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五百年後の世界


第5話 五百年後の世界

「今すぐ王都へ行くぞ!」

森の中に、ベラトリクスの声が響いた。

「誰が討伐されたか、妾自ら確かめてやる!」

「だから絶対暴れないでよ!?」

「知らぬ!」

「知らぬじゃないよ!」

五百年ぶりに目覚めた魔王を連れて、魔王討伐五百周年記念祭へ行く。

改めて考えてみる。

「……最悪だ」

「何がじゃ」

「なんでもない」

「ならば早う行くぞ」

ベラトリクスが勢いよく歩き出す。

一歩。

二歩。

三歩。

「……」

四歩目。

ぐらり。

身体が傾いた。

「危なっ!」

僕は慌てて腕を掴む。

「……」

「……」

ベラトリクスは無言だった。

「大丈夫?」

「問題ない」

「今倒れそうだったけど」

「地面が悪い」

僕は足元を見る。

平らだった。

「普通の道だけど」

「妾には悪い」

「そんな理屈ある?」

「ある」

「絶対ないよ」

ベラトリクスが僕の手を振り払おうとする。

そして。

またふらつく。

僕は再び肩を支えた。

「……」

「何も言わぬなら、そのまま支えておれ」

「さっきまで走れって言ってた人が?」

「忘れよ」

「一分前だよ」

「妾にとって五百年のうちの一分など誤差じゃ」

「便利だなあ、その五百年」

結局。

森を抜けるまでは僕が肩を貸すことになった。

ベラトリクスは不満そうだったけど、さすがに今の身体では強がりにも限界があるらしい。

石段を下り。

草をかき分け。

しばらく歩く。

やがて。

見覚えのある街道が見えてきた。

「戻った……」

僕は思わず息を吐いた。

数時間前。

僕はこの道を一人で歩いていた。

王都へ行って。

仕事を探して。

できればそこそこの給料をもらえる仕事を見つけて。

家に手紙を送る。

それだけの予定だった。

今。

隣には魔王がいる。

「人生って分からないな……」

「何を一人で呟いておる」

「今日の朝の僕に、この状況を説明しても絶対信じないだろうなって」

「妾と旅ができるのじゃ。誇ればよい」

「まだ旅するって決めてないけど」

「何?」

「王都まで案内するだけ」

「同じようなものじゃ」

「全然違うよ」

街道に戻る。

ベラトリクスが左右を見る。

道。

木々。

遠くに広がる畑。

空を飛ぶ鳥。

特別なものなんて何もない。

僕にとっては。

でも。

ベラトリクスは、何も言わず周囲を見ていた。

「どうしたの?」

「……いや」

「何か珍しい?」

「すべてじゃ」

「全部?」

「妾にとってはな」

そうだった。

この人が最後に地上を歩いたのは。

五百年前。

僕が生まれる遥か昔。

「街道も変わってる?」

「当然じゃ。そもそも、この辺りにこのような道はなかった」

「へえ」

「森も浅くなった」

「分かるの?」

「山の形は変わっておらぬ」

ベラトリクスが遠くを見る。

僕も同じ方向を見た。

森の向こう。

青く霞む山々。

「五百年前にもあった?」

「山が五百年程度で消えてたまるか」

「それもそうか」

「じゃが」

ベラトリクスは少し目を細めた。

「人間の手が入った場所は、随分と変わったようじゃな」

どこか寂しそうにも見えた。

でも。

それ以上は何も言わなかった。

僕たちは王都方面へ歩き始める。

正確には。

僕は普通に歩いて。

ベラトリクスは途中まで僕の肩を借りていた。

「そういえば」

僕は聞いた。

「王都までどれくらいだと思ってる?」

「知らぬ」

「四日くらい」

ベラトリクスが止まった。

「……何?」

「四日」

「歩いてか?」

「うん」

「遅い」

「僕に言われても」

「転移すればよかろう」

「できるの?」

「今は無理じゃ」

「じゃあ歩くしかないじゃん」

「人間というのは不便じゃな」

「ベラトリクスも今はその不便側だからね」

「妾を人間と同列に扱うな」

「歩く速さは僕以下だけど」

「……ソル」

「はい」

「魔力が戻ったら覚えておれ」

「怖いなあ」

しばらく歩いた。

森を抜ける。

太陽はすでに真上を過ぎている。

