五つの封印
第4話 五つの封印
「妾たちは、六人で世界を救った」
ベラトリクスの言葉が、地下空間に静かに響いた。
僕は何も言えなかった。
六人。
勇者レグルス。
剣聖シリウス。
守護騎士アルデバラン。
賢者アークトゥルス。
聖女ルナ。
そして。
魔王ベラトリクス。
僕が十五年間生きてきた中で、一度だって聞いたことのない歴史だった。
五英雄が魔王を倒した。
それが当たり前だった。
疑う理由なんてなかった。
学校で教わった。
絵本でも読んだ。
村の祭りで上演された劇だってそうだった。
五人の英雄が力を合わせ、邪悪な魔王を討ち滅ぼす。
誰もが知っている話。
でも。
僕は見た。
五百年前の光景を。
草原を歩く六人。
馬鹿みたいなことで言い合って。
笑って。
同じ道を進んでいた。
あれが本当にベラトリクスの記憶なら。
僕が知っている歴史の方が――間違っている。
「……じゃあ」
ようやく声が出た。
ベラトリクスが僕を見る。
「なんじゃ」
「魔王が世界を滅ぼそうとしたっていうのも、全部嘘なの?」
その問いに。
ベラトリクスはすぐには答えなかった。
赤い瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「……いや」
「え?」
「すべてが嘘というわけではない」
思っていた答えと違った。
「妾は魔王じゃった」
「それはさっき聞いた」
「人間と戦ったこともある」
「……うん」
「人間の国へ軍を進めたこともある」
ベラトリクスの声には、言い訳をするような響きがなかった。
淡々としている。
「人間を殺したこともある」
僕は黙った。
「レグルスとも、シリウスとも、何度も殺し合った」
「……」
「妾は聖人ではない」
ベラトリクスが自嘲するように笑った。
「今さら妾が善き魔王であったなどと言うつもりもない」
その言葉が、少し意外だった。
僕はてっきり。
歴史が全部嘘で。
本当は魔王も最初から人間を守っていた。
そんな話なのかと思い始めていた。
でも、違う。
「じゃあ、なんで」
「何がじゃ」
「なんで最後は一緒にいたの?」
ベラトリクスが黙る。
「敵だったんでしょ?」
「そうじゃ」
「なのに六人で世界を救った」
「そうじゃ」
「何があったの?」
また。
静寂。
ベラトリクスは僕から視線を逸らした。
石柱の向こう。
暗闇の奥を見る。
「……災厄じゃ」
「災厄?」
聞いたことのない言葉じゃない。
災害。
疫病。
魔物の大発生。
この世界では、大きな被害をもたらすものをまとめて災厄と呼ぶこともある。
でも。
ベラトリクスの言い方は、そういう意味じゃない気がした。
「何それ」
「妾たちも、そう呼ぶほかなかった」
「魔物?」
「違う」
「じゃあ人間?」
「違う」
「魔族?」
「違う」
「じゃあ何なの?」
ベラトリクスがゆっくり僕を見る。
その目には。
今まで一度も見なかったものがあった。
恐怖。
そう見えた。
六人の中で一番強かったという魔王が。
何かを思い出して。
ほんの少しだけ怯えている。
「……空より来た」
「空?」
僕の頭に。
さっき見た光景が浮かぶ。
燃える城。
そして。
空を埋め尽くしていた――白い翼。
「それって」
僕が言いかけると、ベラトリクスが目を閉じた。
「今はよい」
「でも」
「話せば長くなる」
「僕、今たぶん時間あるよ」
「妾が疲れた」
「そっち?」
「五百年眠っておったのじゃ。少しくらい休ませよ」
「寝すぎじゃない?」
「焼くぞ」
「魔力ないくせに」
「……」
言った瞬間。
しまったと思った。
ベラトリクスの眉がぴくりと動く。
「ソル」
「はい」
「今の言葉、忘れよ」
「無理かな」
「忘れよ」
「はいはい」
「はいは一度でよい」
まただ。
僕は小さく笑った。
少しだけ。
ほんの少しだけだけど。
この人との話し方が分かってきた気がする。
「でもさ」
「なんじゃ」
