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海の向こうへ

第43話 海の向こうへ

翌朝。

僕たちはまだ薄暗い時間に宿を出た。

港へ向かう商隊との護衛依頼。

それが、僕たちがこの街で受けた最後の依頼だった。

南へ向かう街道を、何台もの馬車が進んでいく。

僕たちはその周囲を歩きながら、周辺を警戒していた。

「もうすぐですね」

隣を歩くアンタレスが言う。

「港?」

「ええ。予定通りなら、今日の昼頃には到着します」

僕は前方を見る。

遠くに、海が見え始めていた。

ヴァルガルドで初めて地図を見た時から、ずっと先だと思っていた場所。

そこへ、ようやく辿り着こうとしている。

「……海」

思わず呟く。

これまで旅をしてきたけれど、海を間近で見るのは初めてだった。

「何じゃ、海を見るのが初めてか?」

ベラが後ろから声をかけてくる。

「うん」

「そうか」

「ベラは見たことあるの?」

「あるぞ」

「五百年前?」

「そうじゃ」

ベラは少しだけ遠くを見る。

「昔、何度か海を越えたこともある」

「へえ」

「じゃが、今とは景色も違うじゃろうな」

「やっぱり?」

「五百年じゃぞ。変わっておらぬ方がおかしい」

確かにそうだ。

五百年。

僕が生まれてからの十五年なんて、五百年に比べれば一瞬だ。

その間に国も。

街も。

人も。

きっと何もかも変わっている。

でも。

変わらず残っているものもあるのかもしれない。

僕は海を見ながら、そんなことを考えていた。

その時だった。

「ソル」

アンタレスの声。

「ん?」

「前方です」

街道の先から、何かがこちらへ向かってくる。

魔物だった。

数は三体。

それほど大きくはない。

けれど、商隊の近くまで来れば被害が出る。

僕は一歩前へ出た。

「僕がやる」

明星へ手を伸ばす。

アルデバランの塔で教わったことを思い出す。

力を無理に引き出す必要はない。

必要な分だけ。

自然に。

僕は息を吸った。

星の粒子が身体へ流れ込む。

「星装」

身体が軽くなる。

魔物がこちらへ飛びかかってくる。

一体目。

横へ避ける。

明星を振る。

二体目。

そのまま身体を回転させる。

三体目が迫る。

僕は一歩踏み込み、剣を振り抜いた。

三体とも、地面へ倒れた。

「……」

僕は明星を見る。

以前よりも、ずっと自然に使える。

アルデバランに教わった力が、少しずつ自分の身体へ馴染んでいる。

「問題なさそうですね」

アンタレスが言う。

「うん」

「力の消費も少ない」

「分かる?」

「見ていれば」

ベラも倒れた魔物を確認する。

「悪くない」

「ありがとう」

「じゃが」

ベラが僕を見る。

「まだまだじゃな」

「そこは褒めてよ」

「褒めたではないか」

「もっとこう……」

「贅沢を言うな」

僕は苦笑した。

商隊の護衛は、その後も大きな問題なく進んだ。

何度か小さな魔物が現れたが、僕たちだけで対処できた。

商隊の人たちも、次第に僕たちへの警戒を解いていった。

そして。

昼過ぎ。

街道の先に、大きな港町が現れた。

「見えてきたぞ」

商隊の先頭から声が上がる。

僕は顔を上げる。

港町。

大きな建物。

倉庫。

市場。

そして。

海。

どこまでも続いているように見える青い水面。

「……すごい」

僕は立ち止まりそうになる。

「これが海か」

「海じゃ」

ベラが当然のように答える。

「知ってる」

「ならば、そんな顔をするな」

「初めて見たんだから仕方ないでしょ」

「ふむ」

ベラは少しだけ笑った。

「そういうものか」

商隊はそのまま港町へ入り、荷物を降ろしていく。

僕たちの仕事も、ここで終わりだった。

「皆さん、ありがとうございました」

商隊の代表が頭を下げる。

「こちらこそ」

僕も頭を下げる。

「おかげで無事に港まで来られました」

「これが今回の報酬です」

渡された袋を受け取る。