そして。

思い出した。

「……あ」

「何じゃ」

「昼飯」

「昼飯?」

そもそも僕が祠を見つけたのは。

昼飯を食べる場所を探していたからだ。

「食べるの忘れてた」

「愚か者」

「誰のせいだと思ってるの」

「妾は寝ておった」

「そうだけどさ」

街道から少し離れた木陰に座る。

僕は鞄を下ろした。

中から布包みを取り出す。

母さんが朝作ってくれた弁当。

「潰れてないといいけど」

包みを開く。

パン。

焼いた肉。

野菜。

それと、小さな果物。

少し形は崩れていたけど問題なさそうだ。

「よかった」

一つ手に取る。

口へ運ぶ。

「……」

視線を感じた。

見る。

ベラトリクスがこっちを見ている。

「何?」

「別に」

僕はもう一口食べる。

「……」

まだ見ている。

「食べる?」

「要らぬ」

「そう」

僕は食べる。

「……」

「……」

「……」

「ベラトリクス」

「何じゃ」

「見すぎ」

「見ておらぬ」

「ずっと弁当見てるけど」

「珍しいだけじゃ」

「普通のご飯だよ」

「五百年前とは調理法も変わっておるかもしれぬ」

「じゃあ食べてみれば?」

「要らぬと言うておろう」

ぐぅ。

「……」

「……」

森が静かだった。

鳥の声まで遠くなった気がする。

「今のは」

ベラトリクスが口を開く。

「妾ではない」

「他に誰がいるんだよ」

「お主じゃ」

「僕、今食べてるから」

「ならば森の獣じゃ」

「すごい近くから聞こえたけど」

「……」

「食べる?」

「……」

少し間があった。

「そこまで申すなら、仕方あるまい」

「僕がお願いしたみたいになってる」

「早うよこせ」

僕はパンと肉を半分ほど渡した。

ベラトリクスはそれを受け取る。

少しだけ匂いを嗅いだ。

「毒入ってないよ」

「分かっておる」

「さっき水の時は疑ったのに」

「一度飲んで生きておるからな」

「僕が毒見役みたいじゃん」

ベラトリクスが一口食べた。

「……」

止まった。

「どう?」

「……普通じゃ」

もう一口。

「本当に?」

「普通じゃ」

さらに一口。

食べる速度が明らかに上がっている。

「結構美味しそうに食べてるけど」

「腹が減っておるだけじゃ」

「五百年ぶりだもんね」

「……」

「五百年ぶりの食事が、母さんの弁当か」

そう口にすると。

なんだか妙な感じがした。

二千年以上生きているかもしれない魔王が。

五百年ぶりに目覚めて。

最初に食べるまともな食事が。

うちの母さんが朝作った弁当。

「何を笑っておる」

「いや」

「不愉快じゃ」

「母さんに教えたらどんな顔するかなって」

「妾が食したのじゃ。誇るであろう」

「魔王って知ったら倒れると思う」

「失礼な母親じゃな」

「普通だよ」

ベラトリクスは最後の肉を食べる。

そして。

少しだけ指先を見た。

「……悪くない」

「美味しかった?」

「悪くないと言った」

「じゃあ返して」

「何をじゃ」

「残り」

「もう食べた」

「美味しかったんじゃん」

「黙れ」

僕は笑いながら残った弁当を食べた。

昼食を終え。

再び街道を歩く。

さっきまで僕の肩を借りていたベラトリクスも、少しずつ一人で歩けるようになっていた。

「身体戻るの早くない?」

「当然じゃ」

「さっき地面のせいにしてたのに」

「知らぬ」

「覚えてるからね」

「忘れよ」

僕たちは歩き続ける。

しばらくして。

ベラトリクスがふと口を開いた。

「そういえば」

「何?」

「お主の名」

「僕?」

「ソルと言ったな」

「うん」

ベラトリクスが僕を見る。

「誰がつけた」

「多分、父さんと母さんだけど」

「多分?」

「名前つけられた時の記憶なんてないよ」

「それもそうか」

少し考えるように。

ベラトリクスが前を見る。

「意味は知っておるか?」

「名前の?」

「そうじゃ」

「知らない」

「……知らぬのか」

「そんな驚く?」

「己の名の意味も知らずに十五年生きてきたのか」

「普通じゃない?」

「知らぬ」

「ベラトリクスは自分の名前の意味知ってるの?」

「無論じゃ」

