出発の準備
第42話 出発の準備
聖女ルナの塔。
アルデバランが最後に僕へ託した場所。
その場所が、海の向こうにある。
ヴァルガルドの冒険者ギルドで話を聞いてから、僕たちはその事実を何度も確認していた。
「セレフィア神聖国……」
僕は机の上に広げた地図を見る。
大陸の南側にある港町。
そこから船で海を渡り、別の大陸へ。
そして、その先にあるのがセレフィア神聖国。
五英雄の一人。
聖女ルナ。
今から五百年前、この世界を救ったとされる人物。
そして、その名を冠する国。
「遠いのう」
ベラが地図を覗き込みながら呟いた。
「うん」
「海を越えた先じゃぞ」
「うん」
「しかも船に乗らねばならぬ」
「うん」
「……妾、船は嫌いじゃ」
「え?」
思わず顔を上げる。
ベラは真剣な顔で地図を見ていた。
「揺れるからのう」
「まだ乗ってもいないのに?」
「想像するだけで嫌じゃ」
アンタレスが隣で小さく息を吐いた。
「ベラトリクス」
「何じゃ」
「以前、船に乗ったことは?」
「ない」
「では、なぜ嫌いなのです?」
「嫌いになる予定じゃ」
「予定」
僕は思わず笑ってしまう。
「何がおかしい」
「いや、ベラらしいなって」
「どういう意味じゃ」
「そのままの意味」
「ふむ……」
ベラは少しだけ目を細めた。
「ならば、お主が船酔いしても笑わぬでやろう」
「僕が?」
「うむ」
「なんで僕が酔う前提なの」
「人間じゃからな」
「魔王だからって船に強いとは限らないでしょ」
「妾は魔王じゃぞ」
「そこ関係ある?」
「ある」
「ないと思う」
そんなやり取りをしながらも。
僕の頭の中には、ずっと一つのことがあった。
セレフィア神聖国。
聖女ルナ。
そして。
アルデバラン。
最後に会った時の姿が、今でも頭から離れない。
『聖女ルナの塔へ行け』
あの言葉。
なぜ、アルデバランは僕にそう言ったのだろう。
塔には、ルナの魔力と記憶が残されているという。
僕の星装。
僕が感じ取る魔力の残滓。
そこに何かの手掛かりがあるかもしれない。
アルデバランはそう言っていた。
だから。
僕たちは行く。
ただ。
「……まずは準備だね」
僕が言うと、アンタレスが頷いた。
「ええ」
「船に乗るなら、食料も必要だよね」
「必要です」
「寝る場所も」
「必要です」
「船賃も」
「当然です」
「……結構お金かかるな」
「ですから、前回のクエストで稼いだ分だけでは足りません」
アンタレスが淡々と告げる。
僕は財布を取り出した。
中身を確認する。
「……足りない」
「でしょうね」
「もう少し稼がないと」
「その通りです」
ベラが地図から顔を上げる。
「ならば、今日も依頼を受ければよいではないか」
「うん」
僕たちはすでに何度かC級クエストをこなしていた。
魔物の討伐。
商隊の護衛。
街道の護衛。
どれも以前なら苦戦していたような依頼だ。
けれど。
アルデバランの塔で過ごした時間を経て、僕たちは明らかに変わっていた。
僕は星装を以前より自然に扱えるようになった。
明星も、ただ振り回すだけではなくなった。
アンタレスは、自ら解除した力を少しずつ調整している。
そしてベラは。
アルデバランによって封じられていた力を解放され、本来の魔力を取り戻した。
五百年。
長い時間を閉じ込められていた力。
それを、今の身体でどう扱うのか。
ベラもまた、試行錯誤を続けていた。
「そういえば」
僕はベラを見る。
「最近、魔法の練習してるよね」
「練習ではない」
「じゃあ何?」
「調整じゃ」
「調整」
「妾の力を、今の身体に合わせておる」
ベラが自分の手を見る。
「五百年前の感覚でそのまま使えば、身体がついてこぬ」
「やっぱりそうなんだ」
「当然じゃ」
「でも、力自体は戻ったんだよね」
「戻った」
ベラは少しだけ胸を張る。
「じゃが、昔と今では違う」
「なるほど」
「お主も同じじゃろう」
「僕?」
「アルデバランに教わった力じゃ」
僕は自分の右手を見る。
星装。
星の粒子。
そして明星。
「……確かに」
力を使えるようになった。
でも。
使えることと、完全に扱えることは違う。
アルデバランの塔で、僕はそれを何度も思い知らされた。
「だから、もう少し練習したい」
「うむ」
「旅に出る前に」
「それがよい」
アンタレスも頷いた。
「準備期間は必要でしょう」
その日の午後。
僕たちは再びギルドへ向かった。
受付でC級の依頼を確認する。
「こちらはいかがでしょうか」