「本当にどうするの?」
「何が」
僕はベラトリクスの両手を見る。
黒い鎖。
腕。
足。
腰。
何本もの鎖が、彼女を台座へ縛り付けている。
「このままじゃ、ここから出られないでしょ」
「……」
「僕も帰りたいし」
「分かっておる」
ベラトリクスが鎖を見る。
「先ほどは目覚めた直後ゆえ、正確に魔力を把握できておらなんだ」
「うん」
「もう一度確かめる」
「大丈夫?」
「誰に物を申しておる」
「五百年寝てて立てるかも怪しい魔王」
「貴様、本当に焼くぞ」
「はいはい」
ベラトリクスが目を閉じた。
空気が震える。
さっき感じたものと同じ。
いや。
今度はもっと静かだった。
彼女の身体から、黒い魔力が薄く広がっていく。
石床。
鎖。
石柱。
壁。
そのすべてを撫でるように流れていく。
僕は息を止めた。
ほんの僅かな魔力。
そう言われても。
僕には十分すぎるほど大きく感じる。
数秒。
やがてベラトリクスが目を開けた。
「……やはりか」
「どう?」
「残っておらぬ」
「さっきと同じ?」
「同じどころではない」
ベラトリクスが自分の手を見る。
「妾の記憶が確かならば、この程度まで魔力が枯渇したことは一度もない」
「どのくらい?」
「正確には分からぬ」
「半分とか?」
ベラトリクスが僕を見る。
「その程度ならば、今頃この地下ごと吹き飛ばしておる」
「怖いこと言わないでよ」
「本来の妾ならばな」
「じゃあ十分の一?」
「もっと下じゃ」
「百分の一?」
ベラトリクスがしばらく考える。
「……それすら怪しい」
「え」
思っていたより酷い。
「でも、さっきすごい魔力出してたじゃん」
「あれでか?」
「僕、息できなくなりそうだったんだけど」
「人間が脆いだけじゃ」
「腹立つなあ」
「事実じゃ」
ベラトリクスはもう一度鎖を見る。
「それに」
「何?」
「おかしい」
「何が?」
「魔力が枯れた理由じゃ」
「五百年寝てたからじゃないの?」
「眠っておるだけで、妾の魔力がここまで失われることはない」
「じゃあ」
「使われ続けていた」
「使われてた?」
「恐らくな」
ベラトリクスの表情が険しくなる。
「五百年間。妾の魔力は、何かに消費され続けておった」
「何かって」
僕は聞きながら。
答えが分かった気がした。
「……災厄?」
ベラトリクスが僕を見る。
ほんの一瞬。
驚いたような顔をした。
「……勘だけは悪くないようじゃな」
「褒めてる?」
「半分ほど」
「半分なんだ」
ベラトリクスは鎖へ手を伸ばす。
黒い金属の表面。
複雑な文字がびっしりと刻まれている。
「五百年前」
静かな声。
「妾たちは災厄を滅ぼすことができなかった」
「六人でも?」
「……ああ」
その一言で。
災厄というものの恐ろしさが少し分かった。
今のベラトリクスは弱っている。
でも五百年前。
勇者。
剣聖。
守護騎士。
賢者。
聖女。
そして魔王。
世界に名を残した五人と。
その五人すら上回る力を持っていた魔王。
六人が揃って。
倒せなかった。
「だから」
ベラトリクスは続ける。
「封じた」
「どこに?」
また。
僅かな沈黙。
そして。
ベラトリクスの指が。
自分の胸へ触れた。
「……ここじゃ」
「え?」
一瞬。
意味が分からなかった。
「ここって」
「妾の中じゃ」
「……」
僕はベラトリクスを見る。
彼女の胸。
当然、何も見えない。
でも。
背筋が冷たくなった。
「災厄を……自分の中に?」
「すべてではない」
「すべてじゃない?」
「核じゃ」
「核……」
「その説明も今は必要ない」
「またそれ?」
「一度に聞いてもお主の小さな頭には収まらぬ」
「それ絶対今考えた理由でしょ」
「うるさい」
ベラトリクスが視線を逸らす。
でも。
何か隠している。
僕にもそれくらいは分かった。
ただ。
今聞いても、きっと答えてくれない。
「……だから鎖に繋がれてる?」
「そうじゃ」