「何?」

「教えぬ」

「なんで聞いたんだよ」

「妾はお主の名について聞いておるのじゃ」

「ずるいなあ」

ベラトリクスは小さく鼻を鳴らした。

「では、お主はソルという言葉自体を知らぬのじゃな」

「僕の名前以外では聞いたことないよ」

「……そうか」

「何?」

妙に引っかかる言い方だった。

「意味知ってるの?」

「ああ」

「本当に?」

「妾を誰だと思っておる」

「五百年間寝てた人」

「魔王じゃ!」

「はいはい」

「はいは一度でよい」

また言われた。

ベラトリクスは少し黙る。

それから。

「遥か昔」

と話し始めた。

「今ある国々が生まれるより、ずっと以前。この世界には巨大な帝国が存在した」

「帝国?」

「そうじゃ」

「五百年前?」

「さらに昔じゃ」

「千年前とか?」

ベラトリクスが僕を見る。

「妾が生まれるより前じゃ」

足が止まりそうになった。

「……何年前?」

「知らぬ」

「ベラトリクスって何歳なの?」

「今はそれを話しておらぬ」

「二千?」

「黙れ」

「三千?」

「焼くぞ」

「魔力」

「その話は禁止じゃ!」

どうやらかなり長生きなのは間違いない。

ベラトリクスは咳払いする。

「とにかく。その帝国は、この大陸だけではなく、世界の広い範囲を支配しておったと伝わっておる」

「ベラトリクスも見たことないの?」

「ない」

「じゃあ昔話?」

「妾にとってもな」

少し不思議だった。

僕にとって五百年前は遥か昔。

その五百年前を生きていたベラトリクスにとっても。

さらに昔の時代がある。

「そんな昔の国があったんだ」

「あったとされておる」

「されてる?」

「残っておるものが少なすぎるのじゃ」

ベラトリクスの声が少し真面目になる。

「遺跡。僅かな文献。意味を失った文字。妾が生まれた頃には、すでに伝説と現実の境目にあるような文明じゃった」

「名前は?」

「……」

「帝国の」

「幾つかの呼び名は残っておった。じゃが、どれが真の名であったかは分からぬ」

「そんなに昔なんだ」

「ああ」

「それと僕の名前に何の関係があるの?」

ベラトリクスが僕を見る。

「その帝国で使われていた言葉じゃ」

「ソルが?」

「正確には、当時の言語の一つじゃな」

「へえ……」

「今の言葉にも、その名残はいくらか残っておる」

僕は自分の名前を頭の中で繰り返した。

ソル。

十五年間。

何度も呼ばれてきた名前。

特別なものだと思ったことはない。

「で、どういう意味なの?」

ベラトリクスは少しだけ目を細める。

そして。

僕を指差した。

「太陽じゃ」

「……」

「お主の名は、太古の言葉で太陽を意味する」

僕は思わず空を見た。

ちょうど。

木々の間から太陽が見えている。

「……太陽?」

「そうじゃ」

「僕が?」

「お主自身が太陽という意味ではない」

「それくらい分かるよ」

「ならば間抜けな顔をするな」

「いや、初めて聞いたから」

僕は歩きながら考える。

「なんで父さんと母さん、そんな昔の言葉知ってるんだろ」

「知らぬ」

「村にそんな古代帝国に詳しい人いないと思うけど」

「名前だけが残ることは珍しくない」

「そういうもの?」

「国が滅びても、言葉がすべて同時に消えるわけではない」

ベラトリクスが言う。

「意味を失い、名だけが残ることもある。親から子へ。土地から土地へ。何百年、何千年とな」

「じゃあ偶然?」

「恐らくな」

「へえ」

僕は少し笑った。

「太陽か」

悪くない。

むしろ。

ちょっとだけ格好いい気がする。

「気に入ったようじゃな」

「まあ」

「単純じゃ」

「いいじゃん」

「太陽など大層な名じゃぞ」

「名前負けしてる?」

「かなり」

「即答するなよ」

ベラトリクスが笑う。

ほんの少しだけ。

でも。

次の瞬間。

その赤い瞳が僕をじっと見た。

「何?」

「……いや」

「またそれ?」

「何でもない」

「最近それ多くない?」

「気のせいじゃ」

僕は首を傾げる。

ベラトリクスはもう前を向いていた。

ただ。

その頭の中には。

一つの疑念が残っていた。

ソル。

太陽。

太古の帝国で使われていた言葉。