中には、これまで貯めてきたものと合わせれば、船に乗るためには十分な金額が入っていた。

「……これで」

僕は袋を見る。

「本当に海を渡れる」

アンタレスが頷く。

「ええ」

ベラも腕を組む。

「ようやくじゃな」

僕は海を見る。

その向こうに。

セレフィア神聖国がある。

聖女ルナの塔がある。

アルデバランが最後に残した言葉。

『聖女ルナの塔へ行け』

その答えを探すために。

僕たちはここまで来た。

「行こう」

僕たちは港へ向かった。

船を探し、受付で話を聞く。

数日後に出る船があるらしい。

料金を確認する。

食料や船内で必要になるものも買い揃える。

そして。

いよいよ乗船の日。

「……本当に乗るんじゃな」

船を前にして、ベラが少しだけ顔を引きつらせている。

「どうしたの?」

「何でもない」

「船、嫌なんじゃなかった?」

「嫌いとは言っておらぬ」

「前に言ってたじゃん」

「予定じゃ」

「何の予定?」

「船酔いする予定じゃ」

「まだ乗ってないよ」

アンタレスが静かに口を挟む。

「乗る前から心配しても仕方ありません」

「アンタレスは平気なの?」

「私は問題ありません」

「じゃあソル」

「僕もたぶん大丈夫」

「妾だけか」

「そうなるね」

「……」

ベラが船を睨む。

「覚えておれ」

「船に?」

「船にじゃ」

僕は笑った。

こうして。

僕たちは船へ乗り込んだ。

船が港を離れる。

少しずつ。

少しずつ。

陸地が遠ざかっていく。

港町が小さくなる。

やがて。

陸そのものが遠くなった。

「……」

僕は甲板から海を見ていた。

どこまでも続く青。

波が船の横を流れていく。

風が強い。

けれど、気持ちよかった。

「初めて見る海はどうじゃ?」

ベラが隣に立つ。

「綺麗だと思う」

「そうか」

「ベラは?」

「妾か?」

「うん」

ベラは少し考える。

「昔と変わらぬ」

「本当に?」

「海は海じゃ」

「そっか」

五百年前にも。

この海はあった。

レグルスも。

シリウスも。

アルデバランも。

ルナも。

この海を見たのだろうか。

そんなことを考えていると。

「ソル」

アンタレスが声をかけてきた。

「何?」

「船内へ戻りませんか?」

「もう少し見てたい」

「そうですか」

アンタレスは先に戻っていった。

ベラも続く。

「お主もほどほどにせよ」

「分かってる」

僕は一人で甲板に残った。

船は進み続ける。

海の上では、時間の感覚が少し違っていた。

朝。

昼。

夕方。

そして。

夜。

船員たちが灯りを点ける。

空には星が出ていた。

僕はまた甲板へ出た。

夜の海は、昼間とは全く違う。

黒い海。

その上に広がる無数の星。

風が頬を撫でる。

「……」

僕は空を見上げた。

星の粒子。

最近は、それを感じることが当たり前になってきた。

アルデバランに教わった《星継・星装》。

最初は、力を意識して集めなければならなかった。

今は。

ただ、星を感じればいい。

僕は静かに目を閉じた。

――星。

その瞬間。

微かな何かを感じた。

「……?」

僕は目を開ける。

周囲を見る。

誰もいない。

船員もいない。

ただ、波の音だけ。

「今……」

何か。

聞こえた気がした。

女性の声。

とても遠い。

海の向こうから聞こえてくるような。

それとも。

星の向こうから。

『――星の声を聞くものよ』

「……!」

僕は立ち上がった。

確かに聞こえた。

でも。

声の主はどこにもいない。

「誰……?」

返事はない。

波が船にぶつかる音だけが聞こえる。

僕は周囲を見回す。

『星の声を聞くものよ……』

また。

聞こえた。

今度は、はっきりと。

けれど。

その声は僕の名前を呼ばなかった。

「……星の声を聞くもの?」

僕は自分の胸へ手を当てる。

星装。

魔力の残滓。

僕が感じ取ってきたもの。

それを知っている?

