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天曜

第73話 天曜

「その本を開け。そこから先は――お前自身が知ることになる」

アークトゥルスの声が、静かな塔の中へ響いた。

僕は手の中にある本へ視線を落とす。

古びた装丁。

表紙に刻まれているのは、たった二文字。

《天曜》

僕がアルカディアへ来てから知った、もう一つの力。

星装とは違う。

もっと古く、そして僕自身の血に深く関わっている力。

僕はゆっくりと表紙へ指をかけた。

「……開くよ」

少し離れたところで、ベラとアンがこちらを見ている。

ページを開いた。

「……え?」

思わず声が漏れた。

白い。

何も書かれていない。

最初の一ページだけじゃない。

次も。

その次も。

何枚めくっても、そこには何一つ書かれていなかった。

「なんじゃ、それは」

ベラが眉をひそめる。

「何も書いておらんではないか」

「うん……」

最後までめくってみる。

やっぱり全部白紙だった。

アンも僕の横から覗き込んだ。

「本当に何もないね」

「アークトゥルス」

僕は顔を上げる。

「これ、本当に《天曜》なの?」

少しの沈黙。

やがて、アークトゥルスの声が返ってきた。

『当然だ』

「でも、何も書いてない」

『それはそうだろう』

「え?」

『その本は読むために残したものではない』

僕はもう一度、白紙のページを見る。

読むためじゃない。

なら、どうする?