「災厄が外に出ないように?」
「それもある」
「それも?」
ベラトリクスが鎖の一本を掴んだ。
「これは単なる拘束具ではない」
「五重封魔鎖って言ってたやつ?」
「よく覚えておったな」
「それくらいは覚えてるよ」
「この鎖は妾を封じるためのものではある。だが、それだけではない」
ベラトリクスが黒い鎖を指でなぞる。
「妾の中に封じたものを外へ出さぬため。そして――妾を生かし続けるためじゃ」
「生かす?」
その時。
僕は気づいた。
鎖。
何本もあるように見えたけど。
太い鎖を辿っていくと、途中で細かな鎖へ枝分かれしている。
根元は。
五本。
「……五本?」
「何?」
僕は立ち上がった。
一番近くの鎖を見る。
「ちょっと待って」
「何をしておる」
「これ」
鎖の表面。
今まで文字しか見ていなかった。
でも、その中に。
何かがある。
「模様……?」
埃を手で払う。
剣。
一本目の鎖。
その中央に、小さな剣の紋章。
「……これ」
知っている。
何度も見た。
アステリア王国の至るところにある。
勇者レグルスの象徴。
聖剣。
「レグルス」
ベラトリクスが呟く。
僕は隣の鎖へ移る。
二本目。
細長い刀。
「シリウス」
三本目。
盾。
「アルデバラン」
四本目。
杖。
「アークトゥルス」
そして。
最後。
十字架。
「……ルナ」
五本。
五英雄。
僕はベラトリクスを見る。
彼女も鎖を見つめていた。
「これって……」
「そういうことか」
「分かったの?」
ベラトリクスが顔を上げる。
「ソル」
「何?」
「五つの塔は残っておるか?」
「五つの塔?」
「知らぬのか?」
「いや、知ってるけど」
知らないわけがない。
この世界で五英雄を学べば、必ず一緒に出てくる。
勇者の塔。
剣聖の塔。
守護騎士の塔。
賢者の塔。
聖女の塔。
世界各地に建つ、五つの巨大な塔。
「五英雄が魔王を封印するために作った――」
そこまで言って。
ベラトリクスの顔を見る。
「……あ」
「またそれか」
ベラトリクスが額を押さえた。
「違うの?」
「違う」
「やっぱり?」
「何故、何もかも妾を封じるためのものになっておるのじゃ」
「僕に言われても」
「腹が立つ」
「歴史に言ってよ」
「その歴史を書いた者を連れてこい」
「五百年前の人なら多分もう死んでるよ」
「なら墓から起こせ」
「無茶言うなあ」
ベラトリクスは盛大にため息をついた。
「よいか。あの塔は妾を封じるために作ったのではない」
「じゃあ何のため?」
「災厄を封じるためじゃ」
予想していた。
それでも。
本人の口から聞くと重い。
「五つの塔は、それぞれ異なる地点から大地の魔力を集める」
ベラトリクスが鎖を指す。
「集めた魔力は、この封印へ送られる」
「ここに?」
「そうじゃ」
「じゃあ」
僕は鎖を見る。
五英雄の紋章。
「この鎖から?」
「恐らくな」
「その魔力で、災厄を抑えてた?」
「そして妾を生かしておった」
ベラトリクスが自分の胸へ触れる。
「災厄の核を内に抱いたまま眠り続けるには、妾一人の魔力では足りぬ」
「だから五英雄が塔を?」
「そうじゃ」
頭の中で。
何かが繋がる。
五百年前。
レグルスたちはベラトリクスを封印した。
それ自体は歴史と同じ。
でも目的が違う。
魔王が世界を滅ぼさないように閉じ込めたのではない。
世界を守るため。
ベラトリクスを生かすため。
「……じゃあ」
僕は鎖を見る。
「五英雄は」
言葉が止まる。
「死んだ後も……あなたを助けてたってこと?」
ベラトリクスは答えなかった。
しばらく。
五本の鎖を見つめている。
レグルス。
シリウス。
アルデバラン。
アークトゥルス。
ルナ。
「……そういうことになるのう」
小さな声だった。
嬉しそうでも。
悲しそうでもない。
でも。
五百年経って。
彼女は初めて。
仲間たちが残したものを見つけた。
僕にはそう見えた。
「なら」
ベラトリクスが表情を変える。
