聖女との別れ
第53話 聖女との別れ
「……ルナ」
僕の声が。
静かな空間へ響いた。
目の前にいる女性は。
間違いなく。
聖女ルナだった。
五百年前。
勇者レグルスと共に戦い。
魔王ベラトリクスとも肩を並べ。
世界を救った聖女。
僕が知っていた歴史の中では。
すでに亡くなった存在。
けれど。
今。
その本人が。
僕の目の前にいる。
「そんな顔をしないでください」
ルナが。
少し困ったように笑う。
「……どんな顔?」
「驚いている顔です」
「それは驚くよ」
思わず答える。
「だって」
「五百年前の聖女が」
「目の前にいるんだから」
「ふふ」
ルナが笑った。
その笑い方は。
どこか懐かしい。
ベラが話してくれた。
五英雄たちの話。
その中に出てきたルナと。
目の前の女性が。
ようやく重なった気がした。
「ソル」
「はい」
「あなたには」
「聞いてほしいことが」
「まだあります」
「……何?」
ルナは。
少しだけ視線を落とした。
「私は」
「五百年前から」
「この場所に残り続けているわけではありません」
「え?」
「正確には」
「私自身が」
「ここにいるわけではないのです」
僕は。
意味を理解できずに黙った。
「今の私は」
「この塔に残された」
「私の魔力と」
「意志」
「そして」
「星の力によって形作られたものです」
「……」
「だから」
ルナが微笑む。
「あなたが感じた声も」
「私の存在も」
「この塔に残された」
「最後の記憶なのです」
僕は。
胸の奥が重くなるのを感じた。
「じゃあ」
「今ここにいるルナは」
「……」
「本物じゃないの?」
ルナは。
少しだけ困ったように笑った。
「難しい質問ですね」
「私は」
「あなたと話しています」
「あなたの声を聞いています」
「ベラトリクスとも」
「こうして再び会えました」
「だから」
「偽物だとは思っていません」
「でも」
「五百年前の私そのものでもありません」
僕は。
何も言えなかった。
それでも。
ルナがここにいることだけは。
嬉しかった。
ベラも。
ずっとルナを見つめている。
「……つまり」
ベラが口を開く。
「お主は」
「ここにずっと残っておったわけではないのじゃな」
「はい」
「では」
「妾が五百年間」
「待っていた意味は」
「……」
ルナの表情が。
少しだけ曇る。
「ごめんなさい」
「謝るな」
ベラが。
すぐに言った。
「お主が悪いわけではない」
「でも」
「妾が勝手に待っていただけじゃ」
ベラは。
ルナの目を見る。
「それに」
「こうして会えた」
「それで十分じゃ」
「……ベラ」
二人の間に。
短い沈黙が流れた。
五百年。
その言葉だけでは。
足りないほどの時間。
それでも。
二人は。
昔のように話していた。
僕は。
少し離れた場所で。
その二人を見ていた。
「そういえば」
ルナが。
僕を見る。
「あなたは」
「ベラトリクスのことを」
「どう思っていますか?」
「え?」
「あなたが知る歴史では」
「彼女は」
「魔王です」
「……」
僕は。
ベラを見る。
確かに。
僕が最初に知っていたベラは。
魔王だった。
五百年前。
人間界を侵略した。
五英雄によって討伐された。
それが。
僕が知っていた歴史。
けれど。
今は違う。
僕は。
ベラと旅をしてきた。
一緒に笑って。
喧嘩して。
戦って。
何度も助けてもらった。
だから。
僕は迷わず答えた。
「僕にとっては」
「ベラは」
「ベラだよ」
「……」
ベラが。
少しだけ目を見開いた。
「魔王とか」
「昔の話とか」
「それより」
「今まで一緒にいたベラの方が」
「僕にとっては大事だから」
「……」
ベラが。
顔を背ける。
「……馬鹿者」
「なんで?」
「知らぬ」
「絶対分かってるでしょ」
「知らぬと言っておる」
ルナが。
楽しそうに笑った。
「変わりませんね」
「何が?」
「ベラトリクスです」
「昔も」
「素直じゃありませんでしたから」
「ルナ」
ベラが睨む。
「何じゃ」
「妾の話をするな」
「ふふ」
「笑うな!」
そのやり取りを見て。
僕も。
思わず笑ってしまった。
しばらくして。
ルナの身体から。
淡い光がこぼれた。
「……」
僕は。
それに気づく。
「ルナ?」
「時間です」
「時間?」
「この姿を保てる時間が」
「もう」
「残っていません」
ベラが。
黙り込む。
「……また」
「消えるのか」
「はい」
「今度は」
「いつ会える?」
ルナは。
答えなかった。
その代わり。
僕へ視線を向ける。
「ソル」
「はい」
「あなたには」
「もう一つ」
「お願いがあります」
「何?」
「この塔を」
「もう一度」
「目覚めさせてください」
「僕が?」
「はい」
ルナが。
静かに頷く。
「この塔は」
「五百年前の戦いの後」
「長い眠りにつきました」
「そして」
「五百年間」