受付嬢が依頼書を差し出した。
「街道を通る商隊の護衛です。目的地は南の街。港へ向かう商隊なので、条件的にも悪くないと思います」
「港へ?」
僕が反応する。
「はい。南の港町へ向かう商隊です」
アンタレスが依頼書を見る。
「報酬は?」
「護衛期間を含めて、こちらになります」
金額を確認する。
「……結構ある」
「港へ向かう商隊ですからね。魔物だけではなく盗賊などの危険もあるため、C級指定になっています」
「どうする?」
僕は二人を見る。
「受けよう」
アンタレスが頷く。
「私も賛成です」
ベラも依頼書を覗き込む。
「妾も構わぬ」
「じゃあ、これで」
依頼を受けることになった。
出発は翌朝。
それまでに必要なものを揃える。
宿へ戻ると、僕たちは持ち物を確認した。
「食料」
アンタレスが並べていく。
「水」
「保存食」
「薬」
「火を起こす道具」
「着替え」
「毛布」
「地図」
一つずつ確認していく。
「これだけあれば大丈夫かな」
僕が聞く。
「最低限は」
「最低限」
「旅は予定通りにいかないものですから」
アンタレスはそう言いながら、必要なものを追加していく。
「これも」
「何?」
「予備のロープです」
「そんなに使う?」
「使わないかもしれません」
「じゃあ、いらないんじゃ」
「必要になる可能性があります」
「……」
「何です?」
「アンタレスって、こういう時すごいよね」
「何がです?」
「準備が細かい」
「当然でしょう」
「僕なら忘れそう」
「だから私がいるのです」
「なるほど」
ベラが横から口を出す。
「妾は?」
「ベラは何を持つんですか?」
「妾は妾じゃ」
「荷物の話です」
「……」
ベラが黙る。
僕は笑った。
「じゃあ、ベラは食料担当ね」
「妾に料理をさせる気か?」
「違うよ。持つだけ」
「ならよい」
「単純」
「何か言ったか?」
「何も」
準備は少しずつ進んでいった。
そして翌朝。
僕たちは商隊と合流した。
馬車が何台も並んでいる。
荷物を積んだ商人たち。
護衛を担当する冒険者。
その中に僕たちも加わった。
「よろしくお願いします」
商隊の代表らしい男が頭を下げる。
「こちらこそ」
僕も頭を下げる。
馬車が動き始めた。
ヴァルガルドの街を出る。
雪に覆われた景色が少しずつ遠ざかっていく。
僕は馬車の後ろを振り返った。
アルデバランの塔があった方向。
もう、あそこへ戻ることはない。
「……」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「ソル」
隣を歩くアンタレスが声をかける。
「何?」
「大丈夫ですか?」
「うん」
僕は頷いた。
「大丈夫」
「そうですか」
それ以上、アンタレスは何も聞かなかった。
ベラも何も言わない。
ただ。
三人で歩く。
それだけだった。
商隊の護衛は順調だった。
途中で魔物が出ることもあった。
小型の魔物が数体。
僕は前へ出る。
「僕が行く」
明星を抜く。
星装を纏う。
以前なら、力を使うたびに意識していた。
星の粒子を集める。
身体へ流す。
維持する。
それだけで頭の中がいっぱいになっていた。
でも今は。
違う。
息を吸う。
星装が自然に身体へ馴染む。
足が軽くなる。
視界が広がる。
魔物がこちらへ向かってくる。
一歩。
二歩。
踏み込む。
明星を振るう。
一体。
二体。
そして最後の一体が倒れた。
「……」
僕は剣を下ろした。
「上手くなったな」
ベラが言う。
「本当?」
「うむ」
「自分ではまだよく分からない」
「ならば、分かるまで続ければよい」
アンタレスも頷く。
「力の流れが安定しています」
「前は?」
「少し無理がありました」
「やっぱり」
「ですが、今は違います」
アンタレスが僕の右手を見る。
「アルデバラン様に教わったことが、身体に馴染んできています」
その言葉を聞いて。
僕は少しだけ嬉しくなった。
アルデバランから教わった。
それが、ただの思い出になってしまうのは嫌だった。
だから。
使えるようになりたい。
自分の力として。
あの人から受け取ったものを、ちゃんと未来へ持っていきたい。
商隊の護衛を終えると、報酬を受け取った。
「これで、また少し増えた」
僕は袋を握る。
「順調ですね」
アンタレスが言う。
「うん」
「ですが、まだ船賃を考えると余裕はありません」
「分かってる」
ベラが横から覗き込む。
「ならば、もっと働くしかあるまい」
「だね」