「なおさら、おかしい」
「何が?」
「塔が正常に機能しておるならば、妾の魔力がここまで枯れるはずがない」
「……あ」
「この五百年の間に、何かが起きた」
ベラトリクスが鎖を強く握る。
「塔のいずれかが壊れたか」
「一つ?」
「分からぬ。複数の可能性もある」
「でも五つとも残ってるよ」
「建物が残っておることと、術式が生きておることは別じゃ」
「そういうもの?」
「そういうものじゃ」
「じゃあ確認しないと」
「当然じゃ」
ベラトリクスは鎖を引く。
「その前に」
ガシャン。
「これを外す」
「どうやって?」
「妾がやる」
「今の魔力で?」
「お主、少し黙っておれ」
「図星?」
「黙れ!」
ベラトリクスが右手を鎖へ向ける。
空気が揺れる。
黒い魔力が指先に集まった。
「……」
鎖の文字が青白く光り始める。
ガシャン。
「お」
一本が震える。
ガシャン。
ガシャン。
でも。
それだけだった。
「……」
「……」
光が消える。
「ベラトリクス」
「何も言うな」
「まだ何も言ってない」
「その顔が腹立つ」
「どんな顔だよ」
「できると思っておったのにできなかった者を見る顔じゃ」
「その通りなんだけど」
「焼くぞ!」
「魔力温存しなよ」
「ぐぬ……」
魔王が悔しそうに鎖を睨んでいる。
ちょっと面白い。
「やはり、この程度では足りぬか」
ベラトリクスが小さく呟いた。
さっき確認した残存魔力。
予想以上に少ない。
本来の力なら簡単に壊せる。
でも今はできない。
「じゃあどうする?」
「……」
「このまま?」
「それだけは嫌じゃ」
「僕も困るよ」
僕は周囲を見る。
何か仕掛けはないか。
五本の鎖。
それらはすべて台座の下へ伸びている。
視線で追っていく。
中央。
大きな魔法陣。
「……ん?」
何か。
ある。
「どうした」
「ちょっと待って」
僕は台座の中心へ近づいた。
「そこじゃない」
「何が?」
「さっきまで何も感じなかったのに」
胸の奥。
妙な感覚。
祠を見つけた時と似ている。
ベラトリクスへ触れた時とも。
微かに。
何かが残っている。
「……魔力?」
しゃがむ。
床へ手を近づける。
まだ触れていない。
それなのに。
指先が温かい。
「誰かいる」
「何?」
ベラトリクスの声が変わった。
「誰かって?」
「分からない」
僕は目を閉じる。
「でも……残ってる」
「何がじゃ」
「誰かの魔力」
その言葉に。
ベラトリクスが息を止めた。
僕は気づかなかった。
目を閉じていたから。
ベラトリクスの表情が。
ほんの一瞬。
明らかに変わったことに。
魔力の残滓を感じ取る。
そこに刻まれた記憶へ触れる。
ただの魔力感知ではない。
ただの精神干渉でもない。
五百年前ですら。
それを扱える者は、ほとんど存在しなかった。
――まさか。
ベラトリクスはソルを見つめる。
古代魔法……?
脳裏に。
遠い時代の記憶が蘇る。
だが。
すぐに首を振った。
まだ分からぬ。
似ているだけかもしれぬ。
そもそも。
何故、五百年後のただの人間の小僧が。
「ベラトリクス?」
「……」
「どうしたの?」
「何でもない」
「今なんか変な顔してたけど」
「気のせいじゃ」
「本当?」
「早う触れてみよ」
「急に雑だなあ」
「よいから」
僕は首を傾げた。
何か隠している。
そんな気もしたけど。
今は目の前の魔法陣の方が気になった。
「……触るよ」
「勝手にせい」
「さっきまで早く触れって言ってたじゃん」
「細かい男は嫌われるぞ」
「誰に?」
「知らぬ」
「適当だなあ」
僕は床へ手を置いた。
その瞬間。
――ドクン。
「っ!」
世界が揺れた。
でも。
さっきとは違う。
草原じゃない。
景色も見えない。
暗闇。
何もない。
その中から。
音だけが聞こえる。
ザザッ。
何かが擦れるような音。
そして。
『――もし』
僕は目を見開く。
声。
聞いたことがある。
どこで?