「誰にも応えることはなかった」
「でも」
「あなたが」
「星の声を聞いた」
「その瞬間」
「塔が」
「あなたを認識しました」
僕は。
周囲を見る。
壁。
床。
天井。
至る所に刻まれている。
古い魔法陣。
星を模した紋章。
そして。
聖女の紋章。
「僕に」
「何ができるの?」
「分かりません」
「……え?」
「それを決めるのは」
「あなた自身です」
ルナが。
僕の胸へ手を伸ばす。
指先が。
胸へ触れる。
その瞬間。
身体の中を。
温かな光が走った。
「……っ」
星装が。
反応する。
身体の奥にある星の力が。
一気に膨らんだ。
「これは……」
「あなたの中にある」
「星の力です」
「この力は」
「ただ強くするための力ではありません」
「誰かを守るためにも」
「使える力です」
僕の周囲に。
小さな星の粒子が浮かぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
それらが。
僕の周りを回り始めた。
「この力を」
「どう使うかは」
「あなた次第です」
「……分かった」
「そして」
ルナが。
少しだけ笑う。
「いつか」
「この星の力が」
「多くの人を守る日が来ます」
「その時」
「あなたは」
「きっと」
「自分が何者なのか」
「知ることになるでしょう」
「……僕が何者なのか」
「はい」
それ以上。
ルナは語らなかった。
僕は。
もっと聞きたかった。
でも。
今は聞いてはいけない気がした。
その時。
――ゴォォォォン。
塔全体が。
大きく震えた。
「……何?」
アンタレスが。
周囲を見渡す。
壁に刻まれた魔法陣が。
一つ。
また一つ。
光り始める。
「これは……」
ベラが。
目を見開く。
「塔が」
「動いておる」
「え?」
僕が。
周囲を見る。
五百年間。
眠っていたはずの魔法陣が。
次々と起動していく。
古びた壁の中を。
青白い光が走る。
床に刻まれていた星の紋章が。
輝きを取り戻す。
そして。
塔の遥か上空。
巨大な魔法陣が。
展開された。
――ドォォォォン!!
地上から。
巨大な光の柱が。
空へ伸びる。
塔全体が。
白い光に包まれた。
「……!」
僕は。
言葉を失った。
窓の外を見る。
街中が。
光に包まれている。
大聖堂の屋根に刻まれた聖印が。
五百年ぶりに輝いている。
街のあちこちから。
鐘の音が響く。
――カァン。
――カァン。
――カァン。
一つ。
また一つ。
教会の鐘が。
誰にも触れられていないのに鳴り始める。
街にいた人々が。
一斉に空を見上げた。
「何だ……?」
「光が……」
「聖女様の塔が……!」
誰かが叫ぶ。
「聖女様の奇跡だ!」
その声をきっかけに。
街中へ。
ざわめきが広がっていく。
「聖女様が帰ってきた!」
「五百年ぶりの奇跡だ!」
「聖女様が我々を見守ってくださっている!」
人々が。
祈り始める。
泣き出す者もいる。
地面へ膝をつく者もいる。
その光景を。
僕は塔の中から見ていた。
「……すごい」
「聖女の奇跡」
アンタレスが呟く。
「そう呼ばれるでしょうね」
ベラは。
黙っていた。
「ベラ?」
「……」
ベラが。
ルナを見る。
「お主」
「これを」
「知っておったのか?」
ルナは。
静かに首を振る。
「いいえ」
「私にも」
「分かりません」
「では」
「これは一体……」
「私が起こしたのではありません」
ルナが。
僕を見る。
「塔が」
「自ら」
「目覚めたのです」
「……僕が来たから?」
「それだけではないでしょう」
「でも」
「あなたが」
「きっかけになったことは」
「間違いありません」
僕は。
自分の手を見る。
さっきまで浮かんでいた星の粒子は。
今は。
身体の中へ戻っている。
「……」
何かが。
変わった気がした。
この塔が。
五百年ぶりに目を覚ました。
それが。
この先。
何を意味するのか。
今の僕には分からない。
ただ。
ルナが。
僕を見る。
「ソル」
「はい」
「ありがとう」
「……何で?」
「ここまで」
「私の声を聞いて」
「ここまで来てくれたこと」
「そして」
「ベラトリクスを」
「私の元へ連れてきてくれたこと」
「……」
僕は。
首を横に振る。
「僕だけじゃないよ」
「アンも」
「ベラも」
「みんなで来たんだから」
「そうですね」
ルナが。
微笑む。
「あなたは」
「一人ではありません」
その言葉が。
胸に残った。
ルナの身体が。
また少し。
薄くなる。
「……もう」
ベラが。
小さく呟く。
「時間なのじゃな」
「はい」
「……」
ベラは。
俯いた。
五百年前。
共に旅をした少女。
今では。
誰もが祈る聖女。
けれど。
ベラにとっては。
ただの。
大切な仲間なのだろう。
「ルナ」
「はい」
「妾は」
「もう」
「お主を待たぬ」
ルナが。
少し驚いた顔をする。
「……そうですか」