僕は頷いた。
それから数日。
僕たちは港へ向かう準備と、クエストを並行して進めた。
討伐依頼。
護衛依頼。
街道の警備。
魔物の調査。
一つずつ終わらせる。
そのたびに報酬が増える。
僕たちの旅に必要な金も、少しずつ貯まっていった。
そして。
依頼がない時間は、訓練に使った。
朝。
まだ街が静かな時間。
僕は宿の外へ出る。
「星装」
身体へ星の粒子を流す。
一度。
二度。
三度。
解除する。
また使う。
今度は速度を変える。
次は剣を使いながら。
そして。
明星へ力を流す。
「……」
一度振る。
もう一度。
アルデバランの言葉を思い出す。
力を振り回すな。
自分の身体を理解しろ。
僕は何度も繰り返した。
「まだ足りない」
でも。
少しずつ。
確実に。
変わっている。
アンタレスも同じだった。
自ら解除した力を、どこまで出すのか。
どの程度なら身体に負担がないのか。
それを一つずつ確認していく。
「今日は?」
僕が聞く。
「三割程度です」
「昨日は?」
「二割」
「じゃあ、ちょっとずつ増やしてるんだ」
「ええ」
アンタレスは魔力を纏う。
空気が変わる。
それでも。
必要以上には出さない。
「力は多ければいいというものではありません」
アンタレスが言う。
「必要な時に、必要なだけ使えることが重要です」
「それ、アルデバランにも言われた?」
「似たようなことは」
「そっか」
僕は頷く。
そしてベラ。
「妾もやるぞ」
「うん」
ベラは魔力を放つ。
最初は小さく。
次に少し強く。
そして、さらに強く。
けれど。
「……ここまでじゃな」
ベラが魔力を止める。
「無理はしないの?」
「無理をする必要がないからのう」
「昔ならもっと使えた?」
「当然じゃ」
「じゃあ悔しくない?」
「……」
ベラが黙る。
「悔しいぞ」
珍しく。
素直な言葉だった。
「五百年前の妾なら、もっとできた」
手を握る。
「じゃが」
顔を上げる。
「今の妾は今の妾じゃ」
その目には、以前とは違うものがあった。
「取り戻した力を、今の身体で使いこなせばよい」
「……うん」
「五百年前に戻る必要などない」
僕は笑った。
「それ、いいね」
「当然じゃ」
「ベラ、最近ちょっと格好いいよ」
「何じゃ突然」
「いや、本当に」
「褒めても何も出ぬぞ」
「別に何か欲しいわけじゃないよ」
「ならば言うな」
「照れてる?」
「照れておらぬ!」
アンタレスが静かに笑う。
「仲がよろしいことで」
「アンタレスも何か言って!」
「私は何も」
そんな日々を過ごした。
そして。
出発の日が近づいてきた。
必要な金も、少しずつ貯まってきた。
船賃。
食料。
宿。
移動費。
余裕を含めて計算しても、ようやく目処が立ってきた。
「明日、港へ向かう」
アンタレスが言った。
「うん」
「船の手配も必要です」
「分かった」
「出発前に、まだ確認しておくことがあります」
「何?」
「目的地までの航路。到着予定日。向こうの大陸へ渡った後の移動手段」
「結構あるね」
「旅ですから」
「そうだね」
僕は頷いた。
そこで。
ふと。
村のことを思い出した。
ルクス村。
僕が生まれ育った場所。
一人で出てきた。
最初は、少しだけ外の世界を見てみたいと思った。
それだけだった。
まさか。
魔王と出会って。
五百年前の英雄たちの真実を知って。
アルデバランに会って。
そして。
海の向こうの聖女ルナの塔を目指すことになるなんて。
「……手紙」
僕が呟く。
「手紙?」
アンタレスが聞く。
「村に書こうと思って」
「なるほど」
「ずっと書いてなかったから」
村を出てから。
いろんなことがあった。
ありすぎた。
でも。
その全部を手紙に書くことはできない。
魔王と一緒に旅をしている。
五百年前の英雄と話した。
守護騎士アルデバランから力を教わった。
聖女ルナの塔を探している。
そんなことを書いても。
きっと信じてもらえない。
僕は机に向かった。
紙を一枚。
ペンを一本。
そして。
しばらく何も書かなかった。
何から書けばいいのか分からない。
「……」
最初に出てきた言葉は。
とても普通のものだった。
『みんな、元気にしていますか。』
そこから始める。
ゆっくりと文字を書いていく。
『僕は元気です。』
『村を出てから、いろんな町へ行きました。』
『最初は何も分からなかったけど、少しずつ旅にも慣れてきました。』
そこで一度、手が止まる。
「……旅にも慣れてきた、か」