『ソル』

「うん」

『その本がお前の前に現れた意味を考えろ』

「意味……」

僕は表紙に刻まれた文字を見る。

《天曜》

アルカディアへ来てから何度も耳にした言葉。

そして、王の墓所で僕自身が触れた力。

星の声。

星の力。

そして――太陽。

僕は本へ右手を置いた。

「……魔力?」

『そうだ』

アークトゥルスの声が答える。

『流してみろ』

僕は小さく頷いた。

身体の奥にある魔力をゆっくりと右手へ集める。

いつもの星装とは違う。

金色の光を纏うのではなく、ただ静かに本へ魔力を流した。

その瞬間。

「っ!」

白紙だったページが光った。

金色の線が走る。

一本。

二本。

それは次々と繋がり、巨大な円を描いていく。

円の中へ無数の文字と記号が浮かび上がった。

「魔法陣……?」

アンが呟く。

違う。

僕には分かった。

これはただの魔法陣じゃない。

幾重にも重なる円。

その周囲に並ぶ無数の星。

そして中央に描かれた、一際大きな光。

「……太陽」

僕がそう呟いた瞬間。

本から光が溢れた。

「ソル!」

ベラの声が聞こえる。

でも、答える暇はなかった。

視界が真っ白に染まった。

身体が浮いたような感覚。

足元が消える。

そして――。

僕は知らない場所に立っていた。

「……ここは」

石造りの大きな部屋。

高い天井。

壁には見覚えのない紋章が刻まれている。

正面には巨大な窓。

その向こうに広がっていた景色を見て、僕は言葉を失った。

巨大な都市。

白い建物がどこまでも続いている。

いくつもの高い塔。

空を飛ぶ見たことのない魔導具。

そして都市の中央には、巨大な王城がそびえていた。

その最上部。

太陽を模した紋章が輝いている。

「まさか……」

知っている。

いや。

実際に見たことがあるわけじゃない。

それでも、僕はこの場所を知っていた。

「アウレストラ帝国……?」

『正解だ』

後ろから声がした。

振り返る。

一人の男が立っていた。

長い髪。

細身の身体。

年齢は二十代くらいだろうか。

僕が知っている賢者という言葉から想像していた姿より、ずっと若い。

でも。

その目を見た瞬間に分かった。

「……アークトゥルス」

男は小さく笑った。

「初めまして、と言うべきか?」

声が違う。

さっきまで塔で聞いていた声より若い。

そして、はっきりと目の前から聞こえてくる。

僕は周囲を見回した。

「ここは……本物じゃないよね?」

「ああ」

アークトゥルスが窓の外を見る。

「私が《天曜》へ残した記憶だ」

「記憶……」

「お前に見せるためにな」

アークトゥルスが歩き出す。

僕もその後を追った。

窓際まで来ると、街の様子がよく見えた。

人がいる。

道を歩く人。

魔導具を運ぶ人。

子供たち。

遠くから聞こえる笑い声。

千年以上前に滅びたはずの国。

それが今、僕の目の前で生きている。

「……すごい」

思わず呟いた。

「これがアウレストラ……」

「ああ」

アークトゥルスは静かに答えた。

「私たちの祖先が生きた国だ」

僕は彼を見る。

「私たち……」

アークトゥルスが僕へ視線を向けた。

「王の墓所で、もう気づいているだろう」

胸が少しだけ強く鳴った。

王族しか扱えなかったとされる太陽の力。

僕がそれを使えたこと。

そして。

目の前にいるアークトゥルスと僕が、同じ血筋に連なっているという事実。

「僕は……アウレストラの王族の血を引いてる」

「ああ」

今度は迷いなく答えが返ってきた。

「私も同じだ」

僕は息を呑む。

分かっていた。

それでも本人の口から聞くと、その言葉の重さが違った。

「じゃあ、《天曜》も……」

「私たちの血に受け継がれてきたものだ」

アークトゥルスが右手を上げる。

すると景色が変わった。

都市が消える。

代わりに現れたのは、暗い空間。

その中に無数の光が浮かんでいる。

星。

数え切れないほどの星が、僕たちを囲んでいた。

「《天曜》」

アークトゥルスが言う。

「今では古代魔法と呼ばれているらしいが、本来は少し違う」

「違う?」

「これはただ魔力を形にする術ではない」

一つの星が光った。

その光から細い線が伸び、アークトゥルスの手へ繋がる。

「星へ触れるための術だ」

「星に……」

「声を聞き、繋がり、そして力を借りる」

僕は自分の右手を見る。

星の声。

これまで何度も聞いてきた。

僕だけに届く、あの声。

「それが《天曜》……」

「そうだ」

アークトゥルスが頷く。

「星の声を聞く者は、いつの時代にもほとんど存在しなかった」

「じゃあ、アークトゥルスも聞こえたの?」

「ああ」

その答えに、僕は少しだけ安心した。

初めてだった。

僕と同じものを聞いたことがある人。

僕と同じ感覚を知っている人。

「なら教えてほしい」

思わず一歩前へ出た。

「あの声は何なの?」

アークトゥルスは答えなかった。

「どうして僕に聞こえるの? 星は何を伝えようとしてる? それに、太陽の力も――」

「ソル」

静かな声に、僕は口を閉じた。

アークトゥルスが僕を見る。

「焦るな」

「でも……」

「私にもすべてが分かっていたわけではない」

「え?」

「だからこそ、私は調べ続けた」

周囲の星々がゆっくりと動き始める。

「五百年前も。そのさらに前に残された記録も」

一つ。

また一つ。

星が線で繋がっていく。

やがて僕たちの周囲に、巨大な術式のようなものが完成した。

「そして一つだけ、確信したことがある」

アークトゥルスが僕を見る。

「《天曜》は、私たちが考えていたより遥かに大きな力だ」

「大きな力……」

「お前はこれまで《天曜》を使ってきたつもりかもしれない」

「……うん」

「だが」

アークトゥルスが指を鳴らした。

星々が一斉に消える。

暗闇。

その中央で。

一つだけ。

眩い光が生まれた。

太陽。

あまりの光に、僕は思わず腕で目を覆った。

「お前はまだ、その扉を開いただけだ」

「……扉」

「星の声を聞くことも、星の力へ触れることも、その先へ進むための入口にすぎない」

僕は腕を下ろした。

目の前の太陽を見る。

あの時と同じだ。

王の墓所で触れた光。

星とは明らかに違う。

圧倒的な力。

「太陽も?」

僕は聞いた。

「あれも《天曜》の力なの?」

「ああ」

「だったら、アークトゥルスも使えたんだよね?」

その瞬間。

アークトゥルスの表情が変わった。

ほんの少しだけ。

でも、確かに。

僕はそれを見逃さなかった。

「……アークトゥルス?」

長い沈黙。

やがて。

彼は首を横へ振った。

「いいや」

「え?」

「私には使えなかった」

僕は言葉を失った。

「でも……同じ血筋なんだよね?」

「ああ」

「《天曜》も使える」

「ああ」

「だったら、どうして……」

アークトゥルスは太陽を見上げた。

「アウレストラ帝国に残された記録では、太陽の力を扱えた者は王族直系に限られていた」

「じゃあ……」

「だが、王族なら誰でも扱えたわけではない」

太陽の光がゆっくりと弱くなっていく。

「血を受け継いでいても、太陽が応えなければ意味がない」

僕は自分の手を見る。

あの時。

僕は確かに太陽の力を使った。

扉を開いた。

光が僕に応えた。

「五百年前」

アークトゥルスの声が響く。

「私が生きていた時代には、太陽の力を扱える者は存在しなかった」

「……一人も?」

「ああ」

アークトゥルスが僕を見る。

その瞳には、さっきまでとは違うものがあった。

驚き。

そして。

何かを確かめるような色。

「少なくとも、私が知る限りではな」

胸の奥が強く鳴った。

「じゃあ……僕は……」

「だからこそ、お前がここへ来ることを待っていた」

アークトゥルスが僕へ近づく。

「星の声を聞く者」

一歩。

「《天曜》へ触れた者」

もう一歩。

「そして――千年以上の時を越え、再び太陽に応えられた者」

僕の目の前で足を止める。

「ソル」

真っ直ぐに僕を見る。

「お前がなぜ太陽に選ばれたのか」

僕は息を止める。

「その答えを、私は知らない」

「……え?」

「だが」

アークトゥルスが右手を上げた。

消えかけていた太陽が、再び輝き始める。

「答えへ辿り着くための道なら残した」

光が僕の身体を包む。

「《天曜》を知れ」

アークトゥルスの声が響く。

「星の声を知れ」

光が強くなる。

「そして、自分が何者なのかを知れ」

僕は眩しさに目を細めた。

「それが――」

アークトゥルスが僅かに笑った。

「私がお前へ残す、最初の試練だ」

次の瞬間。

太陽が弾けた。


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