「うむ」
ベラが。
まっすぐルナを見る。
「今度は」
「自分で」
「前へ進む」
「……」
「お主に」
「また会うためにな」
ルナの瞳が。
僅かに潤む。
「はい」
「それなら」
「安心しました」
ベラは。
笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ。
静かに頷いた。
「またな」
「はい」
「……ルナ」
「はい」
「今度こそ」
「ちゃんと」
「また会おう」
「ええ」
ルナが。
微笑んだ。
「約束です」
その言葉を最後に。
ルナの身体が。
光へ変わっていく。
「ルナ……」
僕が。
思わず手を伸ばす。
「ソル」
最後まで。
ルナの声は。
優しかった。
「星の声を」
「忘れないでください」
「……うん」
「あなたが」
「星を聞く限り」
「私は」
「きっと」
「あなたのそばにいます」
そして。
光が。
消えた。
静寂が。
戻ってくる。
祭壇の前には。
もう。
誰もいない。
「……」
僕は。
しばらく。
その場から動けなかった。
アンタレスも。
何も言わない。
ベラも。
ただ。
ルナがいた場所を見つめている。
「……行こう」
しばらくして。
ベラが言った。
「うん」
僕たちは。
歩き出した。
扉へ向かう。
最後に。
僕は一度だけ。
振り返った。
そこには。
何もない。
でも。
不思議と。
ルナが消えたとは。
思えなかった。
五百年間。
残り続けた彼女の想いは。
確かに。
この塔へ残っている。
そして。
僕たちの中にも。
残った。
塔の階段を上っていく。
地上へ近づくほど。
鐘の音が大きくなっていく。
外へ出ると。
街は。
大変な騒ぎになっていた。
「聖女様の奇跡だ!」
「塔が目覚めたぞ!」
「五百年ぶりだ!」
人々が。
空を見上げている。
塔の頂上から。
今も。
白い光が伸びている。
その光は。
空へ向かい。
星々へ届くように。
まっすぐ伸びていた。
「……すごいな」
僕が呟く。
アンタレスが。
空を見る。
「これで」
「この国にとって」
「あなた方の存在は」
「より大きな意味を持つでしょう」
「どういうこと?」
「聖女様の塔が」
「五百年ぶりに」
「あなた方が来た直後」
「目覚めたのです」
「偶然とは」
「考えにくいでしょう」
「……」
僕は。
空を見る。
星が。
いつもより近く感じる。
まるで。
何かが。
僕たちを見ているようだった。
その時。
遠くから。
教皇の側近たちが。
こちらへ走ってくるのが見えた。
「皆様!」
「どうしたんですか?」
「大変です!」
「何が?」
「聖女様の塔が再起動したことが」
「国中へ伝わっています!」
「そして」
「大聖堂から」
「教皇聖下がお呼びです!」
ベラが。
嫌そうな顔をする。
「またか」
「仕方ないよ」
「ソル」
「何?」
「お主」
「随分と楽しそうじゃな」
「そう見える?」
「見える」
「……」
僕は。
少しだけ笑った。
ルナとの再会は。
終わった。
でも。
別れは。
終わりではない。
そんな気がしていた。
そして。
僕たちは。
再び。
セレフィア神聖国の街へ歩き出した。
その頃。
遥か遠く。
空の向こう側。
白い雲のさらに上。
人の目には映らない場所で。
一体の天使が。
静かに立っていた。
「……確認」
その声は。
まだ無機質だった。
「聖女の塔」
「再起動」
手元に浮かぶ光の板。
そこには。
セレフィア神聖国から伸びる。
巨大な光の柱が映っている。
「五百年ぶりの」
「聖女の反応を確認」
「同時に」
「魔王ベラトリクス」
「現魔王アンタレス」
「星装保持者」
三つの情報が。
並べられる。
天使は。
しばらく。
その光を見つめていた。
そして。
初めて。
その無機質な声に。
僅かな感情が混じる。
「……予定外」
白い翼が。
ゆっくりと動く。
「星の声を聞く者」
「なぜ」
「今」
「目覚めた」
その時。
さらに上空。
巨大な白い影が。
ゆっくりと。
こちらを見下ろした。
「……報告を」
「はい」
天使が。
跪く。
「聖女の塔が」
「再起動しました」
「そして」
「ベラトリクス」
「アンタレス」
「星装保持者」
「三者が」
「同じ場所に存在しています」
短い沈黙。
やがて。
上空から。
声が響いた。
『そうですか』
『ならば』
『もう』
『待つ必要はありません』
天使が。
顔を上げる。
『五百年前に途切れたものが』
『再び』
『繋がりました』
白い翼が。
一斉に開く。
『動きなさい』
『我々の目的を』
『果たすために』
そして。
白い光が。
夜空の彼方へ消えていく。
誰も。
それに気づかない。
セレフィア神聖国では。
今も。
聖女の奇跡を祝う鐘が鳴っていた。
けれど。
その光の向こう側で。
五百年前から続く。
もう一つの物語が。
静かに。
動き始めていた。