祠。
あの時。
最後に聞こえた男の声。
『もし……これが……誰かに届いたなら』
「……レグルス?」
自分でも分からない。
でも。
そう思った。
ノイズ。
声が途切れる。
『ベラ……トリクスを……』
「何?」
『塔へ――』
「塔?」
『五つ……』
声が遠くなる。
「待って!」
『どうか――』
そして。
最後。
ほんの一瞬。
はっきりと。
『頼む』
途切れた。
「……っ!」
僕は手を離した。
「ソル!」
ベラトリクスが僕を見ている。
「はぁ……」
「何を見た」
「見てない」
「何?」
「今回は何も見えなかった」
「では」
「声が聞こえた」
ベラトリクスが固まる。
「誰じゃ」
僕は彼女を見る。
「多分」
自信はない。
でも。
「レグルス」
赤い瞳が揺れた。
「……何と言っておった」
「全部は聞こえなかった」
「よい。話せ」
「『もしこれが誰かに届いたなら』」
ベラトリクスが静かに聞いている。
「『ベラトリクスを』」
そこで。
彼女の指先が僅かに動いた。
「それから『塔へ』」
「……」
「『五つ』って言ってた」
「他には」
「最後に」
祠でも聞いた言葉。
同じ声。
「『頼む』って」
「……」
長い沈黙。
ベラトリクスが目を伏せる。
「やはり、あの声……」
「何?」
「いや」
彼女は小さく首を振った。
「レグルスめ」
その声は。
不思議なくらい優しかった。
その時。
魔法陣が光った。
「え?」
僕の手はもう離れている。
なのに。
中央から金色の光が広がる。
一本目。
勇者の紋章。
光る。
二本目。
剣聖。
三本目。
守護騎士。
四本目。
賢者。
五本目。
聖女。
「ベラトリクス!」
「妾にも見えておる!」
五本の鎖が震え始めた。
ガシャン。
ガシャン。
ガシャン。
「これ大丈夫!?」
「分からぬ!」
「分からないの!?」
「五百年ぶりじゃぞ!」
「それ何でも許される言葉じゃないからね!」
光がさらに強くなる。
床に刻まれた文字が。
一斉に動き始めた。
いや。
消えている。
外側から。
一つずつ。
術式が解けていく。
「封印が……」
ベラトリクスが呟く。
一本目。
勇者レグルスの鎖。
ガチャン。
床へ落ちた。
「……!」
二本目。
シリウス。
三本目。
アルデバラン。
次々に外れる。
「本当に外れてる……」
四本目。
アークトゥルス。
そして。
最後。
聖女ルナ。
一瞬だけ。
十字架の紋章が強く光った。
ベラトリクスがそれを見る。
「……ルナ」
ガチャン。
最後の鎖が落ちた。
静寂。
五百年間。
彼女を縛り続けていた鎖が。
すべて床に転がっている。
「……」
ベラトリクスは動かなかった。
自分の手を見る。
自由になった両手。
指を開く。
握る。
もう一度、開く。
「外れたね」
「……ああ」
いつもの偉そうな返事じゃなかった。
小さな。
信じられないような声だった。
ベラトリクスがゆっくり立ち上がる。
「五百年……」
裸足が床につく。
「待たせおって」
誰に言ったのか。
僕には聞けなかった。
彼女が一歩踏み出す。
「……」
もう一歩。
「大丈夫?」
「当然じゃ」
三歩目。
ぐらっ。
「うわっ!」
僕は慌てて身体を支えた。
「ちょ、大丈夫!?」
「離せ」
「いや立ててないじゃん」
「立てる」
「本当に?」
「妾を誰だと思っておる」
「じゃあ離すよ」
「離せ」
僕は手を離した。
ベラトリクスが一人で立つ。
「ほれ見――」
ぐらっ。
倒れた。
「危なっ!」
もう一度受け止める。
「……」
「……」
「何も言うな」
「まだ何も言ってない」
「笑うな」
「笑ってないって」
「口元が笑っておる!」
「だって魔王が」
「魔王が何じゃ!」
「五百年寝てて足痺れてるみたいになってるから」
「痺れてなどおらぬ!」
「じゃあなんで立てないの」
「……身体が馴染んでおらぬだけじゃ」
「それを普通は弱ってるって言うんだよ」
「黙れ」
しばらく。
僕が肩を貸すことになった。