そして。

魔力の残滓を辿り。

そこに刻まれた記憶に触れる力。

五百年前ですら。

ほとんど失われていた術。

――古代魔法。

偶然。

そう考えるには。

少しだけ。

出来すぎている。

だが。

ベラトリクスは何も言わなかった。

まだ。

確証がない。

そして何より。

ソル自身が自分の力を理解していない。

余計な知識を与えるべきではない。

少なくとも。

今は。

「ベラトリクス」

「なんじゃ」

「やっぱ何か考えてたでしょ」

「考えておらぬ」

「嘘だ」

「うるさい」

「絶対何かあるじゃん」

「早う歩け」

「誤魔化した」

「置いていくぞ」

「今のベラトリクスなら僕の方が速いけど」

「……」

「ごめん」

睨まれた。

街道を歩いていると。

前方から馬車の音が聞こえた。

「馬車だ」

一台。

二頭の馬が引く大きな馬車。

荷物も積んでいるけど。

商人だけじゃないらしい。

後ろには家族連れが乗っている。

子供が二人。

僕たちへ気づくと。

一人の男が手を上げた。

「王都へ行くのか?」

「はい!」

「祭りか?」

「まあ……そんな感じです」

仕事探しと言うほど話す必要もない。

男は笑った。

「今年は凄いぞ。五百周年だからな」

「みたいですね」

「俺たちも三日かけて来たんだ」

馬車の後ろから子供たちの声が聞こえる。

「やあっ!」

一人の男の子が木の剣を振っていた。

胸には。

勇者レグルスを模した小さな飾り。

「我こそ勇者レグルス!」

向かいには、もう一人。

少し小さな子供が両手を頭の横に置いている。

角のつもりらしい。

「我こそ魔王ベラトリクス!」

「……」

僕はゆっくり隣を見る。

ベラトリクスが止まっていた。

「……ソル」

「我慢して」

「まだ何も言っておらぬ」

「顔が言ってる」

「何じゃ、あの角は」

「子供の遊びだから」

「妾に角などないぞ」

「知ってる」

「翼もない」

「うん」

子供の魔王は両手を広げる。

「くらえ!暗黒破壊魔法!」

「……」

「ベラトリクス」

「何じゃ」

「我慢」

「妾はあのような名前の術を使わぬ」

「そういう問題じゃないからね」

勇者役の子供が木の剣を振る。

「魔王め!勇者レグルスが倒してやる!」

「ふざけ――」

「我慢!」

僕は小声で止めた。

ベラトリクスの眉間に皺が寄る。

「勇者必殺!聖剣斬り!」

「そのままではないか!」

「ベラトリクス!」

「技名ですらないではないか!」

「子供だから!」

馬車の大人たちは笑っている。

当然。

誰も知らない。

すぐ横にいる黒髪の少女こそ。

今子供が演じている魔王本人だなんて。

馬車が通り過ぎる。

子供が僕たちへ手を振った。

「お兄ちゃんたちも祭り行くのー?」

「行くよー!」

僕も手を振る。

隣を見る。

ベラトリクスは無言だった。

「……怒ってる?」

「腹は立っておる」

「だよね」

「角は何なのじゃ」

「そこ?」

「そこじゃ」

「絵本だと角あるから」

「絵本の作者を探せ」

「五百年前の人かもしれないよ」

「墓を暴け」

「だから無茶言うなって」

少し歩く。

でも。

さっきまでと違って。

ベラトリクスは静かだった。

「……五百年」

「ん?」

「本当に」

独り言のようだった。

「五百年もの間、妾はあのように語られてきたのじゃな」

「……うん」

「恐ろしい魔王として」

「多分」

僕は少し迷った。

「嫌?」

「腹は立つ」

「それは聞いた」

「妾はあれほど醜くない」

「そこも聞いた」

ベラトリクスが鼻を鳴らす。

「じゃが」

少しだけ。

声が変わった。

「五百年経った今も、あの話を子供が知っておる」

「うん」

「それだけ世界が続いたということじゃ」

僕はベラトリクスを見る。

彼女は前を向いている。

「妾たちが守った世界が」

ゆっくり歩く。

「五百年間」

風が黒い髪を揺らす。

「残ったということじゃ」

何も言えなかった。

怒っていないわけじゃない。

悲しくないわけでもない。

自分だけが悪として残された。

仲間たちは英雄になった。

それでも。

