前の戦いが終わった後も。
アークトゥルスは一人で調べ続けていた。
「なぜ?」
僕は聞いた。
「どうしてそこまで……」
アークトゥルスは少しだけ笑った。
「怖かったからだ」
意外な答えだった。
「……怖かった?」
「ああ」
伝説の賢者。
世界を救った五英雄の一人。
そんな人から出てくるとは思わなかった言葉。
「私たちは勝ったのか」
アークトゥルスが星を見上げる。
「それとも」
小さな黒い点。
「ただ、次までの時間を稼いだだけなのか」
胸が締め付けられる。
「それを知らずに死ぬことが、私は怖かった」
景色が消える。
再び。
僕とアークトゥルスだけが、星の中に立っていた。
「それで《天曜》を残した?」
「ああ」
「次に星の声を聞ける人のために」
「ああ」
アークトゥルスが僕を見る。
「私には、最後まで裂け目の向こうを見ることができなかった」
「……星からも?」
「星はあれを拒絶する」
さっきの感覚を思い出す。
恐怖。
嫌悪。
星そのものが見たくないと言っていた。
「だが」
アークトゥルスが続ける。
「観測することはできた」
「大きさとか?」
「ああ」
目の前に二つの黒い点が現れる。
一つは大きい。
もう一つは小さい。
「災厄を封じた直後、裂け目は急速に縮小した」
大きな点が小さくなる。
「だが、消滅はしなかった」
小さな点が残る。
「そして私は死ぬまで観測を続けた」
「その間は?」
「ほとんど変化しなかった」
「じゃあ……」
少し安心しかけた。
でも。
すぐに気づく。
アークトゥルスの表情。
さっき僕が黒いものを見たと伝えた瞬間から。
ずっと険しい。
「ソル」
「うん」
「もう一度確認する」
アークトゥルスが僕を見る。
「お前が先ほど見た黒い領域」
「うん」
「どれほどの大きさだった?」
僕は思い出す。
世界を星から見下ろした時。
大陸や海と比べれば小さい。
でも。
はっきり分かるくらいには大きかった。
僕は両手を使って、覚えている範囲で大きさを示す。
「これくらい……だと思う」
アークトゥルスが動きを止めた。
「……アークトゥルス?」
返事がない。
「どうしたの?」
彼は僕の手を見ている。
「まさか……」
小さく呟いた。
「何?」
アークトゥルスが顔を上げる。
「ソル」
その声に。
さっきまでとは違うものが混じっていた。
焦り。
五百年前の記憶でしかないはずの彼が。
明らかに動揺している。
「さっき僕が見たものって……五百年前と同じなんだよね?」
アークトゥルスは答えない。
「アークトゥルス?」
やがて。
「違う」
一言。
「……え?」
「私が最後に観測した裂け目は」
目の前に小さな黒い点が現れる。
「この程度だった」
僕が見たものとは。
明らかに違う。
「待って」
嫌な予感がする。
「じゃあ、僕が見たのは……」
アークトゥルスが僕を見る。
「遥かに大きい」
背筋が冷たくなった。
ゼファリエル。
セレフィアで現れた天使たち。
百を超える雑兵。
樹海で起きた異変。
今まで旅の中で見てきたものが。
一つずつ頭をよぎる。
偶然じゃない。
全部。
繋がっている。
「……広がってる」
僕が呟く。
アークトゥルスは否定しなかった。
「五百年前よりも」
声が震える。
「裂け目が……広がってる」
「ああ」
無数の星が瞬く。
それが今は。
綺麗には見えなかった。
まるで。
何かを恐れているように見えた。
アークトゥルスが僕の前へ立つ。
「ソル」
「……うん」
「私の記録が正しく」
一度言葉を切る。
「お前が見たものが現在の裂け目であるなら」
その瞳が僕を真っ直ぐに捉える。
「時間がない」