本当は。
慣れたなんて言えるほど簡単な旅じゃない。
魔物に襲われた。
死にかけた。
五百年前の真実を知った。
仲間だった人たちの記憶を見た。
そして。
大切な人を失った。
でも。
全部を書いたら、きっと心配させる。
だから。
書けることだけを書く。
『今は、仲間と一緒に旅をしています。』
『三人でいろんな場所を見てきました。』
そこまで書いて。
ベラとアンタレスを見る。
「……仲間」
小さく呟く。
ベラがこちらを見る。
「何じゃ?」
「いや」
僕は笑う。
「なんでもない」
また手紙を書く。
『二人とも、元気です。』
『少し変わった人たちだけど、いい仲間です。』
ベラが後ろから覗き込む。
「誰が変わった人じゃ」
「読んでたの?」
「見えたのじゃ」
「見ないでよ」
「妾のことを書いておるのじゃろう」
「まあ」
「ならば問題ない」
「そういう問題?」
アンタレスも近づいてくる。
「何を書いているのです?」
「だから見ないでって」
「私は別に」
「絶対見るでしょ」
「……」
「今、見ようとしたよね」
「していません」
「した」
ベラが笑う。
「アンタレス、見ておったじゃろ」
「ベラトリクス」
「何じゃ」
「あなたも見ていましたよね」
「妾はいいのじゃ」
「なぜです?」
「妾じゃから」
「意味が分かりません」
二人のやり取りを聞きながら。
僕は笑った。
なんだか。
こういう時間が好きだった。
危険な旅の中で。
何でもない会話をしている時間。
それが、少しだけ嬉しい。
僕は再び手紙へ向き直った。
『今度、海を渡ることになりました。』
『もっと遠くへ行きます。』
『いつ帰れるかは、まだ分かりません。』
そこまで書いて。
少し迷った。
帰る。
その言葉が、妙に重く感じた。
今までなら。
旅が終われば村へ帰ると思っていた。
でも。
今は分からない。
この先、何が起きるのか。
どこまで行くのか。
いつ戻れるのか。
何も分からない。
それでも。
『ちゃんと帰るつもりです。』
そう書いた。
『だから、心配しないでください。』
『また会った時に、旅の話をします。』
そして最後に。
『それじゃあ、また。』
僕はペンを置いた。
「……できた」
手紙を見つめる。
たった一枚。
それだけだった。
でも。
不思議と胸が軽くなった。
「送るのか?」
ベラが聞く。
「うん」
「何と書いた?」
「内緒」
「妾には読ませぬのか」
「読ませない」
「ケチじゃのう」
「手紙ってそういうものでしょ」
アンタレスが静かに言う。
「故郷へ、ですか」
「うん」
「きっと安心するでしょう」
「そうだといいな」
僕は手紙を折った。
封筒へ入れる。
宛先を書く。
ルクス村。
それだけで。
胸の奥に、故郷の景色が浮かんだ。
村の入口。
見慣れた道。
家々。
森。
そして。
出発した日のこと。
あの日。
僕は一人だった。
今は違う。
隣には二人いる。
魔王と。
もう一人の魔王。
そして。
五百年前の英雄たちから受け取ったものを抱えている。
僕は手紙を握る。
「……行こう」
アンタレスが頷く。
「ええ」
ベラも笑う。
「次は海じゃな」
「うん」
「船酔いが心配じゃ」
「まだ言ってる」
「重要な問題じゃぞ」
「分かった分かった」
僕たちは荷物を確認する。
食料。
水。
薬。
地図。
武器。
そして。
手紙。
明日。
僕たちはヴァルガルドを出る。
南へ向かう。
港町へ。
そこから船に乗る。
海を越える。
そして。
別の大陸へ。
セレフィア神聖国。
聖女ルナの国。
そこには。
ルナが残した塔がある。
五百年前の記憶が。
魔力が。
そして。
僕がまだ知らない何かが残されているかもしれない。
夜。
僕は宿の窓から外を見る。
雪が静かに降っている。
アルデバランと過ごした時間を思い出す。
あの人はもういない。
けれど。
僕の中には、あの人から教わったものが残っている。
星装。
戦い方。
力との向き合い方。
そして。
最後に託された言葉。
『聖女ルナの塔へ行け』
「……行くよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「アルデバラン」
星空を見上げる。
その向こうに。
まだ見たことのない海がある。
その先に。
セレフィア神聖国がある。
そして。
聖女ルナが残した塔がある。
「絶対に、行くから」
そう呟いて。
僕は窓を閉めた。
明日は。
新しい旅の始まりだ。