守ろうとした世界が残ったことだけは。

嬉しいのかもしれない。

「ベラトリクス」

「何じゃ」

「なんか」

「なんじゃ」

「思ってたより大人だね」

「貴様、妾を何歳だと思っておる」

「二千――」

「焼くぞ」

「聞いたのそっちじゃん!」

「じゃが」

ベラトリクスの目が細くなる。

「妾をあのような醜い化け物として描いた者だけは許さぬ」

「台無しだよ」

「名誉の問題じゃ」

「魔王に名誉ってあるんだ」

「あるわ!」

その日の夕方。

僕たちは街道沿いの小さな林で野営することにした。

次の町までは少し距離がある。

暗くなってから歩くより安全だ。

「ここで寝るのか?」

ベラトリクスが嫌そうに地面を見る。

「そうだけど」

「宿は」

「ない」

「城は」

「もっとない」

「妾は魔王じゃぞ」

「知ってる」

「野宿など」

「したことないの?」

「ある」

「あるんじゃん」

「じゃが好んではせぬ」

「僕もだよ」

落ちている枝を集める。

火を起こす。

簡単な生活魔法で小さな火種を作るくらいなら僕にもできる。

「ほら」

指先から小さな火。

枯れ枝へ移す。

ベラトリクスがそれを見る。

「随分と小さい魔術じゃな」

「うるさいなあ」

「それで得意げな顔をしておるのか?」

「してないよ」

「妾ならばこの森全体を」

「燃やさなくていいから」

焚き火が安定した頃だった。

草むら。

ガサッ。

音がした。

僕は顔を上げる。

「……何?」

ベラトリクスも見る。

もう一度。

ガサッ。

低い唸り声。

「魔物じゃな」

さらっと言われた。

「え」

闇の中。

二つの光。

目。

一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

狼に似た魔物が姿を現した。

灰色の毛。

口元から突き出す鋭い牙。

「牙狼……」

村の近くにも出る。

単体なら、大人が数人いれば追い払える程度。

でも。

四体。

僕は腰の短剣を抜いた。

手が震えた。

「ソル」

「何?」

「下がっておれ」

ベラトリクスが前に出る。

「いや」

僕は止める。

「魔力ほとんどないんでしょ?」

「無いのではない」

「同じようなものじゃん」

「見ておれ」

ベラトリクスが右手を上げた。

指先。

黒い光。

空気が歪む。

「消えよ」

黒い炎が走った。

速い。

何が起きたのか分からなかった。

一番前の牙狼へ触れた瞬間。

音もなく。

その身体が黒い炎に包まれた。

数秒。

何も残らない。

「……」

僕は固まった。

「これで」

ベラトリクスが得意そうに僕を見る。

「本来の妾を少しは想像できたか?」

「……魔力ないんじゃなかった?」

「この程度は魔法とも呼べぬ」

「怖」

残った三体が唸る。

一斉に飛びかかってきた。

「ベラトリクス!」

「分かっておる」

右手を向ける。

「……」

何も起きない。

「……」

「ベラトリクス?」

「少し待て」

「待ってくれそうにないんだけど!?」

牙狼が迫る。

「右へ跳べ!」

突然叫ばれた。

僕は反射的に右へ飛ぶ。

さっきまでいた場所へ牙狼が噛みついた。

「うわっ!」

「前を見よ!」

「分かってる!」

短剣を握る。

二体目。

飛びかかってくる。

「伏せろ!」

しゃがむ。

頭上を牙狼が飛び越える。

「今じゃ!」

振り向く。

僕は必死に短剣を振った。

刃が牙狼の脇腹へ入る。

「っ!」

浅い。

でも。

傷はついた。

牙狼が悲鳴を上げる。

「足じゃ!」

「足?」

「前脚を狙え!」

言われた通り。

もう一度。

牙狼が飛びかかる直前。

踏み込む。

短剣を振る。

前脚。

当たった。

牙狼が体勢を崩す。

「今!」

僕はもう一度短剣を振り下ろした。

牙狼が動かなくなる。

「……はぁっ」

喜んでいる暇はない。

残り二体。

「左!」

「っ!」

振り向く。

遅い。

牙が目の前。

その瞬間。

黒い光。

バンッ。

牙狼の身体が横へ吹き飛んだ。

「ベラトリクス!」

「その顔をする暇があったら最後を見よ!」

もう一体。

「っ!」

僕は短剣を構える。