「妾を支えられること、光栄に思え」
「自分で歩けるようになってから言って」
「小僧……」
「ソル」
「……ソル」
地下の奥で。
何かが動いた。
石が擦れる音。
僕たちは同時に振り向く。
壁。
今まで何もなかった場所に。
光の線が走る。
円。
祠で見たものと同じ魔法陣。
「出口?」
「恐らくな」
「戻れる?」
「術式が同じならば」
「よかった……」
ようやく。
森へ戻れる。
父さんと母さん。
村を出てまだ一日も経っていないのに。
ものすごく懐かしく感じる。
僕はベラトリクスを見る。
「行ける?」
「誰に聞いておる」
「じゃあ一人で」
「肩は貸しておれ」
「どっちなの」
二人で魔法陣へ向かう。
ベラトリクスが最後に振り返った。
五本の鎖。
台座。
巨大な封印。
五百年間。
彼女が一人眠り続けた場所。
赤い瞳が静かにそれを見つめる。
「……行こう」
僕が言う。
ベラトリクスは何も答えなかった。
ただ。
一度だけ。
小さく頷いた。
僕たちは魔法陣へ足を踏み入れた。
光。
今度は二回目だから。
少しだけ覚悟できた。
――と思ったけど。
「うわああああ!」
無理だった。
上下が分からなくなる。
身体が引っ張られる。
胃が浮く。
隣から。
「うるさいぞソル!」
「ベラトリクスは平気なの!?」
「当然――うっ」
「今絶対気持ち悪くなったでしょ!」
「なっておらぬ!」
「声変だったよ!」
「黙れ!」
光が弾けた。
身体が地面へ投げ出される。
「いった!」
草。
土。
風。
僕は顔を上げた。
森。
見覚えのある祠。
元の場所だ。
「戻った……」
思わず大きく息を吸う。
空気が違う。
地下の冷たい空気じゃない。
木々の匂い。
風。
鳥の声。
木漏れ日。
昼間。
ほとんど時間が経っていないように見える。
「よかった……」
僕はその場に座り込む。
もう今日は十分だ。
王都へ仕事を探しに行くだけだったのに。
なんでこんなことになってるんだ。
「ベラトリクス?」
返事がない。
振り向く。
祠の前。
彼女が立っていた。
さっきまでまともに歩けなかったのに。
僕の肩から手を離し。
一人で。
空を見上げている。
風が長い黒髪を揺らす。
木々の隙間から。
青い空。
眩しい太陽。
ベラトリクスは目を細めた。
「……」
「どうしたの?」
返事はない。
僕は立ち上がる。
「眩しい?」
「……変わらぬのじゃな」
「え?」
「空じゃ」
ベラトリクスは見上げたまま言った。
「五百年経っても」
風が吹く。
「空は何も変わらぬ」
声は静かだった。
僕には。
その言葉に何を返せばいいのか分からなかった。
僕にとって五百年前は歴史。
遠い昔。
でも。
ベラトリクスにとっては違う。
眠る前。
最後に見た空。
最後に会った仲間。
最後に交わした言葉。
そのすべてが。
本人の感覚では。
ついさっきのことなのかもしれない。
なのに。
地上では五百年が過ぎた。
レグルスも。
シリウスも。
アルデバランも。
アークトゥルスも。
ルナも。
もういない。
「……レグルス」
ベラトリクスが呟く。
また。
その名前だった。
目覚めた時も。
五百年経ったと知った時も。
そして。
五百年ぶりに空を見た時も。
最初に思い出すのは。
勇者レグルス。
「知りたい?」
僕は聞いた。
ベラトリクスがこちらを見る。
「何をじゃ」
「五百年前に何があったのか」
「……」
「なんで六人だったのに、五英雄になったのか」
僕は続ける。
「レグルスたちがその後どうなったのか」
「……当然じゃ」
「じゃあ」
僕は祠を見る。
地下へ通じる魔法陣はもう消えている。
「これからどうする?」
ベラトリクスの表情が変わった。
さっきまで空を見ていた少女じゃない。
魔王の顔。
「決まっておる」
「何するの?」
「塔へ行く」
「五つの?」
「そうじゃ」
「全部?」
「すべてじゃ」
即答だった。
「まず、塔の状態を確かめねばならぬ」
「壊れてるかもしれないから?」