誰が。

どうして。

『ベラトリクスを』

「……!」

その名前を聞いた瞬間。

僕の身体が固まった。

「ベラを……?」

声が続く。

『私のもとへ』

「……」

僕は息を呑む。

『星の声を聞くものよ』

『ベラトリクスを、私のもとへ』

その言葉を最後に。

声が消えた。

「待って……!」

僕は甲板を見回す。

誰もいない。

星だけがある。

「誰なんだ……」

返事はない。

けれど。

僕には分かっていた。

この声は。

偶然聞こえたものじゃない。

ベラトリクス。

その名前を知っている人物。

五百年前の魔王を。

まるで昔から知っているように呼ぶ人物。

僕の頭に、一人の名前が浮かんだ。

「……ルナ?」

その名前を口にした瞬間。

星の粒子がほんの僅かに揺れた。

けれど。

それ以上、声は聞こえなかった。

僕はしばらく夜空を見上げていた。

本当に。

聖女ルナなのか。

それとも。

別の何かなのか。

今の僕には分からない。

ただ。

一つだけ。

はっきりしている。

セレフィア神聖国には。

僕たちがまだ知らない何かがある。

僕は船内へ戻った。

部屋ではベラとアンタレスが眠っている。

僕は二人を起こさなかった。

特に。

ベラには。

まだ話さない方がいい気がした。

翌日。

船はさらに海を進んだ。

それから数日。

大きな問題もなく航海は続いた。

そして。

朝。

船員の声が響く。

「見えたぞ!」

僕は甲板へ飛び出した。

「何が?」

前方を見る。

遠くに。

陸が見えていた。

「陸……?」

「ええ」

アンタレスも甲板へ出てくる。

「予定通りなら、あれがセレフィア神聖国のある大陸でしょう」

ベラも海の向こうを見る。

「……」

その表情が。

ほんの少しだけ変わった。

「ベラ?」

「いや」

「どうしたの?」

「……何でもない」

船が進む。

少しずつ。

陸地が大きくなる。

港が見える。

そして。

その向こうに。

巨大な都市が広がっていた。

「……」

僕は言葉を失った。

大きい。

ヴァルガルドとは違う。

ローディアとも違う。

これまで見てきたどの街よりも。

圧倒的に大きい。

港から続く大通り。

何本もの橋。

白い石で造られた建物。

高い塔。

そして。

街の中央。

「あれ……」

僕は目を細める。

巨大な建造物が見える。

塔。

いや。

ただの塔ではない。

いくつもの尖塔が複雑に重なり合っている。

中央には巨大な主塔。

そこから何本もの細長い塔が伸びている。

壁面には無数の装飾。

遠くからでも分かるほど巨大で。

そして。

どこか不思議な建物だった。

まるで。

何百年もの時間をかけて、一人の人間が祈りを積み重ねて作ったような。

「……何あれ」

僕が呟く。

「塔でしょうね」

アンタレスが答える。

「でも、大きすぎない?」

「同感です」

ベラが黙ってその塔を見つめていた。

「……」

「ベラ?」

「……ルナ」

小さな声だった。

「え?」

「何でもない」

ベラはそれ以上言わなかった。

そして。

その巨大な塔のすぐ近く。

さらに大きな建物があった。

「……あれは?」

僕が聞く。

港にいた船員が答える。

「大聖堂だ」

「大聖堂?」

「世界最大の大聖堂だよ」

世界最大。

その言葉に、僕はもう一度目を向ける。

巨大な尖塔。

広大な建物。

何本もの柱。

そして。

中央に掲げられた巨大な聖印。

街の中心に。

塔と大聖堂が並んでいる。

その周囲に広がる巨大都市。

「これが……」

僕は息を呑む。

「セレフィア神聖国」

世界で二番目に大きな国。

聖女ルナを中心とした、巨大な神聖国家。

五百年前の英雄。

聖女ルナ。

その名を冠した国。

「すごい……」

僕は思わずそう呟いた。

船が港へ入る。

係留作業が始まる。

僕たちは荷物をまとめ、下船の準備をした。

そして。

ようやく。

僕たちはセレフィア神聖国の大地へ足を下ろした。

「着いた……」

僕は地面を踏む。

海を越えた。

別の大陸へ来た。

ここから。

新しい旅が始まる。

「まずは宿ですね」

アンタレスが言う。

「うん」