怖い。

逃げたい。

でも。

背後にはベラトリクスがいる。

今の彼女が連続で魔法を使えないことは分かった。

牙狼が低く身を沈める。

「ソル」

「うん」

「目を見るな」

「え?」

「肩じゃ」

ベラトリクスの声。

「飛ぶ瞬間、肩が沈む」

見る。

牙狼の肩。

僅かに沈んだ。

来る。

僕は横へ飛んだ。

牙狼が通り過ぎる。

「追え!」

「うん!」

走る。

振り返ろうとする牙狼。

その前に。

短剣を突き出した。

刃が身体へ入る。

牙狼が倒れた。

「……」

僕はしばらく動けなかった。

息が苦しい。

手も震えている。

「はぁ……はぁ……」

「情けないのう」

後ろから声。

「初めてなんだから仕方ないでしょ!」

「剣筋が酷い」

「短剣だよ!」

「足運びも酷い」

「助けてもらって最初にそれ!?」

「腰も引けておる」

「もういいよ!」

「じゃが」

ベラトリクスが倒れた牙狼を見る。

「逃げなかった点だけは褒めてやる」

僕は少し止まった。

「……それ、褒めてる?」

「かなりな」

「分かりにくいよ」

「妾から褒められたのじゃ。泣いて喜べ」

「無理」

僕は短剣についた血を拭う。

手はまだ震えていた。

自分が魔物を倒した。

初めてだった。

怖かった。

でも。

「ソル」

「何?」

「王都までに少し教えてやる」

「何を?」

「戦い方じゃ」

「ベラトリクスが?」

「今のままでは、見ておる妾が苛々する」

「理由それ?」

「死なれても困るしな」

僕はベラトリクスを見る。

「……今、ちょっといいこと言った?」

「言っておらぬ」

「僕が死ぬと困るって」

「塔まで案内する者がおらぬ」

「そっちか」

「当然じゃ」

本当かな。

少しだけ疑った。

夜。

焚き火を挟んで二人で座る。

森は静かだった。

昼間より冷える。

ベラトリクスは炎を見ている。

「ねえ」

「なんじゃ」

「レグルスって」

ベラトリクスの目が僕へ向く。

「どんな人だったの?」

「……何故聞く」

「気になった」

「教科書に載っておるのであろう」

「載ってるよ」

勇者レグルス。

聖剣に選ばれた英雄。

人々を導き。

魔王を討った。

「でも」

僕は焚き火へ枝を投げる。

「僕が知ってるレグルスと、ベラトリクスが知ってるレグルスって、多分違うから」

「……」

「草原で見た人も、僕のイメージと全然違ったし」

ベラトリクスは少し考える。

「馬鹿じゃ」

「いきなり?」

「大馬鹿者じゃ」

「勇者だよ?」

「知っておる」

「もうちょっとないの?」

「何度負けても妾へ挑んできおった」

ベラトリクスが思い出すように言う。

「剣ではシリウスに及ばぬ」

「え」

「魔術ではアークトゥルスに勝てぬ」

「勇者なのに?」

「守りならばアルデバランの方が上じゃ」

「……本当に勇者?」

「妾も最初はそう思った」

ちょっと笑ってしまった。

「じゃあ弱かったの?」

「馬鹿者」

ベラトリクスの声が変わる。

「誰が弱いと申した」

「今全部負けてるって」

「個で見れば、あやつより優れた者はおった」

ベラトリクスが炎を見る。

「じゃが」

「うん」

「レグルスがいる時が、妾たちは一番強かった」

「……」

「それが、あやつじゃ」

よく分からない。

でも。

なんとなく。

すごい言葉な気がした。

「諦めぬ男じゃった」

ベラトリクスが続ける。

「どれほど絶望的でも」

炎が揺れる。

「誰かを置いていくことを、何より嫌っておった」

「……じゃあ」

僕は何気なく言った。

「ベラトリクスのことも、助けようとしたんだね」

沈黙。

パチッ。

薪が爆ぜる。

ベラトリクスは炎を見たままだった。

「……そうじゃな」

それだけ。

でも。

声が少しだけ違った。

「ソル」

今度はベラトリクスからだった。

「何?」

「レグルスは」

言葉が止まる。

「……その後、どうなった」

僕は答えに詰まった。

「その後?」

「五百年前。妾が眠った後じゃ」

「学校では……」

思い出す。

授業。

教科書。

「魔王討伐後、五英雄はそれぞれの地へ戻ったって」