「それもある」
「他にも?」
「レグルスたちは、何かを残しておる」
「どうして分かるの?」
「先ほどの声じゃ」
「……あ」
『塔へ』
確かに言っていた。
「それに」
ベラトリクスが自分の手を見る。
「妾の力を戻す必要がある」
「塔で戻るの?」
「可能性は高い」
「なんで?」
「五つの塔は妾へ魔力を送り続けるためのもの。ならば術式の核には、それぞれあやつらの力が残されておるはずじゃ」
「五英雄の力……」
「それを回収する」
「回収って」
「元々妾のために残したものじゃ。問題あるまい」
「本人たちに聞けないからね」
「許可など要らぬ」
「魔王っぽいなあ」
「妾は魔王じゃ」
ベラトリクスが腕を組む。
「そして」
「まだあるの?」
「災厄がどうなっておるのかも確かめる」
空気が少し重くなる。
「もし五つの塔の機能が弱まっておるならば」
「……うん」
「奴らが再び動き始めておる可能性がある」
奴ら。
空より来た災厄。
白い翼。
「それって」
僕は喉を鳴らす。
「まずい?」
「非常に」
即答。
「どのくらい?」
ベラトリクスが僕を見る。
「世界が滅ぶ程度じゃ」
「それ一番まずいやつじゃん!」
「だから塔へ行くと言っておる」
「さらっと言わないでよ!」
「騒いでも変わらぬ」
「変わらなくても騒ぐよ!」
「人間は忙しいのう」
「世界滅亡って聞いて静かにできる方がおかしいからね!?」
ベラトリクスは呆れたようにため息をついた。
「とにかく」
僕は聞く。
「最初はどこ?」
「レグルスじゃ」
やっぱり。
「勇者の塔」
「そうじゃ」
「それなら」
僕は少し考える。
いや。
考えるまでもない。
「王都にあるよ」
「何?」
「勇者レグルスの塔」
アステリア王国。
王都アステリア。
その中央部から少し離れた丘の上に。
五百年前から残る勇者の塔がある。
「王都か」
「うん」
ベラトリクスが頷く。
「では、そこへ行く」
「……」
「何じゃ」
「いや」
僕は自分の鞄を見る。
王都へ向かうための荷物。
母さんの弁当。
父さんの短剣。
地図。
全部ある。
「僕も王都に行く予定だったんだけど」
「ほう」
「仕事探しに」
「好都合ではないか」
嫌な予感がした。
「では案内せよ」
「なんでそうなるの!?」
「お主も行くのであろう?」
「行くけど!」
「ならば同じじゃ」
「全然違うよ!僕は仕事探し!あなたは勇者の塔!」
「両方すればよい」
「簡単に言うなあ!」
「それに」
ベラトリクスが口元を上げる。
「妾をこんな状態で置いていくつもりか?」
「……」
ずるい。
鎖からは解放された。
でもまともに魔法も使えない。
歩くのも怪しい。
五百年後の国のことも何も知らない。
放っておけるかと言われたら。
「……分かったよ」
「うむ」
「王都までだからね」
「うむ」
「塔まで案内したら、僕は仕事探すから」
「うむ」
絶対聞いてない。
「あと」
僕は思い出した。
「何じゃ」
「王都に着いたら、ちょっと大人しくしてて」
「何故じゃ」
「今、祭りやってるから」
「祭り?」
「五百周年の」
「何のじゃ」
僕は言いづらくなった。
「……言わなきゃ駄目?」
「申せ」
「魔王討伐五百周年記念祭」
「……」
ベラトリクスが止まった。
「何?」
「……」
「ベラトリクス?」
ゆっくり。
彼女のこめかみに青筋が浮かぶ。
「……ソル」
「はい」
「今すぐ王都へ行くぞ」
「え?」
「走れ」
「なんで!?」
「決まっておる!」
森に。
五百年ぶりに目覚めた魔王の声が響いた。
「誰が討伐されたか、妾自ら確かめてやる!!」
「絶対暴れないでよ!?」
僕が仕事を探すためだけに始めた王都への旅は。
いつの間にか。
五百年前の真実と。
五つの塔。
そして。
いつか再び現れるという災厄へ続く旅に変わり始めていた。
その時の僕はまだ知らなかった。
五つの塔に。
五百年前の英雄たちが。
僕たちを待っていることを