「それから冒険者ギルド」

「いつも通りだね」

「いつも通りです」

ベラが腕を組む。

「まずは食事じゃろう」

「宿が先」

「なぜじゃ」

「荷物を置きたいから」

「ならば食事をしてからでも」

「駄目」

「むぅ」

三人で街を歩き始める。

港から続く大通りは、人で溢れていた。

商人。

旅人。

聖職者。

冒険者。

様々な人間が行き交っている。

大通りの至る所に、聖女ルナを象徴する紋章が刻まれていた。

建物の壁。

街灯。

門。

店の看板。

この国が。

どれだけルナを大切にしているのか。

それだけで分かる。

「本当に聖女の国なんだね」

僕が言う。

「そうでしょうね」

アンタレスが答える。

「ですが」

「ん?」

「少し妙です」

「何が?」

アンタレスは周囲を見る。

「警戒が強い」

「そう?」

「ええ」

僕も周囲を見る。

確かに。

街の至る所に兵士がいる。

けれど。

それだけではない。

街そのものが。

何かに備えているような。

そんな気配があった。

「気のせいかな」

「分かりません」

ベラが振り返る。

「妾は腹が減った」

「……」

「何じゃ」

「緊張感ないね」

「腹が減っては何もできぬ」

「それはそうだけど」

僕たちは宿を探した。

港から少し離れた場所に、旅人向けの宿を見つける。

部屋を三人分確保する。

荷物を置く。

「よし」

僕は窓を開ける。

そこから。

セレフィア神聖国の街並みが見える。

中央の巨大な塔。

その近くにある世界最大の大聖堂。

そして。

そのさらに奥。

見えない場所に。

聖女ルナが残したものがある。

僕は胸の奥で思う。

ここまで来た。

「……探そう」

その夜。

セレフィア神聖国の国境から遠く離れた場所。

一般の人間には決して見ることのできない場所で。

一人の聖職者が、静かに目を閉じていた。

国全体を覆う巨大な結界。

それは、外敵を防ぐためだけのものではない。

特定の魔力を。

特定の存在を。

見逃さないためのもの。

けれど。

その結界の異変を感じ取れる者は、ごく僅かだった。

一般兵には分からない。

普通の聖職者にも分からない。

国境を守る兵士たちが異常に気づいて騒ぐこともない。

その結界に込められた本当の意味を知る者。

そして。

その奥に眠るものを知る者だけが。

その反応を感じ取ることができる。

聖職者が目を開く。

「……」

何かを感じた。

遠い。

遥か遠く。

けれど。

確かに。

五つの魔力。

いや。

それ以上の残滓。

一つ。

二つ。

三つ。

そして。

五つ。

聖職者の顔から血の気が引いた。

すぐに立ち上がる。

誰にも伝えず。

誰にも見られないように。

教皇のもとへ向かった。

長い廊下。

重い扉。

その先。

セレフィア神聖国の最高位に立つ者がいた。

教皇。

聖職者は跪く。

「教皇聖下」

「何だ」

「国境の結界に、異常な反応がございました」

教皇の手が止まる。

「異常?」

「はい」

「内容を」

聖職者は一度、息を整える。

「五つの強い魔力反応です」

「……五つ?」

「はい」

「識別できるか」

「完全ではありません。ですが」

声が震える。

「一つは……五百年前の魔王、ベラトリクスのものと酷似しています」

教皇の表情が変わった。

「続けろ」

「もう一つは、現代における魔王の力と一致する可能性があります」

「アンタレス……」

教皇が呟く。

「さらに」

聖職者が言葉を続ける。

「勇者レグルス」

「……」

「剣聖シリウス」

「……」

「守護騎士アルデバラン」

その名前が告げられた瞬間。

部屋の空気が変わった。

教皇はしばらく何も言わなかった。

「間違いないのか」

「結界が捉えた反応は、記録されているものと一致しています」

「五百年前の……」

教皇がゆっくりと立ち上がる。

窓の向こう。

巨大な塔が見える。

そのさらに先。

世界最大の大聖堂。

長い沈黙。

そして。

教皇は静かに呟いた。

「……ついに、この時が来たか」


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