「それぞれ?」

「うん」

「レグルスは?」

「今のアステリア王国の辺り」

「……」

「そこで勇者の塔を残した」

「その後は」

「……ごめん」

僕は首を振る。

「詳しく知らない」

教科書でも。

五英雄の晩年なんて、ほとんど触れられていなかった。

魔王を討伐した。

塔を作った。

そして長い平和が訪れた。

英雄たちはやがて、その生涯を終えた。

その程度。

「でも」

「何じゃ」

「もう……亡くなってる」

言ってから。

当たり前のことだと思った。

五百年前の人。

生きている方がおかしい。

でも。

ベラトリクスは。

その当たり前を。

今日初めて突きつけられた。

「……そうか」

小さな声だった。

「うん」

「そうじゃな」

ベラトリクスが焚き火を見る。

「人間じゃったな」

その言葉に。

胸が少し痛くなった。

ベラトリクスにとって。

レグルスたちは昨日まで生きていたのかもしれない。

眠る前まで。

隣にいた。

話していた。

喧嘩していた。

笑っていた。

目が覚めたら。

五百年。

全員。

いない。

「……ごめん」

僕が言うと。

ベラトリクスがこちらを見る。

「何故お主が謝る」

「分からないけど」

「なら謝るな」

「うん」

「人間はいつか死ぬ」

「……うん」

「知っておる」

ベラトリクスはまた炎を見る。

「ずっと昔からな」

それ以上。

僕は何も聞かなかった。

夜は深くなっていった。

「僕、そろそろ寝る」

「寝ればよい」

「ベラトリクスは?」

「妾はまだよい」

「五百年寝たもんね」

「その冗談、いつまで使うつもりじゃ」

「あと五百年くらい」

「焼くぞ」

僕は鞄を枕にして横になる。

「おやすみ」

「……ああ」

目を閉じる。

今日は。

色々ありすぎた。

村を出た。

祠を見つけた。

地下へ飛ばされた。

魔王を起こした。

五百年前の歴史が嘘だと知った。

魔物と戦った。

普通なら。

一週間分でも多すぎる。

身体も疲れていたのだと思う。

目を閉じて。

ほとんどすぐ。

僕の意識は落ちた。

――ソルが眠りについた後。

ベラトリクスは一人、焚き火の前に残っていた。

赤い炎。

規則的な寝息。

森の音。

五百年前にも。

何度もあった夜。

焚き火の周りに六人。

レグルスはいつも最後まで起きていた。

シリウスは刀を手入れして。

アルデバランは誰かの毛布を直し。

アークトゥルスは珈琲を飲み。

ルナは祈りを終えて眠る。

そして自分は。

くだらない話をしながら。

夜を過ごした。

もう。

誰もいない。

「……五百年か」

ベラトリクスは呟く。

そして。

眠っている少年を見る。

ソル。

太陽。

太古の言葉。

そして。

あの力。

魔力の残滓。

そこに刻まれた記憶。

本来ならば。

触れられるはずのないもの。

「……古代魔法」

小さな声。

ソルには届かない。

ベラトリクスが知る限り。

五百年前ですら。

古代魔法を扱える者など存在しなかった。

文献の中にしかない。

滅びた時代の術。

妾とて。

実際に見たことはない。

それなのに。

十五歳の。

何の変哲もない村の少年が。

似た力を使った。

そして。

ソルという名。

「……まさかな」

偶然。

そう考えるのが自然だ。

名など。

何千年も残ることはある。

古代魔法に似た術が偶然発現することだって。

絶対にないとは言えない。

それでも。

何かが引っかかる。

「何故、お主なのじゃ」

答えはない。

眠っているソルが寝返りを打つ。

「……母さん……それ僕の……」

寝言。

ベラトリクスはしばらく見て。

「……馬鹿らしい」

小さく息を吐いた。

今は。

まだ。

伝える必要はない。

古代魔法のことも。

太古の帝国のことも。

自分が抱いた疑念も。

もし違っていれば。

ただソルを混乱させるだけだ。

もし。

本当にそうだったなら。

その時は。

ベラトリクスが炎を見る。

「……面白くなってきたのう」

口元が僅かに上がった。

翌朝。

「起きよ、ソル」

「……ん」

「起きぬか」

「あとちょっと……」

「起きろ」

「痛っ!」

額を叩かれた。

「何するんだよ!」

「朝じゃ」

「普通に起こしてよ!」

「起こした」

「叩く前にもう一回呼んで!」

「面倒じゃ」

二日目。

僕たちは再び王都へ向かった。

道中。

ベラトリクスは約束通り。

僕に短剣の使い方を教えた。

「遅い」

「今やってる!」

「踏み込みが浅い」

「こう?」

「違う」

「難しいなあ!」

「妾が十五の頃には」

「何千年前の話?」

「……ソル」

「ごめん」

昼には。

村で買った干し肉を食べた。

「固い」

「旅のご飯だから」

「昨日の方がよい」

「母さんの弁当?」

「……」

「気に入ったんじゃん」

「黙れ」

三日目。

小さな町を通った。

五百周年の祭りへ向かう人で溢れていた。

至るところに五英雄の絵。

ベラトリクスは。

最初こそ一つ一つに文句を言っていた。

「シリウスがこんな険しい顔をするものか」

「このアルデバラン細すぎるじゃろ」

「アークトゥルスの髭はもう少し短い」

「ルナの胸を盛るな」

「そこまで見る?」

「事実と違うものは気になるのじゃ」

そして。

自分の絵を見るたび。

「……何故必ず角がある」

「諦めようよ」

「嫌じゃ」

四日目。

ベラトリクスはもう。

普通に歩けるようになっていた。

魔力はほとんど戻っていない。

でも。

身体そのものは少しずつ本来の感覚を取り戻しているらしい。

そして。

昼前。

長い坂を登る。

「もうすぐだよ」

「何が」

「王都」

丘の上。

僕は先に登った。

そして。

「見えた」

眼下。

巨大な城壁。

その向こうに広がる街。

無数の屋根。

高い塔。

中央には。

空へ突き出すような巨大な城。

アステリア王国王都。

僕も。

こんなにはっきり見るのは初めてだった。

「すご……」

思わず声が出る。

王都。

これから僕が働こうと思っていた場所。

人の数も。

建物の数も。

フィル村とは比べものにならない。

「ベラトリクス」

返事がない。

振り返る。

彼女も。

王都を見ていた。

「どう?」

「……」

「初めて見る?」

「当然じゃ」

「五百年前にはなかったんだよね」

「ああ」

ベラトリクスは静かに街を見る。

五百年。

知らない国。

知らない街。

でも。

その中心には。

五百年前の仲間の名が残っている。

「ここに」

「うん」

「レグルスの塔があるのじゃな」

「ある」

僕が指差そうとした。

その時。

「……あ」

見えた。

城壁。

王都の正門。

そこから。

巨大な布が垂れ下がっている。

遠くからでも読めるほどの文字。

《祝 魔王討伐五百周年》

その下。

大きな絵。

聖剣を掲げる勇者レグルス。

背後には四人の英雄。

そして。

五人の足元。

角。

翼。

巨大な身体。

倒れた黒い魔王。

「……」

僕はゆっくり横を見る。

ベラトリクスは無言だった。

「……ベラトリクス?」

「ソル」

「何?」

「あの布」

「うん」

「燃やしてよいか?」

「駄目に決まってるでしょ!」

「何故じゃ!」

「王都入る前に犯罪者になるから!」

「妾の名誉を著しく傷つけておるぞ!」

「五百年前からそうだから今さらだよ!」

「今さらで済ませるな!」

「絶対暴れないって約束して!」

「約束した覚えはない!」

「じゃあ今して!」

「嫌じゃ!」

「帰るよ!?」

「案内すると申したではないか!」

「暴れるなら無理!」

「燃やすだけじゃ!」

「それを暴れるって言うんだよ!」

丘の上。

僕たちの声が響く。

王都アステリア。

魔王討伐五百周年記念祭。

その日。

五百年間。

世界中から恐れられ。

討ち滅ぼされたと語られてきた本物の魔王が。

勇者レグルスの残した塔を目指して。

王都へ足を踏み入れようとしていた。

僕はまだ知らなかった。

この街で。

歴史に残った五人と。

歴史から消された一人。

その間に隠された最初の証拠を。

僕たちが見つけることになるなんて。

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